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平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて三浦半島に勢力を有していた三浦氏一族が支配し続け、戦国時代中期以降は小田原北条氏の勢力となった岡崎城(おかざきじょう、神奈川県伊勢原市岡崎)を訪問、現在は無量寺という寺院となっています。<br /><br /><br />現地には「岡崎城跡」(昭和44年2月27日指定)と題した伊勢原市教育委員会作成の説明板が建っており、内容は下記の通りで詳細に亘って記載されています。<br /><br /><br /><br />『 岡 崎 城 跡<br /><br />岡崎城跡は馬渡(まわたり)・大句(おおく)・木津根(きづね)・城所(きどころ)・平間(ひらま)・西海地(さいかいち)など1haに広がる平山城で、相模平野を一望にできる台地の先端部分に立地します。<br /><br />岡崎城は前記(岡崎神社を中心とした範囲)と後期(無量寺を中心とした大規模な範囲)の二つの時期にわたり、場所を変えて築城利用されました。<br /><br />前期(平安時代?鎌倉時代)の岡崎城は源頼朝の功臣、岡崎義実(おかざきよしざね、1112?~1200)がこの城を築いた時代です。岡崎義実は、三浦の衣笠(現在の横須賀市衣笠)の城主三浦庄司義継(みうら・しょうじ・よしつぐ、生没不詳)の四男で、この城を築いて地名をとり、岡崎四郎義実と名乗りました。<br /><br />義実は頼朝の挙兵に応じて立ち上がり石橋山の合戦に参じていますが、その際の嫡子真田与一義忠(さなだ・よいち・よしただ、生没不詳)と俣野五郎との組討ちには後に浮世絵等の題材としても取り上げられています。<br /><br />義実はその後も頼朝に付き従って行動し、岡崎氏は三浦の四棟梁(三浦・和田・佐原・岡崎)のひとつに数えられる重臣となってゆきました。<br /><br /><br />後期(室町時代末~戦国時代)の岡崎城は明応3年(1494)に三浦道寸(義同)(みうら・どうすん(よしあつ)、生誕不詳~1516)が義父三浦時高を滅ぼし、子息義意(よしおき、生誕不詳~1516)を三浦の新井城におき、自らは相模岡崎城に手を加え居城としたものです。<br /><br />そのころ関東進出をはかっていた伊勢早瑞(北条早雲)(いせ・そうずい(ほうじょう・そううん))は小田原城を奪い相模平定を狙いましたが、堅固な岡崎城に阻まれ、実に17年間にわたり睨み合いが続きました。<br /><br />岡崎城の周囲には西海地土腐をはじめとする湿地がめぐり、南は断崖で「岡崎の城と申すは、昔頼朝の御時、三浦大介の弟、岡崎悪四郎義実が住し城とぞきこえし、三浦の一門数年住まいし処、要害きびしく支度せり」(小田原記)と称される要害の地だったのです。<br /><br />しかし永生9年(1512)8月、伊勢宗瑞の猛攻により岡崎城は遂に攻め落とされました。道寸は弟の道香(どうか、生誕不詳~1516)を頼って三浦の住吉城に逃れ、転戦ののちに新井城に立てこもりました。<br /><br />攻防を繰り返すこと3年、永正13年(1516)7月11日に道寸は一族と共に滅びました。道寸が同じ新井城に義父時高を討ってから二十余年後、三浦一族の壮絶な最期でした。<br /><br />その岡崎城は北条氏の持ち城となったと思われますが、、廃された時期は明らかではありません<br />               伊勢原市教育委員会 』

相模伊勢原 三浦半島の豪族三浦氏庶流で地元中村氏と同盟しほぼ相模全域を支配するも小田原北条氏に最後まで徹底抗戦した三浦義同居城『岡崎城』訪問

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2013/06/01 - 2013/06/01

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滝山氏照

滝山氏照さん

平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて三浦半島に勢力を有していた三浦氏一族が支配し続け、戦国時代中期以降は小田原北条氏の勢力となった岡崎城(おかざきじょう、神奈川県伊勢原市岡崎)を訪問、現在は無量寺という寺院となっています。


現地には「岡崎城跡」(昭和44年2月27日指定)と題した伊勢原市教育委員会作成の説明板が建っており、内容は下記の通りで詳細に亘って記載されています。



『 岡 崎 城 跡

岡崎城跡は馬渡(まわたり)・大句(おおく)・木津根(きづね)・城所(きどころ)・平間(ひらま)・西海地(さいかいち)など1haに広がる平山城で、相模平野を一望にできる台地の先端部分に立地します。

岡崎城は前記(岡崎神社を中心とした範囲)と後期(無量寺を中心とした大規模な範囲)の二つの時期にわたり、場所を変えて築城利用されました。

前期(平安時代?鎌倉時代)の岡崎城は源頼朝の功臣、岡崎義実(おかざきよしざね、1112?~1200)がこの城を築いた時代です。岡崎義実は、三浦の衣笠(現在の横須賀市衣笠)の城主三浦庄司義継(みうら・しょうじ・よしつぐ、生没不詳)の四男で、この城を築いて地名をとり、岡崎四郎義実と名乗りました。

義実は頼朝の挙兵に応じて立ち上がり石橋山の合戦に参じていますが、その際の嫡子真田与一義忠(さなだ・よいち・よしただ、生没不詳)と俣野五郎との組討ちには後に浮世絵等の題材としても取り上げられています。

義実はその後も頼朝に付き従って行動し、岡崎氏は三浦の四棟梁(三浦・和田・佐原・岡崎)のひとつに数えられる重臣となってゆきました。


後期(室町時代末~戦国時代)の岡崎城は明応3年(1494)に三浦道寸(義同)(みうら・どうすん(よしあつ)、生誕不詳~1516)が義父三浦時高を滅ぼし、子息義意(よしおき、生誕不詳~1516)を三浦の新井城におき、自らは相模岡崎城に手を加え居城としたものです。

