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芦野宿の水田の真ん中にある遊行柳。ここには松尾芭蕉を始め、多くの旅人が立寄り、詩の一句を読んでいます。<br />今回は、芦野ICより芦野宿に入って来ました。ここからウォーク開始です。

奥州古道歩き No6. 芭蕉さんも立寄った遊行柳で有名な芦野宿(6)から、福島県境へ

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2014/05/23 - 2014/05/23

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ムッシュ

ムッシュさん

芦野宿の水田の真ん中にある遊行柳。ここには松尾芭蕉を始め、多くの旅人が立寄り、詩の一句を読んでいます。
今回は、芦野ICより芦野宿に入って来ました。ここからウォーク開始です。

  • 芦野サービスエリア

    芦野サービスエリア

  • サービスエリア内の一角にも松尾芭蕉の句碑が立つ

    サービスエリア内の一角にも松尾芭蕉の句碑が立つ

  • 芦野宿の水田風景、のどかで、静かで心地よい風が顔を撫でてくれます。遠くの森は、有名な遊行柳。

    芦野宿の水田風景、のどかで、静かで心地よい風が顔を撫でてくれます。遠くの森は、有名な遊行柳。

  • 宿場の入口には、大きな【地蔵尊】<br />奈良川を芦野橋で渡ると芦野宿に到着です!<br />芦野川を渡ると左手に川原町地蔵尊が祠の中に安置されています、享保12年(1727年)の造立で、左足を立てている半跏座(はんかざ)地蔵です、芦野宿の江戸口(南口)にあって、宿内に入り込む悪霊の侵入を見張っています。<br /><br />宿場の入口にあるお地蔵様だ<br />蓮華の上に腰掛、左足を前に出していることから座り地蔵と呼ばれている<br />江戸時代に作られたもので、宿場の入口で、川の畔にあることから水害水難除け、また道祖神的な役割も託したものと見られている<br />赤い腹掛には、「奉納 豊泉琉依」と書かれてあった<br />なお、芦野宿は出口のところにも大きな地蔵尊が建立されている<br /><br />芦野氏は鎌倉時代初期からこの地を支配し、徳川の世になると三千石の旗本となりました、芦野氏は那須一族の血をひくため一万石以上の待遇を受け、参勤交代も行いました。<br /><br />天保?年(1843年)の頃、芦野宿の宿内家数は168軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で、宿内人口は350人でした。<br />

    宿場の入口には、大きな【地蔵尊】
    奈良川を芦野橋で渡ると芦野宿に到着です!
    芦野川を渡ると左手に川原町地蔵尊が祠の中に安置されています、享保12年(1727年)の造立で、左足を立てている半跏座(はんかざ)地蔵です、芦野宿の江戸口(南口)にあって、宿内に入り込む悪霊の侵入を見張っています。

    宿場の入口にあるお地蔵様だ
    蓮華の上に腰掛、左足を前に出していることから座り地蔵と呼ばれている
    江戸時代に作られたもので、宿場の入口で、川の畔にあることから水害水難除け、また道祖神的な役割も託したものと見られている
    赤い腹掛には、「奉納 豊泉琉依」と書かれてあった
    なお、芦野宿は出口のところにも大きな地蔵尊が建立されている

    芦野氏は鎌倉時代初期からこの地を支配し、徳川の世になると三千石の旗本となりました、芦野氏は那須一族の血をひくため一万石以上の待遇を受け、参勤交代も行いました。

    天保?年(1843年)の頃、芦野宿の宿内家数は168軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で、宿内人口は350人でした。

  • 宿場のメイン通り。<br /><br />芦野宿には最盛期で40軒近くの旅籠(はたご)が並んでいたといいます。<br />各時代の文献を紐解くと、天保14年(1843年)には家数168軒、旅籠25軒とあり、幕末には旅籠42軒、雑貨店13軒程があったことが記録されています。<br /><br />江戸時代、参勤交代で大名も宿泊した芦野宿の旅籠。現在、通り沿いには江戸時代から同じ屋号で営業している、うなぎの丁子屋さんがあります。かつて旅籠だった丁子屋さんの店の奥には「安達家蔵座敷」が残されており、身の安全を守るために位の高い武士が宿泊したそうです。

