2014/02/17 - 2014/02/21
145位(同エリア375件中)
明石DSさん
安全対策なのか?窓のテープに苦笑い
晴れではないが雨がないようでホッとする
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2014/平成26年2月18日(火)
■宜蘭の朝
昨晩は迷わず睡眠導入剤を半分に割ってではなく一錠そのまま飲んだ。枕が変わっては寝れない私は「旅は修行」と公言する手前、ホントは薬に頼らず「寝れずとも構わない。クタクタに疲れたら寝れるはずだ」とカッコつけたいがそんな性根も意地もなく。まあお陰で寝つきも良くグッスリ寝れた。
そして雨の無い朝を迎えてラッキー。一階フロントに行って「市内散策のために5〜6時間のタクシー包車(貸切)をしたい」と言ったら、昨夜と同じサービス精神旺盛の男性服務員がすぐにタクシー会社に電話して聞いてくれた。「6時間¥2500元」ということであった。昨日宜蘭駅からこのホテルに向かう時に、「市内一時間の包車は幾ら?」と駅前のタクシー運転手に聞いたら\400元とのことだった。
前回の嘉義と豊原では、両方とも1時間¥700元と言われたが、場所は分からないが台湾タクシー包車ネット相場では¥300元というのもあった。場所によってだいぶ違うのかもしれない。その辺はまだ良く分からないが、この宜蘭では、6時間¥2,500元だから、ほぼ1時間¥400元というので頼んだ。朝食は「7時半になったら部屋にマクドを持って行く」というので部屋に戻って待った。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
慕夏精品旅館 Mù xià jīngpǐn lǚguǎn
ムーシャ・ジンピン・リィューグアン:802号室
住所:宜蘭市新民路62號(宜蘭駅から徒歩5分)
電話:886 3 933 1188 -
一階フロントから表を写す
タクシーの紹介を頼んだら、即電話してくれた
サービス精神旺盛のフロント男性服務員だった -
このホテルの朝食は近所のマクドから
ホットドック一個と温かいコーンスープ
このホットドックをかぶったら前歯(義歯)が割れた
さあ、今日から旅は始まる。その矢先、一気にテンション下がる
前歯なしの旅は、格好悪いし、気が滅入る
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■朝食マクドで義歯割れる(泣)
7時半過ぎマクドのホットドック一個と温かいコーンスープを持って来てくれた。こんなサービスは初めて。温かいからどっちも美味い。しかしここで思いもよらなかったアクシデントが発生。ホットドッグを食べていたら前歯の義歯が何の予兆なくあっけなく割れた。「あちゃァ〜どうしよう、あァあ」と目の前真っ暗。奥歯なら我慢も出来るが、旅の二日目から前歯が無くてはかっこ悪くてどうしようもない。
引っ掛けることも出来ない割れ方で万事休す。それでも一応パンとスープは全部食べた。私は若い頃、歯科技工士として働き独立して技工所も開設した。仕事は順調忙し過ぎて「これじゃあ身体も精神も持たん。技工士は超一流なら良いが、そうでないならこんな歯科医の下請け商売やってられん」とやめた。そんなことで瞬間接着剤が頭に浮かび、割れた義歯を付けようとホテルの傍にあったセブンイレブンに行った。
メモ用紙に「瞬間接着剤」と書いて店員に見せたらすぐに頷いて品物(快乾膠:Kuài gān jiāo:クワイガンジャオ¥25元)を持って来てくれた。「あっこれや、助かったかも」と部屋に戻って祈る思いで小さな義歯を手にとって慎重に割れ目を合わせ、接着剤の液を垂らしたら押さえている指の方に液が流れ込み親指が一緒にバッチリ義歯に引っ付いた。
その指を反射的に外そうとしたので合わせた義歯の割れ目が若干ずれたような気がした。「しまった!このまま引っ付いたら嵌められない」と思ったけど、最早仕方なくとりあえず親指の皮膚を剥がすように義歯からやっとのことではがし、もう一度義歯を合わせ直して接着剤を垂らした。
裏も表も大量に、ホントはホンのちょっとの方が良いのに必要以上に垂らした。何とか無事強固に引っ付き旅の道中問題は無かった。帰国後すぐに歯科医に行って新しく作りなおしてもらっている途中だが、今も何不自由なく使用に耐えている。 -
元歯科技工士の私は、次の瞬間、瞬間接着剤がひらめく
40年前の歯科技工の現場でも今と同じ物を良く使っていた
台湾のコンビニにあることを祈りながら買いに行ったら有った
見事接着を果たし、万歳三唱!帰国まで何ら問題なく
今は新しく作り替え、この義歯は予備として置いている -
宜蘭散策はスタートした
目的の場所に行けるのだろうか?
時間はどのくらいかかるのだろう?
探し当てれるのか?
初めての宜蘭、いつものことだけど
とりあえず行けるところから行こう
そんなスタートだった
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■南飛行場跡に向かう
義歯が割れるアクシデントがあったのでタクシーとの約束時間があっという間に来て、準備も慌しく一階に下りたらすでにタクシーが待っていた。運転手は“張○○さん”(仮名)54歳。20代前半の男女二児の父親。
まずホテル前に停車したタクシーに乗り込み手元の資料を広げて今日の目的地を説明した。距離的には近くばかりだけど数が多いし、掩体壕・機銃塹壕・待避壕等々のはっきりしない日本軍遺跡も多い。順番は“張○○さん”に任せるからということで出発した。
まず最初に行ったのが、宜蘭南飛行場近くの飛行機を隠すための掩体壕。これらの掩体壕は昭和18年頃に作られたそうだ。門の痕跡らしきコンクリートの柱が道の両側に残っていて中央に柵を置き車の進入は出来ない。
何の門柱跡なのか不明だが手前で車を停め、そこから歩いて中に入り雑草の生茂った荒地を踏み込んで行くと掩体壕があった。その周囲に窓にベニヤ板を貼り付けたブロック積みの兵舎か倉庫なのか?何時の時代の物かも不明だが建物が何棟も残っていた。
見た感じでは、これらの建物は日本軍時代の物ではないと思う。この宜蘭には飛行場が南北西と三つあり、北は最初民間飛行場として使われ、昭和11年には日本航空の島内定期航空路線があったようだ。戦時期には軍用飛行場になっている。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01006840500?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E5%AE%9C%E8%98%AD%E3%80%80%E5%8C%97%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=& -
この歴史沿革の説明では
?宜蘭南飛行場の傍に、飛行機を隠し、米軍の
攻撃から守るために掩体壕を多数作った
敗戦後掩体壕は壊された物もあるが、今現在
南に三個、北に三個、計6個が残っている
掩体壕はこの付近だけで7〜8個残っていたようだけど? -
飛行機の離着陸時の安全を確保するための器具
「壓路滾Yā lù gǔn:振動ローラー」
「長さ90cm、半径55cm」
グランド慣らしをする手押しローラーよりも遥かに小さい
車に取り付けて転がして滑走路を均(なら)していたのか?
今のブルドーザー(地均しローター)とは程遠い -
敵機の攻撃から飛行機を守る掩体壕
この宜蘭で初めて実際の物を見た
英語ではBunker(バンカー)と呼ばれるそうだ -
南飛行場の近くだというのは分かるが
手持ちGPSもなく場所は特定できなかった
帰国後以下のHP(台湾)で概ねの場所が分かった -
私が現場で見て写真を撮ったのはこれらの掩体壕
http://theericel.blogspot.jp/2011/01/0321.html -
黄色い車が“張○○さん”のタクシー
門柱が道の両側に立っているが、この門柱も
いつの時代のものか?何なのか何も分からず -
これも掩体壕
この付近に何ヶ所かあった
樹木も茂り、自然のカモフラージュで
今こそ掩体壕はその役目を十分に果たす
敵機もこれでは分からないだろう -
近づけばそこに掩体壕が姿を現す、ご苦労様
ここに特攻機が隠され、そして命令が下って
飛行場に運び出され、沖縄に向かって飛び立った
次々と・・・若き搭乗員が明日を信じて飛び立った -
■宜蘭には「北、南、西」と三ヶ所の飛行場あった
北(最初民間、戦時以降軍用)と西(宜蘭第二飛行場)飛行場は現在はその場所の痕跡も残っていていないようで、南(宜蘭第一)飛行場だけは最近までほぼそのままの姿で残っていた。
昭和20年4月11日この南飛行場から陸軍特攻第105戦隊の三番機が離陸途中、左にそれ、その機に巻き込まれ事故死した中学生がいた。その時同じ場所にいながら助かった弟さんが平成18年、この南飛行場を訪れお兄さんの慰霊を行い手記を記されている。 「台湾宜蘭南飛行場」
http://www.ne.jp/asahi/tityukai/tanka/MOMOHARA/momoryo0909.html
この宜蘭第一(南)飛行場は捷号作戦(1944年10月18日に捷一号が発動)におていて、陸軍が主用し海軍共用するものとされている。そしてこの南飛行場の滑走路は最近まで残っており、地元の人たちがラジコン飛行機を飛ばす場所として使われていたそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%B7%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6
しかし造成工事で今は飛行場跡は一般人立ち入り禁止になっており、周囲にフェンスがあった。写真では見ていたが飛行機を隠す掩体壕の実物を見るのは初めてで、そのコンクリートの厚さと堅固な作りにこれなら少々の爆撃でも飛行機は無事だろうと思えた。
繁体字での説明版には「南飛行場周辺に三ヶ所、北に三ヶ所、合計六つの掩体壕が残っている」と書かれていたが、どうもそれ以上あったような気がしてならない。でもその場所が今一不確かだが・・・。この南飛行場周辺だけでも少なくとも五つの掩体壕を見て写真に撮ったはずだから・・・。 -
角田和男中尉と著作「修羅の翼」
1918/大正7年10月11日 - 2013/平成25年2月14日:享年95
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■宜蘭南飛行場跡に残る管制塔(八角亭)
この飛行場跡で私が一番見たかったのは航空管制塔跡。管制塔は八角形で台湾の紹介サイトに俗称「八角亭」と呼ばれていたとある。管制塔跡が分かれば今は造成されていても飛行場の場所が確認できる。管制塔は特攻機を含めて多くの陸海軍航空機の離発着を固唾を呑んで見守っていた場所だ。北と南と西、この三つの飛行場を陸海軍航空隊がそれぞれどのように使っていただろうか。
宜蘭の南北西飛行場を陸軍「第八飛行師団」・海軍「第二〇五海軍航空隊」の飛行隊がどのように運用していたのか?興味を持って何冊かの本を読んだが同じ飛行場をどのように使用していたのか?飛行場での陸海軍兵士の交流の有無。その辺は皆目分からない。
そしてこの宜蘭飛行場にも多くの搭乗員の犠牲と物語がある。国を守るために若き命を捧げた一人一人は、英雄でなければならず、名前は無論だが出撃までの経緯や様子、最期を知るのは、あとに残った日本人の最低限の責務だろう。しかしながらその英雄があまりにも多く茫然自失でしかない。
台湾の陸軍航空作戦は第八飛行師団が担当で、昭和19年6月に編成され、師団の作戦の基本は「邀撃(ようげき)は一切実施せず、人員・飛行機・燃料弾薬のすべてを滑走路から遠く分散秘匿して損害をさけ、機を見て敵の上陸用艦船にいっせいに徹底攻撃を加え大打撃を与える」というものだった。それで掩体壕が数多く作られた。戦後多くは撤去されたが今も何ヶ所か残っている。
