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国見町には源義経の死後に、頼朝が藤原氏を攻めた奥州合戦の遺跡があります。<br />まず、古代から続いていた東北地方の独立国と、その滅亡の歴史を概観しておきます。<br />1世紀末に武内宿禰が「東のひなに日高見国あり。土地肥えて広し、撃ちてとるべし」と景行天皇に奏上してヤマトの東征が始まった。<br />ところが、367年に田道将軍勢がツガルで全滅。780年ヤマトの多賀城が焼き払われ、789年5万のヤマト軍がアテルイに敗れるなど、東北王権は独立を保っていました。<br />壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が敗れ、日本は東北地方を支配する藤原氏と関東以西を支配する源氏とに二分されたが、全国制覇を目指す頼朝は藤原氏に対して圧力を強め、藤原氏が京都朝廷へ直接献金していたのを鎌倉経由とするよう要求し、藤原氏はこれに従ったとされるが、西行法師が頼朝に会ってから平泉の藤原秀衡を訪れたのが1186年で、同年10月には平泉から砂金450両が都に到着している。<br />1188年2月:源義経の平泉滞在を知った頼朝は、朝廷に求めて藤原泰衡に義経追討の宣旨を下したが、泰衡は前年に死去した秀衡の遺命に従い追討宣旨を拒否した。業を煮やした頼朝は藤原泰衡追討の宣旨を朝廷に求めた。<br />1189年4月:泰衡は鎌倉方の威圧に屈して衣川館を襲い、義経の首を鎌倉へ送って恭順の意を示したが、頼朝の本心は奥州藤原氏の殲滅にあり、全国に動員令を発令。各地の地頭は頼朝を怖れてこれに従った。<br />6月:義経の死亡を知った後白川法皇は、戦闘停止の院宣を鎌倉に送り、ついで泰衡追討の延期を命じる宣旨も頼朝に届くが、頼朝はすべてを無視して東北征伐を敢行した。<br /><br />奥州側は国見町の阿津賀志山に城壁を築き、中腹から阿武隈川までの約4kmに、幅10m余りの二重堀(ふたえぼり)を掘って阿武隈川の水を引き入れ、2万の兵を配備して迎撃態勢を取ったが、頼朝の鎌倉軍は戦馴れした2万5千の兵力で襲来し、濠を埋めて突破した。<br />8月8日から10日までの国見町を主戦場にした「奥州合戦」は鎌倉方の勝利に帰した。以後、奥州方には大規模な会戦の余力はなく、政治の中心地・多賀城も防衛できず、22日には本拠地の平泉も陥落した。<br />9月3日には蝦夷地を目指した藤原泰衡が比内で殺された。<br />この奥州征伐の戦役で、古代から続いていた東北の独立国が滅亡し、武士によって始めて、日本として全国が統合されたが、藤原氏が夢見た「仏教王国」は瓦礫に帰した。<br /><br />500年あとの1689年5月3日にこの地をたずねた芭蕉は、福島でもじずり石を見て、月の輪で阿武隈川を渡り、佐場野で義経の従者佐藤兄弟の父の城跡(丸山・館山)を訪れ、佐藤一家の菩提寺である医王寺で寺宝の義経・弁慶の遺品をみて「笈も太刀も五月(さつき)にかざれ紙幟」と詠んで、飯坂の貧家の土間に泊まった。<br />翌日は大木戸を越え、宮城県白石市の田村神社甲冑堂で、佐藤兄弟の嫁二人が夫の鎧を着て姑を慰めたという木像を見たが「奥の細道」ではこれを医王寺の話にしている。<br /><br />封建体制が確立された江戸期に訪れた芭蕉にとっては、佐藤一家の忠節物語りが興味の中心であり、日ノ本と呼ばれていた東北王国が滅亡した奥州合戦の故地は、興味を惹かなかったらしい。<br />現在、国見町の防塁は発掘整備され、近くには藤原氏の平泉をめざす義経が休んだという腰掛松(2013年に枯死)や、戦死者の名を書きとめるに用いたという弁慶の硯石などがある。<br /><br />この国見町は福島県の北部で宮城県と接している。地形的に山がせまっている交通の要衝で、現在でも東北本線、陸羽街道、東北自動車道が近接し並んで走っている(新幹線は地下)。<br />最寄り駅は東北本線の藤田駅(旧国見宿)で福島から10数分で着く。<br /><br />

