2013/06/29 - 2013/06/29
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倫清堂さん
以前、岩木山のふもと高照神社を参拝した時に初めて存在を知った吉川神道。
同じくその強い影響下に創建された神社が、福島県にも鎮座していることを知り、いつかは直接参拝に訪れたいと機会をうかがっていました。
そして最近になって本格的に日本思想史の勉強を始めたところ、吉川神道への理解を深める必要性を感じることになったため、日帰りで福島を目指すことにしたのでした。
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東北自動車道で福島県に入り、福島西インターで国道115号線に乗り換え、土湯温泉を経由して磐梯山の方向へと向かいました。
季節は梅雨の真っ最中とあって、雨は降っていないものの、厚い雲が重たげに空を塞いでいます。
土湯温泉の当たりの峠道は、霧のために数メートル先も見えないような状態で、ライトを照らしながら慎重に車を走らせました。
しかし土湯トンネルを越えた先は、まるで別世界のように青空が広がっていました。
目指す土津神社には、出発からおよそ2時間ほどで到着。保科正之の墓 名所・史跡
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土津(はにつ)神社の御祭神は会津藩祖の保科正之公。
2代将軍秀忠公の四男で、母は乳母の侍女であったお静。
秀忠公の正室お江の方は非常に嫉妬深く、側室を認めなかったため、正之公の存在はほんの一部の側近しか知らされておらず、7歳の時に信州高遠城主保科正光の養子となったのでした。
3代将軍家光公がこの弟の存在を初めて知ったのは、現在の目黒にある成就院という天台宗の寺院においてでした。
年月日は不明となっていますが、ある日お忍びで鷹狩りを行っていた将軍がお供の者たちとはぐれてしまい、身分を隠して成就院に休憩に訪れた際、住職はかの人の正体も知らず「公方様の御舎弟は僅かな禄高でお勤めされている。上の人々は不人情なものだ」と、批判的な言葉を口に出してしまったのでした。
家光公は住職の言葉を聞いて立ち去りましたが、後にかの人が将軍本人であったことを知った住職は、しばらくの間は生きた心地もしなかったそうです。
しかし家光公は成就院に寺領を寄進し、正之公も加増されることになったのでした。
二人が直接対面した日がいつであったかの記録は残されておりませんが、実弟の実力を知った家光公が片腕として重用した事実から考えれば、対面はあったものとして間違いないでしょう。 -
寛永20年、33歳の正之公は会津藩主に就任しました。
しかし実際に領地へお国入りをしたのは在職中わずか3回だけ、期間は通算して1年3ヶ月しかありません。
正之公は将軍から絶対の信頼を得ており、家光公が側から離さなかったというのがその理由です。
慶安4年、家光公は臨終の枕頭に正之公を呼び、11歳の遺児家綱公の後見を遺言として申しつけたため、隠居して藩主の座を譲るまで、江戸を離れることはありませんでした。
その後「家訓十五ヶ条」を制定し、寛文8年に城代田中正玄を呼び寄せて手渡しします。
その第1条には、将軍への絶対忠誠を後代の藩主に命ずるもので、幕末に松平容保公が新政府軍に徹底抗戦したのも、この遺訓に忠実に従ったためでした。
正之公は寛文12年に死去し、3代藩主の正容公の時に、松平姓と三つ葉葵の紋の使用を許されることになります。
土津神社の境内では、三つ葉葵が大切に育てられていました。 -
正之公は死去する年、最後となる5度目のお国入りに際して自らの墓地を選定するために猪苗代を訪れ、神道学者の吉川惟足も同行しました。
この日の会津は快晴で、磐梯山には雲ひとつかかっていなかったそうです。
一行は磐梯山ふもとに鎮座する磐椅神社に参拝し、正之公はこの地をとても気に入って、磐椅神社の末社となってこの地に埋まることを望んだのでした。
正之公が死去するとただちに葬儀が執り行われ、墳墓の完成の後、社殿の造営が行われることとなったのでした。
延宝3年に完成した土津神社の社殿は、東北の日光と呼ばれるほどきらびやかな神殿でしたが、戊辰戦争の際に社殿の全てが灰燼に帰してしまったのでした。
敵軍に踏みにじられるよりは、いっそ我が手で焼いてそまおうという判断であったとのことで、御神体は鶴ヶ城内に遷座。
落城後は磐椅神社に仮遷宮となったのでした。
現在の社殿は明治13年に再興されたものです。 -
まず社頭にて参拝し、それから正之公の墳墓である奥の院へと続く杉並木へと進むことにしました。
杉並木は本殿の脇を通っており、そこからは本殿横の末社を見ることができます。
末社は向かって右に4社、左に3社が置かれ、それぞれに正之公に仕えた家臣や早世した子などが祀られています。