■宜蘭飛行場での戦い
昭和19年10月12日〜16日の台湾沖航空戦の頃には陸軍第八飛行師団は海軍の連合艦隊指揮下に入っていた。そして海軍との協同作戦である台湾沖航空戦において邀撃にベテランパイロットが宜蘭からも多数出撃し、多大な戦果を挙げるも犠牲も大きかった。この宜蘭飛行場では台湾沖航空戦から沖縄への特攻出撃が終了するまで陸海軍航空隊から多くの戦死者が出ている。
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「飛燕対グラマン」田形竹尾(著)より抜粋
昭和19年10月12日台湾沖航空戦初日、「敵グラマン戦闘機の大編隊来襲」の報に接し、この宜蘭から「空の新撰組」と名高いベテランパイロットで編成された陸軍飛行第十一戦隊:金谷祥弘少佐の精鋭30機が敵グラマンF6Fの邀撃に上がった。
しかし宜蘭上空は迎撃不能の天候状態となり迎撃中止命令を発信したのはすでに出撃後であった。そんな悪条件のなか飛び上がった第十一戦隊は、やっと高度2千五百に上昇したが運悪く千メートル上空の敵グラマン90機の直下に出てしまった。
戦闘機同士の空戦では「高度は速度なり」の原則があるように低位では決定的に不利である。しかし新鋭機:疾風(はやて)は奮戦し、金谷隊長がグラマン三機を撃墜したほか敵機30機を撃墜した。味方機も半数が撃破され戻ったのは半数に満たない14機だった。
着陸後、金谷少佐は戦隊副官に戦闘状況を記録させ「戦隊は最後の一機まで敵機を邀撃し、これを撃滅する」と事後の指揮を命じ「あとを頼む」と言い残して再び態勢を整え、部下数十機を指揮して花蓮港と台北を結ぶ線上で決戦を挑んだ。
敵に大損害を与えたが、ついに金谷隊長は疾風と運命をともにし、火達磨となって台湾上空に散った。三日間の戦闘で第十一戦隊は敵機50機以上を撃破する大戦果を上げた。
台湾沖航空戦が終わり、満身創痍となった飛行第十一戦隊は第二中隊長:四至本広之丞大尉が指揮して、目的の決戦場・比島へと飛び立ったがその数わずか七機。四至本広之丞大尉は無事帰国され「隼 南溟の果てに―南太平洋空戦の記 」を出版されている。
そして台湾の陸軍航空特攻は昭和20年3月26日「誠第十七飛行隊(九九襲)と「独立飛行第二十三中隊(三式)」の特別攻撃隊を持って火蓋を切ることになる。
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■「修羅の翼」の著者:角田和男中尉も宜蘭で終戦を迎えた
宜蘭の海軍「第二〇五海軍航空隊」の司令長官は玉井浅一中佐であり、玉井中佐はマバラカットで大西瀧治郎中将とともに特攻隊編成の中心をなした人である。そしてこの第二〇五海軍航空隊に「修羅の翼」を書いた角田和男中尉も在隊「昭和20年2月5日補戦斗第三一七飛行隊附(第二〇五海軍航空隊附)」し、この宜蘭で終戦を迎えている。
その「修羅の翼」の中に昭和20年5月4日宜蘭から出撃した第十七大儀隊の特攻直掩として特攻機の戦果確認した時の様子が書かれている。角田中尉は前日の5月3日休養を許され近くの礁渓(しょうけい)温泉の旅館で夜半二時頃まで飲んで騒ぎ二日酔いのまま、翌4日朝指揮所に出たら攻撃命令が出ていて玉井司令によって編成表が書かれていた。
合成酒で頭が痛く困ったと思っていたが心配した通り一小隊の直掩となっていた。それを見て角田中尉は「わあ、司令、最近人が悪くなったなあ」と声が出たそうだ。その様子に予備学生の林誠中尉が「分隊士、大丈夫ですか?」と声を掛けてくれたり、海兵72期の藤田昇中尉が「分隊士、あまりきついようだったら私が代わりましょうか」と言ってくれたが、しかしまさか酒を夜通し飲んでいて休むことは出来ないので「大丈夫、できます。有難うございます」とお礼を述べ直援機として出撃した。その時の状況を「修羅の翼」から要約抜粋する。 -
角田和男中尉と著作「修羅の翼」
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昭和20年5月4日(金)
〇九三〇、司令の説明を受ける。私の隊は三本の索敵線の中央だ。石垣島からは、さらに北側に二本の索敵線が出されるとのことだった。これだけ細かに配線されれば、どれか一本には当たるなと直感がした。〇九五〇、宜蘭基地上空を発進する。高度十メートルで予定針路につく。
谷本中尉以下四機が左後方に続く。零戦が空戦の王座を失ってから、すでに二年近くになり、特殊専用機になりさがるのは仕方ないとしても、誰が考え出して命令されたことか、情けないことにこの日の特攻機の機上面には日の丸のマークが見えなかった。翼は、濃緑色に塗りつぶされていた。超低空接敵、目標千メートル手前より急上昇、高度五百メートルより急降下、体当たりを敢行しようとする戦法であった。
ニューギニアのドブヅル飛行場の赤十字マークの例の弾薬置場を山本司令は爆撃させなかったことが思い出される。搭乗員はみな明るい。遊び好きな青少年である。祖国の急を救わんとの一念に燃えている純真さは誰にも劣らない。それなのに、乗って初めて気付いたこの一点の疚しさは、最後まで消えないことだろう。超低空を翼下面と胴体の標識だけにして飛べば、確かに発見される恐れは相当少なくなるだろう。しかし、爆装機は気付かなかったのか、海上に出てしばらくするとイタズラを始めた。
高度があれば編隊宙返りでもしたい気持ちだろうが、最初は谷本機が下がり過ぎてプロペラ過流のため海面に白く航跡を残した。これを見付けた列機はさっそく編隊を離れてそれぞれ交互に海面すれすれに飛ぶ。数百メートルにわたって三条の白い航跡がつく。私は驚くと共に最後の腕の見せ所がこのようなことしかない爆装機の辛さが身に沁みた。頭の重苦しさもすっかり消え、冴えてきた。気の毒だがバンクして止めさせる。
どこに敵が待ち伏せしているか分からない。戦闘機乗りは座席に座った時から戦場である。一時間余りして、周囲に霞が掛かり、視界がやや不良になった時、左前方上方高度五百メートル、距離五千メートルくらいに中型飛行艇一機が同行するのを発見した。落とすか、どうするか、ちょっと迷ったが、折からの靄(もや)と、先ほど気になった日の丸のないことが幸いして恐らく敵は気付かないだろうと判断してそのまま進む。
これは、敵機動部隊の対潜哨戒機と思われた。敵は近い、われわれの索敵機がぶつかる率が高いな、と緊張し、覚悟を決めた。靄は間もなく晴れてきた。一一二〇、果たして左四十五度の水平線上にポツポツとマッチ棒の頭ほどの点を認める。機動部隊だ。キューと胸がひきしまる。超低空では距離の判定が難しい。爆装機はまだ誰も気付かない。変針誘導するか、どうしようか、一瞬迷ったが、そのまま直進する。
まだ予定変針点までは百浬(ひゃくかいり)ある。今誘導すれば彼らの生命は終わりをつげるのだ。敵の地点を航空図に記入し、帰途に誘導しようと思う。わずか一時間余りでも、今はこれほど貴重な時間は無い。少しでも突撃の時期を延ばしてやりたいと思った。
四、五個の点はやや大きぐ盛り上がって、左水平線上を後方へ消えて行った。白い断雲が流れ始める。高度千メートルくらい、約十分後、今度は左十五度前方に再び点々が現われた。敵は二群いたのだ。しかも、今度は近い。誘導しなくてもぶつかるな、と、やや責任の軽くなったような気がした。
改めて爆装機を振り返ってみたが、まだ誰も気づいていないようだ。日はようやく直上に輝き、コースはちょうどあつらえ向きである。このまま進んで敵の南へ進出、太場を背にして低空突撃すれば奇襲成功疑いなしと見た。やがて敵艦隊が左四十五度付近になり、主力空母四隻、護衛の駆逐艦七隻の輪型陣、針路東とはっきり分かった頃、谷本機が遂に敵を発見、と同時に突撃開始のバンクをしてしまった。
距離はまだ三万メートル、ちょっと早いな、もう少し南へ回り込んだ方が良いと思い、誘導を続けようとしたが、敵を見た爆装機はもう私の言うことは聞いてくれない。全力をあげて突撃を開始してしまった。しかも、高度を上げ出した。慣れない敵は近く見えるものだが、危ない、危ない。せっかくここまで低空で接近しながら、ここで高度を上げては、電探にも見張りにも発見され、艦砲の一斉射撃を食ってしまう。気が気でないが、もうどうすることもできない。
高度千二百メートル、断雲すれすれに飛び、谷本機の後につく。列機もそれぞれ目標を決めたらしく、どんどん横に離れて行く。雲量三くらいに見えた断雲も、すれれに飛んでは七、八くらいに感じられ、味方機の視認の邪魔にもなる。
この時直衛機十数機を発見する。高度三、四千メートル、艦隊の北側である。まだ敵に発見されていない。大型空母二、中型空母二、相互の間隔は二、三千メートルの開距離である。谷本機は、一気に右前方の大型空母に突っ込む。まだ防御砲火は認められなかった。見事に飛行甲板の中央に自爆、五百キロ爆弾の爆炎はたちまち大火災となって船体を覆った。三十秒後、二番機が後方の中型空母に命中、私も高度を下げ超低空で東方敵前方に避退しつつ三、四番機を追う。
開距離のため、列機の直掩は不可能であった。約二分後、左後方の大型空母に三番機らしき突入があり、大爆発する。一瞬、四番機を見失ってしまったが、一分後、再び三番機の命中した爆煙の中に大爆発を認めた。恐らく四番機の命中によるものと判断した。一度東方視界外に出て、高度を上げ、戦果の確認に近づいたが、空母三隻は炎上中、艦隊は停止中だった。中型空母は黒煙に覆われ、大型二隻の甲板上では誘爆を起こしていた。
特に二機命中した左後方艦の誘爆の閃光は多かった。ただ、誘爆が底より吹き上げる火炎でなく、恐らく甲板上の飛行機か爆弾と思われ、停止していたものの、詳細は不明であった。無電を打ち、宜蘭基地、新竹の司令部を呼びつづけたが、応答はない。特に司令部の掌通信長は予科練入隊時の教班長たった岡部中尉である。「教班長、私の電報受けて下さい」と、祈るように打ち続けたのだが、当時の無線機の整備状態では遂にどこにも通じなかった。
このままでは他の攻撃隊を呼ぶ術はなく、敵は二群もあることだし(一群は、後で聞くところによると、石垣島を砲撃した帰りの戦艦部隊と思われた)、早く帰投して報告、第二次の攻撃を計画した方が有利と思い、涙を飲んで一生忘れることのできない戦場を後にしたのである。
振り返れば三条の黒煙は無風の空に高く千メートル近く立ち昇っていた。今度は予備機を揃え、全機爆装にして高度三千から突っ込もうと頭をカッカとさせて全速で帰投、急ぎ迎えの車に乗り換えて市内の小学校にある指揮所かけつけた。車から降りるか降りないかの一瞬、「何しに帰って来たかッ」雷のような怒声、満面朱を注いで椅子より立ち上がった物凄い形相の司令に睨みつけられた。とたんに私は頭から冷水を浴びたように冷ややかに覚めてしまった。
斎藤飛曹長もこの勢いでやられたのだな。途中から引き返したのだったら、およそ次の文句の見当はつく。私はわざとゆっくり歩き出しながら、むらむらと反抗心が湧き、自分から追撃の意見具申は取り止めだ、と決心した。あれだけの黒煙が上がりながら、左右の索敵線の二隊は応援に来なかった。気付かないのだ。私の視力と経験がなければ、恐らくあの艦隊を再び捕捉することは無理だろう、と予想はできたが、報告だけに止め、自ら爆装志願はしなかった。
果たして二群の機動部隊は逸してしまった。しかも、追撃に出た爆装機細川中尉、佐野二飛曹、直掩の大石飛曹長は未帰還となり、爆装の橋爪二飛曹(後特攻戦死)一機のみ、数機の敵の攻撃より離脱して帰還した。中型空母一隻は無傷だったのである。司令の考えも同じらしく、爆弾の効果を高めるため進撃高度は三千メートルと指定されたが、待ち惨死だ敵の哨戒網に引っかかってしまったのである。
苦い思い出である。この日の出撃は後にすべて第十七大儀隊と命名された。この頃になると、搭乗員も長い特攻待機の緊張にも慣れて落ち着き、本来の戦闘機乗りの朗らかさをを取り戻していた。これら隊員たちに反して、司令の心の揺れは大きく、感情の起伏は激しくなるばかりであった。 -
