2013/07/07 - 2013/07/07
1070位(同エリア1836件中)
まみさん
2013/07/07日 モスクワ観光1日目
・赤の広場<世界遺産>
カザンの聖母聖堂
ヴァスクレセンスキー門のイベルスカヤ礼拝堂
・国立歴史博物館(約3時間)
・革命広場と観光案内所
・劇場広場
ロシア青年劇場のBox Office でバレエ「ジゼル」のチケットをゲット
・民芸品博物館(約1時間半)
【モスクワ泊:マキシマ・パノラマ・ホテル】
いくら本日の本命だからといって、やばいでしょう、これは───。
と、途中から思ったくらい、時間をかけて写真を撮りまくってしまった国立歴史博物館。
しかも、価値ある、宝物のような展示ぞろいの中で、私はほんとのところはその歴史的価値が分かっているとは言い難いのです。
工芸美術品のような目で見てしまうため。
でも、近世の展示から、なんとか私の頭の中にあるロシア史と展示が結びついてきました。
ロシアや東欧諸国を含めたヨーロッパ史をひもとくと、中世に早くに大国として栄えた国より、その当時は辺境の田舎にすぎなかった後進国ほど、あとからどんどん力をつけて、歴史の表舞台で大きな顔をするようになっています。
これまで東欧諸国を旅行していたときも、国立歴史博物館が楽しみなので欠かさず回ってきましたが、つくづくそう思いました。
ロシア以外のそれらの東欧諸国が国家や民族の誇りとする心の支えは、中世に大国だった歴史に根ざしていることが多いです。
そういったかつての大国が、だんだんと、モスクワ公国から発展したロシア、そしてソ連にのみ込まれていきました。
日本でいう「世界史」で裏舞台に追いやられてしまったそんな諸国の歴史に触れるのが、私の東欧旅行の楽しみの一つだったりします。
でも、久しぶりのロシアは、そんな諸国をのみ込んで表舞台に出てきた、まぎれもない後進の大国でした。
写真を撮りすぎて3本に分けたモスクワの国立歴史博物館の旅行記の中編は、そんな辺境の田舎の国だったロシアが台頭してくる時代の展示が中心です。
<2013年ロシア旅行:簡易旅程>
7/06土 出国&モスクワ到着
7/07日 モスクワ1日目(国立歴史博物館と民芸品博物館)★
7/08月 モスクワ2日目(クレムリン)
7/09火 モスクワ3日目(トレチャコフ美術館)
7/10水 ズズダリ
7/11木 ウラジーミル
7/12金 モスクワ4日目(コローメンスコエ)
7/13土 ペトロザヴオーツク経由でキジ島へ
7/14日 ソロヴェツキー島1日目
7/15月 ソロヴェツキー島2日目(ザヤツキー島エクスカーション)
7/16火 サンクトペテルブルグ1日目(ロシア民族学博物館ほか)
7/17水 サンクトペテルブルグ2日目(エルミタージュ美術館)
7/18木 パヴロフスク宮殿&庭園
7/19金 ノヴゴロド1日目
7/20土 ノヴゴロド2日目
7/21日 サンクトペテルブルグ3日目(宗教博物館・ユスポフ宮殿ほか)
7/22月 サンクトペテルブルグ4日目(ロシア美術館)&出国
7/23火 成田空港着
※この旅行記の対象の日に★印をつけました。
詳細旅程はこちら。
「2013年ロシア旅行~13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現させた旅行【旅程一覧】」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10797557
準備編や帰国後の全体の感想は、ブログ「まみ's Travel Diary」(http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/)に掲載しました。
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- その他
-
他部族から花嫁を略奪したエピソードの絵
ではないかと推測。
ただ、赤ん坊をさらっているようにも見えます。
カトリック圏内だと、ヘロデ王による「幼児虐殺」をテーマにしたものだと思ったかもしれません。
でもこれはおそらく、キエフ・ルーシのウラジーミル1世のポロツク公女ログネダの略奪の図、少なくともそういった歴史上のエピソードを描いただろうと思います。
さらわれた女性はログネダではないかもしれませんが、覚書としてログネダの説明をウィキペディアフリー百科事典から補足を加えて一部引用します。
「『原初年代記』(12世紀初頭にキエフのペチェールスカ大聖堂の僧ネストルによって書かれた、日本人にとっての日本書紀や古事記のようなもの)に基づいた、ログネダの生涯は以下のようなものである。
ログネダは父と共にポロツク(現ベラルーシ)で暮らしていた。980年、ノヴゴロド公だったウラジーミル1世が求婚したが、ログネダは「奴隷の息子の履物を取るのはいやです」とウラジーミルを評して求婚を拒絶し、キエフ大公ヤロポルク1世との結婚を望んだ。978年もしくは980年、ウラジーミルはヴァリャーグ等(スウェーデン・バイキング)と共にポロツクを侵略し、ログネダの2人の兄弟と父・ログヴォロドを殺した。さらに、キエフを攻めてヤロポルク1世を殺し、キエフ大公となってログネダを強制的に妻とした。伝説では、この時にログネダはゴリスラヴァ(悲しみの意)という名を授かったという。ウラジーミルには多くの妻と妃がおり、ログネダはルイベチ川の辺の街に置かれ、4人の息子と2人の娘が生まれた。988年には、ログネダの子イジャスラフがポロツクに配置されている。ログネダはおそらくイジャスラヴリ(現ベラルーシのザスラーウエ)で、1000年ごろ死去した。」
