2014/03/17 - 2014/03/17
683位(同エリア2164件中)
滝山氏照さん
高知城(こうちじょう、高知県高知市丸の内)は豊臣秀吉の恩顧でありながら徳川家康方に属し関ヶ原の戦い後、家康より土佐一国を拝領し慶長6年(1601)に入封した山内一豊(やまうち・かつとよ、1545~1605)により築城されています。
一豊の父盛豊(もりとよ、生没不詳)は尾張上四郡の守護代である織田信安(おだ・のぶやす、生誕不詳~1591)の家老として仕えていましたが一豊が15歳の時織田信長の攻撃を受けて父が討死、一豊は浪人として流浪の時を過ごします。
やがて後に身を寄せた先が信長の家臣であったことから一豊も信長に仕えることになります。
一豊は信長が本能寺で横死後は羽柴秀吉に従い、秀吉の天下統一後は徳川家康の関東移封を受けて掛川城に5万1千石で入城し、城郭の改修を始め城下町・街道の整備行いまた治水の改良にも努めます。
秀吉没後はいち早く徳川家康に接近し上杉景勝の征伐の際には家康に参陣して忠誠ぶりを示し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、戦後は土佐24万石を拝領します。
土佐は長宗我部氏が永年に亘り支配してきましたが、関ヶ原の戦いでは時の領主盛親(もりちか、1575~1615)は西軍に属しますが戦意半ばにして西軍が敗れるとすぐさま戦列を離れ土佐に戻ります。
土佐国入部に際しては長宗我部氏の改易による混乱がひどく、浦戸城受取のため井伊直政の家臣二名が一豊の実弟である康豊と共に現地に派遣されることになります。
長宗我部盛親の臣下たちは浦戸城の明け渡しに反対する一揆をおこしますが家康が派遣した軍隊は武力で鎮圧する一方、従来の制度を認めるなどする懐柔策を打ち出します。
慶長6年(1601)一豊は土佐に入国浦戸城に居住を構えますが、現在の城山・大高坂山を新城の地とし、築城着工に取り掛かります。
慶長8年(1603)本丸・二の丸石垣工事が完成、続いて本丸・詰所・太鼓櫓などが竣工し山内一豊が新城に入り、慶長15年(1610)に大高坂山の地名を「高智山」と改めます。
宝暦3年(1753)に三の丸が完成し、着手以来25年目にすべての建物が整うことになります。
幕末の15代藩主・容堂(豊信)は公武合体派で倒幕は望んでいませんでしたが、臣下の後籐象二郎の体制奉還案を受け入れ、将軍徳川慶喜に建白書提出し武力を回避した政権移譲を実現させます。
当日日程
3/17(月) JR宇和島駅ー(各駅)→JR窪川駅ー(特急)→
JR須崎ー(各停)→JR高知(泊)
2022年11月14日追記
現地入手パンフレットでは「南海の名城・高知城」と題する説明があります。
『 南海の名城・高知城
高知城は、日本で唯一本丸の建築群が全て現存する、江戸時代の姿を今に伝える城郭である。
もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城GAあり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた。しかし、治水に難儀し、わずか3年で元親は浦戸城へ本拠を移した。その後、関ヶ原の戦の功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、慶長6年(1601)秋から築城を始めた。
一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ、近隣諸村から石材や木材を取り寄せ工事を進めたが、難工事の末城のほぼ全容が完成したのは10年後、二代藩主忠義の治世に移った慶長16年のことであった。享保12年(1727)には一部の建物を焼失。ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を要している。その後、明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となっていまに至っている。別名を鷹城。』
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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予土線JR窪川駅行
典型的なローカル線で運行数が少ない予土線を考慮して宇和島発11:37発のディーゼルに乗り込みます。北宇和島から分かれてまずJR窪川駅まで行きます。 -
ディーゼル車輛
車輛はワンマン運転の一車輛が出発時刻を待っています。 -
車輛内風景
昔ながらのロングシート車輛には絶えず10人程度の少数です。 -
予土線江川崎駅
当駅でしばらく停車です。当然ながら車輛には洗面所は設置されていませんので我々乗客にとってはトイレタイムとなりました。 -
予土線江川崎駅
停車の間運転手は車輛の外で出発時間を待ちます。 -
予土線江川崎駅
駅舎の左の建物が洗面所です。 -
予土線江川崎駅
駅舎には「ようこそ日本一暑い駅へ」の掲示板が見えます。 -
四万十川
予土線に沿って又は横断する形で四万十川が絡んだ景色に他の同乗者シャッターがきられます。自分もしっかり景色を捉えました。予土線は別名「しまんとグリーンライン」と呼ばれる由縁が理解できます。 -
土佐くろしお鉄道 若井駅
駅名表示板が異なっています。第三セクターの土佐くろしお鉄道の管理駅で当駅で予土線が切れて土佐くろしお鉄道に乗り入れる形を採っています。 -
予土線3兄弟ポスター
窪川駅で宇和島ー窪川を運行する企画ポスターが見られます。3兄弟というのは特別な車輛で、しまんトロッコ・鉄道ホピートレイン・海洋堂ホビートレインの3種類を示しています。 -
