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JR八高線毛呂駅から県道飯能寄居線を南進約20分で毛呂山霊園を入りますとその先に毛呂氏館(もろしやかた、埼玉県入間郡毛呂山町)があり、現在では長栄寺(ちょうえいじ)という曹洞宗の寺院となっています。<br /><br />そもそも毛呂氏は太宰権師藤原利季仲(ふじわら・すえなか、1046~1119)の子季清(すえきよ、生没不明)が毛呂郷に拠点を移しその子の季光(すえみつ、生没不詳)が毛呂氏の基盤を作ったと伝えられています。<br /><br />季光は源頼朝に従って藤原氏討伐に参陣、また頼朝の上洛に供奉するなどして御家人としてその役割を果たし、源氏一門に準ずるほどの待遇を受けるに至ります。<br /><br />然しながら頼朝没後は御家人同士の争い、その争いを巧みに利用して有力御家人同士を反目せしめて発言力を高める外戚北条氏の執権政治の確立に伴い同輩御家人と同様に毛呂氏の立場も凋落しひっそり毛呂郷で忍耐の年月を送ることなります。<br /><br />室町時代では関東の政治については幕府の関東支社とも言うべき鎌倉公方とそれを支える関東管領上杉氏によりスタートするも幕府との対立、続く管領上杉氏との確執が生じ、関東一円にその余波が広がってまいります。<br /><br />やがて鎌倉から古河に府を移転した公方(ここでは古河公方と呼ぶ)の勢力が衰え、替わって上杉氏内部で勢力争いに発展します。即ち武蔵北部から上野国を支配する山内上杉氏と相模国から武蔵南部に支配地を有する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との対立となります。<br /><br />その頃韮山から小田原に本拠を移した小田原北条氏は密かに相模国を東進、永年の敵三浦氏を浦賀にて滅亡させ相模から北上し武蔵南部を当面の目標とし軍勢を進めます<br /><br />上杉氏内部対立時に領袖であった毛呂顕重(もろ・あきしげ、生没不詳)は山内上杉氏に属して永正元年(1504)立河原合戦に参陣しています。<br /><br />勢力分野地図が大きく変化したのは小田原北条氏が大永4年(1520)扇谷上杉氏の間隙をぬって江戸城を手中に収めた時です。<br /><br />この状況を見て毛呂氏はいち早く小田原北条氏に主家を変えますが、旧主家である山内上杉氏は今まで争いの相手であった扇谷上杉氏と連合し毛呂氏に攻撃を加えます。<br /><br />攻撃をを受けた毛呂氏に小田原北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1487~1541)は軍勢を派遣し毛呂氏を支援、結果毛呂城開城したものの両上杉氏との和解により北武蔵への足掛かりを確保することとなります。<br /><br />やがて天文15年(1546)河越の夜戦にて小田原北条軍に徹底的に敗れた扇谷上杉氏は当主の戦死によって滅亡、山内上杉氏は勢力を失い白井城に撤退、ついに武蔵全域に小田原北条氏の支配が行き渡ります。<br /><br />いち早く小田原北条氏の傘下に入った毛呂氏は小田原からの厚遇に恵まれ、支配地の拡大と共に領主としての充実を図り、具体的には長栄寺開基を始めとして各地の社寺を保護を加えて影響力を高めます。<br /><br />然しながら天正18年(1590)における豊臣秀吉による小田原城包囲によりついに籠城していた北条氏は降伏開城、ここに約100年続いた小田原北条氏は4代目氏政と実弟氏照の切腹、5代目氏直は徳川家康を義父としている理由で死罪免れ高野山追放となりここに小田原北条氏は滅亡します。<br /><br />相前後して毛呂城主秋重(あきしげ、生誕不詳~1590)は北条方として八王子城に籠城、豊臣派遣の北国軍の攻撃を受け一族ともども敗死となり遂に毛呂氏は滅亡となります。<br /><br /><br />「 毛 呂 氏 の 供 養 塔<br /><br />毛呂氏の祖季光は、治承4年(1180)源頼朝挙兵以来その側近としてつかえ、毛呂郷地頭の外、文語の国守なども歴任している。頼朝の死後起きた重臣間の争いを避け、職を辞して毛呂郷に帰ったといわれている。<br /><br />時代は北条・足利と遷り変わる中にも、その子孫は代々毛呂郷の地頭職として、時の居流れに即し領地も越生郷から比企郡の一部にまで拡大をみ、居城毛呂城もしだいに整備されていった。<br /><br />下って戦国末期の当主秋重は、小田原北条氏に属し武蔵、相模各地で戦っている。一方豊臣秀吉の全国制覇が着々と進められ、ついに天生18年(1590)小田原攻めが決行された。秋重以下一門は小田原の支城八王子城の守備に任じられた。4月から攻防が始まり、6月には前田、上杉連合軍の強襲をうけ、ついに落城、毛呂一門の多くはこの時討死した。やがて小田原本城も開城となり、400余年に渡った毛呂氏は滅び、残された妻子は他村に移るやむなきに至った。<br /><br />この毛呂氏の墓所の一つがこの地である。なお塔石の風化破損も進み。、さらに不明となったものもあり、往時の名残をとどめるのみとなった。<br /><br />  平成元年4月<br />              毛呂山町教育委員会 」

