2013/08/01 - 2013/08/13
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kazimさん
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トルコへの旅はもう20回近い。街々の魅力に惹かれて繰り返す旅だが、現地に友人を得てから一層頻繁になった。中でも特に親しい一家がある。彼らと出会ったのは1998年、黒海沿岸のリゼでのこと。故郷であるリゼを訪れ、同じ黒海沿岸のサムスンへ帰る彼らと、同じバスに乗り合わせた。当時42歳と27歳の兄弟を中心とする一家で、その後、弟はイスタンブールに引っ越したため、私は毎年のように彼の家に泊まっている。対して兄はそのままサムスンで暮らしているが、イスタンブールからバスで半日近くかかるから、私の足は遠のきがちだ。しかし、今年(2013年)はリゼに帰っている兄を訪ね、ともにサムスンに移動して数日を過ごした。黒海地方は地味で旅行者は少ないが、落ち着いた街と温かい人が魅力的な地域だ。この一帯の街々、そして普通のトルコ人である彼らの昔と今を伝えたい。
〈写真 サムスン市街の夜。2013年〉
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
1.リゼ到着
8月5日午前9時半。イスタンブールを前日の夕方5時半に出た夜行バスは、まもなく終着のリゼに着こうとしていた。そのとき私の携帯電話に着信が入る。
「おはよう、もうすぐ着くだろ。イェルザネで待ってるから来い!」
「えっ、イェルザネ? それって何? どこ?」
「セルヴィスのバスに乗ればわかるよ。じゃあな」
それで電話は切れた。相手は、これから数日間やっかいになろうとしている人、ここ15年あまり親しくしている兄弟の兄の方だ。
それにしても「イェルザネ」か。私の語彙にはない言葉。地名なのか特定の建物を示すのかも分からない。折り返し電話を入れようとするうちに、バスはリゼのオトガルに着いた。
〈写真 親友の夫妻と近所の高校生。2013年、リゼ-オルタパザル〉 -
2.親友との再会
「イェルザネ、イェルザネ」と繰り返しながらバスを降りる。
オトガルで待っていると期待していたのだが、こうしたことはよくある。彼らは私のトルコ旅行のスキルを過信している。あるいは、ぼんやり待つのが嫌いなのか。
オトガルから市内の各所に乗客を運ぶセルヴィス・バスのお兄さんにイェルザネを尋ね、そのバスが行くことを確かめた。5分ほど乗った市の中心で「ここがイェルザネ」と降ろされる。
とたんに親友のでかい声が響いた。
「おお、よく来たな」
リゼまで乗ってきたバス会社の営業所で、窓口のお姉さんと話しながら、彼は待っていたのだ。セルヴィスのバスは、こうした営業所で客を降ろす。イェルザネとはここの地名なのだろう。
「じゃ行くぞ」
彼はさっそく歩き出し、少々の買い物をしてからミニバス・ドルムシュに乗り込んだ。
〈写真 リゼの中心部、右上方にイェルザネはある。2013年〉 -
3.リゼ郊外へ
ドルムシュは南側の谷間を分け入る。リゼ市は、南に山を背負い、黒海に沿って広がる人口12万ほどの街だから、すぐに市街は尽き道も細くなる。やがて舗装がなくなり、カーブはきつくなり、数人いた乗客もあらかた下車した後、何もない谷間で降りた。
市街から約20分、8キロほどだろうか。「ここがオルタパザル、家はあそこ」と尾根を指す。その先には数軒の屋根。
肥満体の親友、それに続いてキャリーケースの私が、尾根に向かう坂道をよろよろと登る。あえぎながら彼が言う。
「見てみろ。この辺の茶畑はみんなうちのものだ」
なるほど、尾根への道の周囲は一面の茶畑。上り詰めて見回しても、数本の樹木を除いては、小山の上まですべてが茶畑だ。その間を縫う小道に出てしばらく歩き、彼らの「夏の家」に着いた。
2階建ての建物のうち、1階を人に貸し、2階で彼らは暮らしている。台所兼食堂と、映りが悪いテレビがある居間、そして寝室が2つ。私はその1つをあてがわれた。冷水がそのまま出るシャワーと、古いトルコ式の(紙を使わないのが原則の)トイレ。
〈写真 親友の妻と近所のおばさんたち。2013年、リゼ-オルタパザル〉 -
4.オルタパザルの家
近所に出ていた妻を谷間に響き渡る大声で呼び出す。気が利く彼の奥さんは、再会の挨拶もそこそこに「疲れてない? 何か食べる?」と訊ねてくれる。
「少しお腹が減っているのと、夜行バスで疲れたからしばらく寝かせて」
私が言うと即座に食事を用意してくれた。この日はまだイスラム教のラマザン期間であり日の出から日没まで食事をしないのだが、旅行者の私は免除される。親友も構わず食べるが、断食をしている奥さんは見ているだけだ。
空腹を満たした私は、しばらく眠らせてもらった。
〈写真 家からの景色は一面の茶畑。2013年、リゼ-オルタパザル〉 -
5.チャイと一家
彼らは、お茶「チャイ」の収穫がある夏の1ヶ月あまりをこの家で暮らす。「夏の家」と呼ぶゆえんである。
ただし、親友はこの家で生まれている。彼の父親がこの茶畑を手に入れ家を建てたのは、60年以上も前のこと。その後、30年ほど前に一家はサムスン市内に家を買って引っ越した。しかし、この茶畑も家も手放さず、おりおり戻ってくる。特にお茶の収穫時期には、必ずやって来て人を雇いながら自分たちも収穫作業をする。今は3番茶の収穫が終わり、仕事は一段落とのことだ。
お茶「チャイ」はトルコ人にとって重要な飲み物だ。小さいグラスに注がれたチャイを1日に何杯も飲む。渇きを癒すだけでなく、人との対話のアクセントにもなっている。そういうチャイは割のよい換金作物なのだろう。彼らの父親はチャイだけで新しい家を建てた。
