2013/04/27 - 2013/05/05
206位(同エリア385件中)
ビビさん
この日のみたことは、ひとことではいいつくせない。
4/27 伊丹〜成田〈LH9791〉→成田〜コペンハーゲン〈SK984〉→コペン〜ワルシャワ〈SK8655〉
4/28 ワルシャワ
4/29 ワルシャワ
4/30 ワルシャワ→クラクフ〈IC〉
5/ 1 ヴィエリチカ
5/ 2 アウシュビッツ
5/ 3 クラクフ
5/ 4 クラクフ→ワルシャワ〈IC〉
5/ 5 ワルシャワ→コペンハーゲン〈SK8656〉→コペン〜成田〈SK983〉
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朝食はワルシャワのカルフールで買ってあったパンとヨーグルト。
ヨーグルトと思って買ってあったこれ、
サラサラでヨーグルトっぽくなかった。 -
今日はアウシュビッツへ行きます。
バスで行くのですが、乗り場が駅横のバスターミナルなので、
まずは駅へ。 -
駅の中を通り抜けて、反対側にあるバスターミナルへ。
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こちらがバスターミナルです。
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案内板で行き先と時間を確認します。
Oświęcim Muzeum行きはまだ出てないね。 -
無事キップを買い、バス乗り場へ。
料金は一人28ズロチです。 -
このバスで行きます。
ほぼ満員の中、出発。 -
1時間半ほどで到着。
雨が降ってきました。 -
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は
第一収容所と第二収容所に分かれており、
近年の入場者数増加のため、
アウシュヴィッツ第一収容所はオフシーズン以外は
ガイド付でないと回れません。 -
博物館入口。
こちらは当日ガイドの列に並ぶ人たち。
私たちは唯一の日本人、中谷さんのガイドを予約済です。 -
中谷さんのガイドは13時からで、まだかなり時間があるので、
第二収容所の方へ行ってみることに。
シャトルバスで行くのですが、30分に1本のバスで、
ついさっき行ったばっかりのようなので、
冷たい雨が降ってて外にいるのもなんなので、
そばのレストハウスでお茶することに。 -
こちらで早めのランチにしました。
マッシュルームのスープ。
味はまあ、観光地的なやつで -
バスの時間になったので、乗り込みます。
乗客は私たちとフランス人夫婦のみ。
フランス語を勉強している友人は話しかけていって、
楽しそうにしてました。 -
10分ほどで第二収容所ビルケナウへ到着。
こちらはガイドなしでまわることができます。
ちなみに入場は無料です。 -
とうとう来てしまった。
有名な引き込み線の写真。
収容者の移動コストを省くため、
収容所の中まで列車を引き込んでいました。 -
広大な敷地です。
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こちらがビルケナウの全景。
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当時の写真が至る所に展示されています。
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収容棟。
当時は敷地いっぱいにあった建物も、
収容所を作るために追い出された地元の人が、
戦後戻って来て家を建てる材料や暖炉の材料に使ったため、
今では半分ほどしか残ってないそうです。 -
暖炉の煙突だけ残っているのがその名残です
-
残っている収容棟の中へ入ります。
元は馬小屋だったそうです。 -
冬は−20℃まで下がる寒い土地なのに、
こんな暖炉で足りるのでしょうか。
この後中谷さんのガイドで聞いて判明したのですが、
労働力が不足するのと、遺体の処理が追いつかないので、
一夜で全員死んでしまわないための暖炉だったそうです。
人を人としてみていない、すごい話です。 -
元は馬小屋だった建物ですから、
暖炉のそば以外は暖かくなるはずもなく、
いい場所を確保する為に収容者の中にも
ヒエラルキーができていたそうです。 -
2段ベッド、こちらにぎっしり人間が寝かされていました。
来る前に「シンドラーのリスト」を見たのですが、
このベッド1つに3人寝かされていました。 -
回りは有刺鉄線が引かれており、
触ると感電死します。
あまりにもつらくて、わざとこれに触れて自殺する人もいたそうな。 -
こちらは移送に使われていた貨車
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当時のこの場所の写真。
ここでおろされてすぐ医師の「選別」を受け、
労働力として使えるかそうでないかで分けられます。
家族も親子も関係なく引き離されます。
使えないと選別された人たちは、このままガス室へ。
言葉がでません。 -