「鉄道ホビートレイン」ポスター
別ポスターとして新幹線こだまにイメージを重ねたポスターがあります。こだまのイメージした企画車輛が予土線での集客UPを狙っています。 -
JR窪川駅
当日は早めに高知駅到着する為当駅で中村発特急を待ち須崎駅まで乗車します。 -
土佐くろしお鉄道車両
ラッピングされた車輛が出発を待っています。 -
あしずり6号
14:02窪川駅で乗車し14:28須崎駅下車、あっという間の短い時間の乗車でした。この後14:34須崎駅発各停に乗ります。 -
JR高知駅
15:54高知駅到着、とりあえず本日のホテルにチェックインすることにします。 -
ホテル内部
高知駅南口(繁華街側)から徒歩5分の利便性の高いホテルで、内部も特に問題ありません。 -
ホテル内部
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ホテル内部
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土佐さんぽマップ
チェックインした後ホテルを出て高知城に向かいます。途中のマップを見て道筋を確認します。 -
山内容堂(やまうち・ようどう)生誕地
土佐藩15代藩主で幕末において西洋軍備の採用、海防強化、身分制度改革、財政改革等数々の藩政改革を行います。
また松平春嶽(福井藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)との交流を通じ幕政改革を訴えるなどして「幕末の四賢侯」と称されました。 -
追手筋石標
高知城正門横に建立された石標があります。 -
高知城歴史案内
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追手筋路石標
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高知県立文学館・図書館
入場しますと奥中央に初代藩主山内一豊の銅像が見えます。 -
県立図書館方向
図書館の南に山内一豊銅像があり、追手筋から入ると中央部にはっきり見えます。 -
山内一豊銅像
土佐藩初代藩主である山内一豊の銅像は平成8年(1996)9月20日、一豊の命日を記念して再建除幕されたものです。 -
イチオシ
山内一豊銅像
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山内一豊説明
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高知城水堀(南側)
高知新聞社方向の水堀を捉えます。土橋の手前にベンチが設置されているので座って周辺景色を楽しめます。 -
高知城水堀(北側)
県立図書館方向の水堀を捉えます。接する櫓には野面積みの石垣が見えます。 -
追手筋
追手門に通じる道路を振り返りますと追手筋が右折しています。 -
追手道
幅の広い追手道を直進し右折して追手門をくぐって城内に入ります。 -
高知城国宝石碑
昭和9年「国宝保存法」により国宝に指定、昭和25年制定の「文化財保護法」制定により天守閣を始め15の建物が国の重要文化財となっています。 -
イチオシ
追手門(大手門)正面
慶長年間に創建されますが寛文3年(1663)崩壊、翌年には再建されたという城の玄関にあたる追手門は豪壮な印象を受けます。石垣の上に櫓を載せた櫓門となっています。 -
追手門説明板
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追手門断面図
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野面積み石垣
門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状となって、侵入する敵兵に対し三方向から攻撃を加えることができます。 -
打ち込みハギ石垣
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追手門左扉
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追手門天井
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追手門内側
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追手門周辺工事
追手門東北矢狭間塀と石垣が工事中とのことで、見学できず残念です。 -
高知公園案内図
高知城とその周辺は「高知公園」となって整備されています。追手門をすぎていよいよ城郭の内部に入っていきます。 -
板垣退助像
自由民権運動の父とされ「板垣死すとも自由は死せず」の名言は今でも我々の心に響いています。思いがけなく高知城内で退助像に出会うとは思っても見ませんでした。 -
板垣退助像
昭和31年(1965)5月11日に再建除幕されましたが、台座の表面記載の題字は吉田茂(当時の首相)の揮毫によるものです。 -
板垣退助説明板
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天守
退助像から天守を望みます。 -
登城石段
退助像を直進し更に右折し石段を登りますが足のステップが合わず歩きにくいです。 -
石樋(いしどい)
三ノ丸に降った雨水を集めて石樋から排水し、石垣内部に泥水が入って目詰まりによるゆるみが生じないように設置されています。 -
石樋(拡大)
