2013/05/27 - 2013/05/28
5位(同エリア34件中)
ベームさん
5日目、5/27(月)。6日目、5/28(火)。
ハレからヴィッテンベルクにやって来ました。
正式にはルターシュタット・ヴィッテンベルク。ルターが宗教改革の烽火を上げその後も活動の中心とした町、そして眠る町です。
ヴィッテンベルク:人口55千人。エルベ川が流れベルリンの南南東100キロに位置する。1180年文献に現われ1293年都市権を得る。
1486年、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)がここを居城とした。1502年にはヴィッテンベルク大学が設けられた。
ルターのその後。
1517年ルターが95か条の論題を掲げたときは単に神学の問題と考え、後に全ヨーロッパ諸国まで巻き込んだ大きな宗教改革のうねりになるとまでは考えていなかったのではないでしょうか。
1518年:メランヒトンがヴィッテンベルク大学に招かれて、盟友となる。
1519年:ライプチッヒでインゴルシュタット大学教授エックとライプチッヒ論争。
1521年:ヴォルムスの帝国会議で帝国追放刑を受ける。ローマ教皇より破門される。
1522年:アイゼナハのヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳完成。
1524~1525年:ドイツ農民戦争。初めは農民側に立つが過激化につれ弾圧側に回る。ミュンツァー処刑される。
1526年:元修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚。41歳。
1531年:シュマルカルデン同盟結成。
ルター及びルター派の諸侯と神聖ローマ帝国カール5世派、ローマ教皇派との抗争は続くもルター派の勢力は拡大していく。
家庭を持ち子供もでき(6人)ルターは各地で説教もするが、もっぱらヴィッテンベルク大学で学究の道を歩んだという。
1546年2月:アイスレーベンで客死。62歳。
ルターが帝国追放刑(神聖ローマ帝国内では法の保護を剥奪)とか破門を受けたり、血なまぐさい新旧両派の争いの中で生き延びることが出来たのは奇跡のように思えます。ルターの姿勢が時には為政者側にあったこと(たとえば農民戦争)、カトリック側のカール5世やローマ教皇とルターの保護者ザクセン選帝侯フリードリヒを取り囲む複雑な政治情勢がルターの身にプラスに働いたことなどがあったと思います。
しかしヴィッテンベルク大学の一教授の身で強大なローマ教皇やマインツ大司教に立ち向かい宗教改革運動を導いたのは凄いことだと思います。
今日は1日でアイスレーベンとヴィッテンベルクというマルチン・ルターの町を歩きました。
写真はルターの紋章ルター・ローズ。。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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ホテルアクロン。駅から線路沿いに歩いて数分。
日は長いし天気は好くなったしで、一休みして早速出かけます。16時前。 -
ホテルを出てすぐの所に木立に囲まれた小さな広場がありました。
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真ん中に小さなモニュメントが建っています。
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ルターの樫の木/Luther Eiche/ルター・アイヒェ。
そう、ここなんです。1520年12月、ルターが民衆の面前でローマ教皇からの破門状を破り捨てたのは。両者決定的対立の始まりです。 -
ルターの樫の木。
何代目でしょうか。 -
「1520年12月10日のマルチン・ルターの行為の記念に。」
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そこから始まるコレギーン通り。
アウグステウム。 -
真っすぐマルクト広場に向かうコレギーン通り。
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晴れたのもつかの間、雲が出てきました。
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コレギーン通りの入り口にあるアウグステウム。元アウグスティヌス修道会。
この建物の門の奥にルターハウスがあります。 -
アウグステウムの建物の奥に大きなルターハウスがあります。
元修道院の建物で、1508年以降ルター家族が住んでいました。
現宗教改革史博物館。 -
前庭にルターの妻カタリーナ・フォン・ボラの像。
ここで日本人のツアーの人たちに会いました。日本のツアーでヴィッテンベルクが組み込まれているのは珍しいのではないでしょうか。
たまたま今日7/7の新聞にドイツツアーの広告があり、そこにヴィッテンベルク、ヴァイマール、デッサウ、バイロイトなど比較的マイナーな町を巡るのがありました。 -
以下ルターハウスです。
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日本のツアーの人たち。
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「ミカエル・アグリコラ。フィンランドの宗教改革者。1536~1539年、ヴィッテンベルクで学ぶ。」
フィンランドの牧師で、フィンランド語の書き言葉の父と言われる。 -
ルターハウス内部。
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十戒が描かれている石版。ルーカス・クラーナハ作。1516年。
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部分。
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部分。