    宿場のメイン通り。

    芦野宿には最盛期で40軒近くの旅籠(はたご)が並んでいたといいます。
    各時代の文献を紐解くと、天保14年(1843年)には家数168軒、旅籠25軒とあり、幕末には旅籠42軒、雑貨店13軒程があったことが記録されています。

    江戸時代、参勤交代で大名も宿泊した芦野宿の旅籠。現在、通り沿いには江戸時代から同じ屋号で営業している、うなぎの丁子屋さんがあります。かつて旅籠だった丁子屋さんの店の奥には「安達家蔵座敷」が残されており、身の安全を守るために位の高い武士が宿泊したそうです。

  • 宿場内の各戸には、屋号を示す、石灯篭がある。<br /><br />中通りのお店・家の前には屋号の書かれた灯籠が置かれている

    宿場内の各戸には、屋号を示す、石灯篭がある。

    中通りのお店・家の前には屋号の書かれた灯籠が置かれている

  • 【宿内の三光寺】<br />真言宗台明山明星院三光寺は日本三聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院)の一つで、聖天の守護寺です。<br />聖天(しょうてん)を祀る殿堂の扁額聖天は文化8年(1811年)松平定信(楽翁)の書です、境内の樹齢約二百年の黒松は扁額奉納記念に植樹されたもので、名を松平の松、楽翁の翁をとり松翁と名づけられましたが枯れ死し、伐採されました。<br /><br />先に進むと左手の奥に曹洞宗米沢山最勝院があります、芦野氏の旧菩提寺です。

    【宿内の三光寺】
    真言宗台明山明星院三光寺は日本三聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院)の一つで、聖天の守護寺です。
    聖天(しょうてん)を祀る殿堂の扁額聖天は文化8年(1811年)松平定信(楽翁)の書です、境内の樹齢約二百年の黒松は扁額奉納記念に植樹されたもので、名を松平の松、楽翁の翁をとり松翁と名づけられましたが枯れ死し、伐採されました。

    先に進むと左手の奥に曹洞宗米沢山最勝院があります、芦野氏の旧菩提寺です。

  • 境内に【那須の銘木、松】があります。<br />境内の樹齢約二百年の黒松は扁額奉納記念に植樹されたもので、名を松平の松、楽翁の翁をとり松翁と名づけられましたが枯れ死し、伐採されました。<br /><br />【松翁】 那須の名木<br /> 文化八年、白河城主松平定信(楽翁)公の当山本尊 聖天扁額奉納記念として植樹されたと伝えられている。<br /> 後年、名を松平の「松」楽翁の「翁」をとり『松翁』と名づけられた。<br />その雄々しい姿は200年の歳月を経て見るものの目を圧倒している。なお那須の名木に指定されている。<br />

    境内に【那須の銘木、松】があります。
    境内の樹齢約二百年の黒松は扁額奉納記念に植樹されたもので、名を松平の松、楽翁の翁をとり松翁と名づけられましたが枯れ死し、伐採されました。

    【松翁】 那須の名木
     文化八年、白河城主松平定信(楽翁)公の当山本尊 聖天扁額奉納記念として植樹されたと伝えられている。
     後年、名を松平の「松」楽翁の「翁」をとり『松翁』と名づけられた。
    その雄々しい姿は200年の歳月を経て見るものの目を圧倒している。なお那須の名木に指定されている。

  • 境内に那須の銘木、松。美しい姿。<br />【松翁】 那須の名木<br />文化八年、白河城主松平定信(楽翁)公の当山本尊 聖天扁額奉納記念として植樹されたと伝えられている。<br />後年、名を松平の「松」楽翁の「翁」をとり『松翁』と名づけられた。<br />その雄々しい姿は200年の歳月を経て見るものの目を圧倒している。<br />なお那須の名木に指定されている。