土津神社の御遷宮式において藩主の名代として式を進行させたのは吉川惟足でした。
数日前から降り続く雨もやむ気配がなく、式進行も難渋をきわめましたが、惟足が
天津風雨雲払ひあかねさす
赤埴山に照る日影見ん
との和歌を御神前に捧げると、たちどころに雨雲が吹き払われて晴天となり、参列者一同は御神徳のなせる業として畏んだとのことです。 -
吉川惟足本人に霊的な力があったかどうかは分かりませんが、彼の神道理論に保科正之公は心酔していたことは事実です。
惟足自身は吉田神道を学び、吉田神道に後継者断絶の恐れがあったために惟足がその道統を継承しつつ新たに吉川神道を創設、幕府の神道方に就任したのでした。
正之公は寛文11年に吉川流四重奥秘の伝と「土津霊神」の号を授けられたのでした。
奥の院までの杉並木は緩やかな上り坂の、ほぼ真っすぐな一本道。
磐梯山のふところで正之公の御霊は、原発被害に苦しむ福島の復興を、静かに見守ってくれているのでしょう。 -
社殿から休憩も挟まず、かと言って急ぎもせずに歩き、15分ほどで奥の院に到着しました。
正面には「會津中将源君之墓」と刻まれた墓石が建てられ、その奥の墳墓の上には八角形の鎮石が置かれています。 -
奥の院への参拝を終え、見逃していた場所をいくつか歩きました。
その中の一つ土津霊神之碑は、国内で最も大きい石碑と言われています。
産地からここに運ぶ過程にも様々な障害があったそうです。
この日本一の石碑の四面には、保科正之公の履歴と徳行を1943字の漢文によって刻んでいます。
撰文は山崎闇斎。
吉川神道をはじめ神仏儒のあらゆる宗教理論を学び、垂加神道を唱えた人物です。
この巨大な石碑は、シナの故事において死者の霊を護ると信じられていた亀の上に乗せられています。
初めは猪苗代湖の方に顔を向けて置きましたが、亀が水を飲もうと一夜にして境内の端まで移動してしまったため、その後磐梯山の方を向くように置き直したのだそうです。 -
次に、正之公も愛した磐椅神社へ向かいます。
土津神社から徒歩で10分程度の道の途中に、田中正玄の墓の案内標識を見つけました。
しかし周囲は草むらに覆われており、どこに墓があるのか全く分からない状態です。
田中正玄は、藩主不在の藩政を取り仕切った家老で、正之公からの信頼も篤く、土井利勝公から天下の三名家老の一人と賞賛されました。
正之公よりも早く亡くなり、墓地選定のためにこの地を訪れた正之公は正玄の墓に立ち寄って、「我も近くに参るぞ」と言ったのだそうです。 -
ほどなく磐椅神社の境内に辿り着きますが、参道の前には大振りな櫻が枝を伸べています。
これは会津五桜のひとつ大鹿桜で、福島県緑の文化財の記念すべき登録第1号です。
天暦元年に村上天皇の勅使が奉納した桜で、開花後の白色の花弁が散る間際に鹿色に変化することから、こう名付けられました。 -
磐椅神社の御創祀は応神天皇の御代にまで遡ります。
神功皇后摂政50年、武内宿禰が巡視に訪れた際、勅命によって磐梯山の山頂に大山祇神と埴山姫命をお祀りしたと伝えられています。
当時、磐梯山は磐椅山と呼ばれていたことから、社名も磐椅神社を称することになったのでした。
延喜式にも記載される式内社で、耶麻郡一座とあることから、東北では有数の規模を誇っていたと思われます。
まず目に入るのは、参道の脇にそびえる「鳥居杉」
参道の片側に1本しかありませんが、名前から推測するにかつては両側にあって鳥居のように参拝客を迎えていたのでしょう。
樹齢800年を超える杉の上部には、寄生する桜がたくましく根付いておりました。
社殿は寛文年間の保科正之公による寄進。
施された彫刻が見事でした。 -
猪苗代から会津までそれほど遠くはありませんが、便利なので高速道路を使うことにしました。
大河ドラマの舞台となっていることから、今年の会津は多くの観光客を集めているようです。
鶴ヶ城や白虎隊関連の史跡は前の年にも訪れたので、今回は趣向を変えて酒造を訪ねてみることにしました。
まずは鶴ヶ城北出丸からほど近い「宮泉」。
会津藩家老山川家の屋敷があった場所も、このあたりだったようです。
戊辰戦争から明治初期にかけての山川三兄妹の活躍は特に有名。
山川浩は新政府軍に取り囲まれた鶴ヶ城に、彼岸獅子を先頭に堂々と入城するという奇策を用いた知将で、後に陸軍少将・貴族院議員を務めました。
山川健次郎は白虎隊に所属するも年少を理由に除隊され、敗戦後は米国へ留学するなどして日本で初めての物理学博士となり、東京帝国大学の総長を務めました。
山川捨松は日本で初めての女子留学生として米国で学び、陸軍大将大山巌と結婚、外交の舞台で活躍して「鹿鳴館の花」と讃えられました。 -
宮泉の隣の民家は武家屋敷、一之瀬加寿馬邸跡。
一之瀬加寿馬は白虎隊寄合二番隊長を務めた人物。