福島県国見町:藤原氏滅亡の序章「奥州合戦」跡と500年後の芭蕉の感慨

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2014/04/17 - 2014/04/17

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

国見町には源義経の死後に、頼朝が藤原氏を攻めた奥州合戦の遺跡があります。
まず、古代から続いていた東北地方の独立国と、その滅亡の歴史を概観しておきます。
1世紀末に武内宿禰が「東のひなに日高見国あり。土地肥えて広し、撃ちてとるべし」と景行天皇に奏上してヤマトの東征が始まった。
ところが、367年に田道将軍勢がツガルで全滅。780年ヤマトの多賀城が焼き払われ、789年5万のヤマト軍がアテルイに敗れるなど、東北王権は独立を保っていました。
壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が敗れ、日本は東北地方を支配する藤原氏と関東以西を支配する源氏とに二分されたが、全国制覇を目指す頼朝は藤原氏に対して圧力を強め、藤原氏が京都朝廷へ直接献金していたのを鎌倉経由とするよう要求し、藤原氏はこれに従ったとされるが、西行法師が頼朝に会ってから平泉の藤原秀衡を訪れたのが1186年で、同年10月には平泉から砂金450両が都に到着している。
1188年2月:源義経の平泉滞在を知った頼朝は、朝廷に求めて藤原泰衡に義経追討の宣旨を下したが、泰衡は前年に死去した秀衡の遺命に従い追討宣旨を拒否した。業を煮やした頼朝は藤原泰衡追討の宣旨を朝廷に求めた。
1189年4月:泰衡は鎌倉方の威圧に屈して衣川館を襲い、義経の首を鎌倉へ送って恭順の意を示したが、頼朝の本心は奥州藤原氏の殲滅にあり、全国に動員令を発令。各地の地頭は頼朝を怖れてこれに従った。
6月:義経の死亡を知った後白川法皇は、戦闘停止の院宣を鎌倉に送り、ついで泰衡追討の延期を命じる宣旨も頼朝に届くが、頼朝はすべてを無視して東北征伐を敢行した。

奥州側は国見町の阿津賀志山に城壁を築き、中腹から阿武隈川までの約4kmに、幅10m余りの二重堀(ふたえぼり)を掘って阿武隈川の水を引き入れ、2万の兵を配備して迎撃態勢を取ったが、頼朝の鎌倉軍は戦馴れした2万5千の兵力で襲来し、濠を埋めて突破した。
8月8日から10日までの国見町を主戦場にした「奥州合戦」は鎌倉方の勝利に帰した。以後、奥州方には大規模な会戦の余力はなく、政治の中心地・多賀城も防衛できず、22日には本拠地の平泉も陥落した。
9月3日には蝦夷地を目指した藤原泰衡が比内で殺された。
この奥州征伐の戦役で、古代から続いていた東北の独立国が滅亡し、武士によって始めて、日本として全国が統合されたが、藤原氏が夢見た「仏教王国」は瓦礫に帰した。

500年あとの1689年5月3日にこの地をたずねた芭蕉は、福島でもじずり石を見て、月の輪で阿武隈川を渡り、佐場野で義経の従者佐藤兄弟の父の城跡(丸山・館山)を訪れ、佐藤一家の菩提寺である医王寺で寺宝の義経・弁慶の遺品をみて「笈も太刀も五月(さつき)にかざれ紙幟」と詠んで、飯坂の貧家の土間に泊まった。
翌日は大木戸を越え、宮城県白石市の田村神社甲冑堂で、佐藤兄弟の嫁二人が夫の鎧を着て姑を慰めたという木像を見たが「奥の細道」ではこれを医王寺の話にしている。