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講堂。
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ルターが使っていた説教壇。
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ヴィッテンベルク市の共同金庫。
この金庫の鍵は教会、市参事会員と議員が持っており、三者が揃わないと開けられないようになっていました。1520年頃のもの。 -
応接間。
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クラーナハ:ヴォルムスのユンカー(騎士)・イェルク。
1521年、ヴォルムスの帝国会議で帝国追放令を受け、法律の保護をはく奪されたたルターがザクセン選帝侯フリードリヒ3世にアイゼナハのヴァルトブルク城にかくまわれている間使用した偽名。 -
クラーナハ:マルチン・ルター。
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クラーナハ:博士帽子を被ったルター。1520年。
カール5世によりヴォルムスの帝国会議に召喚される直前です。
ルター37歳ころの絵ですね。まだ若々しいです。 -
クラーナハ:ルター。1525年。
ルター41歳。農民戦争の年、厳しい顔をしています。 -
クラーナハ:ルター。1528年。
ルター45歳ころ。結婚して家庭を持ちだいぶ弛んでいます。 -
クラーナハ:ルター。
1541年、ルター58歳ころ。ますます太ってきています。 -
死のルター。
マルチン・ルターは1546年2月、アイスレーベンの教会で説教中に倒れ死去。
62歳。 -
クラーナハ:マルチン・ルターと妻カタリーナ・フォン・ボラ。
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クラーナハ:マルチン・ルター、カタリーナ・フォン・ボラ。
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クラーナハ:カタリーナ・フォン・ボラ。1526年。
ルターの妻。27歳ころ。ルターと元修道女だったボラは1525年結婚。ルター41歳、ボラ26歳。 -
クラーナハ:少女の絵。1520年。
ルターの娘マグダレーナではないかと言われていたが、その当時まだルターには子供はいなかったことが判明。 -
クラーナハ:フィリップ・メランヒトン。1540年。ルターの盟友。
メランヒトン43歳ころ。 -
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世賢明公。在位1486~1525年。
学問、芸術、文化に関心深い名君で都のヴィッテンベルクを文化都市に創り上げる。
1502年ヴィッテンベルク大学創設。ルター、メランヒトンを大学に招聘。クラーナハを宮廷画家に招聘。ルターの庇護者。
1521年、ヴォルムスの帝国会議で帝国追放刑になったルターをアイゼナハのヴァルトブルク城にかくまい新約聖書のドイツ語訳を完成させた。などなど。
1532年、ルーカス・クラーナハ作。 -
クラーナハ:ブラウンシュヴァイク・リューネブルク・ツェレ大公エルンスト。
1525年頃。 -
左ザクセン選帝侯ヨハン不変公。フリードリヒ3世賢明公の弟。在位1525~1532年。
右ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ寛大公。ヨハン不変公の息子。在位1532~1547年。ヘッセン方伯フィリップ1世と共にシュマルカルデン同盟の盟主。1547年シュマルカルデン戦争に敗れ選帝侯位と所領を失う。
フリードリヒ賢明公、弟の不変公、その息子寛大公とザクセン選帝侯は3代にわたりルターのこよなき理解者、保護者だった。ルターが殺されることなく平穏な死を迎えられたのはそのお蔭と言えよう。 -
展示室の様子。
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マルチン・ルターの新約聖書、1522年。
挿絵はクラーナハ。 -
クラーナハの挿絵。
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クラーナハ:法理と慈悲。1551年。
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ヤーコプ・ルチウス:キリストの洗礼と、ルター、ヨハン・フリードリヒ公の家族。
1555年。 -
窓から外を覗くと広い緑地になっていてラベ川に架かる橋でしょうか。
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ヴォルムスでのルターの祈り。
16世紀中頃。
1521年、ライン河畔古都ヴォルムスでの帝国議会に召喚された時のルターの弁明:聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことは出来ない。神よ助けたまえ。アーメン。
ヴォルムスにはその時のルターの記念碑があります。 -
ルターの息子たちによるルターハウスのヴィッテンベルク大学への売却文書。
1564年9月27日。3,700グルデン。羊皮紙に書かれています。
付けられている印章とサインは左からヴィッテンベルク大学、ヨハネス、マルティン、パウル・ルター。息子たちの印章はルターローズが使われている。 -
当時の王侯貴族たちの姿でしょうか。
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レーゲンスブルクのテレージア荘のルターの椅子のある居間。
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ルターの使っていた椅子。
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95か条の提題の城教会扉への掲示。
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ルターの墓に立つカール5世。