〈写真 仲睦まじい親友夫妻。2013年、リゼ-オルタパザル〉 -
6.一家のルーツ
彼の一族を紹介しよう。
まず彼の父は上記のように、このオルタパザルの家を建て、またお茶の稼ぎでサムスン市にも家を建てた人だ。私が1998年に出会ったときにはすでに高齢で、2002年頃に亡くなった。お墓はオルタパザルの家のすぐ隣にある。母親は早くに亡くなったそうで、私は会ったことがない。
奥さんはリゼに近いスュルメネ出身で、彼との間に娘と息子が1人ずついる。
娘はすでに嫁いで家を出ている。息子も昨年結婚し、彼らは息子の新妻とともに4人で、基本的にはサムスン市内で暮らしている。
〈写真 はしゃぐ奥さんと幼かった頃の子どもたち。2000年、サムスン〉 -
イチオシ
7.イスタンブールの分家
彼には3人の兄弟姉妹がある。
姉はオルタパザルの近くに嫁いでおり、その家にはこのあと訪問することになる。
妹はイスタンブールに嫁いだ。
弟は、サムスンで仕事を得たが、2000年代はじめにイスタンブールに引っ越した。その家がイスタンブールでの私の「定宿」であり、彼の家と妹の嫁ぎ先が近いので、弟宅を訪れるたびに、姉の家にも顔を出す。
〈写真 左から弟の娘、妹、立っている人の腕に隠れ気味の弟の妻、右端が弟。2013年、イスタンブール〉 -
8.気候は爽やか
仮眠を取った私は肌寒さに目を覚ました。半袖と短パンでは寝冷えをする。
8月の上旬である。前日まで滞在していたイスタンブールも、今年は比較的に涼しかったが、それでも30度はあり、半袖シャツと短パンがふさわしい。天気予報を見れば、イズミルやアンタルヤなどのエーゲ海・地中海地方では35度、シリアの砂漠に近い一帯では40度と標示されている。
トルコじゅうを旅した頃を思い出した。灼熱地帯を回ってヘトヘトになった後、黒海沿岸地方に来ると、涼しくてほっとしたものだ。海に近いから湿度はあり、日差しもそれなりに強いが、気温は最高でも25度程度か。もちろん夜間はもっと下がる。
ここオルタパザルは、リゼ市街から少し登り、さらに空気は澄み切って風が心地よい。お茶の収穫が終わっても彼らがここに残るのは、気候が良いからだと言う。ただし冬は雪がかなり深いそうだ。
「涼しいね」と言って起き出したら、奥さんがストーブを炊いた。8月にストーブ?と思うが、決して暑さは感じない。
〈写真 オルタパザルの澄み切った空気。2013年〉 -
9.ご近所散策
ストーブで体が温まり、外に出てみる。尾根道をしばらく歩き、彼らの知り合いの家を訪問した。おばあさんと奥さん、その娘が住む家で、夏だけ住む親友夫妻とは異なり、ここで暮らしていると言う。
花が咲き乱れる庭でしばらく話をする。断食中なのでお茶が出ないのは、しかたがないけれど残念。
その代わりたくさんの写真を撮った、というか撮らされた。後で書くようにトルコの庶民は写真が大好きだ。この写真以外に1や3もこのときのものだ。高校生の女の子が素朴でかわいい。
〈写真 花咲く庭で。2013年、リゼ-オルタパザル〉 -
10.「カッフェ」へ
話し込むうち、日が傾いた。夕食の時間が近い。日没と同時に断食の終了が告げられるのだ。朝から何も口にしなかった人たちにとって、「イフタル」というこの夕食は待ち遠しかったもの。まずは水から始まり、十数時間分の空腹を満たす奥さんとともに、断食に無縁の親友と私もご相伴にあずかる。
日がとっぷりと暮れた頃、彼が「カッフェに行こう」と誘った。私にはある予測がある。
懐中電灯で道を照らしながら、ドルムシュで登ってきた道を1キロほど下り、彼が入ったのは、案の定、男たちがたむろする「クラアトハネ」だった。これを「カッフェ」と言うのは彼一流のジョークだ。
この「クラアトハネ」を日本語でどう説明したものか。手元のトルコ語辞書には「読み物のある喫茶店」とあるが、「雀荘」とするのが最もふさわしく感じる。ここでトランプをするのが、親友の最大の楽しみなのだ。
〈写真 クラアトハネでの親友。左から2人目の楽しそうな顔。2008年、サムスン〉 -
11.友のクラアトハネ人生
雀荘たる「クラアトハネ」だが、もちろん麻雀牌は置いていない。そのかわり、麻雀もできそうな4人掛けのテーブルと「オーケイ」というトルコ独特の卓上ゲームやトランプが用意されている。客は100%男だ。三々五々集まってきた彼らが相手を見つけ、これらのゲームを行う。無関係に新聞を読んでいる人や観戦するだけの人もいる。
入店した客たちは必ずチャイなどの飲み物を頼む。これが店の稼ぎになるらしい。だから「喫茶店」的な要素があることも確かだ。
雀荘がそうであるように、こうしたゲームが行われればいくらかの金が賭けられる。大部分は負けた者がチャイの代金を払うという程度だ。だから、ゲームに参加している者は観戦の者にまで気前よくチャイをふるまう。自分が負けるとは誰も思っていないのだ。
親友と出かけると、必ずこのクラアトハネに連れて行かれる。これが彼の日常で、観光地を案内しようなぞという気は全くない。
私ももう慣れた。負けるつもりのない太っ腹な連中が勧めるチャイをいただきながら、他の人と話したり、新聞を読んだりして過ごす。
この夜、オルタパザルただ1軒のクラアトハネは大盛況で、この谷間のどこにいたのかと思うほどの男たちが集まっていた。断食月の終了が目前、その後の祭りを故郷で迎えるために、都会から多くの人たちが帰ってきているのだ。
結局ここで3時間ほどを過ごした。店内に掲示されている最終ドルムシュの時刻も過ぎ、谷間の上り坂を歩くのかと心配していると、帰りはヒッチハイクで車を拾った。
〈写真 クラアトハネの看板娘。2008年、サムスン〉 -