修羅の翼」角田和男(著)より抜粋
昭和20年5月4日宜蘭から出撃した第十七大儀隊の特攻直掩として出撃す
この時の「飛行隊編成表」 -
「修羅の翼」角田和男(著)より抜粋
昭和20年5月4日宜蘭から出撃した第十七大儀隊の特攻直掩として出撃す
この時の「戦果及び被害報告」 -
高田豊志少尉
敷島の大和心を一(ひと)比らに凝(こ)めて散り行く若櫻花
征(い)でゆかば必ず死なむさだめなるに笑いて征きし友の面影
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■「若鷲乃賦―歌集 高田豊志遺詠集」
陸軍航空特攻では、この宜蘭から昭和20年5月13日沖縄へ特攻出撃した陸軍少年飛行兵第十三期生:高田豊志伍長(大正14年6月1日生、戦死後:少尉)の物語がある。昭和20年5月13日、二十歳の手前、満19歳で沖縄へ出撃戦死した。
高田伍長は昭和18年3月から出撃前の昭和20年4月まで「一、一日一首とし修養の資とする」「二、之を以って遺集とする」と歌集(うたにっき)として大学ノートに書き認めた。
その高田伍長の歌集が昭和51年東条英機大将夫人:東條かつ子さんの目にとまり「若鷲乃賦―歌集 高田豊志遺詠集」として本となった。高田伍長の出身地、富山県の護国神社のHPでも「遺芳録」として紹介されている。
そして当時台北で特攻待機中だった隊員と14歳の女子中学生との心温まる数多くの交流があり、その14歳だった少女が2012/平成24年、81歳になって一冊の本を出した。「十四歳の夏:特攻隊員の最期の日々を見つめた私」中田芳子(著)。この本のなかで高田伍長との初恋物語が記されている。中田芳子さんは「逆さ歌」でも有名な人のようだ。 -
中田芳子さんの著書
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現在:南飛行場跡地は造成中で立ち入り禁止
2009年には昔のままの南飛行場が残っていた
2012年にはすでに整地されていたようだ
http://www.ne.jp/asahi/tityukai/tanka/MOMOHARA/momoryo0909.html
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■「中野先生戦中日記」
海軍の特攻隊では、私が「次は宜蘭に行きたい」と思ったきっかけになった「中野先生戦中日記」との出会いがある。体育の教師だった中野ユキエ先生が、この宜蘭で海軍の若き特攻隊員との交流を書き留めた貴重な資料であり、少年特攻隊員たちの出撃までの交流と彼らの様子が克明に描かれている。
http://www.warbirds.jp/senri/10kaiko/06nakano/nikki.html
その日記には、宜蘭公園(現:中山公園)での壮行会の様子、忠霊塔の前での遣り取り、そしてそこからトラックで飛行場に向かったこと。そして学校にも彼らが出入りしていたこと・・・等々。私はその忠霊塔の前に佇み、日記にある1945/昭和20年5月9日大儀隊が出撃した当時を偲んだ。当然といえるが約90名もの特攻出撃があった宜蘭。物語は亡くなった英霊それぞれにある。
無論特攻隊員だけでなく大東亜戦争戦没者の数だけ英雄伝があってしかるべきだ。例えその死が餓死であっても戦病死であっても私にとって皆同じ英雄であり、どんな死にも犬死はない。戦いに挑んで命を落としたというだけで英雄なのだ。そしてどんな死にかたであろうと誰が何処でどうやって戦いどのように戦死したのか?知りたい、知らねばならないと思う。一人でも多くの・・・。
管制塔は造成地の中にあり、運転手の“張○○さん”は「もう壊されてないはずだ」と私に何度も言ったが、こればかりは自分の目で確かめないことには納得できないので金網フェンスをよじ登って造成地の中に入った。
掩体壕があったのが飛行場の西側端の方だったので、飛行場の跡地である西端から入り、まだ舗装はされていないが整地された真っ直ぐに続く砂利道を東に歩いた。帰国後宜蘭の地図ではこの未舗装の道が滑走路で管制塔前の舗装道路は当時の滑走路ではないようだ。
進行方向左手遠くに何の建物か?良く分からないモニュメントのような不思議な塔が見えていた。そしてやがてその手前に写真で見ていた管制塔が見えた。「あッ、やっぱり残っている!」と感激だった。
宜蘭南飛行場の八角形の管制塔は残っていた。さずが台湾。これは遺してくれるだろうと思っていた通りに。そして一旦戻って車で迂回して見に行こうと、あることだけを確認してまた来た道を戻った。 -
こんな完成図があったけど、こうなるのかも
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この真っ直ぐ前方に亀山島(きざんとう)がある
Guīshān dǎo グイシャンダオ
そのすぐ先右手に与那国島があり
石垣・宮古島、そして沖縄がある -
左前方高い建物の手前に管制塔が残っていた
宜蘭よ、良くぞ潰さずに遺してくれた
今後も是非保存してもらい -
あった!やっぱりあった!
?管制塔が残っていることを遠目で確認し
出直して行くために元の場所に戻った -
このフェンスを乗り越えて戻る
今日は作業がないのか?
現場事務所に誰もいなかった -
今では立派にカモフラージュされた掩体壕
昭和20年、間違いなくこの中に特攻機は隠された -
左手に掩体壕、そして遠くにこんもりと茂るのも掩体壕
等間隔のように並んであった ?
この宜蘭から陸海軍合わせて
約90名の特攻隊員が散華したそうだ
その他、多くの戦いの物語と戦死者がいる -
1945年、今年2014年。69年の歳月がたった
当時20歳なら今89歳、17歳なら86歳・・・か -
掩体壕の内部
飛行機の出し入れも大変だったろう
敵機の空襲にもビクともせずだったのか? -
掩体壕を見た場所から車で航空管制塔近くまで戻った
こっちは道路も舗装され造成もほぼ完成なのだろう
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■宜蘭南飛行場航空管制塔跡(俗称:八角亭)へ
そのあとこの附近の道沿いに等距離の間隔で掩体壕が三ヶ所残っており一つづつ傍に行き中に入り写真を撮った。最初の二ヶ所とこの三ヶ所。計五つの掩体壕があったと思う。そして北飛行場周辺にも計三ヶ所見たから私の確認したのは合計八ヶ所の掩体壕だ。そして“張○○さん”にやっぱり管制塔は残っていたから「近くに行って」と頼み出発。
特徴ある高いビル傍で車を停めて歩いて行った。こちら側からは柵もなく金網のフェンスもなく歩いて入れた。こっちは造成も進んで道は綺麗に舗装されている。その舗装道路の道傍に簡易な棒杭とロープで囲まれて管制塔があった。崩壊寸前の趣だが今もその存在感を示していた。
デジカメ動画を写しながら管制塔跡に近づいた。臺灣文化資産局の説明では「南機場八角塔台」とあり三層の建物のようだが一階部分はどうなっているのか?そのまま柵の中に入り二階?部分の周囲を一周したあと錆びた鉄梯子をデジカメを撮影しながら上に登った。
八角形の内部は周囲が360度見渡せる。ここも海軍・陸軍は協同で使っていたのだろうか?今のところそれらに関して何も分からず。協同で使っている風景もどうも想像できない。 -
管制塔より亀山島方向を写す
この飛行場も敵機の来襲を幾度となく受けはずだが
この航空管制塔は残った
八角亭について日本語Web頁に何の記述もない -
タバコを忘れてきたので日本のお菓子を供える
-
玉井浅一司令も正面の鉄梯子を使って
この管制塔に登ったのだろうか?
角田和男中尉はどうなのか?
この管制塔についての様子は今もって何も分からず -
管制塔にトイレが付属してあった
中には陶器の便器が今も綺麗に残っていた
上には貯水タンクがあり水洗仕様だった
宜蘭南飛行場跡:特攻隊他/2014/H26.2.18-19
http://youtu.be/nw8HQDvc44Q -
掩体壕を利用しての「黄さん設計の戦争記念館」だそうだが・・・。
今や廃墟のようで見る影もなく
旭日旗のデザインも色あせて
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■員山機堡
管制塔にはまた明日も来るつもりなので、次の目的地に向かった。来る前に調べたところではこの周辺にも機銃塹壕跡・待避壕なども各所に残っているようだが現地に来ても分かりようもなく早々に探すのは諦めた。
八角亭から次に向かったのは、北飛行場の飛行機を隠していた員山機堡。黄聲遠という宜蘭では著名な建築家の設計で作られたようだ。宜蘭の飛行場や特攻隊に関しての資料があるかも?と、期待していた。
しかし入園案内の札には入園料¥30元とあったが、ドアも閉まり建物には入れず、周囲を歩くだけだった。写真で見ていたように掩体壕の中に竹で作った飛行機があったが、すべては期待はずれ。室内で琴の教室なのか?10人足らずが練習していた。「なんじゃ、これは?」と早々に車に戻った。
2009/平成21年10月頃に完成したようだが、すでに廃墟一歩手前だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/mahchan68/27574420.html -
琴の練習場所として使われていた
10年後やいかに・・・ -
竹製零戦も寂しく外を眺める
完成後五年でこの姿はちょっと空しい -
この慈恵寺(西南方向)の近くにあるはずの
?陸軍通信所跡(24°44'16.79N 121°43'15.64E)は
写真を持参せず残念ながら見つけること適わず
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■宜蘭神社跡へ
次に慈惠寺近くにあるはずの陸軍通信所跡を探したが、慈恵寺まで行き附近を散策するも探し当てられず。そこから宜蘭神社があった員山公園に行った。ここは1905/明治38年:宜蘭公園に創建された宜蘭神社が1919/大正8年に員山に遷座された。しかし鎮座や遷座の年度が資料によってばらつきがあり正確なことは分からない。
小高い山の上に向かって一直線に伸びる階段参道があり、階段上り口向かって右側には立派な台座に神馬が立ってる。左側は神馬がバラバラにされて埋められ「宜蘭製酒株式會社」「台南製糖株式會社」の石燈籠が倒され置かれている。
「一体、何やこれは?」と思ったら、宜蘭の「雕刻家 林正仁」の作品のようだ。作品と言われても「ふざけるな!」としかいえない代物だが・・・。「神社故事之一」「神社故事之二」という詩人:陳倥が書いた詩が石碑に刻まれていた。意味は不明。
階段は自分で数えたのではないが「128」とある。階段を登れば宜蘭市内が一望かと思っていたが、木が大きく茂りその隙間からの眺望だった。最初に上りきった場所に宜蘭神社拝殿があり、その上に本殿があった。
今は拝殿部分には、基礎の痕跡だけで他はなにもない。そこからまた階段を上れば本殿の代わりに忠烈祠の祠が建っている。その祠はちょっとした展示館のようで宜蘭神社の写真が展示されていた。
それと宜蘭出身者の抗日義士や金門島の戦いでの戦死者の位牌が掲げられていた。忠烈祠というのは日本の護国神社のようなものだ。その忠烈祠の中に抗日義士の位牌と共に日本時代の宜蘭神社に関係する写真や説明があるのは台湾ならではと思う。祠の床は一部がガラス張りで宜蘭神社の基礎部分なのか?床下が見えるようになっていた。
昔の写真と見比べれば神社への階段参道、そして神馬に狛犬、石造りの小橋等々昔の写真と大きく変わらず宜蘭神社の存在を彷彿させてくれる。68年前、多くの日本人が暮らし、日本人と台湾人の生活があった。そして北飛行場がこの宜蘭神社の前方にあり、拝殿に登れば飛行場全体が一望出来たのではと思う。デジカメ時間では員山公園30分弱の滞在だ。 -
宜蘭神社
-
員山公園
正面:宜蘭神社階段参道 -
これが作品とは???
