2014/06/03 - 2014/06/03
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ベームさん
6/3(火)、9日目。第1部。
今日夜の便で友人が日本に帰ります。現役の建築士なので私みたいに呑気に遊んでばかりではおれません。
精力的に歩きました。昨日デジカメが壊れたと書きましたが、友人がカメラを2機持っていて帰国に際し1機を私に貸してくれました。これで旅が続けられます。
第1部ではシテ島です。コンシェルジュリー、サント・シャペル、ノートルダム大聖堂を回りました。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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地下鉄でポン・ヌフまで。
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ポン・ヌフのアンリ4世像。1553~1610年。ポン・ヌフはアンリの建設。
1589年、アンリ3世暗殺の後を継いでフランス国王となる。ブルボン朝の開祖。しかし4世はプロテスタントであったためカトリック同盟の支配するパリには入れずブロワ城に拠った。カトリック(多数派)と融和しなければフランスを治められないと悟ったアンリ4世はカトリックに改宗し1594年ようやくパリに入城した。 -
新旧両派の和解を進めたアンリはついに1598年ユグノーの信仰の自由、個人の信仰の自由を認める「ナントの勅令」をだした。これで1562年来長年続いたユグノー戦争/宗教戦争は一応終息をみる。しかし1610年狂信的なカトリック信者により暗殺される。波乱に満ちた生涯だった。
在世中破綻に瀕していた財政、荒廃した国土を再建する途上の死であった。今でもフランス人が最も敬愛する国王はアンリ4世だそうです。 -
1572年、アンリ4世はアンリ2世の娘で当時の国王シャルル9世の妹マルグリット(王妃マルゴ、妖婦として悪名高い)と結婚、その時集まったユグノーの貴族を大虐殺したのがサン・バルテルミーの虐殺事件、首謀者はカトリック派の首領ギーズ公アンリとかカトリーヌ・ド・メディシスといわれる。アンリ4世は危うく難を逃れた。アンリが沢山いて頭がでんぐりかえりそうです。
マルゴと離婚後アンリ4世は愛妾ガブリエル・デストレと結婚するつもりだったがデストレは急死にする。やむなくアンリはイタリアのマリー・ド・メディシスと愛の無い結婚をする。 -
二人の間に生まれた長男が後のルイ13世。ルイが幼少のとき父アンリ4世が暗殺され、ルイが長じるまでマリーが摂政政治を行う。ルイが長じると母マリーとルイの間で権力闘争が始まる。最後は宰相リシュリューを味方に付けたルイの勝ち。
この時代のヨーロッパの歴史は実に面白い。英仏100年戦争、宗教改革、ユグノー戦争、三銃士の登場、ヨーロッパ中を巻き込んだドイツ30年戦争等々。次のルイ14世の時代になると絶対王政のもとフランスでは権力機構が安定し面白みがない。 -
セーヌ河の遊覧船。
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ポン・ヌフの近くにずらっと並んだ同じような車、ボディにGENDARMERIE/ジャンダルムリと書かれている。何だろう、何かあったのかな。
ジャンダルムリとは国家憲兵隊のこと。憲兵と聞くと恐ろしい気がしますが。
軍隊の一組織で、軍の秩序維持、国家の治安維持(暴動、テロ対策など)、地方に在っては通常の警察業務を担当。フランス国家警察との関係がよく分からない。
シムノンのメグレシリーズではパリ近郊で事件が起こりパリ警視庁(国家警察)からメグレが出動するとその地方の国家憲兵隊と軋轢(縄張り争い)が生じるといった場面がよくあります。管轄争いみたいなもの。 -
シテ島とセーヌ左岸サン・ミッシェル広場をつなぐサン・ミッシェル橋。
橋の突き当りにサン・ミッシェルの泉が建っています。 -
今日のスタートはコンシェルジュリーです。
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コンシェルジュリー。
サント・シャペル、裁判所、コンシェルジュリーのある一帯はもとカペー王朝の宮殿があった所。コンシェルジュリーは14世紀後半から牢獄として使用された。 -
衛兵の間。
入口からすぐにあります。 -
陰鬱な感じ。
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贖罪礼拝堂。
ルイ16世とマリー・アントワネットの唯一長生した娘マリー・テレーズが王政復古後造らせたという。 -
獄卒の部屋でしょう。
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獄室。
牢獄の沙汰も金次第、これなどは上等の方でしょう。 -
マリー・アントワネットの部屋。
常に二名の獄卒の監視付。 -
アントワネットは1793年8月、逃亡阻止のためタンプル塔から移され、処刑までの2か月半をここで過ごしています。
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館内にはフランス革命にまつわる資料が展示されていました。
マダム・ド・ラ・モット。1755~1791年。
王妃の首飾り事件の首謀者。悪事が露見し投獄されたが脱出しロンドンに逃れた後謎の死(自殺?)を遂げた。投獄されたのはコンシェルジュリーではないがマリー・アントワネットの評判に影響を与えた人物としてここに写真があるのではと思います。 -