12.ラマザンの客
オルタパザルの家に客がやってきた。親友の姉の娘とその子どもだ。この人たちも、ラマザンからその後の祭りに合わせて田舎へ帰ってきた。普段はイスタンブールのキュチュクチェクメジェ地区に住んでいると言う。この地区はアタチュルク空港に近いが、親友の弟らが住むアジア側のウラムニエ地区と並び、東部から出てきた人が多く暮らしている。
子どもに日本のチョコレートをあげれば、たちまち食べ尽くし、空き箱を大事そうにカバンにしまう。
客人は1晩泊まり、私はそのまま1部屋、客人と親友の奥さんが隣の寝室、親友は居間のソファーで寝たようだ。
〈写真 イスタンブールからの客と。2013年、リゼ-オルタパザル〉 -
13.姉の宅へ
「今日は、リゼの街へ行くぞ」と親友が言う。
「その前に、姉さんの家に見舞いだ」と付け足す。
リゼに向かう道の半ばあたりのペレヴァンタシュという地区に彼女の家がある。道々訊ねれば、彼女のご主人が癌だと言う。入院していたが、末期で家に戻されたとのこと。
観光地には連れて行かない彼らであり、クラアトハネ通いに付き合うことはほぼ毎日、知り合い宅への訪問に誘われるのもしばしばだが、末期癌患者の見舞いとは私にもためらうものがある。
そのうえ姉宅には10人以上もの人がおり、彼らのそれぞれが、意識朦朧としてベッドに横たわる老人との記念写真の撮影をせびる。トルコ人の写真好きを知る私も、さすがにこれには驚いた。
なお、この家では断食中にもかかわらず、お茶、ジュース、お菓子が出た。写真撮影の労をねぎらってのことか。
〈写真 親友の姉さんと。2013年、リゼ〉 -
14.リゼを歩く
リゼの街に出ると、しばらく歩いて、親友はクラアトハネにしけ込んだ。ここの客は少ない。まだ日は高く断食の時刻だからだろう。しかし、ゲームに興ずる数人は、遠慮なくチャイを飲んでいる。また、トルコでは公共の場での禁煙が徹底されているにもかかわらず、連中はこれも無視している。「喫煙したら罰金!」のポスターが、紫煙でくもって見える。
勝負を始める親友を置き、私は1人、ラマザンと祭りでにぎわう街に出た。私にとってリゼは、1997年が最初の訪問で今回がおそらく4回目だろう。
乾物屋を覗けばさっそく店員の女の子が声をかける。
「お国はどこ? なぜリゼに来たの?」
公園を通り抜ければベンチのおじさんが呼び止める。
「ようこそリゼへ、こっちに坐りな」
いいなあ、旅行者を放っておかないこういう感じ。お節介といえばいえるが、彼らは好奇心を抑えずに声をかける。
アンカラより東の地方都市の人々にこうした傾向が強い。さらに言えば、同じ東部でも東南部の暑い一帯は人々も熱くて、好奇心の対象たる旅行者に大勢が一気に押し掛けてくる。対して黒海沿岸では声をかける前に若干のためらいがあり押しつけがましさを感じない。
〈写真 リゼの街を望む。このサイズの写真も懐かしい。1998年〉 -
15.リゼの特異性
リゼはトルコの東北の隅に位置する。イスタンブールから1100キロあまり、むしろ隣国のグルジアへは100キロほどで、はるかな辺境のイメージもあろうが、実はトルコ人の心の故郷だ。
それは第一に、彼らが愛するチャイを産するからだ。「チャイの産地は?」と問われたなら、おそらくすべてのトルコ人が「リゼ」と答えるだろう。
また、乾燥した土地が大部分の中で、湿潤なここ一帯の緑の多さも彼らを惹きつける要因だ。
だから、外国人の旅人は少なくても、国内の旅行者はかなりあるようだ。彼らは一様に、街の南側の山腹にあるチャイ研究所の庭園でお茶を飲む。
こうした特異性が、この街の落ち着いた自信と風格になっている。
〈写真 1997年の懐かしい写真。若い私とともに写る女性たちも旅行者だった模様。リゼ〉 -
16.リゼの自信
さらに、最近リゼっ子の自慢が増えた。
2003年以来この国の首相を務めるタイイップ・エルドアンと、男性歌手として国内のみならずヨーロッパにまで人気を広げるタルカンが、この近郊(リゼ市ではないがリゼ県)の出身だという。ネットで調べると、前者はイスタンブール生まれ、後者はドイツ生まれとあり、おそらく家のルーツがリゼなのだろう。
だから、イスタンブールを中心に発生した反政府(厳密には反エルドアン)デモに、彼らは一様に批判的だ。
なお、タルカンは日本では「holly balance」という名でCDが出ている。話題にはならなかったが、私も好きな曲が多い。例えば以下のアドレスをどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=VVAyz1vRZak
〈写真 タルカンのアルバム「dudu」のジャケット。この「dudu」という曲が私のベスト。〉 -
17.憧れのヤイラ
リゼの東側の山中にアイデルという村がある。爽やかな空気、緑豊かな牧場、深い山々、まるでスイス(のカレンダー)のような風景の村だ。
トルコ語の「ヤイラ」は「高原」の意だが、歌詞やドラマでよく発せられ、彼らにとって憧れの地のニュアンスを持つ。そして、まさにここがヤイラなのだ。
この地には、ラズやヘムスィンという少数民族が暮らしており、トルコ人たちはキャンプや山歩きをして楽しむ。
〈写真 緑したたるアイデル。1998年〉 -
18.リゼを発つ
数日の滞在が終わり、しばらくここに残る奥さんを残し、親友と私はサムスン市の本宅に向かう。リゼのオトガルでバスを待つ間、1998年の出会いを思い出した。まさにこの場所である。
その頃の私は黒海沿岸への旅を繰り返していた。
一方、彼らは、親友とその妻、彼らの子2人と、彼の弟の合計5人で、今年と同じようにチャイの収穫時をリゼで過ごし、サムスンに帰るところだった。