    境内に那須の銘木、松。美しい姿。
    【松翁】 那須の名木
    文化八年、白河城主松平定信(楽翁)公の当山本尊 聖天扁額奉納記念として植樹されたと伝えられている。
    後年、名を松平の「松」楽翁の「翁」をとり『松翁』と名づけられた。
    その雄々しい姿は200年の歳月を経て見るものの目を圧倒している。
    なお那須の名木に指定されている。

  • 「三光寺の本堂」<br />高台上に、日本三大聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院、三光寺)の一つである三光寺がある。<br /> 室町時代、弘治年間(1555年)宥徳上人による開山。本堂正面に「松翁」という名前の松の名木が植っている。白河藩主「松平定信」の当山聖天扁額奉納記念として文化8年に植樹された。<br /><br />【三光寺(芦野聖天と掛軸)】 町指定文化財<br />上の町に位置し、日本三所聖天(浅草、妻沼、芦野)の一つとして有名。室町時代、弘治年間(1555)宥徳上人による中興開山、拝殿の額面(聖天)の二文字は白河城主松平定信の直筆である。

    「三光寺の本堂」
    高台上に、日本三大聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院、三光寺)の一つである三光寺がある。
     室町時代、弘治年間(1555年)宥徳上人による開山。本堂正面に「松翁」という名前の松の名木が植っている。白河藩主「松平定信」の当山聖天扁額奉納記念として文化8年に植樹された。

    【三光寺(芦野聖天と掛軸)】 町指定文化財
    上の町に位置し、日本三所聖天(浅草、妻沼、芦野)の一つとして有名。室町時代、弘治年間(1555)宥徳上人による中興開山、拝殿の額面(聖天)の二文字は白河城主松平定信の直筆である。

  • 宿並を進むと右手に奥州道中芦野宿碑があります、ここが問屋場跡です、戸村家が勤めました。<br />

    宿並を進むと右手に奥州道中芦野宿碑があります、ここが問屋場跡です、戸村家が勤めました。

  • 旅館丁子屋<br />問屋場の向いにうなぎ料理の老舗丁子屋があります、明治初期の創業です。<br />店脇に安達家蔵座敷碑があります、旧旅籠丁子屋跡です、<br />

    旅館丁子屋
    問屋場の向いにうなぎ料理の老舗丁子屋があります、明治初期の創業です。
    店脇に安達家蔵座敷碑があります、旧旅籠丁子屋跡です、

  • 丁子屋は、300年続く食堂うなぎ屋さんです。

    丁子屋は、300年続く食堂うなぎ屋さんです。

  • 丁子屋で昼食を食べました。もちろん、うなぎの蒲焼でした。うまい!まいう!食事を食べた部屋は、蔵を畳部屋に改修した和室でした。<br />問屋場の向いにうなぎ料理の老舗丁子屋があります、明治初期の創業です。<br /><br />店脇に安達家蔵座敷碑があります、旧旅籠丁子屋跡です、当家には八畳二間、床の間、違い棚の蔵座敷を当時の造り、そのままで残しています。<br /><br />【安達家蔵座敷(丁子屋)】町指定文化財<br />江戸時代、芦野宿は芦野氏の城下町として発達し、さらに江戸時代になって奥州道中が整備され、交通、運輸が盛んになると、宿駅として発展した。道中で関東北端の宿駅にあたり、幕末には旅宿の数も40余軒に達した。安達家は、それらの中心街にある旅宿「丁子屋」であり、その蔵座敷八畳二間は、意匠に優れている。道中身分の高い者は、安全をはかってこのような土蔵造りの部屋に泊まったといわれている。