封建体制が確立された江戸期に訪れた芭蕉にとっては、佐藤一家の忠節物語りが興味の中心であり、日ノ本と呼ばれていた東北王国が滅亡した奥州合戦の故地は、興味を惹かなかったらしい。
現在、国見町の防塁は発掘整備され、近くには藤原氏の平泉をめざす義経が休んだという腰掛松(2013年に枯死)や、戦死者の名を書きとめるに用いたという弁慶の硯石などがある。

この国見町は福島県の北部で宮城県と接している。地形的に山がせまっている交通の要衝で、現在でも東北本線、陸羽街道、東北自動車道が近接し並んで走っている(新幹線は地下)。
最寄り駅は東北本線の藤田駅(旧国見宿)で福島から10数分で着く。

交通手段
タクシー 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
個別手配

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  • 福島駅から東北本線で10数分の藤田駅。<br />駅員が常駐していて、こじんまりした懐かしい感じの駅舎。<br /><br />昔の「国見宿」である。

    福島駅から東北本線で10数分の藤田駅。
    駅員が常駐していて、こじんまりした懐かしい感じの駅舎。

    昔の「国見宿」である。

  • 駅前に案内図があった。<br />中央左に駅。右下の川が阿武隈川。<br />国道と東北本線が凹んでいるところの上が阿津賀志山(厚樫山)。

    駅前に案内図があった。
    中央左に駅。右下の川が阿武隈川。
    国道と東北本線が凹んでいるところの上が阿津賀志山(厚樫山)。

  • 駅の跨線橋からみた町。<br />遠くの林がある丘、源宗山に頼朝が本陣を置いた。(案内板がある)<br /><br />後に伊達一族の藤田氏が藤田城を築いたが、南朝にくみしたので北朝方に攻められて落城した。東北地方の南北朝の歴史についての重要な遺跡。

    駅の跨線橋からみた町。
    遠くの林がある丘、源宗山に頼朝が本陣を置いた。(案内板がある)

    後に伊達一族の藤田氏が藤田城を築いたが、南朝にくみしたので北朝方に攻められて落城した。東北地方の南北朝の歴史についての重要な遺跡。

  • 阿津賀志山の防塁の説明。<br /><br />数箇所で発掘調査が行われたが、現在は最下部(南部)と最上部(北部)が復元されている。

    阿津賀志山の防塁の説明。

    数箇所で発掘調査が行われたが、現在は最下部(南部)と最上部(北部)が復元されている。

  • 南部の阿武隈川に近い二重濠(ふたえぼり)。<br />遠景の鉢を伏せたような山が阿津賀志山で、全長約4kmの濠を、約6ヶ月かけて掘ったという。馬が窪地を嫌うことから掘られたらしい。<br /><br />中世にはじまる城郭の濠の原型らしい。

    南部の阿武隈川に近い二重濠(ふたえぼり)。
    遠景の鉢を伏せたような山が阿津賀志山で、全長約4kmの濠を、約6ヶ月かけて掘ったという。馬が窪地を嫌うことから掘られたらしい。

    中世にはじまる城郭の濠の原型らしい。

  • 同上。<br />地元の人は間違えずに「ふたえぼり」と呼ぶ。

    同上。
    地元の人は間違えずに「ふたえぼり」と呼ぶ。

  • 藤原氏の縁で、国見町は平泉町と姉妹都市になっていて、<br />この池には「平泉蓮」が植えられている。<br /><br />上記の「二重濠」は遠景の土手の先にある。