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石樋(いしどい)説明板
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登城石段
更に石段を登り「山内一豊」の妻像を探します。 -
天守閣展望
山内一豊妻像広場から天守閣を仰ぎます。 -
三の丸跡石垣
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山内一豊・妻銅像
持参金を使って名馬を買いそれが織田信長の眼に留まって一豊の出世となったというエピソードを現しています。 -
山内一豊・妻銅像説明
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山内一豊・妻
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高知城見取図
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三ノ丸石垣説明板
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楠正興尚徳の石碑
藩主山内容堂侍医として迎えられ、明治元年に容堂大病の際は治療にあたり治癒させ容堂から一層の信頼を得ます。 -
楠正興説明
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杉の段
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杉の段説明板
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井戸
蓋をされた井戸の姿が見られます。 -
井戸説明
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天守閣一望
井戸跡から天守閣を仰ぎ見ます。 -
天守石垣
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鉄門跡周辺
石段を右に登ると左右の石垣を従えて鉄門が設置されていました。この門を過ぎると二の丸から本丸に通じる重要な位置にあるため特別の門でした。 -
鉄門跡周辺
鉄門をくぐると枡形の広場があり、周囲は石垣で囲んで進入者に対する攻撃をすることができます。 -
鉄門跡(内側)
門は二階建ての入母屋造りで門の扉には多くの鉄板が全面に打ち付けられていたので「鉄門」と呼ばれていました。 -
詰問方向
詰問に向かう石段を登ってゆきます。 -
鉄門跡説明板
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鉄門跡所在を示す地図
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修築前の鉄門説明
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鉄門跡の根石説明
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詰門(渡櫓門・わたりやぐらもん)
石段を上がると二階建てとなっている「詰門」があります。二階は二の丸から本丸への通路でもあり内部の畳敷き四部屋は家老・中老・平侍の待機部屋、一階は籠城に備える塩が貯蔵されている倉庫及び通路になっています。 -
詰門説明板
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詰門一階平面図
攻め上がった敵が容易に抜けることができないように入口と出口が筋違いとなっています。 -
武者走り
詰問左の石垣に沿って小路があり、天守の石垣に向かって進みむと鐘楼堂を経て黒鉄門に至ります。 -
イチオシ
天守閣
詰門手前から天守閣を捉えます。 -
三の丸と二の丸分岐
登ってくると右折して三の丸へ、そのまま石段を登ると二の丸へ続くことになります。 -
三の丸跡広場
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三の丸説明板
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三の丸御殿見取図
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水路遺構
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水路遺構説明
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天守閣展望
三の丸跡広場から天守閣を一望します。 -
長曾我部期の石垣
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長曾我部期石垣説明
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天守・懐徳館・二の丸案内板
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二の丸石段
石段は足幅が合わずのぼりにくくなっています。説明によればわざと足幅を変えて敵の進入スピ−ドを遅らせるための工夫を施しています。 -
二の丸石段(左側)
野面積みの石垣が見事です。 -
二の丸石段(右側)
