2014/04/24 - 2014/04/24
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belleduneさん
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斑鳩の匠と言われた宮大工・西岡常一さんの本を読んでから、もう一度法隆寺へ行って、じっくりと見たいと思っていました。やっと奈良行きが実現して修学旅行生達に混じって、広い境内を歩き廻ってきました。
丁度、大宝蔵展や秘宝展も開催中だったので、ゆっくり見学してきました。修学旅行生の他に、フランス人観光客の中で、法隆寺を研究していると思われる方もいらして、私達より真剣にご覧になっていました。相当詳しく研究されている外国人も多いのですね。しかし、大半の方は、疲れて眠そうでしたが。
当初の予定では、法隆寺の後、西岡さんが住んでいらした法起寺や法輪寺へ歩いていくつもりでしたが、都合で法隆寺だけとなりました。また次回に残しておきます。
- 旅行の満足度
- 4.5
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室町時代、永享10年(1438)に当時西大門を移築し、再建された南大門から入ります。修学旅行生が絶え間なく入って行きます。
法隆寺七不思議として、鯛石という2m x 1m の踏み石が南大門の石段下にあります。どんなに雨が降っても、この石より上に水が上がって来ないそうです。 -
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入母屋造りの一重門です。建築当初は切妻屋根だったそうです。
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あの石段を利用して、修学旅行生が集合写真を撮るのがここでの習わしらしい。
左手の西院伽藍から五重塔や金堂へ -
中門横からまず五重塔へ
釈尊の遺骨を奉安するための塔で、最も重要な建物です。高さ約32,5mで、我が国最古の五重塔です。
初重内陣には、奈良時代の初めに造られた塑像群があり、東面は、維摩経に出て来る維摩居士と文殊菩薩が問答する場面、北面は、釈尊が涅槃で、釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は、彌勒菩薩の浄土などの場面が表現されていました。 -
初重から五重までの屋根の逓減率が高いのが特色です。五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分となっています。初重から四重目までの柱間は三間ですが、五重目だけが二間となっています。
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法隆寺七不思議の一つ、その2 五重塔の大鎌 相輪下に普通は2つですが、法隆寺の五重塔には4つの鎌があります。
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五重塔内部にも壁画がありましたが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で、剥落してしまっています。心柱の礎石(心礎)は地下3mのところにあり、心礎内から1926年に硝子製の舎利壷とこれを納める金製、銀製、銅製の容器からなる舎利容器が発見されました。勿論、調査後に元の場所に戻されています。
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風雨、直射日光が直接当たる庇は、傷みが激しいですね。
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法隆寺の七不思議の一つ 雨だれの穴がありません。どの建物にも建立当時、雨樋がありません。現在は何箇所かに雨樋が付いています。
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建物の下に砂利が敷いてあるので、雨樋がなくても大丈夫らしい。
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向こうに中門が見えます。飛鳥建築の粋を集めて建てられました。中門は、入母屋造りの二重門で、正面は四間二戸、側面は三間となっています。日本の寺院の門は、正面の柱間が奇数になるのが普通ですが、この門は、四間で、真ん中に柱が立っています。門内の左右に塑像金剛力士立像を安置しています。日本最古の仁王像(8世紀頃)として貴重なものですが、風雨にさらされ、補修が甚だしく、吽形像の体部は木造の後補に代わっているそうです。この中門は使用されてはいないので、廻廊から廻ります。
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この北面だけ修学旅行生が長蛇の列をなしていたので、切りの良いところで列に加わり、釈尊の入滅の場面を見ることが出来ました。他の面は誰も居ないので、すぐに見ることが出来ました。
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廻廊の柱も傷みのあるところだけ切り取り、同じ材で修理してあります。膨らみのある美しい柱です。
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廻廊は金堂と同じ時期に建立されました。聖域を仕切る障壁です。この先の大講堂よりの折れ曲がり部分から北は平安時代のものだそうです。当初の廻廊は、大講堂前で閉じていて、大講堂は廻廊外にあったそうです。
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廻廊外の桜も、連子窓からこうして眺めるのも良いものです。