    藤原氏の縁で、国見町は平泉町と姉妹都市になっていて、
    この池には「平泉蓮」が植えられている。

    上記の「二重濠」は遠景の土手の先にある。

  • 福じゅ寺にある伊達家初代の夫人(結城氏)の墓。<br /><br />飯坂にあった義経の従者佐藤兄弟の城を破った中村常陸介念西は、後に伊達郡を拝領して伊達家を興した。これが奥州伊達氏の始まりである。

    福じゅ寺にある伊達家初代の夫人(結城氏)の墓。

    飯坂にあった義経の従者佐藤兄弟の城を破った中村常陸介念西は、後に伊達郡を拝領して伊達家を興した。これが奥州伊達氏の始まりである。

  • このあたりが藤原勢が本陣を置いた「大木戸」だと説明されたが、地形から見てあまりよい場所とは思えない。<br /><br />教育委員会からいただいた地図でも少し違うようだが・・・・・?

    このあたりが藤原勢が本陣を置いた「大木戸」だと説明されたが、地形から見てあまりよい場所とは思えない。

    教育委員会からいただいた地図でも少し違うようだが・・・・・?

  • 「阿津賀志山故戦将士碑」の案内板が国道脇に立っていた。<br />案内してくれたタクシーの運転手は「案内板だけで碑などありません」と言ったが、写真右の踏み跡を登ってみたら立派な碑が立っていた。<br /><br />運転手の話を真に受けて、案内板の写真だけで帰ったという先人は気の毒でした。

    「阿津賀志山故戦将士碑」の案内板が国道脇に立っていた。
    案内してくれたタクシーの運転手は「案内板だけで碑などありません」と言ったが、写真右の踏み跡を登ってみたら立派な碑が立っていた。

    運転手の話を真に受けて、案内板の写真だけで帰ったという先人は気の毒でした。

  • これが「阿津賀志山故戦将士碑」。<br />果樹園のほとりに立っていたが、碑面がよごれていて読む気が起きなかった。<br /><br />それで、うかつにも裏面の建立年も調べなかった。

    これが「阿津賀志山故戦将士碑」。
    果樹園のほとりに立っていたが、碑面がよごれていて読む気が起きなかった。

    それで、うかつにも裏面の建立年も調べなかった。

  • 大木戸には、東日本大震災の仮説住宅があるようだった。

    大木戸には、東日本大震災の仮説住宅があるようだった。

  • 阿津賀志山防塁の最上部(北部)と、芭蕉が通った長坂の峠道の案内。

    阿津賀志山防塁の最上部(北部)と、芭蕉が通った長坂の峠道の案内。

  • 奥州道、国見峠の長坂の説明。<br /><br />

    奥州道、国見峠の長坂の説明。

  • これが 奥州道、国見峠の長坂。<br /><br />芭蕉が「気力聊かとりなおし、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす」と書いている峠道である。

    これが 奥州道、国見峠の長坂。

    芭蕉が「気力聊かとりなおし、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす」と書いている峠道である。

  • 阿津賀志山防塁の最上部(北部)の説明。<br /><br />二重濠が図解されている。

    阿津賀志山防塁の最上部(北部)の説明。

    二重濠が図解されている。

  • 発掘、復元された防塁。<br />ここでは濠は一つだけ見えている。

    発掘、復元された防塁。
    ここでは濠は一つだけ見えている。

  • 同上。

    同上。

  • 義経の腰掛松は2013年に枯れてしまった。<br />この小屋の後ろに径数十センチの枯れ木が横たわっていた。

    義経の腰掛松は2013年に枯れてしまった。
    この小屋の後ろに径数十センチの枯れ木が横たわっていた。

  • 阿津賀志山。<br />この左側の斜面から阿武隈川まで約4kmにわたって防塁が設けられていたが、戦いになれた源氏軍は濠を埋めて馬を通した。<br />馬が戦力だった時代のことである。

    阿津賀志山。
    この左側の斜面から阿武隈川まで約4kmにわたって防塁が設けられていたが、戦いになれた源氏軍は濠を埋めて馬を通した。
    馬が戦力だった時代のことである。

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