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1).旅の始めに<br /><br />            お前立ち  御目の彼方  瓊花咲く                           <br />                                    <br />  ゴールデンウイーク直前、「唐招提寺」で、鑑真和上の故郷「揚州」から送られた「瓊花」(けいか)の開花に合わせ、一般公開される話を、聞き付けた。<br />  当日、大阪の友人を誘い、奈良に向かった。「御影堂」の庭に咲く、満開の「瓊花」の前で、花を愛でながら、耳は、友の老いらくの恋物語を聞いていた。実は、この「彷徨人旅行記」の表題写真は、この花を初めて見た「蘇州」で撮ったものである。鑑真和上縁の花は、やはり苦労の末辿り着いた日本で見るのが一入だと、「御影堂」の「瓊花」を見ながら、僕は、独りほくそ笑んでいたのである。<br /><br />2).鑑真和上、中国から日本へ<br />  <br />  江蘇省「張家港」は、嘗て、「黄泗浦」という長江の内港であった。753年、鑑真和上は、夜陰に乗じ、「揚州」から、小舟で、長江(揚子江)を「黄泗浦」まで下り、「日本」へ帰国する「遣唐使船」に乗り換えている。11月15日夜半、帰国する遣唐使船には、『あまの原、ふりさけみれば春日がなる、三笠の山に、いでし月かも』と詠んだ、在唐36年の阿倍仲麻呂が、第一船に乗り込んでいた。井上靖の『天平の甍』では、四艘の遣唐使船のうち、鑑真の乗った第二船は、沖縄へ、6日後の21日に到着、半月滞在し、屋久島に向かい、10日後に屋久島を出帆、22日午後、薩摩半島西南の「阿多那秋妻屋浦」に到着している。しかし、阿倍仲麻呂の乗った船は、ベトナムに漂着し、仲麻呂は、三年掛けて、「長安」へ戻っている。<br /><br />3).南さつま市秋目浦坊津、「鑑真漂着の地」へ<br />  <br />  鑑真が、上陸したのは、薩摩半島の西南部の漁村、薩摩の国、『阿多那秋妻屋浦』と言われており、現在の「南さつま市坊津」である。枕崎港から、国道R226を西に向かい、「南さつま市」の「坊トンネル」を貫け、北へしばらく向かうと,「歴史資料センター・輝津館」の建物が見えてきた。    <br />  天平勝宝5年(西暦753年)12月20日、聖武天皇の招ねきで来日された、律宗の始祖、唐僧「鑑真」の日本上陸の地は、「ピロウ島」を抱く「秋目湾」沿いの、「亀ヶ丘」の急勾配の山に囲まれた「秋目浦」であった。「亀ヶ丘」の麓に、『鑑真記念館』が建てられており、記念館の庭には、記念植樹された木々が植えられており、その中に、小さな「瓊花」の木を見つけた。弱弱しそうなこの木にも、何時か真っ白な鮮やかな花が咲くことを、僕は祈っていた。<br /><br />4).「秋目漁港」界隈を行く<br /><br />  記念館を後に、秋目漁港近くまで下りてきた。T字路の交差で民宿の看板を掲げた店を見つけたが、その店の名前が「鑑真荘」であった。昼食には、些か時間外であったのか、中を覗くと誰もいなかった。大きな声で呼んでみると、元気な若い女性が出てきた。昼食は刺身定食しかないという。今が旬のキビナゴを中心とした刺身である。車の運転をするため、芋焼酎『鑑真』を、飲むことは出来なかった。<br /><br />  鑑真さん一行は、12月26日に「大宰府」に到着し、遣唐使一行の筑紫の「大宰府」への正式な帰朝報告は、翌754年正月11日に、行われている。ここから6日間で、福岡県の「大宰府」に到着し、鑑真一行が、大阪の難波に到着したのは、754年2月1日であり、「東大寺」へは、2月8日到着している。 <br />  天平宝字3年(759年)8月に、「唐招提寺」が完成している。<br /><br />5).旅の終わりに<br /><br />                 忘れ得ぬ 想い愛しや 鑑真忌  <br />  <br />  天平宝字7年(763年)陰暦5月6日、鑑真和上は76歳で遷化されている。「唐招提寺」では、「鑑真忌」(「開山忌」)を、毎年6月6日に執り行っている。(完)<br /><br /> <br /><br /><br />                  <br /><br /><br /><br /><br />              <br /><br /><br />