    丁子屋で昼食を食べました。もちろん、うなぎの蒲焼でした。うまい!まいう!食事を食べた部屋は、蔵を畳部屋に改修した和室でした。
    問屋場の向いにうなぎ料理の老舗丁子屋があります、明治初期の創業です。

    店脇に安達家蔵座敷碑があります、旧旅籠丁子屋跡です、当家には八畳二間、床の間、違い棚の蔵座敷を当時の造り、そのままで残しています。

    【安達家蔵座敷(丁子屋)】町指定文化財
    江戸時代、芦野宿は芦野氏の城下町として発達し、さらに江戸時代になって奥州道中が整備され、交通、運輸が盛んになると、宿駅として発展した。道中で関東北端の宿駅にあたり、幕末には旅宿の数も40余軒に達した。安達家は、それらの中心街にある旅宿「丁子屋」であり、その蔵座敷八畳二間は、意匠に優れている。道中身分の高い者は、安全をはかってこのような土蔵造りの部屋に泊まったといわれている。

  • まだ、八重の綾瀬はるかポスターあり。そうだもうすぐ福島県だ。

    まだ、八重の綾瀬はるかポスターあり。そうだもうすぐ福島県だ。

  • 石の美術館

    石の美術館

  • 石の美術館前に立つオブジェ。

    石の美術館前に立つオブジェ。

  • 【新町地蔵尊】<br />享保二年(1717年)造立の新町地蔵尊が鎮座しています、<br />ここが芦野宿の白河(北)口です、宿内に入り込む悪霊の侵入を見張っています。<br />説明によると享保2年(1717年)の建立とのこと<br />開眼の導師は建中寺の住職。<br /><br />芦野宿は旗本芦野氏の支配下にあった。鎌倉時代初期からこの地の地頭としてその名が見えていたが、後には那須氏の一族から養子が入り江戸時代まで那須7騎一家としてこの地を治めた。<br /><br />芦野宿の入口にあった河原町の座り地蔵と同じく<br />種々の災厄を芦野宿に入れない役目も担っていたようだ

    【新町地蔵尊】
    享保二年(1717年)造立の新町地蔵尊が鎮座しています、
    ここが芦野宿の白河(北)口です、宿内に入り込む悪霊の侵入を見張っています。
    説明によると享保2年(1717年)の建立とのこと
    開眼の導師は建中寺の住職。

    芦野宿は旗本芦野氏の支配下にあった。鎌倉時代初期からこの地の地頭としてその名が見えていたが、後には那須氏の一族から養子が入り江戸時代まで那須7騎一家としてこの地を治めた。

    芦野宿の入口にあった河原町の座り地蔵と同じく
    種々の災厄を芦野宿に入れない役目も担っていたようだ

  • 【遊行柳】<br />この柳は時宗の開祖遊行(一遍)上人の使い古した柳の杖が根付き芽吹いたものといいます、朽ち木の柳、清水流れる柳とも呼ばれています。<br /><br />【遊行柳(別名「朽木の柳」)】 町指定文化財<br />鎌倉時代、元久2年(1205)、の『新古今和歌集』に載せた西行法師の「道のべに清水流るる柳かげ、しばしとてこそ立ち止まりつれ」は、有名である。<br />また、室町時代の文明3年(1471)、遊行19世尊皓上人が訪れた際、朽ち木の柳の精が老翁に化けて上人の前に現れ、上人はこれに念仏札と十念を授けた。<br />老翁は「草も木も漏れぬ御法の声きけば朽ち果てぬべき後もたのもし」。<br />これに対し上人は「思いきや我が法の会にくる人は柳のかげにかくれぬとなん」。この返歌で老翁は柳のかげに姿を消したと伝えられている。さらに謡曲としても「遊行柳」は有名になった。<br />そして西行法師から500年後、元禄2年(1689)旧暦4月20日、芭蕉が、そして芭蕉から54年後の寛保3年(1743)には蕪村がそれぞれこの遊行柳を訪れている。<br /><br />那須町指定史跡・天然記念物の「上の宮のいちょう」。諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流れる柳とも言う。伝説によると文明の頃(1471)時宗19代上人が当地方巡化の時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、また種々の紀行文に現れ芭蕉や蕪村等も訪れたことはあまりにも有名である。柳の巨木の前に桜が満開で、早くも鯉のぼりがたなびいている。