弟がはじめに声をかけてきた。
「日本人? 観光? どこに行く? いつまで?」
お決まりの質問に私が答えると、続いて「トヨタ、ニッサン、ホンダ、カラテ、ジュードー」などについての、これもお決まりの問答が車内でも延々と続き、そのうち「サムスンの家に泊まりなよ」という提案は誰から出たものか、彼らは私を泊める部屋の相談を始める。
数日後の再会を期して、その日は別の友達のいるオルドゥ市で降りた。
〈写真 一家との初めての写真、バスの休憩時間に。1998年、ギレスン辺り〉 -
19.観光地トラブゾン
思い出に浸るうちにバスは出発し、順調に距離を稼ぐ。
隣席の親友は熟睡し、客が乗るなどしてバスがしばらくでも停まろうものなら、降りてニコチンをため込む。まだラマザンの期間なのに遠慮はない。
私はバスが経ていく街々を回想する。
リゼを出て最初の大きな街がトラブゾンだ。市内には(イスタンブールとは別の)アヤソフィアがあり、岩壁に貼り付いたようなスュメラ修道院への基地にもなる。300mもの上方の僧院、そこまでの山道の記憶は、いまだに鮮やかだ。
〈写真 スュメラ修道院。1996年、トラブゾン郊外〉 -
20.ギレスンの風光
トラブゾンの150キロ西にギレスン市がある。人口が多くていささか狭苦しいトラブゾンに比べ、この街は落ち着いており海と山のバランスがよい。
波静かな港があり、その隣にきれいなビーチがある。昔の私はここでぼんやり半日を過ごしたが、今もその雰囲気が残っていることを車窓から確かめた。
また、背後の山の一角では城跡が公園として整備されており、そこからのパノラマが見事だ。
〈写真 ギレスン城址で。1999年〉 -
21.オウドゥの初体験
ギレスンから45キロでオルドゥ市。「ロンリー・プラネット」では、この街より「ギレスンやユンイェで夜を過ごすべし」と書かれてしまうオルドゥだが、私には思い出深い。
1997年のこと、安宿に荷物を置き、街に出ようとしたところで雨に降られ、結局、散策を諦めて酒場「メイハネ」でビールを飲んだ。3杯のジョッキを空け、宿に戻ろうとして立ち上がると声をかけられた。
「何だ、もう帰るのか、一緒に飲まないか」
声の主を捜すと、すでに出来上がって赤い顔をしたおじさん3人が手招きしている。酔っている私は思わず座った。
3人の誰かのおごりで、さらに2杯。さすがに今度こそ帰ろうとしたとき、1人が「うちに来ないか」と誘い、そのまま導かれて彼の家に泊まった。
私にとってトルコ人宅を訪れた最初の体験だ。
〈写真 私も含めて酔っぱらいの4人。1997年、オルドゥ〉 -
22.メイハネでの再会
私にも一応の遠慮と危険察知能力はあるつもりだ。観光地で声をかけてくる輩の誘いには乗らない。しかし、こうした酒場やバスでたまたま会い、トルコ語オンリーで誘う人に悪い人間はいない。
彼はドイツで出稼ぎをして金を貯め、私を招いたマンションを買い、市内に靴屋を開いたばかりだった。この夜、奥さんと子ども2人に歓待され、スープから始まるフルコースの料理を出されたが、ビールで満腹している私は、ほとんど口を付けられなかった。
翌年は彼と連絡がつかないまま出かけ(18の項でオルドゥで降りたのはそのためだ)たが、彼の家を見つけられず、前年のメイハネで待ち、感動の再会を果たした。
サムスンの一家の誘いに乗ったのも、こうした経験があるからだ。
〈写真 初めて泊まった家。1997年、オルドゥ〉 -
23.ユンイェの温かき人々
ユンイェ市まで来ると、もうサムスンは近い。ここも私には特別な街だ。
1999年、この街の城跡に出かけることにした。ギレスン城址のような絶景を期待してのことだ。しかし、公共の交通機関が見つからずタクシーを拾った。運転手は「城」と聞いて、少しためらってから車を出し、心配そうに「城跡といっても何もない」と教えた。
7キロという意外な長距離を走り城跡に着けば、確かに何もないのだった。もちろん城壁はあるのだがほとんど崩れ果て、そのうえ深い藪が茂っている。運転手は「1時間後に戻ってくる」と言い残して車を返した。
しばらく藪こきを試みたが早々に諦め、タクシーで来た田舎道を戻り始めると、木立の向こうから声をかける人がいる。
「何してるの?」
「城跡に来たんだけど、あなたこそ何してるの?」
「サクランボと梨の収穫」と言って、若い女の子が顔を出し、洋梨を投げてよこした。
〈写真 ユンイェの街並み。1999年〉 -
24.梨とキュウリとサクランボ
木立をかき分けて出てきたのは、女の子が2人と男性が1人。
それぞれイスタンブールとイズミルに住むが、梨やサクランボの収穫時だけ、幼い頃に住んだこの地に戻って働いている。親友の一家におけるチャイに近いスタイルだ。
恒例に従いレンズを向けると、中の1人が「外国人と写真を撮っちゃった」とはしゃぐ。都会に住む学生にしては、すれていない無邪気な娘である。
ともに梨にかぶりつくうちタクシーが戻ってきた。運転手は、彼らが水代わりに食べるキュウリを私のために用意してくれている。
〈写真 ユンイェ郊外、城跡の近くで。右から2人目はタクシーの運転手。1999年〉 -
25.オランダへ嫁いだ人
この女の子とはその後も文通が続き、翌年夏には彼女から招待が届いた。「今年もユンイェに行き、親戚の家に泊まっているので来てください」。好意に甘え、のこのこ出かける私であった。
彼女の親戚宅は、ユンイェから1日数本しかドルムシュが走らない「テクキラズ」という田舎にあった。ちなみにこの「テク・キラズ」は「1本のサクランボ」の意だ。
ここの家族は、私がステイした中で最もイスラムの信仰が篤く「ムスリムになれ」と繰り返し説得する。