カール5世とはヴォルムスの帝国会議でルターを帝国追放刑に処し、シュマルカルデン戦争でルター派を破るなど常にルター派、プロテスタントと対立してきた神聖ローマ帝国皇帝カール5世の事。
1547年、ルターの死の翌年、シュマルカルデン戦争終結の後、腹心のアルバ公が皇帝にルターの墓を暴きその骨を異端者として焼き捨てるよう要請したが皇帝は拒否した。皇帝はそれはさすがに人格に対する冒涜だと考えたのか、宿敵ながらルターを認めていたのか。 -
カール5世。1500~1558年。
神聖ローマ帝国皇帝。マルチン・ルターの宗教改革運動の前に常に立ちはだかり続け、ルターの死後12年修道院での隠遁生活のうち亡くなる。 -
ヴィッテンベルク大学。
1502年ザクセン選帝侯フリードリヒ3世により設立。
1807年、ヴィッテンベルク大学とハレ大学合併。
正式な現在の名称はマルチン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク。 -
ヴィッテンベルク大学。
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ヴィッテンベルク大学。
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ヴィッテンベルク大学。
学生の姿が見えない。 -
メランヒトンの家。
ヴィッテンベルク大学の隣にあります。 -
メランヒトンハウスの案内板。
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フィリップ・メランヒトン。
1497~1560年。
ルターと共にルターの盟友、片腕として宗教改革運動を推進。ルターの思想の体系化に尽力した。
1518年、ヴィッテンベルク大学ギリシャ語教授。ルターに共鳴する。
1530年、「アウクスブルク信仰告白」を著わす。
後年はルターとの思想的相違が顕在化していったという。 -
メランヒトンの家。
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メランヒトン。
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メランヒトン。
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ルター左とメランヒトン。
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左から、カルヴァン、ルター、メランヒトン。
カルヴァン:スイスにおける宗教改革指導者。カルヴァン派。フランス人。 -
演説するメランヒトン。
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メランヒトン。
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「私は自分の書いたものよりフィリップ(メランヒトン)の書の方が好きだ」:ルター。
「私は彼(ルター)から福音を学んだ」:メランヒトン。
両者の信頼ぶりが窺えます。 -
コレギーン通りをマルクト広場の方に向かいます。
メランヒトンの家を出たら空は曇っていました。束の間の晴れ間でした。 -
またまた見つけたレーヴェンアポテーケ/獅子薬局。
古い町には必ずあります。 -
裏に回るとこの風景。
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マルクト広場にやって来ました。
マルクト広場と背後の聖マリエン教会。 -
マルクト広場。
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市庁舎。
1535年。 -
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市庁舎側面と裏側。
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市庁舎。
広場にはルターとメランヒトンの像が向かい合って建っています。右ルター、左メランヒトン。 -
市庁舎。
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ルター像。
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メランヒトン像。
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レールヴァッサーブルンネン。
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広場の南側。
2階はクラック劇場となっています。 -
広場の南側にあるクラーナハアポテーケ(薬局)。
クラーナハの住居でした。 -
クラーナハアポテーケに掲げてあるプレート。
「ルーカス・クラーナハ。ヴィッテンベルクの画家、これは本人自身が言っていること、は1472年フランケンのクローナハで生まれた。1504年にヴィッテンベルクに来る。1520年この薬局を購入し、1537~1544年市長を務めた。1553年10月16日ヴァイマールで死す。1872年、ヴィッテンベルク市」
ヴィッテンベルクの画家と名乗るなんて、クラーナハはルターと親交を深め、長年住み、企業家として成功し市長まで務めたヴィッテンベルクを愛していたのですね。 -
建物中央の入り口。
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建物の右半分はクラーナハ・ヘアベルゲとなっている。
旅籠屋でも経営してたのだろうか。絵を描き薬屋や宿屋を経営し、市長まで務めるとはたいしたマルチ人間。 -
クラーナハの家の入口を奥に入ると、
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クラーナハ親子の工房があります。