国や民族が違えば、違う -
宜蘭神社“狛犬”健気に神社を今も守る
狛犬の開いた口、閉じた口
「阿・あ」は口を開いて最初に出す音
「吽・うん」は口を閉じて出す最後の音であり
それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す
「阿」「吽」はサンスクリット語
二つの文字がセットになって
宇宙の万物を象徴する・・・とのこと -
鳥居の色も形も変われども
本日われ宜蘭神社に来たり
この地の来るのは多分生涯一度
一度でも来れたことを喜ぶ -
宜蘭神社本殿跡に建つ忠烈祠
こうやって神社跡を忠烈祠としてくれるのはありがたい
瞼を閉じればここに宜蘭神社本殿が今もある -
宜蘭神社の展示が忠烈祠の周囲に多くあった
台湾の宜蘭だからこそこのような展示もしてくれる
宜蘭は民進党支持者が多い
“張○○さん”に支持政党を問うと
間髪居れず「民進党」だった -
忠烈祠の祠の床にこのようなガラス張り
宜蘭神社本殿の基礎?ではないかと思う -
このガラス張りの下に宜蘭神社本殿の基礎石・・が?
説明があったのかもだけど真相は分からない
私の推測でしかないが、多分そうだろうと
ありがたき、ありがたき、感謝す -
宜蘭神社の図
忠烈祠の中に多くの写真などの展示があった? -
この目の前に宜蘭北飛行場の滑走路があったはず
海軍陸軍航空隊の飛行機がこの空を乱舞していた -
忠烈祠は日本の靖国神社・護国神社に類する
戦死者を弔い、国に一朝有事あらば
我が身を賭して国を守る決意を誓う
国家の滅亡は家族の滅亡であり
国なくして誰にも幸はありえない
宜蘭神社
http://youtu.be/NxP1HaHmZ4g -
24°45'9.78N 121°43'58.72E
北飛行場滑走路脇、宜蘭河の東側傍にある
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■思源機堡(格納庫)
次は、北飛行場周辺に残る掩体壕跡へ。宜蘭河のそばにあった。この掩体壕も場所はどこなのか?良く分からなかったが写真で見ていた掩体壕だった。掩体壕の屋根上に竹製の飛行機が置かれている。思源機堡(格納庫)という名称で、思源は思源里という土地名。
車から降りて掩体壕に近づいた。ここは掩体壕入り口を赤レンガで壁にし、扉や窓を設けて内部を使っている。この時は誰もいなくて扉もあいにく閉まっており中に入れなったが窓から覗くと、内部に机と椅子が整然と並び今も使われているようだった。そして、近くにいた男性が「近くにもう一つ掩体壕がある」と案内してくれた。
その人に付いていったら、すぐ傍にあり「思源機堡福利社」との名前が表示されていた。前面が金属枠とガラス張りで内部が部屋になっていた。そこにも飛行機の形をしたオブジェのような机と、南屏國小と書かれた椅子があった。ここも内部には誰もいなく、扉も閉まって外から眺めるだけだったが、そんなに散らかっているわけでもなく今も使われているようだ。
この「思源里掩体壕」と「員山機堡」が北飛行場の両端に作られていたらしい。この男性に北飛行場のことを聞いたら、すぐ下を指差し「ここから飛行場の滑走路が延びていた」「ここだ。ここだ」と指差して示してくれた。この男性は日本にも数回来ているようで、東京・大阪・京都の地名を言いながら私に「日本の何処に住んでいる?」と質問され「大阪の西隣、兵庫県、神戸市の西側」というと神戸にも来たことがあるようだった。「神戸は日本語で何と言う?」と聞かれた。 -
来る前に写真で見ていた掩体壕上の竹製飛行機
あァ、こんなとこにこんな風にあったのか
いつものことながら「来て見た」からこそ分かる
やっぱり写真と現場で見るのは違う -
扉は閉まっていたが
内部は今も使われているのか?
机や椅子が並べられわりと綺麗だった -
思源機堡福利社・・・とは?
福利とは福祉のようだけど
この掩体壕もガラス張りにリフォームされ使われている?
常時人が出入りしている雰囲気ではなかった -
「近くにもう一つあるから・・・」と案内してくれた
“おっちゃん”曰く
「ここが北飛行場の滑走路だった」と教えてくれた -
中に飛行機型の格好良いテーブルがあった
椅子の背には「南屏國小」と書かれていた
掩体壕が活用されているのであれば嬉しい限りだ -
思源機堡の北側は塀で囲まれた軍の駐屯地がある
グーグルアースで見たら駐屯地は広大だ
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■宜蘭測候所宜蘭飛行場出張所跡へ
そして次は「宜蘭測候所宜蘭飛行場出張所」を目指す。思源機堡から台湾軍駐屯地の塀沿いを走ってすぐの所にある。その手前で“張○○さん”が停まってくれた。見れば待避壕が設けられたような戦時遺跡のようだったが、降りて眺めて写真は写したが今もそれが何なのか分からない。
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=GA09602000577&version=1&assetsClassifyId=1.2&menuId=302
そしてそこから1〜2分で写真で見ていた測候所があった。1945年8月15日までは確実にここで日本軍が気象観測等の仕事をしていた。沖縄を占領されたあと本土への米軍上陸に備えてここ台湾の陸海軍航空戦隊は、敵の根拠地沖縄への攻撃に備えて士気ますます旺盛で準備をしていたようだ。
2014年の今年から数えれば69年も前になる。その測候所の三階建ての細長い塔の外観は残っており、付属する建物は住居として使っているようだった。でも測候所の塔の内部はがらんどうになっており廃墟化していた。史跡として遺してくれるのだろうか? -
測候所に行くまでの道沿いに遺跡らしき物があった
正体不明だが軍事施設だったのは確かだろう -
フラッシュ撮影で内部を見たが
半地下壕のような空間があった
鉄筋の太さとコンクリートの厚みは凄い -
この場所からデジカメ時間2分後に測候所に到着
落ちたら危ないので金網で覆っている
この建築物が何か?は今もって不明 -
宜蘭測候所宜蘭飛行場出張所跡
1939(昭和14)年7月17日竣工
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=GA09602000577&version=1&assetsClassifyId=1.2&menuId=302
必死の特攻攻撃に応えるべく
昼夜気象観測をし続けた
観測員たちの戦いのドラマがここにあった -
庭に車や単車が数台や停まっていたが人の姿見ず
三層の風力測定の建物内は空洞になっている
敗戦後も観測所として使われ
1973年1月に観測終了、その後民宅とある -
惣菜屋さんでもあるし弁当販売もある
さすがタクシードライバー“張○○さん”
行きつけの人気の飯屋
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■「自助餐:便當」で昼食
そしてこのあと昼食タイムと言うことでタクシー運転手“張○○さん”が連れて行ってくれたのは、惣菜を選んで食べる「自助餐:便當(かんたん飯屋さん)」。店頭で持ち帰り弁当にもしてくれるし店内で食べることも出来る。店内で食べる時はスープは自分で入れて飲み放題。
スープも美味しく二杯飲んだ。タクシー包車といっても距離的にはそんなに遠くはないが歩いてこれだけ周ることは、とても無理。何せ場所も分からないまま行きたい場所が多くて、諦めた場所もあったが主なところはしっかり見れた。 -
これが私が盛り付けた昼食
味はみんな良かった
スープは飲み放題 -
中はこんな状態
次から次と客が入ってくる
ゆっくり食べれる雰囲気ではない
二人分で「¥110元≒¥380日本円」と安いし -
中山橋(旧:西郷橋)の東側に建つ西?廳憲?政碑
ちょうど西郷碑の周辺の改修工事中だった
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■西?廳憲?政碑へ行く
昼食後の最初は、戦争史跡ではなく日清戦争後日本が台湾割譲をうけて、この宜蘭の初代庁長として西郷菊次郎が着任し、この宜蘭発展の礎を作り、その功績を讃えて作られた「西?廳憲?政碑」に行った。宜蘭河の南側河川敷、西郷橋(現:中山橋)と呼ばれていた橋のほとりにその碑は立っていた。
しかし、今ちょうど碑の周辺を整備中で柵を作って立ち入り禁止状態だったが、ちょうど昼休み時間と言うこともあって作業員は休憩中だったので気安く中に入れてくれた。二段重ねの風変わりな形の碑は、上部が1905/明治38年最初に作られた「西?廳憲?政碑」で、下部が1923/大正12年10月建立の「西?之頌?碑」。場所も橋の西側にあったものが、1990/平成2年、今の場所に移設された。 -
西郷橋と橋の西側に建つ西?廳憲?政碑
宜蘭設治記念館の展示写真 -
珍しい二段重ねの西郷記念碑
上部が明治38年、下部が大正12年・・・か
高くしたのは何でやろ?下部は台だけ
低くくて見栄えが粗末だったのか? -
「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫(著)
宜蘭と西郷菊次郎のことをこの本で知った
西郷宜蘭廳長は宜蘭河の堤防築造
教育環境の整備等々この地の発展に尽くした -
堤防工事は1900/明治33年4月に着工
明治34年9月に完成した。一期工事
1897/明治30年5月27日菊次郎36歳の時宜蘭廳長に任官
1902/明治35年11月20日 辞職が認められる。在任5年半 -
宜蘭河は住民が恐れをなす河から
市民憩いの河となっている
河川敷はこのように整備され
この先の宜蘭河濱公園まで続く
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■「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫(著)
宜蘭と西郷菊次郎。最初宜蘭への旅の目的は、宜蘭からの特攻出撃に関してだった。しかし宜蘭といえば西郷菊次郎というくらいこの地に影響を与えた日本人がいることを知った。そして「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫(著)を読み、改めて明治維新からの日本の推移を学ぶことができた。その本を持って来たので、この碑に掲げて写真を写す。
西郷菊次郎物語を以下に記す。
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西郷菊次郎物語
「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫(著)より要約抜粋
菊次郎は1861年奄美大島でうまれた。父:西郷隆盛は薩摩藩下級武士でありながら藩主島津斉彬に抜擢され活躍の場を与えられていたが、斉彬死後藩主となった島津久光とはそりが合わず奄美大島に流された。そこで地元の名家の娘、愛加那(あいかな)と結婚し菊次郎が生まれる。その菊次郎9歳の時、母と別れて鹿児島へ。父、隆盛の再婚相手の糸が母親となる。
鹿児島で暮らす菊次郎は一歳下の大久保利通の二男、伸熊:牧野伸顕(のぶあき1949年没・満87)と竹馬の友になっていた。そして11歳になった菊次郎は1872年明治5年2月28日一回目の米国留学に旅立つ。横浜から出航し、24日目 サンフランシスコ到着。一年前から渡米していた竹馬の友、伸熊と再会する。
二年後1874/明治7年7月中旬、2年半の米国留学を終えて帰国、満13歳。帰国後は、明治6年すでに下野して鹿児島に戻っていた父:西郷隆盛たちが作った「私学校」で学んでいたが、16歳になる1877/明治10年2月西南戦争が始まり薩摩軍の一兵卒として参戦。熊本城の攻防で膝下に銃弾を受け切断手術を受け生涯義足を用いた。
4月14日 薩軍 全軍引揚げの命令下る。敗北の始まりとなり菊次郎は従卒熊吉とともに隆盛を追うが、やむなく官に降る。そこで叔父である西郷 従道(さいごう じゅうどう )に会い、50円のお金をもらって宮崎の病院で治療を受ける。その後退院し鹿児島に戻った。父:隆盛は9月24日城山で自刃。
西南戦争も西郷隆盛の死で終結したが、そのわずか八ヵ月後の1878/明治11年5月14日大久保利通は暗殺された。その翌年には琉球王国も終焉。琉球王国は1609年 薩摩藩の進攻を受けて支配下に入っていたが1609年まで一応独立王国として存在していた。そして石垣 与那国 奄美大島も琉球の支配下だった。
1880/明治13年2月下旬 菊次郎は奄美大島の母:愛加那のもとに帰郷する。11年ぶりの里帰りとなった。1881/明治14年2月下旬 菊次郎は島を離れて鹿児島に戻ったのち同年20歳の春に上京した。叔父:西郷従道の家に寄宿しながら明治15年「重野 安繹」のもとで直接:国学の講義を受けるようになる。
明治16年〜17年 鹿鳴館華やかし頃、大山巌の新しい嫁「大山 捨松」が明治4年12歳の時から11年間米国に留学し、日本語を忘れかけていので、そんな捨松が菊次郎に通訳を頼っていた。