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金堂は、法隆寺のご本尊を安置する殿堂で、内部には、金剛釈迦三尊像(飛鳥時代)、金剛薬師如来座像(飛鳥時代)、金剛阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、樟で造られた最古の四天王像(白鳳時代)、木造吉祥天立像、毘沙門天立像(平安時代)が安置されています。天井には、天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊るされおり、周囲の壁面には、壁画が描かれていました。昭和24年の壁画模写作業中の火災で、初層の内陣の壁と柱を焼損しました。
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黒焦げになった旧壁画と柱は現存しており、大法院東側の収蔵庫に保管されています。解体修理中の火災であったため、初層の裳階部分と上層のすべて、堂内の諸仏は難を免れました。これを切欠に文化財保護法が制定されました。堂内は、中の間、東の間、西の間に分かれていますが、壁などの仕切りはありません。また金堂内陣、経蔵内、そして大湯屋表門通路に中連縄で囲われた一角の三箇所が伏蔵(宝物を収めた地中にあるお蔵)があります。
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この右手が奈良時代に建立された経蔵で、経典を治める二階建ての施設です。現在は天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧・観勒僧正とされる座像(平安時代の作)が安置されています。
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大講堂は、裄行九間、梁間四間の入母屋造り、本瓦葺きで、平安時代延長3年(925)に焼失した後、正暦元年(990)に再建されました。薬師三尊蔵(平安時代)、四天王像が安置されています。このお堂は、仏教の学問を研鑽したり、法要を行なう施設でした。
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大講堂右手の鐘楼は、経蔵と対称の位置にあり、平安時代の建立です。白鳳時代の梵鐘は今も健在です。
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鐘楼から続く廻廊
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東西の廻廊の外側に其々東室、西室という南北に細長い建物があり、僧房(僧侶の住居)と呼んでいました。聖霊院は、西院伽藍の東側にあり、聖徳太子を祀るお堂です。鎌倉時代の建立。本来この建物は、東室の一部でしたが、1121年にこれを再建する時に、南半分を改造して、聖霊院としました。現在の聖霊院は1284年に改築されてものです。
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ここには正面の屋根部分にだけ銅の雨樋が付けられていました。
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聖霊院の北に繋がって建っている東室は、補修、改造が多く、基本的には奈良時代の建築です。当時の僧房建築の遺構として貴重な建物となっています。
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平安時代に建てられた妻室です。
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平安時代に建てられた綱封蔵
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鎌倉時代に建てられた細殿
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左横の食堂には、奈良時代の塑像である本尊の薬師如来座像が安置されていますが、それ以外の仏像は大宝蔵院に移されています。食堂は本来寺務所だったところが、僧が食事をするところとなったそうです。
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大宝蔵院は、平成10年に完成した百済観音堂を中心とした建物で、夢違観音像(白鳳時代)、推古天皇御所持の仏殿と言われている玉虫厨子(飛鳥時代)、蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をはじめとして、百万塔、白檀造りの九面観音像、天人の描かれた金堂小壁画など多くの宝物が安置されています。
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大宝蔵院が完成するまでは大宝蔵殿に多くの寺宝が展示されていました。ちょうど春の公開期間中だったので、「室町から近世へ」という秘宝展を見てきました。
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これから東院伽藍へ向かいます。
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久し振りの夢殿です。601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで、天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といい、その中心となる建物が夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏救世観音像を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿を修理された道詮律師の塑像(平安時代)なども安置してあります。春の開扉期間だったので、見ることができました。
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夢殿の礼盤(僧侶がお経を唱える為に座る台)は、湿気が溜まり、いつも汗をかいている状態だというのも、法隆寺の七不思議の一つだそうですよ。あと、蜘蛛の巣がない、とか雀が糞をしない、因可池(よるかいけ)の蛙には目がない、などがあげられていますが….