武蔵毛呂山 鎌倉時代頼朝側近なるも頼朝後は政争を巧みにくぐり抜け戦国時代には在地領主として小田原北条氏に属した『毛呂氏居館』訪問

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2013/03/23 - 2013/03/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR八高線毛呂駅から県道飯能寄居線を南進約20分で毛呂山霊園を入りますとその先に毛呂氏館(もろしやかた、埼玉県入間郡毛呂山町)があり、現在では長栄寺(ちょうえいじ)という曹洞宗の寺院となっています。

そもそも毛呂氏は太宰権師藤原利季仲(ふじわら・すえなか、1046~1119)の子季清(すえきよ、生没不明)が毛呂郷に拠点を移しその子の季光(すえみつ、生没不詳)が毛呂氏の基盤を作ったと伝えられています。

季光は源頼朝に従って藤原氏討伐に参陣、また頼朝の上洛に供奉するなどして御家人としてその役割を果たし、源氏一門に準ずるほどの待遇を受けるに至ります。

然しながら頼朝没後は御家人同士の争い、その争いを巧みに利用して有力御家人同士を反目せしめて発言力を高める外戚北条氏の執権政治の確立に伴い同輩御家人と同様に毛呂氏の立場も凋落しひっそり毛呂郷で忍耐の年月を送ることなります。

室町時代では関東の政治については幕府の関東支社とも言うべき鎌倉公方とそれを支える関東管領上杉氏によりスタートするも幕府との対立、続く管領上杉氏との確執が生じ、関東一円にその余波が広がってまいります。

やがて鎌倉から古河に府を移転した公方(ここでは古河公方と呼ぶ)の勢力が衰え、替わって上杉氏内部で勢力争いに発展します。即ち武蔵北部から上野国を支配する山内上杉氏と相模国から武蔵南部に支配地を有する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との対立となります。

その頃韮山から小田原に本拠を移した小田原北条氏は密かに相模国を東進、永年の敵三浦氏を浦賀にて滅亡させ相模から北上し武蔵南部を当面の目標とし軍勢を進めます

上杉氏内部対立時に領袖であった毛呂顕重(もろ・あきしげ、生没不詳)は山内上杉氏に属して永正元年(1504)立河原合戦に参陣しています。

勢力分野地図が大きく変化したのは小田原北条氏が大永4年(1520)扇谷上杉氏の間隙をぬって江戸城を手中に収めた時です。

この状況を見て毛呂氏はいち早く小田原北条氏に主家を変えますが、旧主家である山内上杉氏は今まで争いの相手であった扇谷上杉氏と連合し毛呂氏に攻撃を加えます。

攻撃をを受けた毛呂氏に小田原北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1487~1541)は軍勢を派遣し毛呂氏を支援、結果毛呂城開城したものの両上杉氏との和解により北武蔵への足掛かりを確保することとなります。

やがて天文15年(1546)河越の夜戦にて小田原北条軍に徹底的に敗れた扇谷上杉氏は当主の戦死によって滅亡、山内上杉氏は勢力を失い白井城に撤退、ついに武蔵全域に小田原北条氏の支配が行き渡ります。

いち早く小田原北条氏の傘下に入った毛呂氏は小田原からの厚遇に恵まれ、支配地の拡大と共に領主としての充実を図り、具体的には長栄寺開基を始めとして各地の社寺を保護を加えて影響力を高めます。

然しながら天正18年(1590)における豊臣秀吉による小田原城包囲によりついに籠城していた北条氏は降伏開城、ここに約100年続いた小田原北条氏は4代目氏政と実弟氏照の切腹、5代目氏直は徳川家康を義父としている理由で死罪免れ高野山追放となりここに小田原北条氏は滅亡します。

相前後して毛呂城主秋重(あきしげ、生誕不詳~1590)は北条方として八王子城に籠城、豊臣派遣の北国軍の攻撃を受け一族ともども敗死となり遂に毛呂氏は滅亡となります。