    【遊行柳】
    この柳は時宗の開祖遊行(一遍)上人の使い古した柳の杖が根付き芽吹いたものといいます、朽ち木の柳、清水流れる柳とも呼ばれています。

    【遊行柳(別名「朽木の柳」)】 町指定文化財
    鎌倉時代、元久2年(1205)、の『新古今和歌集』に載せた西行法師の「道のべに清水流るる柳かげ、しばしとてこそ立ち止まりつれ」は、有名である。
    また、室町時代の文明3年(1471)、遊行19世尊皓上人が訪れた際、朽ち木の柳の精が老翁に化けて上人の前に現れ、上人はこれに念仏札と十念を授けた。
    老翁は「草も木も漏れぬ御法の声きけば朽ち果てぬべき後もたのもし」。
    これに対し上人は「思いきや我が法の会にくる人は柳のかげにかくれぬとなん」。この返歌で老翁は柳のかげに姿を消したと伝えられている。さらに謡曲としても「遊行柳」は有名になった。
    そして西行法師から500年後、元禄2年(1689)旧暦4月20日、芭蕉が、そして芭蕉から54年後の寛保3年(1743)には蕪村がそれぞれこの遊行柳を訪れている。

    那須町指定史跡・天然記念物の「上の宮のいちょう」。諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流れる柳とも言う。伝説によると文明の頃(1471)時宗19代上人が当地方巡化の時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、また種々の紀行文に現れ芭蕉や蕪村等も訪れたことはあまりにも有名である。柳の巨木の前に桜が満開で、早くも鯉のぼりがたなびいている。

  • 歩いて近づいて来た遊行柳。<br />芭蕉も憧れた遊行柳には、一遍上人(遊行上人)が奥州行脚の際、柳の精が老人の姿をして上人の前に現れ、十念仏を授けると成仏したと言われる。<br /><br />【遊行柳】 那須町指定史跡<br /> 諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。<br /> いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。<br />                            那須町教育委員会<br />

    歩いて近づいて来た遊行柳。
    芭蕉も憧れた遊行柳には、一遍上人(遊行上人)が奥州行脚の際、柳の精が老人の姿をして上人の前に現れ、十念仏を授けると成仏したと言われる。

    【遊行柳】 那須町指定史跡
     諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
     いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。
                                那須町教育委員会

  • この角を曲って畦道を行けば遊行柳に到着です。芭蕉もこの風景を見ながらたたづんだのか。

    この角を曲って畦道を行けば遊行柳に到着です。芭蕉もこの風景を見ながらたたづんだのか。

  • 遊行柳には、芭蕉句碑、西行句碑などが立つ。栃木銘木100選の遊行柳)<br />松尾芭蕉の句碑:寛政十一年(1799)四月の建立<br />”田一枚 植えて立ち去る 柳かな”<br /><br />

    遊行柳には、芭蕉句碑、西行句碑などが立つ。栃木銘木100選の遊行柳)
    松尾芭蕉の句碑:寛政十一年(1799)四月の建立
    ”田一枚 植えて立ち去る 柳かな”

  • 与謝蕪村の句碑<br />”柳散 清水涸 石処処”<br />

    与謝蕪村の句碑
    ”柳散 清水涸 石処処”

  • 西行の歌碑<br />”道のべに 清水ながるる 柳かげ<br />    しばしとてこそ 立ちどまりつれ”

    西行の歌碑
    ”道のべに 清水ながるる 柳かげ
        しばしとてこそ 立ちどまりつれ”