そして23歳、1884/明治17年5月7日付けで外務省「御用係」として採用される。この年、明治17年12月10日西郷従道夫妻の長男 従理 米国留学中10歳で現地で死亡。従理は7歳にしてロシアに留学?している。そのロシアから米国ワシントンに移り腸チフスに感染して死亡。この当時維新の重鎮は、家族の留学等は自由に行えたのだろう。
従理の死の翌年、1885/明治18年菊次郎は外務省職員として再び渡米した。明治18年1月下旬 出発。米国滞在二年、1887/明治20年、外務省を辞職し留学生となる。国費留学¥1200円交付される。
明治22年明治憲法発布。1890/明治23年6月帰国。 新しい義足を作り、足の治療のためでもあった29歳になった菊次郎。
米国から帰国して7月郷里鹿児島に帰ったが。7月24日陸奥宗光からの通知により内閣出仕。明治24年5月大津でロシア皇太子傷害事件起きる。同年12月21日菊次郎は胃痛のために外務省辞職し鹿児島に帰郷した。
11歳で米国に留学し、その後、西南戦争で薩摩軍として政府に反旗を翻したものの叔父:西郷従道のお陰で、外務省に入省。再度の米国赴任から国費留学。帰国後も外務省に勤務したが再び辞職。政府の中枢を占める薩摩長州の威光の凄さの一端を感じる。そこそこ手前の都合で好き勝手してもいつでも要職の座は確保されている。
1893/明治26年1月 菊次郎32歳にして永吉久子と結婚。12月17日には長男「隆吉」が生まれた。翌1894/明治27年8月1日、日清戦争開戦。28年4月17日 日清戦争終結 遼東半島 三国干渉によって返還。台湾・澎湖諸島割譲
1895/明治28年、菊次郎34歳にして台湾総督府参事官心得を任じられる。8月末鹿児島から台湾への途中、奄美大島の母の所に立ち寄る。名瀬で15年ぶりの母との再会となった。明治28年9月上旬台湾に帰任。まだ治安は悪い状態のままの台湾であり、初代台湾総督となった樺山資紀が平定を言ったのは11月18日のことになる。
1896/明治29年元旦、芝山巌で六士先生惨殺される。菊次郎は明治29年4月2日付け台北県支庁長及び基隆支庁長に任命された。5月樺山総督が桂太郎と代わり、僅か四ヶ月で乃木希典と代わった。治安回復に明け暮れるだけで莫大な国費を消耗するのみであり、当時はフランスに1億円で売却話まで持ち上がった。そこで四代目総督として児玉源太郎総督 後藤新平 新渡戸稲造が就任した。
そして台北市の上下水道は明治時代に完備した。東京は昭和39年のオリンピックの年にやっと完備になった。菊次郎が宜蘭庁長に任命されたのは、児玉総督になる一年前の1897/明治30年5月27日36歳の時だった。菊次郎は軍人が治めることに無理があることに気付いていた。
後藤新平が民生長官になって大きく変化するのである。そして宜蘭廳長になった菊次郎は河川工事 農地拡大 道路整備 樟脳産業の発展 農産物の収穫増加に取り組み土匪の反乱を治めて住民の生活を安定させた。
就任当時一番頭を悩ませたのは土匪:統領 林火旺L?・nhu?・w?・ngリンフォウワン 300余名が暴れまくっていた。この集団の帰順 林火旺と直接会って半分私的な話し合いの中で総べての罪を許すかわりに帰順後は我々と共に宜蘭の発展に尽くすことで意見が一致した。この帰順式は 総督府より後藤長官 地元の憲兵隊長なども出席し盛大なものであったと台湾日日新聞が伝えている。
宜蘭河の堤防工事は1900/明治33年4月に着工。明治34年9月に完成した。一期工事である。長さは約1700メートル。総工費¥3万9千300円 当時としては巨費だった。最初は木造橋で西郷橋と呼ばれたが、今は中山橋となっている。
二期工事は西郷退官後 大正15年まで掛かって完成している。この後、洪水の災害で苦しむことはなかった。宜蘭は宜蘭県庁所在地。ここが米の重要な生産地になったのは「西郷堤防」のお陰である。「西郷庁憲徳政碑」が建立されており、そこから見る夕焼けは絶景なり。見上げれば雪山が遠く峰を連ね、手前の枕頭山は夕靄に包まれて静かに横たわっている。
ここはかっての「西堤晩眺」と呼ばれ、その絶景は多くの詩人の心弦に触れた。宜蘭古城の西門を出て、員山郷に通じる橋のたもとに大きな石碑が立っている。これが「西郷庁憲徳政碑」。もともと現在の位置にあったのではなく、中山橋西側の堤防にあった。1990年に新堤建築工事のため東側堤防に移された。
上座の碑文には明治38年と刻まれているが、台座には大正12年という字痕が残っている。両座に18年の時差があるのは、一体何故か?当時の住民の資金力はこれだけ造るのが精一杯で、それから18年かけてようやく完成したものと思われる。大正12年の竣工式には台湾総督府や各地方長官、庁下の各界並びに附近の住民 農民がはせ参じ盛大なものであったという。
1901/明治34年 宜蘭神社建立を立案。資金を募った。菊次郎帰国後の明治38年5月着工、9月完成した。台湾初めての神社建立であった。これが後に西郷神社と言われ、菊次郎がいかに原住民に慕われていたかがわかる。現在は圓山(まるやま)忠烈祠となっており宜蘭市が一望できる高台にある。
「宜蘭設治記念館」(旧庁長舎)菊次郎在任中に建設された。日本式木造建築は当時の日本人職人が建てた」といわれている。教育の普及 宜蘭公学校 羅東公学校は台北の各学校と同年に設立されている。菊次郎は鹿児島から昵懇の「桜川以智」という女性教師を呼び寄せ、そのまま幼児教育にあたらせた。桜川はその後、宜蘭で35年勤務した。菊次郎は鹿児島いる時から桜川夫妻と親しかった。
西南戦争の時に乃木連隊の軍旗を村田三介が倒れた少尉から軍旗を取り上げ、相良隊長の命で妻に預けた。しかしその後相良も村田も戦死し、官軍の軍旗が村田の妻:佐和の手元に残った。官軍は取り返そうとしたが佐和は当初頑として口を割らなかったが、長男:藤八の将来のためにと諭され官軍に返却した。軍旗紛失から11ヶ月後、明治11年1月24日のことだった。その村田藤八は、菊次郎に呼ばれて母親:佐和とともに宜蘭に移り住んだ。藤八は大正年間まで宜蘭で会計主任として勤務していた。
1902/明治35年、菊次郎41歳 初夏公務も兼ねて東京に戻る 叔父の従道が病に伏せっていた。6月末 鹿児島に帰省、妹、菊子のところも訪ねる。西郷従道 容態悪化し東京へ、7月18日早暁死亡 享年60歳 兄隆盛に敵対した西南戦争のため、望郷の念に駆られながら一度も鹿児島に戻ることなく死んだ。
二ヶ月ぶりに台湾に戻る。日本統治から七年が経過し台湾も落ち着いてきた。9月末一通の電報が届いた。奄美大島から母:愛加那の死を知らせる電報だった。8月27日畑での突然死だった。66歳。菊次郎は退官を決意し辞表を出す。認められたのは1902/明治35年11月20日 12月上旬別離の日、宜蘭各地より住民が駆けつけ別れを惜しんだ。
12月半ば 母の弔いに奄美大島に里帰りする。妹菊子が13歳で島を離れ、一度も母に会うことなく野辺の送りもこれない妹を不憫に思って心で詫びた。愛加那と西郷の生活は二年半だけだった。28歳で島を去る西郷を菊次郎4歳、菊草2歳と見送った。息子菊次郎は宜蘭庁長、京都市長になり、菊次郎の息子:隆秀は戦後拓殖大学の再興の基礎を作った。
1904/明治37年日露戦争勃発 2月10日宣戦布告。1905/明治38年京都市長に選任される。45歳(数え)京都の三大事業「第二疏水」「上下水道」「道路拡幅・電気軌道敷設(八ヵ年計画)」事業は何とか軌道に乗りつつあった
1909/明治42年 妹:菊子 病死。
菊次郎の京都の近代化への功績は極めて大きい。二期目の市長選で再選されたが、明治44年4月25日 吐血する。辞任の意思を固める。鹿児島に帰郷。1911/明治44年5月23日 京都市長を辞任し、鹿児島に帰ったのは6月上旬。10人の子宝に恵まれていた。時に51歳。
1912/明治45年7月 島津家鉱業館館長となる。武道館の建設 夜学校の開設 欧風文化の普及「テニス」「職員クラブ」鉄橋の架設 鉱滓流出の排除。8年間勤めて還暦を迎えての辞職となる。大正9年1月15日付け辞任。
「大山巌(叔父) 大正5年75歳没」「西郷寅太郎(異母弟) 大正8年没54歳」「大山捨松(大山巌妻) 大正8年 60歳没」「大正11年 糸(義母)没 享年80歳」「昭和3年10月25日 西郷清子(従道の妻)没」
清子の死から一ヶ月、11月26日菊次郎は肩の痛みを訴え、翌朝心臓麻痺のために死去。享年68歳。実母愛加那と同じ死因だった。
かくして西郷菊次郎の生涯は終わった。西南の役で父隆盛を失って以来、菊次郎の胸には父の面影が終生消えなかったものと思われる。敬天愛人という父の人生哲学を身をもって実践した菊次郎の生涯は、決して華やかとは言えないが、誠を貫いた生き方は接する人に幸福をもたらしたに違いない。何よりも価値ある人生であったと思われる。
以上。
宜蘭廳長:西郷菊次郎
http://youtu.be/-GcPWbYXyRo -
宜蘭市の北。南側河川敷に東西に広がる公園
運動に散歩に休息に、市民にはなくてはならない憩いの場
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■宜蘭河濱公園
この日の宜蘭河は水の流れも静かで水量も多くなく、河川敷は芝生公園のように一面緑に覆われ心安らぐ風景が広がっていた。そして今整備中の碑の周辺も、もうすぐ美しくなって披露される。もうここに来ることはないと思うけど写真を見ればいつでも全体の風景を思い出すことは出来る。それは実際に現地に来なければ分からない。
宜蘭河は、今は住民が恐れをなす河ではなく宜蘭の象徴でもあり故郷の美しい風景として宜蘭市民の心を癒している。西郷碑から宜蘭市街北側になる「宜蘭河濱公園」に行った。河川敷をグランドとして整備し、バスケットコートが主のようであるが、サッカーグランドもあった。
そして河原にはコスモスが一面に花を咲かせ美しい。飛行場跡、掩体壕、宜蘭神社跡を巡って気合が入ってたが、宜蘭河の河原でコスモスの花の絨毯に気持ちも和らいだ。 -
宜蘭河河川敷:2月のコスモス草原
日本統治時代
宜蘭はどんな町だったのだろうか・・・ -
蘭陽女子高級中学校(高校)
日本時代、蘭陽高等女学校
中野ユキエ先生と特攻隊員の交流はこの学校ではなく
宜蘭公園傍南にあった宜蘭尋常小学校だったと思う
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■蘭陽女子高級中学校・昭應宮・宜蘭酒厰へ
そこから蘭陽女子高級中学校へ行った。ここは日本時代、蘭陽高等女学校(宜蘭高等女学校)だった。ちょうど位置的に忠霊塔のある旧宜蘭公園と宜蘭南飛行場の中間くらいにある。
http://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E5%9C%8B%E7%AB%8B%E8%98%AD%E9%99%BD%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%B4%9A%E4%B8%AD%E5%AD%B8
海軍航空特攻の下士官搭乗員たちと中野ユキエ先生との交流があり、中野先生がそのことを日記に記されている。その「中野先生戦中日記」に「宜蘭高等女学校の中野ユキヱ先生」との紹介が書かれていたので、この学校が特攻隊員たちとの交流の場だろうと当初思っていたが、ここではなく中野先生がいたのは公園傍の学校だと思う。
http://senri.warbirds.jp/10kaiko/06nakano/index.html
蘭陽女子高級中学校は校舎も立派で大きかった。校門の守衛に中に入りたいと言ったが、「授業中なので無理だ」と言われた。校門は潜らせてくれたが、内部に入ることは出来ず。あまりに立派な校舎に当時の高等女学校の雰囲気を感じることは出来ず。でも学校の場所は昔と変わっていないようだ。
学校を出て次は「昭應宮」に行った。ガイドブックにも紹介されていて日本統治時代にもあった廟ということで見に行った。小さな廟で雰囲気はどことも同じ。色鮮やか絢爛豪華、台湾に来ていることを実感する。
まだまだ巡る場所はあり忙しい。次は宜蘭酒厰へ。ここも百年以上の歴史があり日本時代に 作られたということだけで行った。その時は台湾総督府直営の酒造工場だったようだ。
今は、お酒の博物館、テーマパークのような感じで、内部は展示館、レストランや土産物店がある。現在も残っている行政大樓は1928/昭和3年に落成された建物で、「台湾総督府専売局宜蘭出張所」という名前だった。 -
1808年に建立だから
日本時代もここにあった
日本人はこの宮に参っていたのだろうか? -
「宜蘭酒厰」
http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200812/yilan-liquor.html
日本時代に開業した酒造工場
酒造りの博物館:販売から展示まで
お酒のテーマパーク
住所:宜蘭市舊城西路三號 -
「行政大樓」は1928/昭和3年に落成された建物
「台湾総督府専売局宜蘭出張所」
宜蘭酒厰の敷地内にある -
「舊宜蘭監獄署」 を見れば分かるが、この建物は
監獄の正門入ってすぐにある監獄事務所
犯罪史をひもとけば時代背景が分かる
宜蘭での凶悪犯罪はどうだったのか?