(ウィキペディアフリー百科事典「ログネダ」より引用) -
第9室 ノヴゴロド公国
天井画や壁画が美しい部屋でした。
クロスフィルターを装着しているので、シャンデリアの光がきらきらに撮れました。 -
壁に描かれたノヴゴロドのクレムリン
写真を撮った時点ではまだノヴゴロドに行っていないので、たぶんそうだろうと推測。
そして旅程の終わりの方にあるノヴゴロド訪問がますます楽しみになりました。
実際にノヴゴロドに行って帰国した今、見ても、現在のものとは少し違いますが、これは確かにノヴゴロドのクレムリンだといえると思います。
クレムリンのゲートからヴォルホフ川に架かる橋や、聖ソフィア大聖堂など、現在との共通項が認めらるから。 -
ノヴゴロドのクレムリンが描かれた壁から天井まで
-
ノヴゴロド公国やキエフ・ルーシ公国時代の勢力図とその時代に建てられた教会群のイラスト
はじめはノヴゴロド公国の勢力図かと思ったのですが、一際目立つ地名はキエフやウラジーミルでした。
周りの教会などのイラストは、実際にノヴゴロドもキエフもウラジーミルも行った今は、ひょっとしたらあの教会かも、と心当たりに思えるものがあります。 -
金属製のアクセサリーなど
ペンダントトップやブレスレット、ネックレス、服のボタンや髪飾りかな、と思えるものがありました。 -
ペンダントトップなどのアクセサリー
-
おそらく名高い教会の扉
いまとなってはライオンの顔をかたどった取っての部分に見覚えがあります。
ノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂の西壁にある、聖書の物語が刻まれた青銅の扉です。
ひょっとしたら、いまノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂の西壁にある扉はレプリカでこちらがオリジナル?
あるいはその逆? -
第10室 ウラジーミル1世(聖帝)の間
キエフ・ルーシ公国をキリスト教化して聖人としてあがめられているウラジーミル1世(聖公)にちなんだ展示室です。
「ウラジーミル1世(聖公)
(前略)即位過程で、ポロツクを滅ぼし、公女ログネダを略奪して妻とした。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。モスクワの東に位置するウラジーミルの町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる。
内政においては、ノルマン系のルーシ族の植民を奨励する一方で、980年頃、ルーシに伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗した。こうして、数年後のキリスト教導入に至る。987年に10人の家来たちに各宗教を調査させた報告を聞き、また祖母オリガの洗礼に続き、988年に彼も洗礼を受けた。そして異教の偶像を破壊するよう命じた。
988年にはキリスト教を国教として導入、加えて東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚し、キエフ大公国の権威を上昇させると共に、当時最先端であったビザンツ文化を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。ウラジーミルは12人の息子をキエフ大公国の各地に封じた。近隣との関係はおおむね平穏であったが、ペチェネグ人(8〜9世紀のキプチャク草原の遊牧民の部族同盟。11世紀末にクマンやキプチャクなどのポロヴェツ人の勢力におされて、ビザンツ帝国領内に移住するか、ポロヴェツ人に同化した。)には悩まされた。アンナの死後、ウラジーミルは再婚した。相手はオットー1世の孫娘のひとりであったとする説がある。晩年には、息子ヤロスラフ1世と対立し、これを討つための準備中にキエフ近郊のベレストヴォで死去した(1015年)。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「ウラジーミル1世」より引用) -
天井のシャンデリアが美しい
-
美しい聖人の浮彫と植物モチーフの模様のアーチ
これらはウラジーミル1世にゆかりのある教会の外壁やアーチの入口を模したものでしょう。
ウラジーミルにある世界遺産のドミトリエフスキー聖堂のものがモデルのようです。
実際に撮ってきたドミトリエフスキー聖堂の写真と見比べてみたら、そっくりでした。 -
ウラジーミル1世と思われる浮彫と動物たち
こちらもウラジーミルにあるドミトリエフスキー聖堂の外壁の浮彫のレプリカでした。 -
第11室 ノヴゴロドのムスチスラヴォ礼拝堂の間
この礼拝堂の正確な創建年代は不明ですが、資料では1117年に初めて言及されているそうです。
ちなみに、ノヴゴロドには行ってきましたが、ガイドブックにはムスチスラヴォ礼拝堂は載っていないので、どういう歴史やいわれがあってこの部屋が国立歴史博物館に設けられたのか、残念ながら分かりません。
ただ、キエフ公国に、ムスチスラフという名のキエフ公はいるので、そのゆかりの礼拝堂でしょう。
もしかしたら聖堂の中の礼拝堂で、独立した建物ではないかもしれません。 -
ここでもシャンデリアに注目
独特なデザインです。