1790年のコンシェルジュリー。
囚人が処刑場に引き出されている場面でしょう。 -
左カミーユ・デムーラン:ダントン派のジャーナリスト。ロベスピエールの恐怖政治に反対し処刑される。1760~1794年。
右ダントン:山岳派の首領。ロベスピエールと対立し処刑される。1759~1794年。 -
シャルロット・コルディ。1768~1793年。
1793年、恐怖政治を推し進めるマラーを暗殺、直ちにギロチンに送られた。非常な美人で、処刑の際のコルディの愛らしさと毅然とした態度に観衆は同情したという。 -
コルディとマラー。
WEBより。 -
ダヴィッド作「マラーの死」。
マラーは入浴中に殺されました。
WEBより。 -
アンドレ・シェニエ。1762~1794年。
詩人にして論客。ジャコバン派と対立、処刑される。
ジョルダーノにオペラ「アンドレア・シェニエ」がある。 -
ロラン夫人。1754?~1793年。
ジロンド派のヒロイン。ジャコバン派と対立、コンコルド広場でギロチンの露と消える。
処刑されるときの言葉「自由よ、汝の名でいかに多くの罪が犯されたことか。」
逃亡先で夫人の処刑を聞いた夫のロラン子爵は自殺した。 -
ロラン夫人。
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オルレアン公ルイ・フィリップ・エガリテ。1747~1793年。
王族ながらルイ16世の死刑に賛成票を投じた。マリー・アントワネットの政敵。のち共和国転覆の嫌疑で処刑される。
息子が1830年7月革命で国王になったルイ・フィリップ。 -
1794.7.27、テルミドール9日。パリ市庁舎でのテルミドールのクーデター(テルミドールの反動)。
テルミドールとはフランス革命暦の11月、熱月。
この日市庁舎で国民公会が開かれ、ロベスピエール率いるジャコバン党の恐怖政治に身の危険を感じた議員たちが機先を制しロベスピエール以下を断罪した。ロベスピエール以下サン・ジュストらジャコバンのメンバーが逮捕され翌28日にギロチンにかけられた。ロベスピエールがダントンを処刑した3か月後のことであった。
これによりジャコバン独裁と恐怖政治は終わりを告げる。その後総裁政府を経てナポレオンの登場となる。
「そして誰もいなくなった」。こうしてみるとフランス革命の主役たちはほとんどが30代の若さで互いに処刑し合って舞台から消え去ってしまった。革命を完成したのは革命時には一軍人でしかなかったナポレオンだった。
日本の明治維新と比較してみると、坂本竜馬みたいに途中で若くして亡くなった人物もいるが維新を完成させたのは大久保利通とか岩倉具視、西郷隆盛などずっと維新を推進してきた人たちであった。
いかにフランス革命がドラスチックだったかが分かります。 -
ロベスピエール。1758~1794年。
弁護士から革命運動に投じ頭角を現す。ジャコバン派のリーダーとしてジロンド派、ダントン派など政敵を次々と粛清、恐怖政治を行った。
対外国戦争が有利に進んだ頃を見計らって次の粛清を目論むロベスピエールに身のの危険を感じた国民公会の議員たちが議会で逆にロベスピエールを弾劾し逮捕した。世にいうテルミドールのクーデター。
逮捕の翌日1794.7.28、ロベスピエール以下22名の仲間がギロチンにかけられた。 -
「マクシミリアン・ロベスピエール。
彼の最後の時をここで過ごした。
テルミドール2年10日。
1794年7月28日」。
後世ロベスピエールの評価として、恐怖政治を行った独裁者とする見方と、革命の正義に殉じた殉教者との見方があるようです。 -
逮捕されて処刑を待つジロンド党員。
前方椅子に腰かけているのはアンドレ・シェニエ。 -
妻など身内と最後の別れを惜しんでいるようです。
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「マダム・エリザベスの記念に。
王妹」。
ルイ16世の妹。慈悲深い人だったらしいが1794年王妹の理由で処刑された。
マリー・アントワネットが遺書として最後の手紙を宛てた相手だがその手紙はエリザベスの手には届かなかった。 -
「ルイ16世の記念に。
フランス国王。」
ルイはタンプル塔からコンコルド広場に送られ、コンシェルジュリーには収監されていない。 -
コンシェルジュリーでのマリー・アントワネット。
1793年8月2日から10月15日までここで過ごし16日処刑された。
やつれていますね。 -
参考までに。
1781年、26歳のマリー・アントワネット。
上の絵に比べなんと美しく若々しいことか。 -
アントワネットの独房はあちら。
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コンシェルジュリーの中庭。
囚人は時々は中庭の散歩を許されていたがアントワネットには許されなかった。ひとえに脱走を懸念してのことのようです。
事実フェルゼンらによる脱走の計画もあったが実現しなかった。 -
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コンシェルジュリーの見学はあまり心地よいものではありませんでした。
最高裁判所。
コンシェルジュリー、裁判所、サント・シャペルは大きな敷地の上に繋がっています。 -
裁判所とサント・シャペル。
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サント・シャペル見学です。
