2013/11/23 - 2013/11/23
197位(同エリア461件中)
滝山氏照さん
京成電鉄押上線四ツ木駅より徒歩約7分にある超越山・西光寺(さいこうじ、東京都葛飾区四つ木)は鎌倉幕府創設以来源氏三代将軍に仕え、執権時代の北条氏とも協調して争いを回避して生きながらえた葛西清重(かさい・きよしげ、1162~1238)の居館跡と伝えられています。
葛西氏は12世紀末期の荏原郡、即ち現在の東京都城東地区(現在の葛飾、江戸川、墨田、江東の四区にまたがる地域)を支配、秩父氏の祖平良文(たいらの・よしふみ、生没不詳)の流れを汲む武士集団の主流に属していました。
平良文は桓武天皇(737~806)の曾孫に当たる高望王(たかもちおう、生没不詳)の五男で武蔵守として大里郡村岡(現在の熊谷市を中心とする荒川北岸)の地に切り開きここを本拠地としたためその姓を村岡と称することになります。
良文を継いだのは忠頼(ただより、930~1019)で平将門追討に武功をあげ武蔵押領使・陸奥守に任ぜられるほどの高名な人物でありました。
忠頼の長子である将常(まさつね、生没不詳)は武蔵守となり秩父郡中村郷(現在の埼玉県秩父市)に本拠を置き秩父盆地を開き秩父氏を称したと伝えられています。その子孫は12世紀における武蔵国で最大の同族的武士集団である秩父一族を形成、具体的には将常の子孫は時代が下がるに従い武蔵国の各地に広がり武基系列では畠山氏・長野氏・稲毛氏・榛谷氏・小山田氏・河越氏・江戸氏・秩父氏にそれぞれ分かれ発展と共に次第に独立的地域支配が形成されてゆきます。
上述と同様に武基の弟に秩父六郎大夫武常(ちちぶ・ろくろう・たいふ・たけつね、生没不詳)がおり、この武常を祖として発展、武常の曾孫である清光(きよみつ、生没不詳)の本領が豊島郡(現在の東京都城北・城西地域)及び葛西郡(現在の東京都城東地域)であることから豊島氏と称します。清光の死後はその長子朝経(ともつね、生誕不詳~1203)が豊島領を引継ぎ、次子清重(きよしげ、1162~1238)が葛西領を継いだことにより豊島氏と葛西氏に分かれます。
治承4年(1180)配流先の伊豆で挙兵したものの石山合戦で敗れ安房に逃れた源頼朝(みなもとよりとも、1147~1199)は千葉の有力武士団を組織化して同年9月には約3万の軍を率い下総国府に到達武蔵国侵出のタイミングを計ります。
即ち頼朝にとって武蔵国境目に勢力を持つ秩父一族の葛西・豊島両氏は頼朝が武蔵国に進入する際の大きな障壁であるとの認識しており、そこで両氏に対し懐柔をはかることにし、葛西三郎清重と豊島権守清光らに早く頼朝に参向するようにと書状を送ります。
そして同年9月初旬大井・隅田川を渡って武蔵国に入ると葛西清重と豊島清重がいち早く頼朝陣に参上し、これを始めとして秩父一族の主流である畠山重忠・河越重頼・江戸重長らが帰伏、あとは雪崩の如く武蔵国武士集団が続いて参向する事態となります。
このように頼朝が武蔵国侵入に際して葛西清重の功績は極めて大でありその後鎌倉御家人となった葛西氏の動向については顕著な動きがあります。
治承4年(1180)11月頼朝が常陸国佐竹氏征伐の帰路、葛西清重宅に宿泊、養和元年(1181)4月弓術に優れかつ忠実な御家人11名を選び頼朝寝所の近くに宿直させるとき葛西清重もこれに加えられたことで頼朝信任の厚さを物語っています。
元歴元年(1184)8月に源範頼(みなもと・のりより、1150~1193)に従って平氏との戦いに従軍、豊後国において平氏軍を背後から攻めるなどして勝利に貢献、頼朝から特に功労あった御家人12名に対し感状を賜りますが清重もその名誉を受けています。
清重の功労は枚挙に暇がありませんが、特筆すべきは文治5年(1189)における奥州藤原氏征伐に従軍した事です。
頼朝の命により伊達郡阿津賀志山の合戦では殊勲をたて、清重はその戦功により胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡を含む数ヶ所の所領を与えられ同時に陸奥国御家人統制の職務を命ぜられ、これ以後中世を通じて葛西氏が奥州の有力武士として発展する基礎となります。
頼朝以後についても北条氏に協力する立場を貫き梶原景時追放には御家人側についており、また秩父一族主流の畠山重忠(はたけやま・しげただ、1164~1205)討伐の際には北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)に与して幕府軍の先陣を勤め、更に和田義盛(わだよしもり、1147~1213)の乱でも幕府軍の一員として活躍、戦後幕府より戦功あったとして壱岐守に任ぜられます。
上記の如く葛西清重は源将軍三代及びそれ以降の公家将軍について幕府の主流派側に立つ有力な御家人として活躍したとされ、秩父一族では庶流の立場ではありましたが主流の一族が先に滅亡する中で終始幕府の中心に位置していた実力者であったといえます。
2023年9月3日追記
葛西清重墓の脇に建立の説明板には下記のごとく説明されています。
『 東京都指定旧跡 葛 西 清 重 墓
所在地 葛飾区四つ木1-25-8 西光寺墓地内
葛西清重(1162~1238)は、鎌倉時代の御家人です。葛西氏は平安時代末期から下総国葛西地域に勢力を持つ豪族でした。清重は、源頼朝の挙兵に応じて平氏追討のため西国に赴き、また奥州藤原氏征伐にも参加して功績を挙げ、奥州総奉行として奥州支配の任に当たりました。そののちも、梶原景時の乱の鎮圧に功を成し、壱岐守まで進みました。草創期の鎌倉幕府において頼朝の信頼の厚い重臣でした。この墓は、清重の墓と伝えられているものです。
平成24年3月 東京都教育委員会 』
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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西光寺墓地
外壁から墓地内部を捉えます。 -
西光寺本堂
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西光寺本堂
嘉禄元年(1225)の創立とされています。 -
西光寺山門
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西光寺山門正面
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西光寺石標
「天台宗西光寺」と刻された石標が見えます。 -
西光寺説明板
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西光寺本堂
寺伝によりますと親鸞が関東布教のおり清重の館に滞在、その際清重は親鸞に帰依して弟子となり、自ら開基となって館の一隅に寺院を創建し西光房と号したということです。 -
扁額
本堂に掲示されている「超越山」と書かれた扁額があります。 -
西光寺本堂記念石碑
「本堂落慶法要厳修祈念之碑」が建立されています。 -
西光寺境内風景
本堂から境内を捉えます。 -
西光寺鐘楼堂
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西光寺境内風景
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記念石碑
西光寺開山750年記念石碑が建立されています。 -
境内に建つ地藏
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境内に建つ地藏
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清重稲荷
境内に小振りな清重稲荷が祀られています。 -
清重稲荷
小さな狐たちが多数顔を見せています。 -
西光寺裏門
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葛西清重廟
西光寺を出て寺壁を廻り暫く歩きますと葛西清重廟が現れます。この廟がどうして寺の外にあるのか判りません。往時は西光寺境内は広くこの地は寺の中にあったのかもしれません。 -
イチオシ
葛西清重供養塔
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イチオシ
葛西清重供養塔
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イチオシ
葛西清重墓
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葛西清重廟内部
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葛西清重説明板
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