  • 遊行柳のあぜ道を山の麓に行くと、温泉神社の境内に樹齢400年のイチョウ。<br />高さ35m。(最左方がイチョウの木)<br />遊行柳を抜けると温泉神社の鳥居があります。<br /><br />参道を進むと鏡山の麓に上の宮温泉神社が鎮座しています、西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮と呼ばれています、元禄四年(1691年)建立の常夜燈は芦野資俊が寄進したものです。<br /><br /><br />

    遊行柳のあぜ道を山の麓に行くと、温泉神社の境内に樹齢400年のイチョウ。
    高さ35m。(最左方がイチョウの木)
    遊行柳を抜けると温泉神社の鳥居があります。

    参道を進むと鏡山の麓に上の宮温泉神社が鎮座しています、西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮と呼ばれています、元禄四年(1691年)建立の常夜燈は芦野資俊が寄進したものです。


  • 【遊行柳の由来】 石碑<br />遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。<br /><br /> その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明三年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、<br />  「おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは」<br />とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。<br />「藤沢智裳覚書の説」  別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。「遊行寺の記録の説」 それ以来遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。<br />  これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。<br />  なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。これは西行の<br />   「道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ」<br />の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。<br /><br /> 代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明十八年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅が偲ばれている。

    【遊行柳の由来】 石碑
    遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。

     その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明三年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、
      「おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは」
    とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。
    「藤沢智裳覚書の説」  別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。「遊行寺の記録の説」 それ以来遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。
      これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
      なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。これは西行の
       「道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ」
    の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。

     代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明十八年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅が偲ばれている。

  • 参道を進むと鏡山の麓に【上の宮温泉神社】が鎮座しています。<br />西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮と呼ばれています、元禄四年(1691年)建立の常夜燈は芦野資俊が寄進したものです。<br /><br />【健武山湯泉神社と大杉】 県指定文化財<br />芦野宿より西方に位置する健武山湯泉神社は、芦野氏が代々敬ってきた神社で、室町時代に那須与15世の孫資忠の三男資方が芦野の領主となって勧請したものと伝えられている。境内にある「おおすぎ」は、樹高50m、目通り周囲6.45m、推定樹齢約700年のもので御神木である。

    参道を進むと鏡山の麓に【上の宮温泉神社】が鎮座しています。
    西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮と呼ばれています、元禄四年(1691年)建立の常夜燈は芦野資俊が寄進したものです。

    【健武山湯泉神社と大杉】 県指定文化財
    芦野宿より西方に位置する健武山湯泉神社は、芦野氏が代々敬ってきた神社で、室町時代に那須与15世の孫資忠の三男資方が芦野の領主となって勧請したものと伝えられている。境内にある「おおすぎ」は、樹高50m、目通り周囲6.45m、推定樹齢約700年のもので御神木である。

  • 【べこ石。形が牛に似ている】<br />石の表には、3500もの細かな文字がびっしり刻まれている。嘉永10年に道徳を説くために建立された。芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒が撰文建立した。全文19段、約3500の文字を刻した碑文。<br /><br />長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。<br /><br />べこ石が 鎮座しており、石の表面には碑文がびっしりと刻まれていた。尚、碑文は(ここには載せないが)傍らの説明板に全文が書かれていた。<br /><br />「炎帝神農氏」という、牛面人身の姿が彫られているのでこの名がある。嘉永10年(1848芦野宿問屋を務めた「戸村忠恕」が晩年、人倫道徳の本道を人々に教え諭すために建てられたもの。<br /><br />嘉永元年(1848)10月に芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠恕が建立した碑で、全文19段約3500の文字を刻んだ碑文。長文で孝行の大切さと善行のすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。なお、べこ石の碑とは、べこ(牛)に似た石ではなく自然石の両面を平らに削り文字と共に神農氏と思われる牛面人身の姿が刻まれているから、べこ石と呼ばれるようになったようだ。神農氏とは民にはじめて耕作することを教えた中国の伝説上の帝王のことで、神農の母は人身にして牛面であったという。