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夢殿から中門を改造した礼堂(鎌倉時代)を見たところです。
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左手が絵殿(鎌倉時代)には、摂津の国の絵師・秦致貞が延久元年(1069)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵が飾られていました。聖徳太子の生涯を描いた最古の作品でしたが、明治11年(1878)当時の皇室に献上され、現在は東京国立博物館の所蔵となっています。絵殿には江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が代わりに飾られているそうです。
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右手が舎利殿で、聖徳太子が2歳の春に合掌された掌中から出現したという舎利を安置する建物です。
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絵殿と舎利殿の真ん中にある入り口です。この奥に伝法堂があります。
伝法堂は、切妻造り、本瓦葺きで、桁行七間、梁間四間となっています。内部は床を張り、天井は化粧屋根裏です。橘夫人の住居を移転して、仏堂に改めたものとされ、昭和の大修理の調査で、奈良時代の住宅だと推測されました。当時の住宅遺構として貴重なものとなっています。内陣は、中の間、東の間、西の間に分かれ、其々乾漆阿弥陀三尊像(奈良時代)が安置され、他に、梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来座像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像(いずれも木造、平安時代)があります。未公開なのが、残念です。 -
東院鐘楼は鎌倉時代に建てられたもので、袴腰と呼ばれる形式です。内部には中宮寺と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
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中宮寺(旧斑鳩御所)は、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后により、斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対称的な位置に建てられました。その旧地は、げんざいの東方五百メートルのところに土壇として残っています。昭和38年の発掘調査で、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認されています。法隆寺が僧寺、中宮寺が尼寺として初めから計画されたと考えられます。菩薩半跏像(如意輪観音菩薩)は金堂の本尊で、天寿国曼荼羅は講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えられています。
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平安時代には、寺運が衰退し、主な宝物は法隆寺に移され、唯一菩薩半跏像だけが残ったという状態でした。鎌倉時代になり、中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を取り戻すことができました。その後、度重なる火災に遭い、旧地への再建はなりませんでした。
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後伏見天皇八世の皇孫尊智女王がご住職となられ、以来、尼門跡斑鳩御所となりました。宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後、真言宗泉湧寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりました。大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えているということです。
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八重山吹の花が綺麗に咲いていました。
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この中宮寺本堂は、高松宮妃殿下のご発願により、昭和43年に吉田五十八氏によって設計され、建てられました。以前の本堂は西向きでしたが、上代寺院の規則に従い、南面にし、本堂と鞘堂と池を組み合わせて、門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしい慎ましさを備えた御堂となっています。
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こちらは白山吹です。
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ニワフジでしょうか。綺麗です。
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北室院の表門
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北室院の本堂、太子殿の屋根が見えています。右手は修理中の中宮寺です。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ちょんたさん 2014/04/29 08:35:50
- 詳しい説明
- belledune様
法隆寺はとても好きなのですが、今回、このように詳しい説明を読み、改めて法隆寺を訪れてみたくなりました。
見て、知って、また見ると見方、感じ方がまた違って見えてきますから。
また、風雪に耐えて、大分痛みが出ているということもこのように写真で確認することができました。
こちらもまた修理に入られてしまうかもしれません。生きている間にこの景色に会えますよう、今度奈良に行った時には行ってみたいものです。
ちょんた
- belleduneさん からの返信 2014/05/01 19:54:30
- RE: 詳しい説明
- ちょんたさん、見て頂いてありがとうございました。返信が遅くなり、申し訳ありません。
京都に比べて、奈良はゆったりしていて、気分ものんびりしてきます。また山辺の道を歩いてみたくなりました。
これからもよろしくお願いします。
> belledune様
>
> 法隆寺はとても好きなのですが、今回、このように詳しい説明を読み、改めて法隆寺を訪れてみたくなりました。
>
> 見て、知って、また見ると見方、感じ方がまた違って見えてきますから。
>
> また、風雪に耐えて、大分痛みが出ているということもこのように写真で確認することができました。
>
> こちらもまた修理に入られてしまうかもしれません。生きている間にこの景色に会えますよう、今度奈良に行った時には行ってみたいものです。
>
> ちょんた
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