2014/05/25 - 2014/05/25
5936位(同エリア12775件中)
ひま人さん
黒田官兵衛とともに「二兵衛」「両兵衛」と呼ばれた同時代の名軍師、竹中半兵衛。その半兵衛の生誕地は美濃大野郡ですが、14歳で不破郡の菩提山城(岩手山城)へ父とともに移りました。菩提山城の裾野に設けられた陣屋(岩手城)は旗本の館として明治まで残り、今も石垣や漆喰白壁の櫓門が往事を伝えています。近くには、半兵衛の墓所や菁莪記念館(道場を伝える資料館)、竹中家墓所・禅幢寺、官兵衛幽閉中に信長の目を逃れて松寿丸を匿ったとされる五明稲荷神社などが点在しています。今回は、軍師として卓越たる才能を持ち、官兵衛の盟友と言われながら、三木合戦の最中に36歳で病死した竹中半兵衛の生涯を辿りました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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竹中陣屋櫓門。江戸時代の陣屋で、安土桃山時代には岩手城と呼ばれていましたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため城は陣屋と呼ばれるようになりました。
竹中半兵衛重治の子である竹中重門が築いたものですが、敷地を囲む大規模な堀と石垣などがあり、世に言う陣屋というものより小型の城という感がします。
元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便なことから、麓に岩手城を築いたと言います。 -
竹中半兵衛重治公像。
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岩手城石垣と堀が残っています。
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菁莪(せいが)記念館。菁莪とは莪(あざみ)が茂るさまを言い、
『詩経』の「菁莪たる莪は材を育するを楽しむ、君子は能(よ)く人材を長育す」を典拠としています。ここに竹中家が一族らに学問や武術を教えるために創設した道場であり、人材育成を大切にしてきた竹中家の精神を今に伝えようと、その跡地に昭和54年(1979年)、菁莪記念館として設置されました。 -
菁莪記念館玄関。
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菩提山城・大手門口。菩提山城は伊吹山系の菩提山山頂に築かれた標高402mの詰め城で、麓の岩手城とともに機能していました。伊吹山に繋がる山頂の自然を巧みに利用し、七つの曲輪と十指に余る小削平地、二つの大堀切、七条の竪堀および空堀からなる大規模なものだったそうです。
今回は登りが急なため山頂までは登らず、大手門口だけにしました。 -
菩提山城・大手門口。
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禅幢寺山門。
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禅幢寺本堂。山号は普賢山禅幢寺(ぜんどうじ)といい、曹洞宗の寺院です。室町時代の後半、明応3年(1494年)に、岩手領主を願主とし盛庵正碩禅師によって開創されたと伝えられています。天正7年(1587年)、播州三木の平井山本陣で、半兵衛は36歳の若さで病没しましたが、半兵衛の長子・重門が天正15年(1587年)に竹中陣屋に近い禅幢寺に半兵衛の墓を移し菩提を弔いました。以来、禅幢寺は半兵衛及び竹中氏の菩提寺となりました。
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禅幢寺・竹中半兵衛重治公の墓。
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禅幢寺・竹中重元公(半兵衛の父)の墓。
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五明稲荷の案内看板。
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五明(ごみょう)稲荷神社。主祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、いわゆるお狐さん。稲作の神・五穀豊穣の神様ですが、摂社に松寿彦神が祀られているとされ、これは松寿丸ことかと思われます。
松寿丸は官兵衛の長子で、有岡城の荒木村重が信長に反旗をひるがえしたので、官兵衛が荒木村重を説得に有岡城に単身出向いたが、逆に石牢に幽閉されました。信長は官兵衛が裏切ったと思い、秀吉が人質で預かっていた松寿丸を殺せと命じました。秀吉は、信頼すべき軍師半兵衛に一任し、官兵衛とは深い友情で結ばれていたので、殺さずこの五明稲荷近くに住まいする半兵衛が信頼する竹中家家臣、不破矢足に預け、彼の屋敷に匿われていたそうです。現在の五明稲荷の地が不破矢足の屋敷跡と伝えられていますが、そこで松寿丸は女装して於松と名乗り、舞が得意な幸徳という小坊主を遊び相手にして密かに暮らしていたといいます。 -
五明稲荷の銀杏の木。松寿丸がこの地を離れる際に植えたとされる銀杏の木です。
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