そうした家でありながら、若い娘が招待した見知らぬ外国人男性を、よくぞ歓待してくれたと思う。
なお彼女はその後、オランダ在住のトルコ人のもとに嫁いだ。
〈写真 テクキラズの家で。2000年、ユンイェ郊外〉 -
26.アイスクリームの夜
1999年のある日に戻る。その夜、私は洋梨とサクランボとキュウリ、さらにここの人の素朴さと温かさに満腹して再び街に出た。
用事があって、黒海に面した通りの店で電話を借りる。当時は「コントリョル・テレフォン」という、公衆電話の代替となるシステム(もちろん携帯電話は普及していない)があった。通話を終えて代金を問う私を、店の人が招く。
改めて店を見れば、店頭でアイスクリームを売る雑貨屋だ。若い主人とその奥さんと話し込むうちに、勧められてアイスクリームを2個食べた。
〈写真 アイスクリーム屋、コーンの装飾がユニーク。1999年、ユンイェ〉 -
27.フルーツな1日
この店の向かいは海岸通りで、夜になると驚くほど大勢の市民が、爽やかな海風に吹かれて散歩をする。実に豊かな習慣だと思うが、働き者の主人は、ここにアイスクリームの屋台を出した。暇な私も手伝う。ヘンな外国人たる私の呼び込みもいささかの貢献をしたと思うが、1時間ほどのうちに50個近くが売れた。
主人は店番をしながら、客のとぎれ目に「メロン」「リンゴ」などとつぶやく。「何それ?」と訊ねると「通り過ぎる女性の胸の大きさだよ」と言ってニヤつく。
「しかし、トルコには必要以上(何をもって「必要」とするかはこの際考えず)のスイカがたくさんいるね」と私が加えれば主人は大笑い。
手伝いを終えて店に戻ると、彼の奥さんが訊ねた。
「何の話をしていたの?」おおかたの内容は推測しているようだ。
「えーと、メロンとかリンゴとか、果物の話」
この日は、私にとってフルーツの日だったのかも知れない。
〈写真 アイスクリーム屋の奥さんと子ども。1999年、ユンイェ〉 -
28.産業都市サムスン
そのアイスクリーム屋を車窓から確かめた。いずれ再訪しなくてはならないと思ううち、バスはサムスン市に入り、オトガルの手前で私たちは降りる。親友の家は、サムスン市の東側の斜面、ウルダー地区にある。
なお、リゼからサムスンまでの道はここ10年ほどで格段によくなった。海岸線に沿って曲がりくねっていた道に代わり、トンネルや橋、あるいは埋め立てによって新しい道ができたおかげで、3時間程度は早く着くようになったと感じる。
サムスンは人口約35万人を擁し、黒海沿岸最大の都市だが、見所といっても博物館くらいしかない。1998年の友人一家との出会い以前に、私はすでに2回この街を訪れており、あまりに退屈で床屋に行って時間をつぶしたことさえある。
それでも、第一次大戦後アタテュルクがここを起点に運動を組織し国家の危機を救ったこと、アンカラから北上する街道が黒海に出た位置にあること、周辺で栽培されるタバコの集積地であることなどが、特徴ではある。
〈写真 海岸沿いの道は美しく整備されている。2013年、サムスン〉 -
29.懐かしい家
ウルダー地区への坂道を登ると懐かしい家が見えてきた。
3階建てのビルの各フロアの間取りはすべて同じで、中央の広間の周りに、4部屋とキッチン、トイレ、バスがある。各階にそれぞれ鍵のかかるドアがついており、つまりそれぞれのフロアに1家族ずつが住めるようになっている。
初めて私が訪問したときには、1階に親友夫妻と子ども2人、2階に弟夫妻、3階に彼らの父親が暮らしていた。とはいえ事実上1つの家族で、各階の鍵を閉めることはなく、自由に行き来していた。
部屋数が多いから私を泊める余地も十分で、日によってフロアを移動して眠った。ときには、私の奪い合いで親友の息子と弟が喧嘩をしたこともある。どこで過ごそうと彼らの全員が出入りするのだから変わりはないが、口げんかの挙げ句、弟が子どもにコップの水をかけてしまったりする。
そして、私はこの家で質問攻めにあう。バッグから何かを取り出そうものなら「これ何?」「いくら?」逆に彼らが何かを見せて「これ日本にもある?」。さらに「東京に神社はいくつある?」「日本にトルコ人は何人住んでいる?」「相撲取りは生まれつき太っているの?」など、答えようがない質問も混じり、いい加減疲れた私は、彼らを黙らせるために、折り紙を折ったり、箸を使って見せたり、果ては相撲を取ったりしたものだ。
その後、弟がイスタンブールに引っ越し、父親が亡くなり、息子が結婚し、今は1階を人に貸し、2階に新婚の息子が、3階に友人夫婦が住んでいる。
〈写真 ビルの入り口にて、親友と娘。1998年、サムスン〉 -
30.息子の成長
家から親友の息子が飛び出してきた。礼儀正しく「いらっしゃい」とトルコ語で言い、続いて「コンニチハ」という数少ない日本語を披露し、私のキャリーバッグを持ってくれる。
部屋に入れば、彼の新妻が私の手にキスをして額に当てる。これがトルコ人が目上に対して行う正式な挨拶だ。
息子の成長にはしみじみとした気持ちになる。何しろ初めて会ったときは8歳だった少年が、高校を卒業し、兵役を経験し、就職をして、昨年ついに結婚したのだ。
親友の弟と喧嘩をしては泣き、私と2人で街に出て帰りが遅くなって叱られては泣き、私が帰国するときにも必ず泣いていた彼が、23歳の立派な青年である。15年という歳月を実感する。
訪れるたびに「大きくなったね」と声をかけたものだが、もうその言葉も似合わない。すでに完全な大人である。
〈写真 成長した友人の息子。2013年、サムスン〉 -
31.泣き虫だった少年
上下の写真を比べられたい。
この写真は私たちが出会った翌年、息子と2人だけで街へ出たときのものだ。親友もその弟も仕事があり、当時9歳の彼に私のエスコートが託された。
