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JR中央総武線中野駅北側、JR中央線と並走した早稲田通りに沿って数々の寺社群があります。従来は都内にありましたがさまざまな事情によりやむなく移転という経緯があり、その中で高徳寺については明治41年に区画整理計画により浅草から現在地に移転しています。<br /><br /><br />高徳寺ホームページには下記の如く説明されています。<br /><br />「 高 徳 寺 由 緒<br /><br />当山は真言宗大谷派に属し、荒居山・法喜院・高徳寺と号する。当山開基は釋了智(しゃくりょうち)である。釋了智は鎌倉時代初期に生まれ、名を佐々木高綱(ささきたかつな、生誕不詳~1214)といった。源氏武士の家系で宇治川の合戦において功名を馳せ、備後国(現在の岡山県)、安芸国(現在の広島県)の守護を命ぜられた時もあったが、時代の波には勝てず、武士の職を辞して出家し高野山にのぼる。その後、稀なご縁にて越後(現在の新潟県)で親鸞聖人と出会い、本願念仏の教えを聞いていく人(真宗門徒)となられた。1100年代に長野県松本に一寺を開き「正行寺(しょうぎょうじ)」とした。<br /><br />そののち代を経て上州(現在の群馬県)新居に移り、「荒居山高徳寺」を建立した。当時の中興の祖は釋宗信(しゃくそうしん)である。本願寺第十三世宣如上人に深く帰依して、元和2年に下総国相馬郡(現在の千葉県久留里)豊田村に移った。<br /><br />その後、江戸時代浅草清島町に移る。明治41年に区画整理計画により現在地に移転し、太平洋戦争中に空襲に遭い、本堂・庫裡(くり)を全焼した。<br /><br />現本堂は昭和57年に再建、書院と新居白石記念ホールは平成7年に完成した。境内墓地内には江戸中期の朱子学者で近代思想家として有名な新居白石夫妻と一門の墓があり、都の旧跡に指定されている」<br /><br /><br /><br /><br />境内に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br />『新居白石墓<br /><br />江戸時代中期の朱子学者。名は君美、通称勘解由、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永6年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房(まなべ・あきふさ、1666~1720)とともに家宣を補佐。<br />正徳の冶を開き、教学と政治の一致につとめた。<br /><br />武家諸法度改訂、貨幣改鋳、船舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などはそのおもな事蹟である。天保元年(1716)引退。学者として特にすぐれた合理性と実証を重んじ、朱子学的思想と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩幹譜」「徳史余論」「西洋記聞」「折たく柴の記」など。』<br /><br />

武蔵中野 鎌倉御家人を辞し僧となった佐々木氏が上州にて寺院創設、江戸時代に将軍家宣に仕え幕府体制を支えた朱子学者新井白石菩提寺『高徳寺』散歩

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2013/04/20 - 2013/04/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR中央総武線中野駅北側、JR中央線と並走した早稲田通りに沿って数々の寺社群があります。従来は都内にありましたがさまざまな事情によりやむなく移転という経緯があり、その中で高徳寺については明治41年に区画整理計画により浅草から現在地に移転しています。


高徳寺ホームページには下記の如く説明されています。

「 高 徳 寺 由 緒

当山は真言宗大谷派に属し、荒居山・法喜院・高徳寺と号する。当山開基は釋了智(しゃくりょうち)である。釋了智は鎌倉時代初期に生まれ、名を佐々木高綱(ささきたかつな、生誕不詳~1214)といった。源氏武士の家系で宇治川の合戦において功名を馳せ、備後国(現在の岡山県)、安芸国(現在の広島県)の守護を命ぜられた時もあったが、時代の波には勝てず、武士の職を辞して出家し高野山にのぼる。その後、稀なご縁にて越後(現在の新潟県)で親鸞聖人と出会い、本願念仏の教えを聞いていく人(真宗門徒)となられた。1100年代に長野県松本に一寺を開き「正行寺(しょうぎょうじ)」とした。

そののち代を経て上州(現在の群馬県)新居に移り、「荒居山高徳寺」を建立した。当時の中興の祖は釋宗信(しゃくそうしん)である。本願寺第十三世宣如上人に深く帰依して、元和2年に下総国相馬郡(現在の千葉県久留里)豊田村に移った。

その後、江戸時代浅草清島町に移る。明治41年に区画整理計画により現在地に移転し、太平洋戦争中に空襲に遭い、本堂・庫裡(くり)を全焼した。

現本堂は昭和57年に再建、書院と新居白石記念ホールは平成7年に完成した。境内墓地内には江戸中期の朱子学者で近代思想家として有名な新居白石夫妻と一門の墓があり、都の旧跡に指定されている」




境内に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。

『新居白石墓

江戸時代中期の朱子学者。名は君美、通称勘解由、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永6年(1709)家宣が将軍になると幕臣として、間部詮房(まなべ・あきふさ、1666~1720)とともに家宣を補佐。
正徳の冶を開き、教学と政治の一致につとめた。

武家諸法度改訂、貨幣改鋳、船舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などはそのおもな事蹟である。天保元年(1716)引退。学者として特にすぐれた合理性と実証を重んじ、朱子学的思想と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩幹譜」「徳史余論」「西洋記聞」「折たく柴の記」など。』

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 高徳寺・本堂<br /><br />正門から参道を見ますと本堂が正面に在ります。

    高徳寺・本堂

    正門から参道を見ますと本堂が正面に在ります。

  • 高徳寺本堂・扁額<br /><br />「荒居山」と書かれた扁額が見えます。

    高徳寺本堂・扁額

    「荒居山」と書かれた扁額が見えます。

  • 新居白石・説明板

    新居白石・説明板

  • 新居白石・墓所<br /><br />右手に新居白石墓所案内板が見えます。

    新居白石・墓所

    右手に新居白石墓所案内板が見えます。

  • 新居一族墓

    新居一族墓

  • 新居白石・墓<br /><br />延宝3年(1675)から延宝7年(1678)までと、元禄4年(1691)から元禄6年(1693)までとの2度に亘って当寺に寄宿した経緯があります。

    イチオシ

    新居白石・墓

    延宝3年(1675)から延宝7年(1678)までと、元禄4年(1691)から元禄6年(1693)までとの2度に亘って当寺に寄宿した経緯があります。

  • 白石夫人墓

    白石夫人墓

  • 新居一族墓

    新居一族墓

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