    【べこ石。形が牛に似ている】
    石の表には、3500もの細かな文字がびっしり刻まれている。嘉永10年に道徳を説くために建立された。芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠怒が撰文建立した。全文19段、約3500の文字を刻した碑文。

    長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。

    べこ石が 鎮座しており、石の表面には碑文がびっしりと刻まれていた。尚、碑文は(ここには載せないが)傍らの説明板に全文が書かれていた。

    「炎帝神農氏」という、牛面人身の姿が彫られているのでこの名がある。嘉永10年(1848芦野宿問屋を務めた「戸村忠恕」が晩年、人倫道徳の本道を人々に教え諭すために建てられたもの。

    嘉永元年(1848)10月に芦野宿の問屋を務めた戸村右内忠恕が建立した碑で、全文19段約3500の文字を刻んだ碑文。長文で孝行の大切さと善行のすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。なお、べこ石の碑とは、べこ(牛)に似た石ではなく自然石の両面を平らに削り文字と共に神農氏と思われる牛面人身の姿が刻まれているから、べこ石と呼ばれるようになったようだ。神農氏とは民にはじめて耕作することを教えた中国の伝説上の帝王のことで、神農の母は人身にして牛面であったという。

  • 文字を拡大してみました。<br /><br />	<br />【べこ石の碑】<br />この碑は嘉永十年(1848)10月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠恕が撰文建立したもので、全文十九段、約三千五百の文字を刻した碑文である。<br /><br /> 長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。<br /><br /> この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形が臥牛に似ているための呼称と思われる。<br /><br /> この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として貴重である。<br /><br />     那須町教育委員会

    文字を拡大してみました。


    【べこ石の碑】
    この碑は嘉永十年(1848)10月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠恕が撰文建立したもので、全文十九段、約三千五百の文字を刻した碑文である。

     長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。

     この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形が臥牛に似ているための呼称と思われる。

     この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として貴重である。

         那須町教育委員会

  • 奥州古道の街道風景

    奥州古道の街道風景

  • 【輸農の碑】<br />枝木沢を仲橋で渡り、上り坂を進むと左手に諭農(ゆのう)の碑があります。<br />嘉永元年(1848年)べこ石の碑と同様に戸村右内忠怒が建碑したものです、農民を論す文章(病害虫の駆除法、飢饉の際の備蓄法等)約七千文字が刻まれています(那須町書跡)。<br /><br />【論農の碑】 那須町書跡<br />板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。<br />べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。<br />                       那須町教育委員会

    【輸農の碑】
    枝木沢を仲橋で渡り、上り坂を進むと左手に諭農(ゆのう)の碑があります。
    嘉永元年(1848年)べこ石の碑と同様に戸村右内忠怒が建碑したものです、農民を論す文章(病害虫の駆除法、飢饉の際の備蓄法等)約七千文字が刻まれています(那須町書跡)。

    【論農の碑】 那須町書跡
    板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。
    べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。
                           那須町教育委員会

  • 【板屋の一里塚】<br />板屋の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて43里目です。

    【板屋の一里塚】
    板屋の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて43里目です。

  • 【板屋の一里塚】<br />

    【板屋の一里塚】

  • 寛政八年(1796年)建立の馬頭観世音や享保十六年(1731年)建立の大乗妙典六十六部供養塔等が並んでいます。

    寛政八年(1796年)建立の馬頭観世音や享保十六年(1731年)建立の大乗妙典六十六部供養塔等が並んでいます。

  • 芦野宿から白坂宿へのみちみち興味深い骨董屋さんを発見。

    芦野宿から白坂宿へのみちみち興味深い骨董屋さんを発見。

  • 店の親爺さんが、古い蓄音器を回し、レコード音楽を聞かせてくれました。<br />壁には、古い柱時計や古いミシン等が骨董品として保管されてます。<br />思わず、平井堅が浮かんできた。

    店の親爺さんが、古い蓄音器を回し、レコード音楽を聞かせてくれました。
    壁には、古い柱時計や古いミシン等が骨董品として保管されてます。
    思わず、平井堅が浮かんできた。

  • こちらには、商品の宣伝プレート。懐かしい!