ガイドの時間が近づいたので、第一収容所へ戻ります。
20分前につくと入口前には日本人が沢山。
ヴィエリチカで一緒だったご夫婦もいました。
すでに中谷さんもいましたので、名前を告げてガイド料を払います。
さすがGW。総勢37名の大人数でスタートです。 -
「働けば自由になる」ということが書かれている入口。
自由なんかないのに。
収容者のささやかな抵抗で
「B」の文字が反転しているのは有名な話。 -
こんな感じでレンガ作りの建物がいくつも並んでいます。
この中にいろいろな展示物が置かれており、
中谷さんについて順番に回ります。 -
イヤホンガイドを使うのですが、
人数が多いため、建物の中に入りきる前に解説が始まってしまうことも。
施設自体が混んでるので、とにかく建物の中は大渋滞。 -
アウシュヴィッツ=ユダヤ人のイメージがあまりにも強いのですが、
実際はユダヤ人以外の人も沢山連れてこられていました。
こちらがその内訳。
ユダヤ人はもちろん、ポーランド人(主に政治犯)、ロマ、同性愛者、精神異常者
など、ナチスが劣っていると判断したあらゆる人たちがいたそうです。
その中でもやはりユダヤ人の人数が飛び抜けて多いです。 -
こちらは処分された遺体の灰を集めたもの。
殺害された人数は以前は600万人と言われていたのですが、
実際はもっと少なく、120〜30万人だったのではと
最近の研究では言われているそうです。
というのも、敗戦が濃厚になったころ、
証拠隠滅のためにかなりの書類が燃やされてたのと、
そもそも書類に記載されていない収容者が
どれだけいたのか分からないから、という理由だそうです。
でも、ここで虐殺があったことはまぎれもない事実なのです。 -
中谷さんは、当時の時代背景などを、日本人の視点から解説してくれます。
興味深かったのは
「ナチス率いるドイツ労働者党は民主的な選挙で選ばれた」
「ただ、第一党には議席が届かなかったので、
連立を組んで与党になった。これは今の日本と同じ」
「そして法に則って、次々に法律を改正していった」
一番心に残ったのが
「今の民主主義のシステムでは独裁者が生まれるのを止めることができない」
というものでした。
国家政策なので、逐一書類を作っており、一部が残っています。 -
こんな感じで写真や資料を見ながら解説してくれます。
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そもそもなぜこの地に大規模な収容所が作られたかということですが、
ポーランドは地政学的に欧州のほぼ中心にあり、
各国から人の移送が容易だったこと、
国土の8割が平野だったため、鉄道が通しやすかったなどがあります。
それでも一番遠いギリシャからは1週間以上かかったため、
列車が到着した時はかなりの人がなくなってたこともあったそうです。 -
こちらが収容者の国別内訳。
ポーランドやハンガリーなど近くの国からが多いですね。 -
こちらはガス室で使われたチクロンBの空き缶。
こちらも納品書がちゃんとあって、非合法に入手したものではないのです。
ちなみにチクロンB自体は殺虫剤で、
生産していたデゲッシュ社はいまでも現存しています。
周辺にもたくさんの名だたる企業が
収容所との仕事のためにオフィスを構えていたそうで
まるで大きなプロジェクトのようです。 -
収容者の眼鏡。
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義足や松葉杖
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お皿。
新しい仕事がある、と聞いてやって来た人が多いので、
家財道具一式を持ってきているのです。 -
靴
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カバンに名前が書かれているのは、
後で返すからといって収容者を安心させるためだったそうです。
「シンドラーのリスト」にこのシーンがありましたが、
回収した荷物は全て空けられ、金目もものは全て没収されていました。
そしてやっぱり「時計○個」などと書いた書類を作っていました。
どこまでもシステマティックです。 -
クリームや化粧品。
写真には写ってないけど、ニベアのロゴも見えて、
遠い世界の話でないことを感じます。 -
収容者は胸に色分けされたシールを張らされます。
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収容者の写真。
収容者は全て坊主にされるのですが
(表向きはシラミ対策、実際は髪の毛で服を作ったりしていた)
よく見ると、髪の毛のある人も何人かいます。
髪の毛がある人は、なにか特別なんじゃないか?裏切り者?と思わせて
収容者同士で疑心暗鬼にさせるようにしていたのです。 -
-
収容者の服。
実際見るとペラペラでパジャマみたい。
これで真冬を過ごせるとはとうてい思えません。 -
これ1日の食事。
少なすぎます -
建物の外に出ました。