ムスチスラヴォ礼拝堂のものを模したのかどうかは分かりません。 -
美しい浮彫とアーチ入口
これはやはり、ムスチスラヴォ礼拝堂のものを模したものでしょう。 -
礼拝堂の宝物など
ろうそく立ては分かりますし、1番上にあるものもろうそくを立てて吊した電灯代わりだと思いますが、アーチ状のものはなんの部分かは不明。
でも美しいです。 -
香油入れか何か
モチーフは想像上の動物。
顔が人間で体が鳥。よく見かけるモチーフです。 -
壁画の聖人
オリジナルかな。 -
壁の美しい浮彫模様のレプリカ
-
聖書の場面と聖人が描かれた扉
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扉の絵の一枚
-
香料入れ
正教会でミサが始まる前に、司祭あるいは助祭か分からないですが、こういった香料入れからあふれる煙をお清めするかのように信者に向かって、あるいはあたりにまくシーンがあります。
シャンシャンと鈴の音も聞こえます。
同じような用途かしら。 -
ペンダントなど
お洒落目的というよりどちらかというと信仰の品のようです。 -
第12室 周辺異部族の脅威
額部分に聖人像の浮彫がある黄金兜 -
人面の四つ足の獣の浮彫のある盾
-
11〜12世紀のポロヴェツ人の石像
ポロヴェツ人は、私にとって「イーゴリ戦記」を下地にしたオペラやバレエ「イーゴリ公」で、イーゴリ公が戦っていた相手の部族です。
オペラやバレエ作品では「韃靼人=タタール人」とされていますが、実際はポロヴェツ人らしいです。
「キプチャクはテュルク系の遊牧民で、11世紀頃ヴォルガ川方面から黒海沿岸のステップに進出し、ペチェネグに代わって新たなルーシ諸国(古代ロシア)の脅威となる。1091年、東ローマ帝国のアレクシオス1世を助けて、バルカン半島のペチェネグ軍を壊滅させるが、キエフ・ルーシに対しては度重なる襲撃と略奪を行い、1096年にはキエフ・ペチェルスキー修道院を焼失させた。12世紀初頭、キエフ・ルーシの公スヴァトポルク2世とウラジーミル2世モノマフは一連のポロヴェツ(キプチャク)遠征を企てて成功を収め、ポロヴェツ(キプチャク)はドン川流域にサルチャク・カンの少数の軍が残る程度となる。サルチャクの弟オトロクは四方のポロヴェツ(キプチャク)を連れてグルジアのダヴィド王に仕えた。1125年、ウラジーミル2世モノマフが没し、ルーシ諸侯の抗争が激化すると、ポロヴェツ(キプチャク)は諸侯によって敵対・協力の関係をとるようになり、定住したり、通婚したりする者が現われた。1170年−1180年代になると、ポロヴェツ(キプチャク)は再びルーシに侵攻し、キエフ公スヴァトスラフ3世や、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公のイーゴリといったルーシ諸侯と激闘を繰り広げた。1223年、2回にわたるモンゴル軍の侵攻により、キプチャクはその版図に組み入れられ、キエフ・ルーシともどもジョチ・ウルス領となる(このためジョチ・ウルスはキプチャク・ハン国とも呼ばれる)。一部のキプチャク人はマジャールの地に移住し、ハンガリーの傭兵となった。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
モンゴルのキプチャク汗と勢力図
ロシアを含む東欧は、13世紀、モンゴル帝国の侵略を受け、キプチャク汗国に組み込まれました。
その時代をロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいます。
「タタールのくびき
13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配をロシア側から表現した用語である。言い換えれば、現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である。(中略)
モンゴル軍の征服は、北西に離れたノヴゴロド公国をのぞくすべてのルーシにおよび、1240年までにはルーシの住民ほとんどすべてがモンゴルへの服属を余儀なくされた。1241年、バトゥ(チンギス・ハーンの孫。ジョチの次男)はハンガリー平原(現在のハンガリー)や現在のポーランドを侵略したところでオゴデイ(モンゴル帝国第2代皇帝)死去の報を聞き、カスピ海北岸まで引き返してヴォルガ川下流に滞留した。この西征により、バトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。ルーシの人びとは、キプチャク族などテュルク系遊牧民が自身よりも東方に本拠を置くモンゴル系遊牧民たちを「タタル」(古テュルク語で「他の人びと」)と呼びならわしていたのにならい、ルーシを征服したかれら東方遊牧民を「タタール」(漢字表記は「韃靼」)と呼んだ。
ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)は、こののち次第に緩やかな連邦へと傾斜していくモンゴル帝国内で自らの自立性を強めていったため、キプチャク・ハン国(金帳汗国)とも呼ばれる。こうしてノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴル帝国の支配下に組み入れられ、ルーシの人びとはモンゴルへの貢納が強制された。このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいる。「タタールのくびき」は、モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も相次いでモンゴルからの自立を果たすまでの200年以上にわたって続いた。ロシアはその後16世紀初め頃までに「タタールのくびき」を完全に脱するが、その後もクリミア半島やヴォルガ川流域、シベリアなど広範囲にひろがるテュルク=モンゴル系の人々を「タタール」と呼んだ。