    こちらには、商品の宣伝プレート。懐かしい!

  • 店の名前は”時道楽”。時代をこえる、時間の道楽が、奥州古道にあるとは、不思議、不思議!

    店の名前は”時道楽”。時代をこえる、時間の道楽が、奥州古道にあるとは、不思議、不思議!

  • 壁には、こんなフォトも。明治維新の志士たちが。

    壁には、こんなフォトも。明治維新の志士たちが。

  • 板屋から高瀬(高徳寺前で13:35)を経て、脇沢で国道に合流する。<br />合流した右上に脇沢の地蔵様が三体。

    板屋から高瀬(高徳寺前で13:35)を経て、脇沢で国道に合流する。
    合流した右上に脇沢の地蔵様が三体。

  • 【真言宗智山派抜苦山補陀洛院與楽寺(よらくじ)】があります、<br />天文15年(1546年)の創建です。<br />参道階段前には延享二年(1745年)造立の地蔵尊が鎮座しています。<br />境内の山桜は那須の名木に指定されています、推定樹齢150年で、樹高20m、幹回り4.4mです。<br />那須三十三所観音零場の第10番札所となっている。 ここには結構雰囲気の良い建物など残り、街道筋らしい感じがある。<br /><br />墓地には官修墳墓の黒羽藩士松本忠左衛門の墓があります、慶応四年(1868)九月五日会津若松河原町にて戦死しました、享年三十一歳でした。

    【真言宗智山派抜苦山補陀洛院與楽寺(よらくじ)】があります、
    天文15年(1546年)の創建です。
    参道階段前には延享二年(1745年)造立の地蔵尊が鎮座しています。
    境内の山桜は那須の名木に指定されています、推定樹齢150年で、樹高20m、幹回り4.4mです。
    那須三十三所観音零場の第10番札所となっている。 ここには結構雰囲気の良い建物など残り、街道筋らしい感じがある。

    墓地には官修墳墓の黒羽藩士松本忠左衛門の墓があります、慶応四年(1868)九月五日会津若松河原町にて戦死しました、享年三十一歳でした。

  • 奥州古道の街道標識

    奥州古道の街道標識

  • 泉田の一里塚公園<br />国道を進むと左手の駐車場内に泉田の一里塚の西塚を残しています、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて四十四里目で、下野國最北端の一里塚です。

    泉田の一里塚公園
    国道を進むと左手の駐車場内に泉田の一里塚の西塚を残しています、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて四十四里目で、下野國最北端の一里塚です。

  • 泉田の一里塚の説明板

    泉田の一里塚の説明板

  • 石塔郡<br />瓢石(ふくべいし)、馬頭観世音菩薩、瓢石道標「勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」があります、勝五郎は療養の傍ら、手慰みに山肌に瓢石を刻みました。<br />無事、本懐を遂げた二人の墓は東海道箱根路東坂の鎖雲寺にあります。<br /><br />初花清水のすぐ先、国道に合流する所に瓢石が建っている。<br />傍に立っている標石には『瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁』と刻まれていた

    石塔郡
    瓢石(ふくべいし)、馬頭観世音菩薩、瓢石道標「勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」があります、勝五郎は療養の傍ら、手慰みに山肌に瓢石を刻みました。
    無事、本懐を遂げた二人の墓は東海道箱根路東坂の鎖雲寺にあります。

    初花清水のすぐ先、国道に合流する所に瓢石が建っている。
    傍に立っている標石には『瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁』と刻まれていた

  • 中に瓢箪型のものが。形が珍しい。ふくべ(瓢)石という

    中に瓢箪型のものが。形が珍しい。ふくべ(瓢)石という

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