ここでも日本のツアーの方たちに会いました。しかもルターハウスであった方たちとは違います。珍しいことです。 -
工房の前のクラーナハ。
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ここのプレートにも「父ルーカス・クラーナハ。画家にして企業家。1537~1544年市長」とあります。
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昔の工房の絵。
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ハウス・デア・ゲシヒテ、歴史博物館とでもいえばよいのかな。
東独時代の日常生活展をやっています。 -
その入り口。
お話の家といったほうが合いそうです。 -
東独時代の日常。
人形が抱えているのは名車?ブラバントでしょう。 -
東独の絵本。
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市立図書館。
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コレギーン通りの先のシュロス通りには水路が流れています。
正面に城教会。 -
マルクト広場方面。
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シュロス通り。
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城教会の塔。
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通りの両側の様々な建物。
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ホテル黒熊亭。
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アイリッシュパブ。
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シュロス通りの両側の建物にはかってその家に住んだか泊まったことのある著名人の名前が掲げられています。
この家はヴィルヘルム・エドゥアルト・ヴェーバー、電磁石、テレグラフの発明者の生家です。 -
ヴィルヘルム・エドゥアルト・ヴェーバー。1804~1891年。
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この家は宗教改革運動家で農民戦争に敗れ処刑されたトーマス・ミュンツァーなど4人。
ミュンツァーは1518年ここで学んでいます。
店は女性の下着店です。 -
トーマス・ミュンッアー。1490~1525年。
神学者にして農民指導者。1518年ここで学んだ。
この旅では後日ミュンッアーの生地ミュールハオゼンを訪ねます。 -
老舗ホテルゴールデナー・アドラーにはゲーテとハウプトマアン。
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「ヨハン・ヴォルフガンク・ゲーテ。詩人、学者、枢密顧問官。1778年5月23日、ここに滞在した。」
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ゲルハルト・ハウプトマン。1862~1946年。
詩人、劇作家。1903年と1930年この町を訪問。
ノーベル文学賞受賞者。 -
アジア名物、すしの店。
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例えばズッペ/スープのメニュー。
ミソズッペ:味噌汁。豆腐、海藻、春タマネギ入り。1.9ユーロ。
ネギズッペ:ねぎスープ。ココナッツミルク、スライスねぎ入り。2.9ユーロ。
ワンタンズッペ:わんたんスープ。詰め物したこね粉の袋。2.5ユーロ。
ワンタンを「こね粉を詰め物にした袋」とは苦心しましたね。 -
チケットショップのようです。
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ナポレオン軍の猛将ミッシェル・ネイ将軍。
1813年ここでフランス軍を指揮した。
ナポレオンの側近の一人。ナポレオン全盛期の立役者。ワーテルローでのナポレオン軍敗北のあと捕縛され銃殺された。1769~1815年。 -
ベトガーの居た家。
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フリードリヒ・ベトガー。
ヨーロッパの磁器の発明者。1701年ここに拘禁。とあります。
マイセン磁器の発明者はその前にここに居た(拘禁?)ことがあるのだ。 -
カール12世。1682~1718年。
スエーデン王。1707年2月20日、ここに止宿。 -
極め付きはこれかな。
ゲーテの戯曲「ファウスト」のファウスト博士のモデルとなった錬金術師ヨハン・ファウスト。 -
「ヨハン・ファウスト。1480年頃~1540年頃。占星術師、科学者。1525年と1532年の間にここに住んでいたといわれる。」
ルターに、悪魔の力を借りている、と非難されたのはこの頃の事か。 -
これで今日はホテルに帰りました。
夕食はホテルで。
グーラーシュ(パン付)、ビール、ワイン、アイスクリーム、コーヒー、〆て17ユーロ。 -
アイスクリーム。
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ホテルで見かけたポスター。
マルチン・ルター近代精神の先駆者。 -
カテリーナ・フォン・ボラ、ルター夫人。
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フリードリヒ賢公。
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6日目、5/28(火)。
今日はヴィッテンベルクをもう少し見てナウムブルクに行きハレに戻ります。
今日も曇りです。
ホテルの近くの郵便局。古い建物を官公庁に使うのをよく見かけます。 -