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■「南門林園歴史空間」
次は宜蘭監獄跡。といっても何でこれが監獄?と思ったが帰国後「宜蘭縣政府文化局」制作の「舊宜蘭監獄署」 を見て納得。これは監獄の玄関正面にあった事務所。この事務所を正面に左右奥行き広くここに監獄があった。最大受刑者は200余人が収容されていた。今はこの事務所だけが残りレストランとして使われている。
http://ylhm.e-land.gov.tw:8080/cca100051-ar-3_0015.jsp
そして「宜蘭設治記念館」に行った。まだ包車時間の午後2時の30分前くらいだったが、ここで“張○○さん”と別れた。朝の8時から午後1時半まで、途中30分ほどの昼食休憩はしたけど5時間ほどで多くの箇所を回った。あとは歩いて行ける範囲なので十分満足だった。
http://memorial.e-land.gov.tw/releaseRedirect.do?unitID=130&pageID=10211
宜蘭設治紀念館は西郷菊次郎が宜蘭廳長の1900年に建てられた廳長官舎。ネットなどの説明で宜蘭設治記念館は1906年創建なっているものも多いが、菊次郎が宜蘭廳長の時に建立されたもので菊次郎の宜蘭廳長は1897/明治30年5月に任じられ、1902/明治35年11月免官となっている。
そしてここには傍に1906/明治39年に建てられた「宜蘭廳庶務課長官舍」があり、同じ1906年乙等官舍として建てられ1926年(大正15年・昭和元年)宜蘭農林学校が設立され「蘭農林學校校長官舍」となった三つの日本建築が修復保存されている。そして宜蘭監獄跡を含めてこの周辺が「南門林園歴史空間」となっているようだ。
宜蘭廳庶務課長官舍は外から写真を撮っただけ。廳長官舎は入場料¥30元。そこでもらったパンフレットには正しく1900年建立と書かれている。宜蘭設治記念館内部は写真の展示も多く、菊次郎たちが土匪との談判の様子を撮影した写真もあった。その他、西?廳憲?政碑が橋の西側に建っている写真等々、やはり菊次郎関係の資料が多く展示されていた。この官舎に菊次郎が暮らしたのは二年足らずだろうが、36歳〜41歳の働き盛り、宜蘭の廳長として思う存分成すべきことをなしたという思いはあったろう。
こうやって台湾の日本人の足跡を追っていると、抗日の騒乱も収まり日本統治が本格的に機能し始めてから台湾全土において、急速に発展していった様子が目に浮かぶ。堤防作りから農業の発展、殖産興業、教育制度の著しい進捗。台湾での国造りに貢献した日本人、そしてそれを目を丸くしながら見守り手伝った台湾人たちの生き生きした毎日の生活ぶりが想像できる。日々躍進・・・か、生きていることの素晴らしさを実感していただろう。
宜蘭文学館に入ったら何か講演会のようなことをしていた。そこに入って行こうとしたら何故か良く分からないが止められた。まあ別段見ることもなく、外に出て宜蘭公園(現:中山公園)を目指す。宜蘭公園の忠霊塔。菊次郎時代から一気に時代は進み昭和20年日本統治終焉の時のことになる。 -
宜蘭廳庶務課長官舍
1906/明治39年に建てられた
西郷菊次郎がこの地を去って四年後に建立 -
宜蘭設治記念館:1900年建立
西郷菊次郎赴任三年後に建ち
1902年離任するまでの日々を
この廳長官舎で過ごしたのだろう -
襖と障子、紙と木の日本建築は
プライバシーについては
昔の日本人はどんな感覚だったのか?
襖で隔てていてもどうも落ち着けない -
林火旺、林少花以下 土匪700名の帰順式
明治31年(1898年)7月28日、後藤新平民生長官は宜蘭に入り
土匪との話し合いによって帰順式をあげ良民化した
しかし林火旺はその後再び反旗を翻し
1900/明治33年3月31日死刑に処せられる -
西郷菊次郎
西郷隆盛の長子、母親、愛加那
1861年2月11日(万延2年1月2日) - 1928年(昭和3年)11月27日)
享年67歳 -
1929/昭和4年 宜蘭市街地図
大きな写真
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/yilan/yilan.html#a
地図を見ればここが日本だったことが分かる
台湾名と日本名が混在した宜蘭市街地図 -
庭から宜蘭設治記念館を写す
http://memorial.e-land.gov.tw/releaseRedirect.do?unitID=130&pageID=10211 -
宜蘭文学館
1906年乙等官舎
1926年から農林学校校長官舎
2004年修理、現在は宜蘭文学館
http://www.ilccb.gov.tw/ch/about-detail.php?menuid=114 -
次は宜蘭へ行こう、そして忠霊塔の場所を確認したい
そう思ってここに来た。そしてその思いが適った瞬間だ
「あれが忠霊塔だ」と、すぐに分かった
何度も写真で見ていたが、やはり写真と実際は違う
あァ、こんなとこにこんな風に忠霊塔があるのか・・・と
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■宜蘭公園「現:中山(孫文)公園」へ行く
設治記念館から歩いて20分足らずで公園に着いた。そして写真で見ていた補修された忠霊塔が一番先に目に入った。
この前に海軍特攻隊員が集合し、出撃前の壮行会が行われた場所だ。その時の様子が中野ユキエ先生の日記に書かれている。この公園南にあった当時の宜蘭小学校が第205航空隊の指揮所だったと思う。だからこの公園で壮行会が行われたのだろう。 -
忠霊塔は1935/昭和10年台湾軍司令官:柳川平助中将揮毫
「松尾大尉他13名の日本人将校の遺骨が埋葬されています」
と書かれているようだが詳細は不明
石碑背面に昭和十一年八月 第二中隊長 梅村大尉の名前が刻まれている。 -
破損前の忠霊塔
昭和20年5月9日、「今日出るよ」と出撃が決まり
この忠霊塔の前で集合して壮行会に出席した
ここから搭乗員はトラックに乗り飛行場へ -
中野先生戦中日記
「蒼空の果てに」より抜粋
http://senri.warbirds.jp/10kaiko/06nakano/index.html
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五月九日
午前中飛行訓練。ブンブンと爆音勇しく何か頼もしい気がする。難波江さんは一人残されている。机の前でお守り袋を紅絹で作る。警報が出ると生徒は帰してしまうし呑気なものだ。黒岩さんの分なり。黒岩さんと鳥居さん訓練終了後(十一時頃だったか)みえて色々話される。主として鳥居さん。
顔を見るなり難波江さんが、「先生嘘つきだね、矢張り体操の先生だってね。ダンスして見せてよ、僕少し出来るんだよ」と怒られる。次々と顔をみる人毎に、先生の嘘つき嘘つきって言われるけど、決して悪気があつて言ったのではないし、ニヤニヤしてた。
昨夜西山旅館で、気分をこはしたといふ話やら(柴田さんと森本さんだったと思う、碁を打ってゝ碁盤をとりかえに来られたことだったろう)礁渓の山田さんの所へ行った話やら、机の前に一ぱいでわいわい賑やかな事。廊下を通る士官連中が、チラッチラッと横目で見て通られる。お守り袋を作っているのをみて難波江さんが、「僕にも作って」っておつしゃつたけど、「本職の長岡先生(手芸の先生ですものね)に作ってお貰いなさいよ」って返事をしたので、一寸ムッとした表情をされる。
黒岩さんと鳥居さんはずっと側につきっきりで色んな話をされる。地図をかいて、今晩家へ来ていたゞく約束したり、予科練の時の話やら、鳥居さんは盛んに三々九度の盃事の真似をされたりするのを、お守り袋を作りながらお相手する。「体操の先生でもお裁縫をするの」って言われた様に思ふ。昼食後(十一時半頃だったか)又来られて話をしたが、黒岩さんが「忠誠隊の連中が歩いてる、何処へ行くのかな」ってたずねに走って行かれたが、「集合々々」って南入口から鳥居さんを呼ばれたので、あわてゝ荷物を片附けて二人して走って行かれる。
何か訓示があるとの事であったので、その積りでいた所がすぐに黒岩さんが帰って来て、「先生、今日出るよ」って言われるので、ポカーンとしてしまう。しかも難波江さんもその後席の鳥居さんもとの事で、急に胸がどきどきして、お守り袋を仕上げるのに何度針をさしたことか。
温泉療養を頼もうか等と話しておられた難波江さん(胸が悪くなりかけていたとか。本当にそんな感じの深いキャシャな人でした)だったのに。やっとお守り袋が間に合って落下傘の紐の白いのをつけ、背中の方へ下げる様にしたので目立つこと、でも喜んでつけて下さる。
黒岩さんのはやっと間に合ったけど、鳥居さんのも難波江さんのも間に合はず何もしてあげられない。黒岩さんが、「先生此の時計ね、壊れてるけど持って征っても役に立たないから、自分の時計の方が正確だから之を置いていくからね、修繕出来たら修繕して使ってね。形見!」と天文時計を置いていかれる。鳥居さんも予科練のマークやらマッチの外殻やらを形見にと置いていかれる。あわたゞしい出撃準備よ。
二人共、先生がここにいるとわかってたら遺品を持って来るんだったけどと、残念がって下さる。写真一枚ないのだもの。公園の忠霊塔の前に集合する前に走って来られて、「後で通知しておいて」と黒岩さんが住所を書き遺される。その後から鳥居さんも走って来られて、「永いこと便りをしてないから、知らせておいてね」と書き遺され走って集合場所へ。天幕の中で壮行式をしておられるのを見る。
お送り出来るのもここまでと思ってたら、 飛行場まで行ってもよろしいとの事で大喜び。(向陽校の先生も大勢)生まれて初めての、喜んでよいのか悪いのか、何とも言へない経験をすることが出来た。黒岩さんと鳥居さんについて歩いたもので、長岡先生は難波江さんと並んで歩いてましたので、五人かたまった様なものでした。黒岩さん達の乗るトラックに私も便乗しようとして、黒岩さんに手を引張って貰ひ、タイヤを踏んで乗ろうとしたら後ろの方で、「見送りの者は後のトラック」と声がしたけれど身軽いものでつい乗ってしまってたら、「何だ、もう乗ってしまったか」と又言ってるのが聞こえる。
胸がどきどきするので、「誰?」ってたづねたら、それが玉井司令との事。「下りようかしら」って言ったけど黒岩さんが、「かまわんかまわん」って言って下さる ので、心臓強くそのまゝいる。(長岡先生は運転台に乗られたと思っています)昨日から皆して盛んに口真似をしているのは此の人の事かと、そーっと顔を見る。感じの 悪い人だ確かに。(士官連中がズラーッと並んでいるので、見送りはこゝまでかと思ってたら、後で飛行場に来て居られた)
トラックが動き出すと搭乗員の方がサーッと敬礼され身が引き緊まる。はげしく揺れるので蹲んではいたけど、ずーっと黒岩さんのズボンにつかまったきり。飛行場に着いてから向陽の先生方は土手の方へ行ってしまわれた。何だか勝手がわからず場ちがいな気がして落着かないけれども、黒岩さんと鳥居さんはずっと側にいて下さるし外の皆様も何かと気をつかって下さるので安心。腰掛を持って来て下さったり、鳥居さんはよく気がつかれる。