「 毛 呂 氏 の 供 養 塔

毛呂氏の祖季光は、治承4年(1180)源頼朝挙兵以来その側近としてつかえ、毛呂郷地頭の外、文語の国守なども歴任している。頼朝の死後起きた重臣間の争いを避け、職を辞して毛呂郷に帰ったといわれている。

時代は北条・足利と遷り変わる中にも、その子孫は代々毛呂郷の地頭職として、時の居流れに即し領地も越生郷から比企郡の一部にまで拡大をみ、居城毛呂城もしだいに整備されていった。

下って戦国末期の当主秋重は、小田原北条氏に属し武蔵、相模各地で戦っている。一方豊臣秀吉の全国制覇が着々と進められ、ついに天生18年(1590)小田原攻めが決行された。秋重以下一門は小田原の支城八王子城の守備に任じられた。4月から攻防が始まり、6月には前田、上杉連合軍の強襲をうけ、ついに落城、毛呂一門の多くはこの時討死した。やがて小田原本城も開城となり、400余年に渡った毛呂氏は滅び、残された妻子は他村に移るやむなきに至った。

この毛呂氏の墓所の一つがこの地である。なお塔石の風化破損も進み。、さらに不明となったものもあり、往時の名残をとどめるのみとなった。

  平成元年4月
              毛呂山町教育委員会 」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 八高線毛呂駅<br /><br />駅前は静寂な雰囲気でいかにもローカル駅を感じさせる毛呂駅、しかもディーゼル車輛が1時間に1~2本(片道)で鉄道ファンならずとも心惹かれます。

    八高線毛呂駅

    駅前は静寂な雰囲気でいかにもローカル駅を感じさせる毛呂駅、しかもディーゼル車輛が1時間に1~2本(片道)で鉄道ファンならずとも心惹かれます。

  • 毛呂山霊園案内板<br /><br />駅前の県道30号線を飯能方面に歩きますと「毛呂山霊園」の案内板が見えます。<br />その案内板の横に「石樽山」「長栄寺」「毛呂氏墓」「毛呂氏館跡」の看板が確認できます。

    毛呂山霊園案内板

    駅前の県道30号線を飯能方面に歩きますと「毛呂山霊園」の案内板が見えます。
    その案内板の横に「石樽山」「長栄寺」「毛呂氏墓」「毛呂氏館跡」の看板が確認できます。

  • 珍しい石碑<br /><br />長栄寺に入る参道傍らに建つ石碑に興味を惹かれます。

    珍しい石碑

    長栄寺に入る参道傍らに建つ石碑に興味を惹かれます。

  • 墓地<br /><br />参道の右側には墓が多数配置されています。翻って左手山腹にも切削地に新規墓地が見られます。

    墓地

    参道の右側には墓が多数配置されています。翻って左手山腹にも切削地に新規墓地が見られます。

  • 長栄寺山門<br /><br />それほど高くない山門には「金嶋山」と刻された扁額が掲示されています。

    長栄寺山門

    それほど高くない山門には「金嶋山」と刻された扁額が掲示されています。

  • 館跡石碑<br /><br />本堂手前に「毛呂顕季館跡」と刻された石碑が立っています。

    館跡石碑

    本堂手前に「毛呂顕季館跡」と刻された石碑が立っています。

  • 長栄寺本堂<br /><br />

    長栄寺本堂

  • 毛呂氏館跡柱標<br /><br />本堂手前には「毛呂氏館跡」柱標が立っています。

    毛呂氏館跡柱標

    本堂手前には「毛呂氏館跡」柱標が立っています。

  • 毛呂氏館跡柱標<br /><br />柱標の側面には毛呂顕季が館を廃し寺を建て生越の龍正寺の七世節庵良均和尚を招いて開山したのが長栄寺であると記述されています。

    毛呂氏館跡柱標

    柱標の側面には毛呂顕季が館を廃し寺を建て生越の龍正寺の七世節庵良均和尚を招いて開山したのが長栄寺であると記述されています。

  • 長栄寺由緒石碑

    長栄寺由緒石碑

  • 長栄寺本堂<br /><br />境内は前後に狭く左右に広めの敷地となっており本堂の右手敷地は奥まで広がりを見せています。毛呂氏居館跡の位置づけは二郭に当たると思われます。