その庭に伸びる傘松は、白虎隊供養のために戸ノ口原から移植されたもので、8月の決戦日が近づくと松も白虎隊士たちを偲んでいるのか、赤く色づくそうです。 -
酒蔵の内部の見学も出来ますが、酒の作り方は飲み方ほど興味はないので、買い物だけをして済ませました。
北出丸の方へ歩くと、会津藩家老西郷頼母邸跡を示す石碑が左手に現れます。
容保公が幕府から京都守護職への就任を要請された際、西郷頼母は政局の混乱を予測してこれに反対し、容保公から疎んじられることとなりました。
戊辰戦争の勃発によって家老職へ復帰しますが、新政府軍が鶴ヶ城へ侵入し決戦の時が迫る中、妻千重子は幼い子供たちが戦の足手まといになってはならないと長男を送り出した後、この屋敷で一族郎党21人揃って自害したのでした。
なよ竹の風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそきけ
頼母本人は会津藩降伏の後も函館まで戦い続け、明治維新後は伊達郡の霊山神社の神職などを務めたということです。西郷邸跡 名所・史跡
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更にもう一軒の酒蔵「末広」を訪れました。
福島県内で道路を走るとよく見かける「末広」の看板。
野口英世の弟が奉公人として勤めたこともあり、英世と母シカを陰で支える存在であったとのことです。 -
以前に市内巡回バスを利用した際、気になる名前のバス停があったことを思い出しました。
その名前は蚕養国神社。
全国数多くの神社を参拝に訪れていますが、こがいくに神社という名前は聞いたことがありません。
実際に訪れてみると、広い境内に立派な社殿を構える古社でした。
延喜式神名帳にも記載される陸奥国一百座の一つで、第52代嵯峨天皇の御代、弘仁2年の御鎮座。
社殿の造営は一条天皇の御代、寛弘7年とあり、県令の石部少将道秀らによると伝えられます。
御祭神は保食大神・稚産霊大神・天照大御神で、養蚕の守り神として崇敬されて来ました。蚕養国神社 寺・神社・教会
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第21代雄略天皇が皇后に養蚕を奨励されてから以後、歴代の皇后陛下は養蚕あそばされる習わしとなっています。
大正9年には貞明皇后が御参拝になり、境内に植えられている峰張桜の実生木をお持ち帰りになって宮中へ納められました。
翌年には宮中紅葉山御養蚕所でお育てになった繭と生糸を下賜されました。
貞明皇后が愛でられた峰張桜は石部少将らが社殿を造営した際に植えたもので、樹齢千年を超える御神木です。 -
最期に喜多方まで足を伸ばし、新宮熊野神社を参拝することにしました。
社伝によると、源頼義・義家父子が前九年の役で奥羽討伐に赴いた際、武運を祈って熊野から勧請したのがその始まりとされます。
後三年の役で再び奥羽を訪れた義家公は、現在の地に遷座するように命じ、今に至っています。
熊野信仰の最盛期には百名以上の神職が奉仕し、多くの参拝客で賑わっていたということです。新宮熊野神社長床 名所・史跡
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新宮熊野神社の見どころは、平安時代末期に交流されたと思われる拝殿、通称「長床」です。
義家公の命によって遷座された社伝は寛治3年の完成と記録されており、もし仮にそれが事実であれば、中尊寺金色堂よりも前にはここに存在していたことになります。
ただ、慶長16年の大地震によって当初の長床は倒壊してしまい、現在の長床は蒲生忠郷が旧材を用いて再建したものです。
それぞれの柱を見ると、いくつかの木材を組み合わせて一本の太い柱となっているものもありました。 -
長床の前で地面に根を張る大イチョウは樹齢約600年。
慶長の大地震も平成の大地震も、このイチョウは経験したということになります。 -
長床の更に奥、丘の上に御本殿3棟が鎮座しています。
中央が本社新宮証誠殿、左が末社那智山飛龍権現、右が末社本宮十二所権現とのこと。
先の大地震の影響か、石段の一部が崩れてしまっており、危険を感じたため下からの参拝となりました。
案内の文章によると、3棟とも妻入りの熊野造ながら、それぞれ手法や細工に異なる特徴を持っており、同じ棟梁の手によるものではないようです。
東北地方の本社社殿はほとんどが平入りの流造をしており、紀州熊野神社社伝と同じ様式の熊野造は非常に珍しいものです。
長床ばかりが注目されていますが、この御本殿3棟や神宝の文殊菩薩像など歴史的価値が高い文化財を数多く所有しており、会津観光の折にはここまで足を伸ばしても決して損はないと言えると思いました。
喜多方ラーメンを味わい、家路につくこととしました。
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