「どこへ行こうか」と訊ねると「遊園地!」と即座に答える。
市内の海沿いの一帯は公園になっており、その一角に遊園地「ルナパルク」がある。彼が好きな遊具は、垂直に円を描いて回転する海賊船だ。無茶なスピードと重力で私は1度で懲りたが、彼はもう1度乗ると言ってきかない。疲れた私が帰ろうと言っても聞き入れず、交互に金を払いながら彼だけが数回乗り続けるうちに、彼のお金はなくなった。
さすがに帰ることになったが、今度は帰りのバスのチケット売り場が見つからず、最後は私が金を払いタクシーを拾った。
帰宅して彼は父親からこっぴどく叱られる。
「なぜエスコートができない。なぜ金を全部使ってしまう」
彼が半べそ以上だったことは言うまでもない。懐かしい思い出である。
〈写真 思い出の海賊船。1999年、サムスン〉 -
イチオシ
32.サムスンの発展
私がサムスン市に着いたのは断食月「ラマザン」の最終日だ。翌日から3日間の祭り「バイラム」となるが、この日、断食後の夕食「イフタル」を食べれば気分的にはもうお祭りだ。親友とその息子とともに街の中心に出る。家から5分ほど坂を下れば、頻発しているドルムシュをつかまえられる。
ここ数年のトルコの街々の変貌には目を見張るものがある。そのパターンは、まず街の中心近くにあったオトガルが、郊外に移されて近代的な建物に変わる、そして大きな駐車場を併設したショッピング・センターが各所にできる、さらに市内を新交通システムとしての「トラムバーイ」が走るようになる、というものだ。
リゼほどの小都市では目立たないが、サムスンは黒海沿岸最大の都市、このパターンを忠実になぞっている。すなわち、数年前にオトガルが市の南側の、アンカラへ向かう幹線道路沿いに移動した。古いオトガルはしばらく放置されていたが、華やかなショッピング・センターがその跡地に建てられた。海岸沿いの道路にはトラムバーイも走っている。
市内一番の繁華街は狭いチフトリキ通りだが、その北側の通りに華やかな電飾が施された。わずか50mほどだが「ここが一番ファッショナブルなところ」と息子が説明する。「サムスン、やるじゃないか」というのが私の感想だ。
ラマザンが終わるこの日は特に人出が多く、店も夜遅くまでバーゲンで人々を呼び込んでいる。24時まで営業するらしい。
ここのショップで息子は私のためにシャツを選んでくれた。私も彼に似合うものを選び、プレゼントの交換となる。残念ながら肥満体の父親に合う服ははない。
〈写真 サムスンのイルミネーション。2013年〉 -
33.サムスンと買い物
最近の日本では、男性用の衣料が買いにくい。スーパーに入っている決まり切った店やユニクロなどのチェーン店があり、一方で高級志向の店もなくはない。しかし、根本的に店舗数が減り、価格や好みに合わせて自由に選択することが難しい。女性ファッションの充実に比して、男たちはどこで服を買えばいいのか、おじさんである私は困ってしまう。
そこで、トルコに来るたびに服を買い、靴やベルトを選んだりもする。ここでは女性用とほぼ同数で男性用の店がある。特にサムスンは先述の通り観光的な要素はなく、友人の家に滞在して時間だけはあるから、この街で買い物をすることが多い。なお、眼鏡も毎回イスタンブールで新調するのだが、これは友人の弟の知り合いが眼鏡店を経営しているからだ。
彼らの家を訪問する際には土産を持参する。女性たちにはバッグなど日本の小物が好評だ。対して男性には日本土産として典型的なキーホルダーや扇子などを用意しておき、トルコに来てから上のように服などを交換し合うのが、このところのパターンになっている。
以前は、日本茶やみそ汁などの食品をプレゼントしていたが、彼らの口には合わない。単に珍しいものとして、居間のキャビネットに飾られてしまう。
〈写真 昼のサムスン、ここはオフィス街。2008年〉 -
34.敢えてサムスン観光
サムスンで観光するなら港の周辺に限る。もともと一帯には、結婚式場「ドゥーユン・サロヌ」、考古学博物館、バザールなどの公的な建造物があった。ここのバザールは「ヤバンジ・バザール」と言い、訳せば「外国人市場」だが、もちろん外国人を売っているのではない。旧ソ連崩壊後、多くの人々が流れ込み(実際にはアゼルバイジャンやグルジアなどカフカスの人が多かったようだ)、彼らが持ち込んだ物が多く売られたためと思われる。今でも同じ名称で存在するが、売り手の多くはトルコ人になった。
そして、これらの施設も残したまま整備がほぼ完了して、今では気持ちの良い一帯になっている。
まず街の中心であるアタチュルク広場から、トラムバーイも走る大通りを渡り、海方向に続く広い道を歩こう。途中には噴水もある。
〈写真 噴水の向こうにはサムスンの街並み。2008年〉 -
35.海の遊歩道
この広い道を黒海まで突き当たれば、海沿いの遊歩道に出られる。28の写真がその道だ。
このあたりで整備されたのが動物園と親水公園である。動物園は入場料100円というそれなりのものだが、公園は海水を引き込んだ周りに小屋が配されて気持ちがよい。
観光の観点で述べてきたが、実際、この街に観光客はほとんどいないだろう。市としても、まさか観光都市にしようという意図はなかろう。つまり、これらの施設はあくまで地元の人たちのために作られたものであり、その姿勢は高く評価したい。
〈写真 海沿いの親水公園。2008年、サムスン〉 -
イチオシ
36.普通の人が住む街
サムスンに観光客として出かける価値をこじつけるならば、むしろ何もない普通の街であることとしたい。人々の出入りが多い街は、少なからず雰囲気が変わる。しかし、観光客を意識しない街には、正真正銘の普通のトルコ人が住み、トルコの生活そのものがある。
