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JR東中野駅より北進徒歩で約15分、萬昌院・功運寺(こううんじ、東京都中野区上高田)には赤穂浪士討入りで殺された吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ、1641~1703)、戦国時代に桶狭間で殺害された今川義元の息子らの墓等があります。<br /><br />吉良家は徳川幕府で三河国幡豆郡吉良庄を始め全国に11カ村の合わせて4200石を所領とする高家の旗本です。本姓は源氏、具体的には清和源氏の足利家庶流で、鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権を持ったまま分家した士族です。<br /><br />のちに室町幕府創設した足利将軍家が途絶えた時には吉良家から将軍を出すように言われたほどの名門の家柄ですが、実際は将軍家に重用されることもないまま戦国時代を低迷、徳川幕府時代に至っては源氏を源流とする足利家の後裔ということで高家として旗本に取り立てられた経緯があります。<br /><br />遡ること昭和23年までは久實山萬昌院と竜谷功運寺という別々の寺院でした。双方の寺院が合同された経緯は下記の通りです。<br /><br />久實山萬昌院は駿河守護今川義元の三男今川(一月)長得(いまがわ・ちょうどく、生没不詳)が天正2年(1574)に沸照圓鑑禅師を招いて半蔵門に開かれ、その後幾度か移転して大正3年(1914)に牛込から中野に移転します。<br /><br />他方竜谷山功運寺は、慶長3年(1598)に永井尚政が父尚勝や祖父重元のため、黙室芳蘭禅師を招いて桜田門外に開き、幾度か移転を繰り返し大正11年(1922)に三田から現在の中野に移転します。<br /><br /><br />2023年8月7日追記<br /><br />現場墓所の近くに建てられた説明板には下記の記述があります。<br /><br />『 吉良家の墓所<br /><br />この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のちに新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正2年現在地に移ってきました。<br /><br />幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・吉央の4代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起は、どれも外方に向かって突出するなど江戸時代の作風を示してぢます。<br /><br />義央の石碑面に「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。<br /><br />なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。<br /><br />    昭和56年3月<br />               中野区教育委員会 』<br /><br /><br /><br /><br />

武蔵中野 足利将軍家に次ぐ名門家柄ながら役割なく徳川時代に高家旗本に取り立てられた吉良上野介義央墓所となる『功運寺』散歩

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2013/04/20 - 2013/04/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR東中野駅より北進徒歩で約15分、萬昌院・功運寺(こううんじ、東京都中野区上高田)には赤穂浪士討入りで殺された吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ、1641~1703)、戦国時代に桶狭間で殺害された今川義元の息子らの墓等があります。

吉良家は徳川幕府で三河国幡豆郡吉良庄を始め全国に11カ村の合わせて4200石を所領とする高家の旗本です。本姓は源氏、具体的には清和源氏の足利家庶流で、鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権を持ったまま分家した士族です。

のちに室町幕府創設した足利将軍家が途絶えた時には吉良家から将軍を出すように言われたほどの名門の家柄ですが、実際は将軍家に重用されることもないまま戦国時代を低迷、徳川幕府時代に至っては源氏を源流とする足利家の後裔ということで高家として旗本に取り立てられた経緯があります。

遡ること昭和23年までは久實山萬昌院と竜谷功運寺という別々の寺院でした。双方の寺院が合同された経緯は下記の通りです。

久實山萬昌院は駿河守護今川義元の三男今川(一月)長得(いまがわ・ちょうどく、生没不詳)が天正2年(1574)に沸照圓鑑禅師を招いて半蔵門に開かれ、その後幾度か移転して大正3年(1914)に牛込から中野に移転します。

他方竜谷山功運寺は、慶長3年(1598)に永井尚政が父尚勝や祖父重元のため、黙室芳蘭禅師を招いて桜田門外に開き、幾度か移転を繰り返し大正11年(1922)に三田から現在の中野に移転します。


2023年8月7日追記

現場墓所の近くに建てられた説明板には下記の記述があります。

『 吉良家の墓所

この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のちに新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正2年現在地に移ってきました。

幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・吉央の4代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起は、どれも外方に向かって突出するなど江戸時代の作風を示してぢます。

