2013/04/20 - 2013/04/20
116位(同エリア202件中)
滝山氏照さん
JR中央総武線東中野駅西口から徒歩で約10分、東護山・願正寺(がんしょうじ)は徳川家康の関東入府の天正18年(1590)の創建で浄土真宗大谷派の寺院で、日米通好通商条約批准書交換大使であった新見豊前守正興(しんみ・ぶぜんのかみ・まさおき、1822~1869)の墓所あります。
日米修好通商条約批准書交換の為幕府使節団は米艦ポータハンにて安政7年1月18日品川を出港します。使節団は幕府役人は20名の他従者の立場で諸藩の武士も加わって総勢77名となります。
使節団の正使となったのが外国奉行兼神奈川奉行の新見豊前守正興で、安政6年(1859)小姓番組頭から外国奉行に転じたばかりで特段の実績がなく、同行者の中には目付役として小栗忠順(おぐり・ただまさ,1827~1868)が控えています。新見については温厚な性格だが官吏としての才能は乏しいとの厳しい評価があったようです。
使節団一行はハワイに立ち寄った後アメリカ本土に上陸、まずサンフランシスコで次にワシントンで盛大な歓迎を受けます。
現地の万延元年5月18日に烏帽子に狩衣装姿でホワイトハウスに入った使節団は当時の大統領ブキャナンと謁見、徳川将軍の親書を手渡します。
同月23日国務省で批准書交換を済ませた使節団は暫く滞在しその間は夜会外交に明け暮れ、とりわけ社交ダンスではチョンマゲと羽織袴姿で対応しますが肌をあらわにした婦人が密着してくる様は生活文化の違いからかなりのショックを受けたようです。
その後使節団一行は政府施設見学をします。ワシントンでは国会議事堂、海軍造船所を、フィラデルフィアでは造幣局をそれぞれ見学します。その中で帰国後横須賀造船所建造や幣制改革を行う際の参考とされます。
帰途はアメリカ軍艦ナイアガラに乗船、大西洋からインド洋に入り万延元年9月27日に日本に帰任し、その功績によって正使の新見正興は300石を、目付屋の小栗忠順は270石をそれぞれ加増されます。
帰国後については当時の世相が攘夷論に傾いており使節団が持ち帰った有形無形の見聞を生かすことができす、また正興自身も幕府内部での考えに合わず慶応2年(1866)12月に隠居、上総国人見村へ帰農、病気療養のため再び上京しますが48歳で没します。
2022年9月15日追記
境内には新見正興に関する説明板があります。
『新見豊前守正興の墓所
新見豊前守正興は、遣米使節の重責をはたした人です。
安政6年(1859)外国奉行に抜てきされ、さきに締結された日米修好通商条約の批准書交換のため、特派使節になりました。
万延元年(1860)アメリカ船ポーハタン号に乗り、咸臨丸とともに品川を出港。
ワシントンではアメリカ大統領に会見して大任を無事にはたし、大西洋経由で帰国しましたが、国内の情勢が急変し攘夷論が盛んななかで、正興は外国での見聞を生かす機会もなく、元治元年(1864)職を免ぜられました。
明治2年、48歳で病没し、牛込原町(新宿区)に葬られましたが、その墓は大正の初め寺とともに現在地へ移転しました。
大正7年、モーリス、アメリカ全権大使が、また昭和35年には駐日大使ダグラスマッカーサー2世が墓を訪れ花を捧げました。
昭和56年3月
中野区教育委員会 』
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