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二の丸跡広場
この地には御殿が建てられており藩主が政務を執る表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており一部二階建てであったそうです。 -
二の丸跡広場
広場の一部に詰門があり、ここから本丸・天守閣に通じます。自分が到着した時は既に入城受付時間が過ぎて入れませんでした。明日は早朝から徳島へ移動のため天守見学は断念します。 -
二の丸説明板
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二の丸御殿見取図
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二の丸詰門(懐徳館)
城内に建てられた御殿の一つで、正規の対面所として造られています。天守同様享保12年(1727)罹災、延享4年(1747)に再建されています。懐徳館の名称は高知県に移管されてからのものです。 -
イチオシ
天守閣
二の丸から天守閣を捉えます。 -
天守閣(近景)
享保12年(1727)に城下町の大火により追手門を残し本丸御殿とともに大火で全て焼失、1749年に再建しており、その際天守閣については幕府に配慮して従来の姿を減縮して小振りの規模にしているとのことです。 -
本丸石垣
二の丸詰門入口横から高い本丸石垣を捉えます。 -
本丸石垣と庭園
二の丸詰門入口から場所を右に移すと石垣の下には梅の段が見えます。 -
二の丸跡
樹林が点在しています。 -
二の丸築山
二の丸西側には築山が配置されています。この築山は藩主が奥御殿上段の間に着座した時正面に見える位置にあたっていたとされます。 -
二の丸跡展望
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二の丸跡展望
樹間の向こうは市街地が見渡せます。 -
二の丸石段
二の丸を下城します。 -
天守遠景
下城する際二の丸石段から天守を一望します。 -
二の丸石段
下城時はステップは問題なくスムーズに降りることができます。 -
天守閣
武者走の入口から天守を一望します。 -
天守閣石垣
石垣に沿った武者走りを進むと石垣の上部に「石樋」設置が見られます。 -
市街展望
武者走りから市街を一望します。 -
市街展望
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武者走と本丸石垣
本丸南側から坂を登り黒鉄門に向かいます。 -
武者走と本丸石垣
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市街展望
南北に走る追手筋が確認できます。 -
武者走と本丸石垣
納戸蔵を右折すれば黒鉄門が正面に見えます。 -
矢狭間塀
鉄砲で攻撃する三角狭間から本丸を覗います。 -
黒鉄門(くろがねもん)
本丸西側にある二階建ての門で、階下の柱や扉に筋鉄を入れて、外観上はすべて板張りで黒く仕上げているので黒鉄門と呼ばれています。 -
市街展望
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黒鉄門に繋がる路
黒鉄門見学を終えて戻る途中の路は天守石垣を左側に従えています。 -
鐘楼堂
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鉄門跡
石垣上部から鉄門跡を捉えます。 -
鉄門跡周辺
鉄門を過ぎると升形状の広場があります。 -
三の丸石垣
算木積(さんきづみ)の石垣が確認されます。 -
三の丸石垣
修復されたものではありますが野面積みの石垣が立派です。 -
水堀
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水堀
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御馬場跡広場
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御馬場跡説明板
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イチオシ
天守閣
御馬場跡広場から天守閣を見上げます。 -
ガス燈
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ガス燈由来説明板
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土佐の偉人(1)
高知城を離れ南方向に進みますとビルの壁面に掲示されていました。 -
土佐の偉人(2)
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土佐の偉人(3)
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「板垣退助生誕の地」石碑
「D」交差点を南進し最初の角を左折、すぐ左側に石碑があります。 -
板垣退助説明石碑
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高野寺寺標
退助の石碑は高野寺正門の横に建立されています。 -
「後藤象二郎生誕の地」石碑
「板垣退助生誕の地」から交差点に戻り鏡川方向に歩き、天神大橋の手前左側に石碑があります。 -
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