壁面のプレート。
ヴィルヘルム・ヴェーバー。電磁波の発明者。1804.10.24ヴィッテンベルク生まれ。
1837年、グリム兄弟らと共にゲッティンゲン7教授事件によりゲッティンゲン大学教授を罷免された一人。 -
メイン通りの北の方を歩いてみます。
カトリック・プファール教会。 -
市街地の北にある池。
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新市庁舎。
市街地の北にあります。マルクト広場にあるのは旧市庁舎でした。 -
市街地に戻ります。
街なかにもこういった崩れたままの建物が所々に見られます。 -
昔のツォイクハウス/武器庫。
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ショッピングセンター。
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ヴィッテンベルク城の付属教会にやって来ました。
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の居城。
当初1509年、1760年焼失、1858年再建。 -
ところが工事中で中に入れません。
左下、やぐらを組んだところがルターが95か条の論題を張り付けた扉のある所。 -
残念です。ルターやメランヒトンのお墓を見たかった。
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ルターが贖宥状に抗議する95か条の論題を張り出した教会の扉。
1517年10月31日のことで、この日がプロテスタント世界では宗教改革記念日となっています。
当時の木の扉は1760年に焼失してしまって今の扉は1858年の青銅製のもの。
しかしルターが論題を教会の扉に貼ったというのは後に造られた伝説で、実際は書簡にしてマインツ大司教アルプレヒトに送ったというのが真実のようです。一度作られ定着した伝説は事実よりも影響力があります。 -
ラテン語で書かれ当時の民衆には読めなかったと云います。
ということはこれで民衆に訴える意図はなかったのでしょう。あくまでも贖宥状についての神学上の論争だったそうです。 -
それがキリスト世界だけでなく当時も後世もヨーロッパを揺るがす大潮流になっていくとは、ルター様でも。
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ヴィッテンベルク城と教会。
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シュロス通りを戻り最後は聖マリエン教会です。
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1280年。市最古。
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クラーナハの祭壇画。
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プロテスタントの教会らしく、簡素で絵が1枚だけの祭壇です。
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聖マリエン教会。
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聖マリエン教会。カトリックの教会によくある聖人像などの代わりに絵が置かれていました。
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聖マリエン教会。
昨日今日に亘ったヴィッテンベルク訪問をを終えホテルで荷物を受け取りナウムブルクに向かいました。そしてナウムブルクからさらにハレに戻り泊まります。
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2013/07/07 14:45:08
- 歴史の足跡
- ベームさん こんにちは。
ホントに今回は、ベームさんの旅先と被っています。
アイスレーベン、ヴィッテンベルク、ナウムブルク、パオツェン、ドレスデン・・・
これからまだまだビックリ地名が出てくるかもしれませんね。
さて、ヴィッテンベルク、ずいぶんじっくりご覧になったのですね。
やはり宿泊すると、いろんなところを見ることが出来ますね。
それにしても、ゲーテ、ベトガー、ファウスト博士・・などの足跡を見つけられたのは凄い!
思わぬ足跡を見つけると嬉しいですね。
旅人冥利に尽きます。それを探しに旅をしているのかなーって思います。
それにしてもアップが早い!
ベームさんの頭脳はどうなっているの?って思います。
年をとると、旅行記の構想を練るのも面倒になります。
でも、私も頑張らなければ・・・
himmel
- ベームさん からの返信 2013/07/07 22:23:32
- RE: 歴史の足跡
- himmelさん、今晩は。
>
> ホントに今回は、ベームさんの旅先と被っています。
> アイスレーベン、ヴィッテンベルク、ナウムブルク、パオツェン、ドレスデン・・・
> これからまだまだビックリ地名が出てくるかもしれませんね。
お互いどんな目で町を見ているか違いが分かって面白いです。
>
> それにしてもアップが早い!
> ベームさんの頭脳はどうなっているの?って思います。
> 年をとると、旅行記の構想を練るのも面倒になります。
> でも、私も頑張らなければ・・・
今回は一回一回写真をアップしメモを入れるのではなくて、全回分の写真を先にアップしてしまい後でメモだけを追加しているのです。写真のアップには時間がかかりましたがその後は早いです。写真のアップは一度に30枚出来るシステムを使いました。
それにhimmelさんと違って私は暇人で一日中これに係りきることもできます。
でどうか焦らずにhimmelさんのペースでおやりください。
ベーム
>
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