市長からとかって、餅菓子を何回も山ほど持って来てくれては皆して、「食べなさいよ」とか、「先生持って帰ったらいゝよ」とかって渡されるけど、士官連中は天幕の中からじろじろ見てられるし気兼なことだ。でも皆して取巻いてる形なので落着いておられる。ワイワイと賑やか。之が出撃する人達か。かえらぬ出撃をする人達かと見直す様な空気だ。恩賜の煙草と落雁をいたゞく。煙草は機上ではもう喫えないからって、喫っておられる。
黒岩さんからは鉛筆一本と落雁。鳥居さんからは落雁。他にも下さった方はおられるけど名前がはっきりしない。携帯食糧はいなりずし。鳥居さんは、「持って行くのは面倒だ」と包みを開いて食べておられる。「先生、食べなさいよ」って渡されるけど喉に通らず。
黒岩さんは一包をだまって膝の上においていかれる。鳥居さんは相変わらずズックの鞄を開けたり閉めたりして、之もいらんあれもいらんと置いていかれる、何かと話しては笑わせる。御自分ぢやあ笑わないでいて。落着いてゝ別に喋りもせず、「十八で死ぬのか、怖いなあ」って一人言を言ってた黒岩さん。何もして上げられず残念だ。思ったらすぐ実行すること。之を今度も身に沁みて感ずる。実行! 実行!「お守り袋の位置をみて」と私に直させた黒岩さん。此の時だけは甘えてるなあと感じた黒岩さん。
忠霊塔の横で忠誠隊員の中に中野って同姓の人がいることをチラッと見たが、この人が控え席にいる時ツカツカ来られて、長岡先生に注目しながら、「先生、はちまきを持ちませんので、すみませんがその旗を下さいませんか」っておっしゃる。(一尺位の小旗で布製)小旗故しめられるかしらと長岡先生と案じたが、私のが少しきれいなので、竿から外して折りたゝんで差上げたら、「有難うございました」って持って行かれたが、又帰って来られて、「自分は後からですので、先きの者を送ってから下さい」と返して来られる。
専攻科生が四、五名送って来てゝトラックの陰にかくれているのに餅菓子を持って行って下さったのは、森本さんだったっけ?天文時計をいぢってる私を、「先生、それ兵器だから見付かったら駄目だよ」って心配して下さった鳥居さんの表情が忘れられない。
第一陣 三時半 [筆者解説・日記は空白だが、第一陣は大義隊の爆装零戦七機が出撃]
第二陣 四時 九六式 忠誠隊
一番機、久保中尉 後藤さん 二番機、中野さん 三番機、境さん
第三陣 四時半 九九式 振天隊
一番機、元山中尉 黒岩さん(満17歳) 二番機、難波江さん 鳥居さん(17歳)
第一陣を送る時掲揚台の旗の動きをよくみておく。皆さんと一緒に整列してお見送りする。それがすんでから、第二陣で出撃の中野さんに、はちまきをして差上げる。「成功を祈ります」と皆がみている中で何か赤くなる思いをする。きつくしめないと足りないので、痛くないかしらと心配したっけ。キチッと敬礼される。
「有難うございました。征ってまいります」とおっしゃったっけ。(征きます、征ってまいります、で随分議論されたのを記憶しています)二枚翼九六で出撃、じっと立って見送ってる私のそばで森本さんが、「あゝ、境が征ってしまった。先生、境とはね、ずっと一緒で寝るも起きるも離れたことがなかったんだよ」って感無量な語調でおっしゃる。さもありなん。九六式をみて、今時こんな機があるのかしらと驚いたのだ。特攻機とは?
一時一寸過ぎに飛行場について、第三陣出撃まで相当時間に余裕があったけど。愈々第三陣の出撃時刻が迫り、司令の前に整列。訓示を受けてトラックに便乗して乗機の方へ行かれる。出動準備の旗が掲揚されると乗機を発進線まで操縦して来られ、Z旗に代わると共に滑走を始める。一番機元山中尉機の後席で、両手を振って征かれた黒岩さん!
難波江機の後席で、正しくサーッと敬礼して征かれた鳥居さん! 真白な手袋、印象も鮮やかな、Z旗を仰ぎつゝ滑走に移る気持如何?
真赤なお守り袋を背に可愛かった黒岩さん。難波江さんから最後まで、「先生、一度ダンスをしてみせてよ」って言われたけどそれもきかず、お守り袋を作ってと言われたこともきかず、すまなかったと思う。長岡先生が、一生懸命面倒みて上げてることに対する気兼ね! その説明は出来ず、鳥居さんにも何もして上げられず。
沖縄慶良間列島方面。諸々の感慨胸に溢れ、小さく小さくなりゆく機影を見送る。 あの特攻隊の歌。(曲が思い出せず残念です)
送るも征くも今生の 別れと知れどほゝ笑みて
爆音高く基地をける あゝ神鷲の肉弾行
胸の中でくり返し繰り返し文字を羅列する。何と表現すべきか。ひどくゆすぶられた後の様な力脱けしを感じ、飛行場からの帰途(歩いて帰ったと思います)涙とめどもなし。今生の別れ! ほゝ笑みて! ぐるぐるまわっている此の文字よ、この空気よ思い胸にあふれて文字とならず哉。七時から七時半までの間との事、何をするのも物憂い。静かな家 の空気、しみじみ誰かと話して追想してみたい。
以上。
宜蘭 中野先生戦中日記
http://youtu.be/jbVipTddabA -
赤丸内にそれぞれがある
『「台湾の声」【台湾宜蘭飛行場にて】特攻隊員さん達との思い出』
http://taiwannokoe.blogspot.jp/2007/10/blog-post_09.html
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その忠霊塔の前に私は来た。今は何の変哲も無い普通の公園にしか見えないが、私は69年前の風景を頭の中に浮かべようと日記の文言を思い出していた。その時確かにこの忠霊塔の前で集合し、壮行会が行われ、ここからトラックに乗って飛行場に向かった。5月9日の朝、訓練の後、学校で中野先生とたわいのない話をしていた彼らが突然出撃の命を受けた。
「先生、今日出るよ」・・・か。覚悟は決めていたのだろうがその胸中今の自分には想像も付かない。あまりにも戦争とは対局の平和な時代をすごし、綺麗事以外は「悪」であるかのような日本で生きてきた。命を賭しての自己犠牲など言葉では分かるが、それ以上はどうしようもない。幾ら自分に置き換えよとしても乖離があり過ぎる。そんなことは無駄だから考えるのをやめる。
ただただ彼らを誇りに思う。今も未来も日本人の精神を支え、国を支え続けてくれる。そして彼らの行為は、今も未来もこの日本を他国からの攻撃を防ぐ絶大なる抑止力になり続ける。「先生、今日出るよ」と彼らは飛び立った。それは特別な一人ではない。特別な十人でもない。百人でも千人でもない。もっともっと多くの普通の少年青年が国を守り家族を守るために自らの命を犠牲にして敵陣に突っ込んだ。そんな日本人がいたことに感謝と尊崇の念しかない。
この中野ユキエ先生の日記に書かれている文言から、「中野先生と特攻隊員との学校内での交流」「忠霊塔(宜蘭公園)と学校」そして特攻隊員たちが命令を受領した「第二〇五海軍航空隊司令部・指揮所」との関係に頭を悩ませていた。「学校」と「忠霊塔」と「指揮所」が日記の文章を読めばどう考えてもこれらが近くないと成り立たない。宜蘭公園(中山公園)と蘭陽高等女学校は歩いて15分は掛かる。
中野ユキエ先生は宜蘭高等女学校の先生とあるが、日本時代も宜蘭高等女学校という校名は見当たらず「臺北州立蘭陽高等女子學校」となっている。
http://www.lygsh.ilc.edu.tw/學校簡介/index.htm
ただ日本のウィキペディアで「台北州」の中等教育機関の中に「台北州立宜蘭高等女学校(現 国立蘭陽女子高級中学)」との紹介がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%8C%97%E5%B7%9E
その他は日本統治時代も蘭陽高等女学校であり日本時代の校歌も「作詞:野口雨情 作曲:岩崎松五郎」「蘭陽高等女学校校歌」となっている。
http://www.geocities.jp/abm168/KOUKA/ranyokojo.html
そして公園傍の「現:宜蘭國民小學」は1918/大正7年創立、校名「宜蘭女子公学校」→1920/大正9年「台北州宜蘭郡女子公學校」→1930/昭和5年「宜蘭女子國語(日語)講習所」→1940/昭和15年「台北州宜蘭市女子公學校」→1941/昭和16年3月25日「台北州宜蘭市向陽國民學校」とある。
http://content.edu.tw/wiki/index.php/%E5%AE%9C%E8%98%AD%E5%9C%8B%E5%B0%8F
205航空隊指揮所は角田和男(著)「修羅の翼」のなかに昭和20年5月4日(金)特攻直掩として飛行場に戻ったあと「急ぎ迎えの車に乗り換えて市内の小学校にある指揮所かけつけた。」との記述がある。
http://akasids.web.fc2.com/ryokou/yilan/yilan.html#e
これらのことから私の推測だが、中野日記に「飛行場に着いてから向陽の先生方は土手の方へ行ってしまわれた。」とあるので中野先生は向陽の先生ではないだろう。中野先生が勤務する学校は「公園南にあった小学校」で、その学校の一画を第205海軍航空隊司令部が間借りしていたのではと思う。
この公園南にあった小学校は当時「宜蘭尋常小学校」で、現在はこの場所に学校はなく日本の敗戦後、場所と名称を変え「光復國民小學」になっている。
http://blog.ilc.edu.tw/blog/blog/694
光復國民小學の校史沿革には『民國27年4月 台北州蘭陽高等女學校借本校校舍上課。』とある。蘭陽女学校が1938/昭和 13年から小学校の校舎を借りて授業を行っていたようだ。それで中野先生はこの公園南にあった学校内にいたのだろう。私なりにやっと納得できた。 -
この地図に、宜蘭北飛行場が描かれている
(宜蘭神社:現在、員山公園東隣)
宜蘭公園傍に宜蘭小学校:宜蘭女子公学校がある
このどちらかに指揮所があり、中野ユキエ先生もいたはずだ
2014/H26.5.22.追記 -
海軍通信所跡
特攻隊からの突入時の無線も受信していたのだろう
公園内に通信所があり公園南向かいの学校内に指揮所(司令部)
特攻要員の搭乗員たち、そして指揮所要員、角田和男中尉も
その他、多くの陸海軍兵士がこの辺りを行き来していたはず
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■宜蘭公園(現:中山公園)内に「忠霊塔:海軍通信所跡:獻馘碑」がある
この宜蘭では、日本統治が始まり西郷菊次郎の宜蘭廳長としての功績もそうだが、昭和19年10月の台湾沖航空戦から終戦まで日本人が知るべき多くの物語が凝縮している。幾ら知ろうとしても次から次であり、とてもおぼつかない。でもこの旅を機に宜蘭で何があったのか少しは分かった。それだけでも私にとって十分価値がある。来なければ調べないし、この旅行記を作らなければ知らないままのことだらけだ。
では「知ってどうなる」と問われれば、私の答えは「知らないより知っているほうが面白い」。そんな答えは不遜だと言われても卑下でも謙遜でもなく私自身そんなもんだ。私の子孫の誰かがこれを見て、百年後二百年後にでも、またこの宜蘭を訪れることあれば万々歳だ!ハハハ。
忠霊塔は1935/昭和10年、台湾軍司令官になった柳川平助中将が揮毫している。説明には「1936/昭和11年軍施設より移設。もとは鳥居や石塔・参道があり松尾大尉他13名の日本人将校の遺骨が埋葬されています」と書かれているようだが詳細は良く分からない。石碑背面に昭和十一年八月 第二中隊長 梅村大尉の名前が刻まれている。