祭りが始まった朝には、誰かがピストルをぶっ放す(空砲だろうが)音で目覚める。お祝いの意味があるらしい。モスクからの呼びかけの声「アザーン」がひときわ大きく響く。道では通行をふさいで人々が踊っていたりする。結婚式なのだろうか。
〈写真 通りで踊る人たち。1999年、サムスン〉 -
37.息子の嘆き
別の日にもまた、親友とその息子の3人で街に出た。例によってクラアトハネに向かう父親と別れ、息子と海沿いの一帯を散策しアイスクリームをなめながら様々なことを話した。
改めて「結婚おめでとう」「仕事はどう?」などを話すうちに、思い出の遊園地「ルナパルク」にたどり着いた。31の項の思い出は彼にも鮮明で、海賊船の乗り物を前にして、子どもの頃のように顔を赤くする。
一転して大人の顔になり、悩みを語り始めた。
「親父が仕事はしないし、酒やタバコはやめないし、クラアトハネで金ばかり使うので困っているんだ」
親友のために弁明すれば、彼が仕事を早期退職したのには健康上の理由があり、すでに年金を得ている。息子もそれは理解しているが、彼には父親の生活が自堕落に見えて仕方がないようだ。
〈写真 親水公園にて。2013年、サムスン〉 -
38.がんばらない人
彼の父、すなわち私の親友とイスタンブールに住むその弟は、兄弟とはいえ年齢が15歳も離れており、性格や生き方も対照的だ。例えば、兄は肥満体でゆっくりと歩くのに対し、弟は精悍な印象を与える痩せ形で早足で歩く。
まず、兄の「生態」から分析する。
出会った頃の彼は「ザブタ」と呼ばれる「治安警察官」だった。当時その仕事に同行したことがある。勤務は16時から24時までだが、昼過ぎにはザブタの制服に身を包み家を出て、まずクラアトハネでひと勝負する。制服のままでよいのかと尋ねると「バッジは外しているから構わない」とのこと。日本では考えられないが、10の写真にも制服のままの人がいる。
これが終わると郊外の詰め所に出勤する。私が同行したときの仕事は、近くの海岸の巡視や地区の石炭倉庫の見回りであった。もちろんいったん事があれば激務になるのだろうが、私の見る限り、彼のゆっくりした足取りのままで済む業務だ。
健康を害したため、50歳代早々に彼はこの仕事を退職する。公務員だからそこそこの年金は出る。その後パン屋の手伝いをしていた時期もあり、チャイの収穫もするが、基本的には酒とタバコとクラアトハネ三昧のお気楽な老後を迎えている。
父親からリゼの土地や家、さらにサムスンの家を受け継ぎ、公務員という解雇や倒産の心配がない仕事をし、今は年金生活。つまり、彼はがんばらない人生を送ってきた。それはそれで幸せなことと思うが、息子としてはもの足りないのだろう。
〈写真 出会った頃、サムスンの中心アタテュルク像の前で。1998年〉 -
39.がんばる弟
これに対して弟は対照的に「がんばる人」だ。そもそも、リゼで初めて会ったとき最初に声をかけたのが彼だ。おっとりした兄とは異なる積極的な性格なのである。
彼は家具職人をしており、新築や改築の現場に出向きシステム・キッチンの据え付けを担当する。工場から製品を運び、家具がうまくはまるよう調節したり、取っ手を取り付けたりする。
その彼が新婚の奥さんとともにイスタンブールに引っ越しのは、2000年頃だったろうか、サムスンでの仕事に見切りを付け、イスタンブールに嫁いでいた姉を頼ったのだろう。
家賃の安い物件を選び、姉の家からドルムシュに乗る地区に古い家を借りた。彼が最もがんばった時期であろう。
〈写真 イスタンブールでの弟の最初の家。2006年〉 -
40.トルコ経済とともに
まもなく一人娘が生まれ、その頃からトルコ経済が発展しはじめる。もちろん彼のがんばりもあるはずで、仕事が忙しくなり収入も増える。
2009年、イスタンブールを訪れた私は、いきなり新居に案内された。私を驚かせようと内緒にしていたのが憎い。
姉の住むウムラニエ地区の中心から歩いて5分ほどの新築マンションで、玄関を入れば自動でともる明かりにまず感動する。部屋に入れば薄型の大画面テレビが鎮座していた。
今では、娘はすでにタブレットを使いこなし、そしてついに車を手に入れた。正確には3年のリース契約だそうだが、少なくとも家賃の月500ドルと車のリース代を支払うゆとりがある。
最近少し仕事が減ったと嘆く彼だが、人生を切り開いたことは確かだ。
〈写真 弟とウムラニエの街。2012年、イスタンブール〉 -
41.「姉ちゃんが逃げた」
サムスンの話題に戻す。
2006年頃のことだった、突然、親友の息子から電話があり「姉ちゃんが逃げた!」と繰り返す。慌てた彼の説明は要領を得ないので、私と話し慣れている(つまり易しいトルコ語をゆっくりと話せる)親友の弟に確かめた。
親友の娘は「駆け落ち」をした。恋人ができたものの、父である親友が許さなかったのか、まだ早いと止めたのか。とにかくいきなり家を出て相手の家に飛び込んだ。その家は同じサムスン市内だが、当時20歳ほどの娘の一大決心である。
トルコでよくあることなのか私は知らないが、ともかく夏を待ってサムスンを訪れると、すでに親と娘は和解し、娘は正式な結婚生活を始めていた。
この事件も私にとって彼らの成長を実感させる大きな契機となった。出会った当時の彼女は13歳で、まだスカーフを付けたばかりの娘(18・29の写真参照)だったのだから。
〈写真 駆け落ちした2人。2008年、サムスン〉 -
42.駆け落ちした娘
私が久しぶりに来たと聞いて、その娘が訪ねてきた。既に子どもが2人。「私ももう30歳近いのよ」などと言い、母としての貫禄がある。
何回かの訪問のたびに彼女と話し、私はトルコ女性の生活をかいま見た。