    長栄寺本堂

    境内は前後に狭く左右に広めの敷地となっており本堂の右手敷地は奥まで広がりを見せています。毛呂氏居館跡の位置づけは二郭に当たると思われます。

  • 長栄寺境内<br /><br />境内には庭園と小池が施されています。

    長栄寺境内

    境内には庭園と小池が施されています。

  • 長栄寺鐘楼<br /><br />本堂左手の登り坂の始まり場所に小振り屋根瓦の鐘楼がさりげなく建っています。

    長栄寺鐘楼

    本堂左手の登り坂の始まり場所に小振り屋根瓦の鐘楼がさりげなく建っています。

  • 毛呂氏墓<br /><br />登り坂を上がるとすぐ右手に小路があり「毛呂氏墓」と書いた手作りの案内板が見えます。

    毛呂氏墓

    登り坂を上がるとすぐ右手に小路があり「毛呂氏墓」と書いた手作りの案内板が見えます。

  • 毛呂氏供養塔<br /><br />簡単な屋根を造作した中に毛呂氏供養塔が三基認められます。

    毛呂氏供養塔

    簡単な屋根を造作した中に毛呂氏供養塔が三基認められます。

  • 毛呂氏説明板

    毛呂氏説明板

  • 長栄寺歴代住職墓<br /><br />開山の僧の名前が新設の墓誌先頭に刻されています。

    長栄寺歴代住職墓

    開山の僧の名前が新設の墓誌先頭に刻されています。

  • 新規墓地敷地<br /><br />石樽山西側一部を切り開いて削平地としたものです。

    新規墓地敷地

    石樽山西側一部を切り開いて削平地としたものです。

  • 新規墓敷地<br /><br />新たに造られた墓敷地でこれから新規墓設置に対応するようです。

    新規墓敷地

    新たに造られた墓敷地でこれから新規墓設置に対応するようです。

  • 毛呂氏供養塔<br /><br />上部敷地から毛呂氏供養塔、更に本堂甍そして長栄寺の管理と思われる霊園が左手奥に認められます。

    毛呂氏供養塔

    上部敷地から毛呂氏供養塔、更に本堂甍そして長栄寺の管理と思われる霊園が左手奥に認められます。

  • 毛呂氏館跡<br /><br />上部敷地の右手に毛呂氏居館跡があります。

    毛呂氏館跡

    上部敷地の右手に毛呂氏居館跡があります。

  • 毛呂氏居館跡途中<br /><br />

    毛呂氏居館跡途中

  • 毛呂氏居館途中

    毛呂氏居館途中

  • 毛呂氏居館跡<br /><br />案内板だけで具体的な居館跡の説明がなく勝手に想像するだけです。

    毛呂氏居館跡

    案内板だけで具体的な居館跡の説明がなく勝手に想像するだけです。

  • 毛呂氏居館跡周囲<br /><br />居館敷地と思われる場所の背後は茂った樹木ばかりです。

    毛呂氏居館跡周囲

    居館敷地と思われる場所の背後は茂った樹木ばかりです。

  • 毛呂氏居住跡<br /><br />案内板を遠方から捉えます。手前は墓地の一部となっているようです。

    毛呂氏居住跡

    案内板を遠方から捉えます。手前は墓地の一部となっているようです。

  • 毛呂氏居館跡からの展望<br /><br />うっそうとした樹林が遮り展望がよくありません。

    毛呂氏居館跡からの展望

    うっそうとした樹林が遮り展望がよくありません。

  • 石樽山・長栄寺案内板<br /><br />

    石樽山・長栄寺案内板

  • 石樽山<br /><br />石樽山に繋がる小路を捉えます。ここで長栄寺に引き返します。

    石樽山

    石樽山に繋がる小路を捉えます。ここで長栄寺に引き返します。

  • 小池<br /><br />境内を降りますと右手に小池を含む庭園が広がります。この辺りが毛呂氏居館の中でどうなっているのか不明ですが例えば外部侵入に備えた外堀が周囲に施され、その後大部分が埋められ一部池として残っているかもしれません。<br />

    小池

    境内を降りますと右手に小池を含む庭園が広がります。この辺りが毛呂氏居館の中でどうなっているのか不明ですが例えば外部侵入に備えた外堀が周囲に施され、その後大部分が埋められ一部池として残っているかもしれません。

  • 小池

    小池

  • 山門と墓地<br /><br />境内から山門に移動します。左手には長栄寺管理の墓地が多数見られます。

    山門と墓地

    境内から山門に移動します。左手には長栄寺管理の墓地が多数見られます。

  • 参道側溝<br /><br />池と延長線上にあり埋め立てられたと思われる道路の脇には今では小川らしき流れが認められます。

    参道側溝

    池と延長線上にあり埋め立てられたと思われる道路の脇には今では小川らしき流れが認められます。

  • 長栄寺全景<br /><br />奥の毛呂氏居館跡が主郭とすれば、一段下がった長栄寺本堂と境内は二郭、更に手前の墓苑は三郭となります。

    長栄寺全景

    奥の毛呂氏居館跡が主郭とすれば、一段下がった長栄寺本堂と境内は二郭、更に手前の墓苑は三郭となります。

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