こちらは主に政治犯が銃殺された「死の壁」。 -
当時ドイツは世界一の技術力を持っていたので、
その技術を集めて作った建物は堅牢で、いまでもしっかりと残っています。
そういえば、建物を出る時に韓国人のグループとすれ違いました。
アジア人はあまり見かけないのでおっと思ったのですが、
中谷さんが「日本人はいま年間3000人、
韓国人は年間1万2000人ほどが訪れています。もっと日本人に訪れて欲しい」
と言っていました。
ポーランドって、私もそうだったけど、
日本からしたらあまりよくしらない国のイメージがあるから、
てっとり早く直行便を飛ばしてくれたらいいのになーと思ってしまった。 -
戦後、初代所長のルドルフ・ヘスが処刑された絞首刑台。
このすぐ横に自宅があって、家族をすごく愛していたそうです。
家族を愛しつつ、残虐な行為に手を染める。
それはいったいどんな気持ちなのでしょうか。 -
ガス室。
こちらに人が集められます。 -
シャワーを浴びて来てといわれてるので、
ここからシャワーがでると見せかけて -
こちらからチクロンBの缶が投げ込まれます。
-
その後遺体はここで火葬されます。
次第に遺体の数が増えて来て追いつかなくなり、
その後ここは使われなくなります。
アウシュビッツはここで終わり、
この後は午前中に行ったビルケナウへ行きます。 -
戻ってきました。
-
先ほど見た収容棟に入ります。
こちらはトイレです。
好きな時に行ける訳はなく、
決まった時間に全員ここに座らされます。
厳しい労働と食事で、出る物でない人が多く、
またやせ細って体力がなくなって、この穴から落ちる人もいたそうです。
トイレにするくらいなのですごく細い穴ですよ、
ここに落ちるなんて、どれだけ痩せていたんだろう。 -
敗戦が濃厚になりだしたころ、証拠隠滅のため、
建物を壊したり、書類を燃やしたりしたそうです。
こちらは破壊されたガス室。 -
「イスラエルの軍人が来ている」というので見ると、
色とりどりのベレー帽をかぶった兵士たちがいました。
「彼らがどんな気持ちでここを訪れるのか、
それは私たちには分かりません」と言われました。 -
小雨が降っていたのですが、兵士たちは傘を持っていません。
そんな中、一人だけ傘を持っている人がいます。
「あの人は警備です。イスラエル人にはつくことになっています。
彼らが通った後、回りを見たり、ゴミ箱を開けたりします。
この場所でも、イスラエルはテロ国家という扱いなのです。」 -
こちらはあのアンネ・フランクが収容されていた建物です。
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戦後作られた慰霊碑です。
中谷さんは
「ここで何が起こったかを知って、考えて欲しい」
と言われました。
当日はあまりにも情報が多すぎて、
実感がわかなかったのですが、帰国してから、
当日のことがじわっと思い出されてきます。
ガイドはココで終了。
クラクフ行きのバスが混んでて積み残しも出ているので、
ここからタクシーで10分ほどのオフィチエンチム駅から電車に乗れば
2時間かかるけど確実に座れるのでおすすめだというのでそうすることに。
同じ行き先の人たちと相乗りして駅に向かいます。
タクシーを呼んで、行き先と料金の交渉までしてもらい、
あわただしく別れてしまったのがちょっと心残りです。 -
オフィチエンチム駅到着。
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売店(閉まってる)が一つあるだけの小さな駅です。
クラクフ行きのキップを買い、お腹が空いたので、
何か買おうと思ったのですが、回りはなにもなく、
小さい飲食店も何も買えなさそう。
諦めて構内にある自販機でコーヒーを購入。 -
案内板が鄙びていい感じ
-
これまた電車もレトロで鉄オタ心をくすぐります。
友人とお喋りしながらのんびり2時間の旅。
ちなみにさっき買ったコーヒーはおどろくほど不味かった(笑) -
クラクフに帰ってきました。
夕飯をどうしようかと、旧市街までいく気力がないので、
駅前の「GARELIA KRAKOWSKA」で
フードコートで済ますことに。
こちらもイオンモール的な近代的なショッピングセンターです。 -
最上階のモールにはいろいろな店があるのですが、
ポーランド料理の量り売りの店があったのでそこににました。
疲れててもビールは飲みます。
これで600円くらいかな、やっぱりおいしい!
今日はご飯がだめだったので、最後においしいものにありつけてうれしい。
ポーランド料理って毎日食べても全然飽きない。
クロアチアに行った時は後半かなりツラくなってきたけど、
これなら住めるな、うん(笑) -
店を出てトイレに行ってる間に友人たちがアイスを食べてました。
メニューを見たらこんなのがあった。
かわい・・くはないよね?
下のカルフールで明日の朝食やら買い足したいお土産を買って、
ホテルに帰りました。
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