【鹿児島県】 南さつま市 * 鑑真 日本上陸の地を 旅する

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2013/06/02 - 2013/06/02

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彷徨人MU

彷徨人MUさん

1).旅の始めに

            お前立ち  御目の彼方  瓊花咲く

  ゴールデンウイーク直前、「唐招提寺」で、鑑真和上の故郷「揚州」から送られた「瓊花」(けいか)の開花に合わせ、一般公開される話を、聞き付けた。
  当日、大阪の友人を誘い、奈良に向かった。「御影堂」の庭に咲く、満開の「瓊花」の前で、花を愛でながら、耳は、友の老いらくの恋物語を聞いていた。実は、この「彷徨人旅行記」の表題写真は、この花を初めて見た「蘇州」で撮ったものである。鑑真和上縁の花は、やはり苦労の末辿り着いた日本で見るのが一入だと、「御影堂」の「瓊花」を見ながら、僕は、独りほくそ笑んでいたのである。

2).鑑真和上、中国から日本へ
  
  江蘇省「張家港」は、嘗て、「黄泗浦」という長江の内港であった。753年、鑑真和上は、夜陰に乗じ、「揚州」から、小舟で、長江(揚子江)を「黄泗浦」まで下り、「日本」へ帰国する「遣唐使船」に乗り換えている。11月15日夜半、帰国する遣唐使船には、『あまの原、ふりさけみれば春日がなる、三笠の山に、いでし月かも』と詠んだ、在唐36年の阿倍仲麻呂が、第一船に乗り込んでいた。井上靖の『天平の甍』では、四艘の遣唐使船のうち、鑑真の乗った第二船は、沖縄へ、6日後の21日に到着、半月滞在し、屋久島に向かい、10日後に屋久島を出帆、22日午後、薩摩半島西南の「阿多那秋妻屋浦」に到着している。しかし、阿倍仲麻呂の乗った船は、ベトナムに漂着し、仲麻呂は、三年掛けて、「長安」へ戻っている。

3).南さつま市秋目浦坊津、「鑑真漂着の地」へ
  
  鑑真が、上陸したのは、薩摩半島の西南部の漁村、薩摩の国、『阿多那秋妻屋浦』と言われており、現在の「南さつま市坊津」である。枕崎港から、国道R226を西に向かい、「南さつま市」の「坊トンネル」を貫け、北へしばらく向かうと,「歴史資料センター・輝津館」の建物が見えてきた。    
  天平勝宝5年(西暦753年)12月20日、聖武天皇の招ねきで来日された、律宗の始祖、唐僧「鑑真」の日本上陸の地は、「ピロウ島」を抱く「秋目湾」沿いの、「亀ヶ丘」の急勾配の山に囲まれた「秋目浦」であった。「亀ヶ丘」の麓に、『鑑真記念館』が建てられており、記念館の庭には、記念植樹された木々が植えられており、その中に、小さな「瓊花」の木を見つけた。弱弱しそうなこの木にも、何時か真っ白な鮮やかな花が咲くことを、僕は祈っていた。

4).「秋目漁港」界隈を行く

  記念館を後に、秋目漁港近くまで下りてきた。T字路の交差で民宿の看板を掲げた店を見つけたが、その店の名前が「鑑真荘」であった。昼食には、些か時間外であったのか、中を覗くと誰もいなかった。大きな声で呼んでみると、元気な若い女性が出てきた。昼食は刺身定食しかないという。今が旬のキビナゴを中心とした刺身である。車の運転をするため、芋焼酎『鑑真』を、飲むことは出来なかった。

  鑑真さん一行は、12月26日に「大宰府」に到着し、遣唐使一行の筑紫の「大宰府」への正式な帰朝報告は、翌754年正月11日に、行われている。ここから6日間で、福岡県の「大宰府」に到着し、鑑真一行が、大阪の難波に到着したのは、754年2月1日であり、「東大寺」へは、2月8日到着している。 
  天平宝字3年(759年)8月に、「唐招提寺」が完成している。

5).旅の終わりに

              忘れ得ぬ 想い愛しや 鑑真忌  
  
  天平宝字7年(763年)陰暦5月6日、鑑真和上は76歳で遷化されている。「唐招提寺」では、「鑑真忌」(「開山忌」)を、毎年6月6日に執り行っている。(完)

 


                  




              


交通手段
高速・路線バス レンタカー ANAグループ 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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