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朝の出撃は眠たいので、昼過ぎからダラダラ光明寺に行った。阪急長岡天神に着いたのは2時半ごろ。バスはすいていたが踏み切りの渋滞で遅れてくる事が多い。お昼だが3時過ぎには日が山に入り薄暗くなる。これは大失敗。薄暗くなり撮影には向きません。3時に着くと門前にも人がうじゃうじゃいて大変でした。団体が多いのが欠点です。撮影ポイントには中国人のアベックが場所を占有してあまり写せず、結構大陸の連中がうろうろ周りのことを考えず占有していました。しかし紅葉は圧巻で素晴しいものであった。現在、見頃ですが、部分部分で青い所があり1-2週間は見頃でしょうか。朝一番で行きたいが、バスツアーの連中が事前に買った入場券を持って待っているとのことなのであまり行きたくない。人のいないところを撮りたくて最後、警備員にケツをあおられながら風景を撮る。じっくり3時間ぐらい見る事ができる寺であった。この時期、入場料は500円取られる。<br /><br />光明寺とは <br /><br />西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡京市西山のふもと、粟生広谷にあります。宗祖円光大師法然上人が御歳43歳の時、日本で最初に念仏の産声を上げられた立教開宗の地であります。<br /><br />法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿をお借りになりました。その時、茂右衛門夫婦は、上人の真剣な求法のお気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いいたしました。<br /><br />時は流れ承安五年(1175年)3月、ついに浄土宗を開かれた上人は20年間のお約束の通り、この粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたのです。<br />文治元年(1185年)に、かの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。<br />「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との、あまりにも有り難いみ教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪しました。<br /><br />法力房蓮生と名付けられ、数年のご修行の後、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。 <br />第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人がお亡くなりになりました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いてご遺骸を鴨川に流そうと企てたので、上人の遺弟達は秘かにご遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。<br /><br />翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました。<br />

京都 光明寺 圧巻の紅葉と人手・・・

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2013/11/23 - 2013/11/23

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bakaneko

bakanekoさん

朝の出撃は眠たいので、昼過ぎからダラダラ光明寺に行った。阪急長岡天神に着いたのは2時半ごろ。バスはすいていたが踏み切りの渋滞で遅れてくる事が多い。お昼だが3時過ぎには日が山に入り薄暗くなる。これは大失敗。薄暗くなり撮影には向きません。3時に着くと門前にも人がうじゃうじゃいて大変でした。団体が多いのが欠点です。撮影ポイントには中国人のアベックが場所を占有してあまり写せず、結構大陸の連中がうろうろ周りのことを考えず占有していました。しかし紅葉は圧巻で素晴しいものであった。現在、見頃ですが、部分部分で青い所があり1-2週間は見頃でしょうか。朝一番で行きたいが、バスツアーの連中が事前に買った入場券を持って待っているとのことなのであまり行きたくない。人のいないところを撮りたくて最後、警備員にケツをあおられながら風景を撮る。じっくり3時間ぐらい見る事ができる寺であった。この時期、入場料は500円取られる。

光明寺とは

西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡京市西山のふもと、粟生広谷にあります。宗祖円光大師法然上人が御歳43歳の時、日本で最初に念仏の産声を上げられた立教開宗の地であります。

法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿をお借りになりました。その時、茂右衛門夫婦は、上人の真剣な求法のお気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いいたしました。

時は流れ承安五年(1175年)3月、ついに浄土宗を開かれた上人は20年間のお約束の通り、この粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたのです。
文治元年(1185年)に、かの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。
「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との、あまりにも有り難いみ教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪しました。

法力房蓮生と名付けられ、数年のご修行の後、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。
第三世幸阿上人の時、建暦二年(1212年)正月25日、法然上人がお亡くなりになりました。晩年は奈良、叡山の古い教団から迫害を受け、滅後の嘉禄三年(1227年)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いてご遺骸を鴨川に流そうと企てたので、上人の遺弟達は秘かにご遺骸の石棺を嵯峨に移し、更に太秦の西光寺に移しました。

翌安貞二年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れましたので、同月25日ご遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建てました。この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称される事になりました。

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩
  • 門前

    門前

  • ご覧のように人がいっぱい

    ご覧のように人がいっぱい

  • 陽が当たるとすごい

    陽が当たるとすごい

  • 本堂の鐘から

    本堂の鐘から

  • 看板がジャマ

    看板がジャマ

  • ここはええアングルでした

    ここはええアングルでした

  • 庭園を見下ろす

    庭園を見下ろす

  • 勅使門

    勅使門

  • 今年は赤のええ色が出ています。

    今年は赤のええ色が出ています。

  • 勅使門外から

    勅使門外から

  • この参道がすばらしい

    この参道がすばらしい

  • 警備員に追われて

    警備員に追われて

  • 最初の参道には、人がいないのでパチリ

    最初の参道には、人がいないのでパチリ

  • 追い立てられて撤収です。完

    追い立てられて撤収です。完

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