
2014/03/23 - 2014/03/23
4475位(同エリア8108件中)
ひま人さん
聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺ですが、紀伊国では現在の紀の川市域に建立されました。紀ノ川沿いに少し遡れば、旧高野街道の通筋沿いに、かむろ大師や石童丸物語を伝える刈萱堂(かるかやどう)などがあり、弘法大師の足跡をも伝えています。紀の川市の町の名前も桃山町という、紀ノ川沿いには、桃畑が広がり、当地の桃は、地質と気候によって美味しさを評価され「あら川の桃」として有名です。が、残念ながらつぼみが膨らんだ状態で、桃の花の香りさえも叶わず、花が咲くか、桃が熟れる頃のシーズン中の再訪を楽しみにと、慈尊院、刈萱堂、かむろ大師へと向かいました。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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国分寺本堂(金堂)、天平13年(741年)、聖武天皇は仏教の功徳によって、国家の鎮護を実現しようと、全国60余か所に国分寺建立の勅願を出しました。紀伊国分寺もその一か寺であり、交通の便もよく、紀ノ川流域で豊かな穀倉地帯であったこの地に建立されました。その後、紀伊国分寺は元慶3年(879年)全焼しましたが、すぐに復興され12世紀後半まで国分寺の機能を果たしてきました。しかし律令体制の崩壊や、真言密教等他の宗派に押され、国分寺は徐々に衰退してしまいました。
現存するこの本堂は、元禄13年(1700年)に再建されたもので、今までに4回建て替えられていることが発掘調査によって確認されています。 -
国分寺伽藍配置図。
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金堂跡。
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塔跡。
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僧房跡。
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紀の川市歴史民俗資料館。国分寺跡一帯が歴史公園になっており、国分寺関係や昔の民俗資料を展示しています。
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紀の川市歴史民俗資料館展示品。
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紀の川市歴史民俗資料館展示品。
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慈尊院石標。
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慈尊院本堂(国重文)。高野山に籠っている空海の元へ四国から母親の阿刀氏の娘がやって来、高野山は女人禁制で登れないので当地に留まって亡くなりました。その後、空海がそこに弥勒菩薩(国宝)を祀って菩提を弔ったのが創始とされています。しかし、実際は高野山上が遠隔、多湿、寒冷のため、慈尊院の地に高野山建立のための基地(政所)を置き、この政所の一隅に建てた慈立堂が慈尊院の始まりのようです。天文9年(1540年)の洪水で現在地に移りました。
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慈尊院、空海太師堂。
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慈尊院多宝塔。
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刈萱堂。中世(1300年頃〜1570年頃)、萱堂聖(ひじり)の本拠地となった所で、これら聖はお話を披露(唱導文学)しながら各地を巡り、自らの口を糊しながら勧進しました。「石童丸」の話は、この萱堂聖が創出した愛別と出家、女人禁制による悲劇を語った物語です。
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刈萱堂絵馬(有形文化財)。
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三尊像、「刈萱道心坐像・千里ノ前坐像・玉屋主人像」。
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石童丸坐像。
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人魚のミイラ。石童丸の母千里ノ前が、常に傍において信仰していたものと伝えられてきました。今から千数百年前に、滋賀県の蒲生川で獲らわれたものと言われ、刈萱堂に伝わる数々の秘宝の中では、最も謎に包まれたものです。
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石童丸御杖の銘竹。石童丸は母千里ノ前に平素用いていた竹杖を建て、墓標の代わりとしました。後にこの竹杖から母の名号をあらわす六枝の芽がふき、果実を結んだと伝えられてきました。
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夜光の玉。石童丸の父加藤左衛門繁氏の父親加藤繁昌が、香推宮に祈願した時授けられたものと伝えられてきました。如意宝珠は、願い事の叶う宝の石として、17世紀頃、北九州地方で信仰を集めました。
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木造・千里ノ前像。
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かむろ大師本堂。弘法大師を本尊とし、明治43年(1910年)に尊海上人によって開創されました。開創時より行われている御祈祷(水加持)のご利益を求めて、近在近郷はじめ全国から参拝者が訪れています。現在の本堂は、平成元年(1989年)に参拝者の増加と旧本堂の老朽化に伴い、5年の歳月をかけ現在地に移建されました。
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かむろ大師本堂正面。
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