やがて、ピョートル1世(大帝)によって18世紀前半に創始されたロシア帝国は、この世紀の末までにはタタール諸民族居住域の大部分を支配下に置くこととなった。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
テントの中のハーンに注目
バトゥかな。 -
タタールのくびき時代の服飾品
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タタールのくびき時代のアクセサリー
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第13室 モスクワの被昇天(ウスペンスキー)教会の礼拝堂(1486年)の間
ネグリンナヤ川側から見たモスクワのクレムリンの絵とシャンデリア
「地球の歩き方」によると、観光客がクレムリンに入場できるゲートである2つの塔のうち、トロイツカヤ塔の前は、かつてはネグリンナヤ川が流れていたそうです。
その川に架かったトロイツカヤ橋にちなんでトロイツカヤ塔と名付けられたそうです。
この絵はいまでも流れているモスクワ川からの眺めかと思ったのですが、クレムリンの城壁のすぐ近くまで川が迫り、トロイツカヤ橋と思われる橋がかかっていることから、この川はかつてのネグリンナヤ川からの眺めに思えてきました。 -
ネグリンナヤ川から見たクレムリンの赤い壁と教会広場の教会群
彼方にはキリスト救世主教会も見えます。
でもクレムリンの壁のあの塔は、現存するどれとも似ていません。 -
イコノスタシスの一部の聖人像
テンペラ画みたいに表面つるつる。
カトリック圏だと、2人の聖人がそろっていると、ペトロとパウロかなぁと思うところですが……。 -
キリスト磔の浮彫のある石碑
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聖母子のイコン
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第14室 ルーシとリトアニア関係の展示の間
「リトアニア大公国
(前略)リトアニア人が支配した当初はその領土もいわゆる「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域に限られており、小さな異教国家(非キリスト教国家、Romuva)であったが、複雑な政治的経緯により人口の膨大なルーシ(現在のロシア・スモレンスク地方、ベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域(すなわちヴォルィーニ公国やハールィチ公国の地域)も徐々に広く包含するようになると、そういった地方の支配層も取り込むようになったため結果として大公国全体で徐々に正教徒の東スラヴ人が政治的に優勢となった。原リトアニアでも東スラヴの文化を広く受け入れるようになり、大公国の唯一の公用語として教会スラブ語が採用された。1387年にローマ・カトリックを正式に国教としたが、正教徒の信仰も認められた。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
美しい挿絵入りの書物
何の場面か分からないのが残念。 -
浮彫装飾が美しい教会の扉
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第16室 イワン3世時代
真珠で縁取りされた黄金の十字架
磔されたキリストの頭と足の部分の横木の分だけカトリック教会の十字架より2本多い、ロシア正教会の十字架です。
イワン3世とは、「イワン大帝の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて強力な統一国家を建設した名君と評価される。」(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
イワン3世像かな
「地球の歩き方」の「革命以前のロシアの歴史」から引用すると「イワン3世(大帝、在位1462〜1505年)の治世にいたって、長らく続いたモンゴル民族による支配を脱し、全ルーシを統一することに成功する。モスクワ大公国にはヨーロッパの強国へと成長し、イワン3世はロシア史上初めて“ツァーリ(皇帝)”を自称した。またオスマン・トルコに滅ぼされた東ローマ(ビザンチン)帝国の後継者であることを自認し、帝国の象徴だった“双頭の鷲”を国章とする。」 -
ハンドペインティングが可愛らしい箱
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スプーンほどの大きさの黄金の柄杓
皇帝権力の象徴的なものでしょう。
底の打ち出しの模様の中央は双頭の鷲です。 -
当時の家具〜蓋の裏にハンドペインティングのある衣装箱とイス