この傍に海軍通信所跡がある。半地下壕で公園内にこんな物かと思うくらいの小さな物だが少々の爆撃でも破壊されない頑丈な作りになっている。外部は土で覆われ木や草が茂りカモフラージュされていたようだ。この通信所で宜蘭から出撃した特攻隊直掩機からの戦果報告を固唾を呑んで待っていたのだろう。
そしてこの中山公園(宜蘭公園)には1911/明治44年に建立された『首塚:獻馘碑(シエングオベイ Xiàn guó bēi)』もある。日本統治による理蕃政策(原住民対策)の一貫として1909年タイヤル族の首狩の慣習をやめさせ235の頭蓋骨と武器を納め紀念碑とした。
http://www.boch.gov.tw/boch/frontsite/cultureassets/caseBasicInfoAction.do?method=doViewCaseBasicInfo&caseId=GA09602001074&version=1&assetsClassifyId=1.1
「忠霊塔」「獻馘碑」「海軍通信所跡」と台湾割譲(1895/明治28年4月17日)後の日本時代の遺跡が三角に並んでいる。そして道を隔てて宜蘭國民小學がある。この宜蘭も初代廳長:西郷菊次郎によって発展の礎を築き、宜蘭市民も以後半世紀日本人として生きていた。そして昭和20年、その頃のこの公園の姿はどうであったのだろう。
忠霊塔の場所は今のままなのか?鳥居と石塔の絵はあるが写真は見つからない。公園全体の写真もない。通信所跡と獻馘碑の位置はこのままだと思うので、まあこんな感じだったのだろう。ここで天幕が張られ特攻隊の壮行会もあり、この場所での別れもあった。そしてここから搭乗員や一部見送りの人はトラックに乗って飛行場に向かった。
その飛行場は南だったのか?西だったのか?北だったのか?定かではないが、管制塔が残っているのは南。いずれにせよここで二十歳に満たない若き陸海軍少年航空兵が沖縄の敵艦隊目指して飛んでいったのは事実だ。遺品を中野先生に託し、もらった落雁(らくがん)を皆に配り、煙草を吸い飛行場までのひと時を過ごした公園だ。学校内に指揮所があり、そのそばにこの公園がある。
私はもう一度ここから蘭陽高等女学校を経由して南飛行場に向かって歩いた。帰国するまで今の中野先生がいたのは蘭陽高等女学校だと思っていた。でも今は違う。どう考えても、中野先生がいたのは公園南にあった宜蘭尋常小学校であったと思っている。そこに指揮所もあったはずだ。だがこれは、あくまでも私の推測である。 -
半地下壕の堅固な作り
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海軍通信所跡内部のコンクリート壁は今も綺麗
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獻馘碑(シエングオベイ Xiàn guó bēi)
台湾土着民に昔首狩りの風習あり
235の頭蓋骨と武器を納めた紀念碑 -
宜蘭國民小學
http://www1.ilc.edu.tw/main/index.aspx?siteid=138
宜蘭國小校史
http://www1.ilc.edu.tw/main/page_view.aspx?siteid=138&ver=&usid=&mnuid=3271&modid=701&mode=
1918/大正7年創立、校名「宜蘭女子公学校」
1920/大正9年「台北州宜蘭郡女子公學校」
1930/昭和5年「宜蘭女子國語(日語)講習所」
1940/昭和15年「台北州宜蘭市女子公學校」
1941/昭和16年3月25日「台北州宜蘭市向陽國民學校」とある。
?この学校が中野日記の「向陽の先生」の学校だったはず
そして公園南の宜蘭尋常小学校は、現在場所と名称を変えて
光復國民小學となっている
http://nas.kfps.ilc.edu.tw/KHS/ -
中山國民小學
http://classweb.jses.ilc.edu.tw/scweb/index.asp
学校沿革 ?
http://classweb.jses.ilc.edu.tw/scweb/box/history.asp
日本時代の1943/昭和18年3月30日:宜蘭市旭青年學校だった。 -
中山公園(宜蘭公園)北門
背中方向に宜蘭駅がある -
大份(?Dà fèn ダァフェン)30元12個
小份?(Xiǎo fèn シャオフェン)20元8個
小份とジュースを買って食べる、うまかった
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■歩いて宜蘭南飛行場跡を目指す
公園出発は午後3時、すぐ傍に屋台でカステラを焼いている店があり、焼きたて熱々を買って(8個20元)食べながら蘭陽高女を目指して歩く。中山路二段を南に一直線、途中セブンイレブンを右折すれば蘭陽女学校だと教えてもらう。公園から20分ほどで女学校に到着。そこから飛行場を目指す。中山路二段を歩いて宜蘭運動公園に到着はデジカメ時間36分ほど掛かっていた。
歩き疲れるのも無理はない。そうでなくても朝からタクシー移動とはいえ目の回るようなペースで歩き回り見て周りだから。そして運動公園を横切り南飛行場の管制塔をはっきりと視認したのは午後3時50分。隣に立つモニュメントのようなタワーが目印になる。この建物の正体はいまだ分からず。グーグルアースにもはっきり姿は確認出来るが正体不明。
歩いて片道50分・・・か。「まあこれなら明日も歩いて来れる」と明日への予行演習を終了し、管制塔の傍には行かず帰路につく。途中宜蘭運動公園内に蒸気機関車「CT284」の展示があった。保存程度も良いし運転席にも自由に入れる。『CT284は国鉄形蒸気機関車として最後に製造されたもので、昭和28年(1953年)7月に日立製作所で完成し、台湾に送られました』とある。
「へぇ〜終戦後昭和28年、日本で最後に製造されて台湾に送られた機関車だったのか・・・」私は昭和25年生まれ、三歳年少のくせに最早現役を退きこうやって公園で座している。俺は未だ現役で働き小金を稼ぎこうやって宜蘭に遊びに来ているというのに、鉄より強い人間かな。人間という生き物は心臓を含め身体は神秘・驚異としかいいようがない。ホンマ。 -
中山路二段を真っ直ぐ南に歩く
搭乗員は宜蘭公園からトラックでこの道を飛行場に向かっただろう
昭和20年5月9日昼下がり、中野先生もトラックに便乗して飛行場に行った
トラックに同乗する17歳の少年航空兵たちが、そのすぐあと飛び立って行った -
宜蘭運動公園の一部は宜蘭西飛行場だったようだ
ここまで来れば管制塔跡(八角亭)はすぐ -
八階建てなのか?気になる形の気になる建物
写真ではその左横に管制塔が見える
この建物が何なのか?未だ分からず
宜蘭公園から蘭陽高女経由でここまで歩いて50分ほど
明日ここに歩いて来るための予行演習はここで終了 -
宜蘭運動公園に展示「CT284」
国鉄形蒸気機関車として最後に製造され
「1953/昭和28年、日立製作所で完成、台湾に送られた」とある
終戦8年後の台湾の様子はどのような感じだったのだろう
日本語を街中で話すことが出来たのだろうか? -
初めて蒸気機関車の運転席に座った
こんな感じで前が見れる、右半分は見れないなあ
右側に行けば左が見れない -
鉄の森林公園
天井から蒸気機関車模型がぶら下がっている
なかなかユニークでアベックの撮影スポットのようだ
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■宜蘭公園から宜蘭駅前へ
帰路は40分で中山公園に戻った。また忠霊塔の前に佇み、公園を横切って宜蘭駅へと向かう。この宜蘭駅は昨日の到着時は夜11時前だったので駅の様子は今一分からなかった。何かイベント中なのか駅舎前面がペイントされキリンの半身象が見下ろしていた。私が降りたのは宜蘭駅西出口だが東出口に出れば駅舎の姿は全く違う。
西側、駅前には鉄の森林公園がありそこに列車の模型がぶら下がっていた。その傍にこれも日本時代(昭和5年)の「米穀検査書宜蘭出張所」で、赤レンガ造りの建物が喫茶店として残っている。時間は午後4時40分過ぎ、歩きつかれたので入って休憩した。小休止後駅前を歩いてホテルに向かい途中の拉麺店であっさり味の海鮮拉麺を食べホテルに戻った。
「歩き疲れた!」の一日であり、何ヶ所巡ったのか?デジカメ写真をゆっくり検証しないと今日の今日なのに頭の中で整理が出来ない。掩体壕・管制塔・宜蘭神社跡の員山公園・宜蘭河辺の西?廳憲?政碑・宜蘭設治記念館・中山公園の忠霊塔、その他日本時代の史跡を巡り歩いた宜蘭の一日。
無事終了する。雨が降らなかったのが何よりの救いだ。 -
宜蘭駅にはキリンが
http://ylhm.e-land.gov.tw:8080/cca100051-ar-1_0036.jsp
そして駅壁のペイントはアフリカの草原?
この駅舎は日本時代の物ではない -
米穀検査書宜蘭出張所
1930/昭和5年建立
http://ylhm.e-land.gov.tw:8080/cca100051-ar-3_0018.jsp -
米穀検査書宜蘭出張所の中は喫茶店になっており
蜂蜜入りリンゴジュース(温)とお菓子、¥100元
歩き疲れてしばらく休憩した -
この店で夕食を食べる
店内の壁は掲示板の如く -
意味が分かれば面白いと思う
凝縮された言葉に意味深あり
残念ながら見てもさっぱり分からない -
海鮮拉麺¥55元
旅行中まずくて食べれない物はなかった
大陸の旅より食べ物は美味しい物ばかり -
部屋に戻って休憩したが
やはり足が棒・・・でも出て行く
時間は午後7時半?
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■宜蘭東門観光夜市へ行く
そして部屋で1時間半くらい休んで宜蘭の夜店見学にまた出て行く。「宜蘭東門観光夜市」路上一杯に屋台の出店があり、服に雑貨にいろんな商店がひしめき合うように並んでいる。
そして食べ物屋に準備された食材は「これ一体、今晩中にどのくらい客の胃袋に入るの?」というくらい山積みだ。39歳の冬、初めての海外旅行、その台北の夜店の活況ほどではないが、火曜日夜の宜蘭の賑やかさに触れて元気回復。
「相変わらず凄いなあ・・・」であった。そしてホテル傍にある友愛百貨店にも入った。入店は午後7時35分、夜店と違って中は客も少なくひっそりだが、とりあえず宜蘭の夜の散策を終えてホテルに戻り、明日に備えた。
明日は、再度、忠霊塔前に行きそこから蘭陽女学校、そして南飛行場管制塔へ行く。その管制塔のなかで360度の景色を見ながら時間を過ごそう。
その後、宜蘭から福隆、そこからタクシーで澳底、また福隆に戻り台鐵で基隆に行く。天気であれば嬉しいけど・・・。 -
全部一律10元
この食い物が今晩みんなの腹に入るのか?
地球上の食い物みな食い尽くす人間恐るべし -
火曜日の夜、宜蘭の労働者は
どんな仕事で、幾らの月収?
何を皆で語っているのやら・・・
宜蘭東門観光夜市
http://youtu.be/DYcu4r1QL6Q -
歩きにくい歩道
歩道を見ればその国の民度が分かる?
日本時代の歩道はこうではなかったろうに -
友愛百貨
http://www.yoai.com.tw/
私の宿泊ホテル?「慕夏精品旅館」のすぐ近くの百貨店 -
夜店にはそこそこの人があるが
百貨店内は人影まばら
利益はあるのか?心配になる
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