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聖なる礼拝堂。
聖王ルイ9世がキリストの聖遺物荊の冠などを収める為王宮の跡に建てさせました。1241~1248年頃。 -
入り口から入ると1階は王家使用人用の礼拝堂です。
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入ってすぐ左に絵葉書などのショップがあります。
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正面の像は聖王ルイ9世。
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1階から2階への階段部分。
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2階。
王家の礼拝堂。 -
足元からそびえるステンドグラスに圧倒されます。
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光の洪水。
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撮った写真、省くのが惜しいので全部アップしています。
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お次はノートルダム大聖堂です。
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大聖堂の横から裏の方に回ります。
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シテ島から左岸に渡りモンテベロ河岸から。
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モンテベロ河岸。
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アルシュベシェ橋からの大聖堂の姿。
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正面ファサードの姿より変化が有り私は好きです。
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セーヌ川がシテ島で二分され狭くなっています。
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フライングバットレス/飛梁がよく分かります。
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正面に戻りました。中に入ります。
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三つの門の内中央最後の審判の門。
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左聖母マリアの門。
写真は有りませんが右に聖アンナの門が有ります。 -
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堂内。
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フランス各地にはノートルダムと名が付く教会がありますがやはりパリのノートルダム大聖堂は別格です。フランスの歴史に果たした役割の重さが伝わるようです。
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キリストの生涯を描いたレリーフ。
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ジャンヌ・ダルク。
ジャンヌは1909年ノートルダム大聖堂にてローマ教皇により列福、1920年列聖されました。聖人になったのです。 -
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北のバラ窓。
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南のバラ窓。
直径ともに13m。 -
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祭壇。
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ノートルダム大聖堂の主祭壇はピエタです。
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サン・ピエトロ寺院のミケランジェロのピエタに勝るとも劣らない、劇的なピエタです。
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大聖堂の建築過程。
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大聖堂広場のシャルルマーニュ/カール大帝像。
シャルルマーニュはアーヘンが本拠地でパリはあまり関係が無いように思いますが、まあ銅像好きのフランス人ですから。
今日の後半に続きます。
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