例えば、出会って間もない頃のこと、私と親友とその息子が夜遊びに出ても、スカーフを付けている彼女は一緒に行けない。寂しそうに見送る彼女に同情し、帰宅してから「何やってたの?」と訊ねたことがある。
「えーとねぇ、テレビ見て、編み物やって……、あっそうだ、ご飯食べた」
あまりのことに私は同情を深くした。
〈写真 すでに母の貫禄。2013年、サムスン〉 -
43.女たちの日常
しかし、訪問を繰り返すうち、彼女たちなりの楽しみも理解できるようになった。
トルコの男は仕事がなくても基本的に日中は外に出る。その間、彼らが留守にしている家は、女たちの天下になる。連日のクラアトハネに辟易し、丸1日外出をしなかった日にそれを実感した。
「あなた今日は1日家にいるのね」と確認すると、友人の妻は何本か電話をした。それを受けてのことだろう、近所から女たちが続々とやってくる。スカーフにムスリム式の長袖を着ていても、外国人たる私に遠慮のない人たちばかりだ。いわゆるガールス・トークが延々と続き、食事の間も絶えない。
特別なことがなくても、女たちは日常的に近所を訪問し合う。私が来ていると聞いて、娘がすぐに駆けつけてきたことからも、それは分かる。
〈写真 女たちの食事。右端で妙な姿勢でいるのが友人の奥さんだが、これはトルコ人独特のポーズ。2003年、サムスン〉 -
44.写真に写りたい
トルコ人は本当に写真好きだ。13の項では末期癌の老人との記念写真を頼まれた。一眼レフを肩にかけて街を歩くと、いきなり「撮ってくれ」と言われることがしばしばだ。パチリと撮影すれば、その写真を欲しがるでもなく立ち去る。
女たちとて例外ではない。ムスリムの女性は外国人に写真を撮られることを嫌うとされているが、これは全く見知らぬ他人に対してのことだろう。ひとたび気を許してしまえば、「撮って、撮って」の順番待ちとなる。それを聞いて、隣家からも声がかかる。
〈写真 隣の家からも「撮って」という声。2000年、サムスン〉 -
45.街に出よう
家の中での食事とガールズ・トークに飽きれば、当然、外出をする。残念ながら、スカーフを付け長袖を着用したムスリムの女性だけで外出するのには抵抗があるようで、男性の引率が望ましい。思えばこの日本人は男だ。ならば一緒に出かけようということになる。
かくして、おばさんの団体を私が「引率」する。こうして大勢で出ることが少ない彼女たち、そのうえ外国人とともに出ることが嬉しくてはしゃぐ彼女たちを引き連れるのは、なかなか厄介なことだが、彼女たちの気の良さも味わえる機会だ。苦労に値するものがあると思うべきだろう。
〈写真 この日は私と親友が「引率」。2003年、サムスン〉 -
46.サムスンを後に
今年も濃密な時間を過ごしたサムスンを発つ日が来た。この日、仕事が入った息子は早々に出勤し、親友がオトガルで見送ってくれた。
来年もトルコには来るだろうが、イスタンブールは訪れても、サムスンは分からない。数年後かも知れないないが、堅く再会を誓ってバスに乗る。
この後、エスキシェヒルで1泊してイスタンブールに戻った。
エスキシェヒルは10年ぶりの訪問だったが、暗くなって到着し、翌朝出発したので、ほとんど街を見ておらず写真もない。
「エスキ」は「古い」の意で、つまり「古い町」という名称だが、街全体の印象はむしろ近代的だ。他の都市と同様の発展パターンで、オトガルからトラムバーイも走っている。整備された川沿いの遊歩道を歩き、見つけたレストランでイワシのフライを食べ、ビールを飲んで寝た。
しかし、市発行の案内地図を見ると、古い街並みも残されているようで、改めて訪問する価値はありそうだ。ブルサを訪問する個人旅行者が増えているようだが、もう一歩足を伸ばしてエスキシェヒルはいかがか。
なお、アンカラ発の高速鉄道はすでにこの街まで開通しており、バスで3時間あまりの距離を1時間半で結んでしまう。駅もオトガルより中心近くに位置している。いずれイスタンブールまで高速鉄道がつながればもっと便利になるだろうが、いかんせん高速鉄道は、今のところ便数が少ない。
〈写真 親友の妹の娘。エスキシェヒル大学に在学中。2013年、イスタンブール〉 -
47.旅のデータ
約2週間のトルコ滞在中、ホテルに泊まったのはエスキシェヒルの1日だけ。私はこんな旅を繰り返している。以下に今回の旅行のデータを記しておく。
8月3日まで、イスタンブール、ウムラニエ地区の親友の弟宅に4泊。
8月4日17時半、「リゼ・セス」社のバスでイスタンブール、ハレムのオトガルを出発。
8月5日9時半、リゼに到着。約1100キロを16時間、料金は100リラ。ラマザン終了近くの繁忙期で割り増しがあり、通常は80リラとのこと。そのままリゼ、オルタパザルの親友の家に2泊。
8月7日9時半、「リゼ・セス」社のバスで親友とともにリゼを発つ。約430キロを7時間半で、17時前サムスンに到着、1人30リラ。この日、ラマザン終了。親友宅に2泊。
8月9日9時半、「metro」社のバスでサムスンを発つ。バスはアンカラを経由し、650キロを10時間、60リラで、19時半エスキシェヒルに到着。市内「アテシュカン・ホテル」に宿泊。1泊80リラ。
8月10日12時、「metro」社のバスでエスキシェヒルを発つ。約300キロを4時間半、38リラで、16時半にイスタンブール、アジア側のサマンドゥラに到着(そのまま乗っていればエセンレルのオトガル着は17時半頃か)。セルヴィスのバスでウムラニエに着き、友人の弟宅に戻る。彼の家で2泊して帰国。
〈写真 おなじみのイスタンブール、イスティクラル通り。2013年〉
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