2013/04/20 - 2013/04/20
112位(同エリア193件中)
滝山氏照さん
JR中央・総武線東中野駅より徒歩約8分、正覚山・宝泉寺(ほうせんじ、東京都中野区上高田)は永禄5年(1562)、駒込吉祥寺三世・圭隆大和尚により江戸清水門外に創建された曹洞宗の寺院です。その後、慶長年間に田安門外に移転、更に元和2年(1616)には江戸城拡張のため牛込横寺町に移りました。その後、明治41年(1909)現在地に移転しました。
宝泉寺は、奥州中村・相馬家。奥州福島、備中庭瀬の板倉家の菩提寺であり、両家の立派な墓石があります。中でも島原の乱の時の幕府総指揮官であった板倉内重昌(いたくら・しげまさ、1588~1638)の墓は有名です。(宝泉寺HP)
2022年9月14日追記
板倉正重に関する説明板には次の通り記述されれいます。
『 板倉内膳正重昌の墓所
この法泉寺には、板倉内膳正重昌の墓所があります。高さ約3メートルの五輪塔の中央には劔峯源光大居士、その右に寛永15年戌寅歳(1638)、左に正月朔日と刻まれています。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日にあたり、金石資料としても貴重なものです。
明治41年、牛込横寺町(新宿区)から移転してきました。
重昌は、京都所司代板倉勝重の第三子で、のち三河(愛知県)の深溝城主となりました。若くして徳川家康の近習となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」・「君臣豊楽」の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏の滅亡へと進んでいきました。
寛永14年(1637)島原の乱が起ると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励し、万徒の鎮定につとめました。しかし、強い抵抗にあって果たさず、幕府は再び老中松平信綱を派遣して指揮にあたらせることにしたため、責任を痛感した重昌は、翌年元旦「原城」を総攻撃し、自らも戦死をとげました。
中野区教育委員会 』
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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中野区周辺地図
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宝泉寺・入口
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宝泉寺・山門
小規模山門ですが左右にはしっかりと仁王像が従っています。 -
宝泉寺・社標
山門脇には「漕洞宗宝泉寺」と刻された寺標が立脚しています。 -
宝泉寺・石碑
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宝泉寺・本堂
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本堂に掛かる扁額
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宝泉寺・本堂
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宝泉寺・境内
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宝泉寺・境内
本堂から山門を捉えます。 -
板倉重昌の墓
寛永14年(1637)島原の乱が起きると、幕府の命を受けた重昌は周辺の九州の大名を指揮し鎮圧に努めますが、強い抵抗にあって目的を果たせすことができません。幕府は次に老中松平信綱を派遣して指揮を取らせます。鎮圧に対し責任を感じた重昌は原城を攻撃して自ら戦死してしまいます。 -
板倉重昌の墓(近景)
五輪塔の中央には「剱峯源光大居士」、右には「寛永十五戌寅歳」、左には「正月朔日(しょうがつついたち)」と重昌が戦死した日を刻しています。 -
長坂圓領の墓
長坂圓領(1737?~1760)は江戸時代中期の儒学者。上野国・高崎藩士で、大内熊耳(おおうち・ゆうじ)の門下生となって荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学問を学びます。 -
長坂圓領の墓
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長坂圓領説明文
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宝泉寺・歴代住職墓
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