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銀器など
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経済の発展を示す展示品〜商取引に使われたと思われる計測セット
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はかりや銀貨
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ハサミみたいだけど入れ物らしい
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厳重な鍵付きの箱
金庫かな。 -
アラビア文字の装飾入りのヘルメット
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第18室 イワン雷帝時代/モスクワ・クレムリンにあるツァーリ(皇帝)のウスペンスキー大聖堂
クレムリンのウスペンスキー大聖堂では、ロシア歴代皇帝の戴冠式のほか、結婚式などの儀礼が行なわれ、モスクワの府主教や総主教の霊廟ともなっています。
中央にあるのは「モマノフの王座」と呼ばれているイワン4世(雷帝)の木造の祈祷所です。
翌日、実際にクレムリンのウスペンスキー聖堂で見てきました。どちらがオリジナル? -
天井のシャンデリア
クレムリンのウスペンスキー大聖堂にあるものを模しています。 -
「モマノフの王座」の屋根部分を下から覗いたところ
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ウラジーミル聖帝のエピソードが描かれた「モマノフの王座」の浮彫彫刻
メイン・エピソードは何かというと、ビザンチン皇帝コンスタンチン・モマノフからルーシへ政権の象徴となる冠と肩衣が授与されたというもので、ルーシがビザンツ帝国の後継を自称するがゆえにそのようなエピソードが描かれたのでしょう。 -
ウラジーミル1世とビザンチン皇帝コンスタンティン・モマノフの出会いの場面かな
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ウラジーミル1世の遠征の場面かな
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敵に勝利した図
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町に攻め入っている図かな
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ウラジーミル1世かビザンチン皇帝コンスタンティン・モマノフのどちらかな
冠の形からするとウラジーミル1世の方かな。
歴代のロシア皇帝の冠は「モマノフの帽子」と呼ばれています。 -
貴石や真珠がちりばめられたオクラード
リーザとはイコンの聖母子の顔や手以外を隠した金属製の覆いで、そのリーザを宝石や真珠でぎっしり飾ったものをオクラードといいます。
これぞロシア正教独特の宗教宝物ってかんじで、豪華のきわみてです。
もとのイコンがないと、オクラード部分だけが残っていて、顔や手のところが空洞でむき出しになってしまいますが、聖母子が顔をよせあっている様子が分かります。
金属部分の半円は光輪。
聖母の頭衣とマントの胸の部分の覆いが貴石や真珠でぎっしりです。
国立歴史博物館編のラストの旅行記(後編)へとづつく。
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この旅行記へのコメント (2)
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- とんびさん 2013/11/15 20:39:56
- 歴史博物館
- すばらしい博物館ですね。ロシアらしいもののオンパレード。モスクワに行けば行かなくっちゃ。写真撮影ができてよかったですね。
キリスト救世主教会はスターリン時代に壊されたのでしたね。壊される映像をみたことがあります。いまは再建されたのでしたっけ。
- まみさん からの返信 2013/11/18 02:41:58
- RE: 歴史博物館
- とんびさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
はい、国立歴史博物館はほんとにすばらしかったです。
1日中いてもよかったくらいですね。日程に余裕があれば。というか来年も再訪したいな〜なんて思っているくらいです。
後半はずいぶんはしょりましたから。
キリスト救世主教会は、再建されていますよ。2000年の初ロシアのときに早速見に行っています。なので今回は割愛、
オリジナルは80年くらいかけて建設しましたが、再建は数年で建ったようです。現代技術のおかげですねぇ。
プールの写真を旅行の予習のときにどこかの資料で見た覚えがあります。
> すばらしい博物館ですね。ロシアらしいもののオンパレード。モスクワに行けば行かなくっちゃ。写真撮影ができてよかったですね。
> キリスト救世主教会はスターリン時代に壊されたのでしたね。壊される映像をみたことがあります。いまは再建されたのでしたっけ。
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