義央の石碑面に「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。

なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。

    昭和56年3月
               中野区教育委員会 』




交通手段
JRローカル 徒歩
  • 周辺仏閣地図

    周辺仏閣地図

  • 萬昌院功運寺<br /><br />石標には「萬昌院 功運禅寺」と刻されています。江戸時代はそれぞれ別の寺院で幾度の移転を重ね、昭和23年に合同しています。

    萬昌院功運寺

    石標には「萬昌院 功運禅寺」と刻されています。江戸時代はそれぞれ別の寺院で幾度の移転を重ね、昭和23年に合同しています。

  • 菩提所一覧<br /><br />吉良上野介義央(高家筆頭)、水野重郎左衛門、今川長得、長沼国郷、綱郷、歌川豊国、栗崎堂有、林文子の名前が見えます。

    菩提所一覧

    吉良上野介義央(高家筆頭)、水野重郎左衛門、今川長得、長沼国郷、綱郷、歌川豊国、栗崎堂有、林文子の名前が見えます。

  • 吉良上野介説明板

    吉良上野介説明板

  • 功運寺山門

    功運寺山門

  • 功運寺本堂<br /><br />宗派は漕洞宗、山号は龍實山、寺号は萬昌院功運寺、本尊は釈迦牟尼佛となっています。

    功運寺本堂

    宗派は漕洞宗、山号は龍實山、寺号は萬昌院功運寺、本尊は釈迦牟尼佛となっています。

  • 功運寺本堂

    功運寺本堂

  • 功運寺境内<br /><br />併設の幼稚園があり、送迎バスが駐車しています。

    功運寺境内

    併設の幼稚園があり、送迎バスが駐車しています。

  • 墓所配置表<br /><br />番号が振られていますから当寺に眠る著名人の位置がすぐわかります。

    墓所配置表

    番号が振られていますから当寺に眠る著名人の位置がすぐわかります。

  • 今川家の墓<br /><br />萬昌院開基、今川(一月)長得は駿河守護である今川義元(いまがわよしもと、1519?1560)の三男で、義元の後を継いだ氏真(うじざね、1538~1615)から萬昌院が菩提寺となります。そして今川家の菩提寺が勧泉寺(杉並区)に移転するまで墓所でした。<br />

    今川家の墓

    萬昌院開基、今川(一月)長得は駿河守護である今川義元(いまがわよしもと、1519?1560)の三男で、義元の後を継いだ氏真(うじざね、1538~1615)から萬昌院が菩提寺となります。そして今川家の菩提寺が勧泉寺(杉並区)に移転するまで墓所でした。

  • 武蔵石寿(むさしせきじゅ)墓<br /><br />江戸時代後期の武士で博物学者です。<br /><br />

    武蔵石寿(むさしせきじゅ)墓

    江戸時代後期の武士で博物学者です。

  • 吉良上野介(義央)の墓<br /><br />「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の墓所で、吉良家は高家で、上野介は茶道吉良流の家元でもあります。

    吉良上野介(義央)の墓

    「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の墓所で、吉良家は高家で、上野介は茶道吉良流の家元でもあります。

  • 吉良邸討死忠臣墓誌<br /><br />赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際、吉良側で戦った忠臣たちの氏名が刻されています。

    吉良邸討死忠臣墓誌

    赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際、吉良側で戦った忠臣たちの氏名が刻されています。

  • 歌川豊国(初代・二代・三代)の墓<br /><br />浮世絵師で初代は歌川春英に学び、美人風俗画に秀でて併せて役者絵にも数々の作品を出しています。

    歌川豊国(初代・二代・三代)の墓

    浮世絵師で初代は歌川春英に学び、美人風俗画に秀でて併せて役者絵にも数々の作品を出しています。

  • 栗崎道有の墓<br /><br />南蛮外科医で吉良上野介が浅野内匠頭によって殿中で傷を負わされた時、道有が手厚く治療したこと、更に忠臣蔵浪士が吉良邸討ち入り後、上野介の首と胴体を縫い合わせたことで知られています。

    栗崎道有の墓

    南蛮外科医で吉良上野介が浅野内匠頭によって殿中で傷を負わされた時、道有が手厚く治療したこと、更に忠臣蔵浪士が吉良邸討ち入り後、上野介の首と胴体を縫い合わせたことで知られています。

  • 石井潭香の墓

    石井潭香の墓

  • 林芙美子の墓<br /><br />作家で「放浪記」や「浮雲」などの作品を出しています。

    林芙美子の墓

    作家で「放浪記」や「浮雲」などの作品を出しています。

  • 長沼国郷(ながぬまくにさと)の墓<br /><br />長沼家は真影流(じきしんかげりゅう)の家柄で国郷(くにさと)は特に有名で、現在の剣道の防具を完成させています。

    長沼国郷(ながぬまくにさと)の墓

    長沼家は真影流(じきしんかげりゅう)の家柄で国郷(くにさと)は特に有名で、現在の剣道の防具を完成させています。

  • 長沼活然斎(綱郷)の墓<br /><br />国郷の養子、綱郷が沼田藩に仕官して流派を広めます。

    長沼活然斎(綱郷)の墓

    国郷の養子、綱郷が沼田藩に仕官して流派を広めます。

  • 糟谷武則の墓<br /><br />戦国時代の武将で賎ケ岳七本槍の一人として知られています。

    糟谷武則の墓

    戦国時代の武将で賎ケ岳七本槍の一人として知られています。

  • 水野重左衛門の墓<br /><br />江戸時代の旗本で旗本奴の首領として市中を横行無頼のため、幕府より素行不良の罪により切腹を命ぜられます。

    水野重左衛門の墓

    江戸時代の旗本で旗本奴の首領として市中を横行無頼のため、幕府より素行不良の罪により切腹を命ぜられます。

  • 永井家の墓<br /><br />功運寺開基である永井尚政(ながいなおまさ、1587~1668)より永井家の菩提寺となります。永井家の墓域には将軍家綱の法要の最中に浅野内匠頭の叔父内藤忠勝に殺された永井尚長(ながいなおなが、1654?1680)の墓もあります。<br />

    永井家の墓

    功運寺開基である永井尚政(ながいなおまさ、1587~1668)より永井家の菩提寺となります。永井家の墓域には将軍家綱の法要の最中に浅野内匠頭の叔父内藤忠勝に殺された永井尚長(ながいなおなが、1654?1680)の墓もあります。

  • 功運寺鐘楼堂

    功運寺鐘楼堂

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