そのころ関東進出をはかっていた伊勢早瑞(北条早雲)(いせ・そうずい(ほうじょう・そううん))は小田原城を奪い相模平定を狙いましたが、堅固な岡崎城に阻まれ、実に17年間にわたり睨み合いが続きました。

岡崎城の周囲には西海地土腐をはじめとする湿地がめぐり、南は断崖で「岡崎の城と申すは、昔頼朝の御時、三浦大介の弟、岡崎悪四郎義実が住し城とぞきこえし、三浦の一門数年住まいし処、要害きびしく支度せり」(小田原記)と称される要害の地だったのです。

しかし永生9年(1512)8月、伊勢宗瑞の猛攻により岡崎城は遂に攻め落とされました。道寸は弟の道香(どうか、生誕不詳~1516)を頼って三浦の住吉城に逃れ、転戦ののちに新井城に立てこもりました。

攻防を繰り返すこと3年、永正13年(1516)7月11日に道寸は一族と共に滅びました。道寸が同じ新井城に義父時高を討ってから二十余年後、三浦一族の壮絶な最期でした。

その岡崎城は北条氏の持ち城となったと思われますが、、廃された時期は明らかではありません
               伊勢原市教育委員会 』

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 岡崎城跡案内板

    岡崎城跡案内板

  • 大手道<br /><br />麓から登ってみます。往時はこれほど広くはなかったでしょう。

    大手道

    麓から登ってみます。往時はこれほど広くはなかったでしょう。

  • 大手道<br /><br />攻め手が一気に登れないように曲線路となっています。

    大手道

    攻め手が一気に登れないように曲線路となっています。

  • 大手道<br /><br />虎口付近の道路で、すぐ左に城跡に建立された無量寺の入口が見えます。<br /><br />

    大手道

    虎口付近の道路で、すぐ左に城跡に建立された無量寺の入口が見えます。

  • 岡崎城跡入口<br /><br />戦国時代には城郭を拡大させ現在は無量寺となっています。

    岡崎城跡入口

    戦国時代には城郭を拡大させ現在は無量寺となっています。

  • 無量寺周辺観光案内地図

    無量寺周辺観光案内地図

  • 無量寺全景

    無量寺全景

  • 無量寺・本堂<br /><br />正式には浄土宗の「帰命山寿経院無量寺」となっています。

    無量寺・本堂

    正式には浄土宗の「帰命山寿経院無量寺」となっています。

  • 岡崎城跡石碑

    岡崎城跡石碑

  • 岡崎城跡・説明板

    岡崎城跡・説明板

  • 岡崎城跡・説明板(近景)

    岡崎城跡・説明板(近景)

  • 平塚市街展望<br /><br />無量寺の奥にある小高い墓地からは平塚市街(南方向)が一望できます。

    平塚市街展望

    無量寺の奥にある小高い墓地からは平塚市街(南方向)が一望できます。

  • 平塚市街展望<br /><br />無量寺敷地が周辺より一段高くなっており主郭にあたると思われます。

    平塚市街展望

    無量寺敷地が周辺より一段高くなっており主郭にあたると思われます。

  • 平塚市街展望

    平塚市街展望

  • 平塚市街展望<br /><br />

    平塚市街展望

  • 稲荷神社・鳥居<br /><br />本堂の左奥に小規模ながら稲荷神社が控えています。

    稲荷神社・鳥居

    本堂の左奥に小規模ながら稲荷神社が控えています。

  • 稲荷神社・拝殿<br /><br />扁額には「城山稲荷大明神」と刻されています。

    稲荷神社・拝殿

    扁額には「城山稲荷大明神」と刻されています。

  • 空堀<br /><br />墓地と無量寺裏の畑との間の道が、往時は無量寺郭と畑を隔てる空堀であったと思われます。

    空堀

    墓地と無量寺裏の畑との間の道が、往時は無量寺郭と畑を隔てる空堀であったと思われます。

  • 土塁<br /><br />無量寺の奥には土塁と思われる姿がわずかですが見られます。

    土塁

    無量寺の奥には土塁と思われる姿がわずかですが見られます。

  • 空堀<br /><br />竹林で確認しづらいですが、畑となっている向こう側と手前の寺側との間には深い空堀が確認できます。向かいの畑は南方向に段差をつけて下がっているようです。

    空堀

    竹林で確認しづらいですが、畑となっている向こう側と手前の寺側との間には深い空堀が確認できます。向かいの畑は南方向に段差をつけて下がっているようです。

  • 無量寺・境内

    無量寺・境内

  • 岡崎義実墓・案内板<br /><br />岡崎城跡の外周を下りますと案内板が目に入り、ここを左折して細いあぜ道を暫く歩きます。

    岡崎義実墓・案内板

    岡崎城跡の外周を下りますと案内板が目に入り、ここを左折して細いあぜ道を暫く歩きます。

  • 途中風景

    途中風景

  • 途中風景

    途中風景

  • 岡崎義実墓・案内板<br /><br />風景があぜ道から通常の小道に変わり、その小道を右折して樹木の茂った区画へ降りてゆきます。

    岡崎義実墓・案内板

    風景があぜ道から通常の小道に変わり、その小道を右折して樹木の茂った区画へ降りてゆきます。

  • 岡崎義実の墓<br /><br />長期にわたり風雪に耐えたためか、墓石はかなりすり減っています。その傍らには説明板と記録板が建てられています。

    岡崎義実の墓

    長期にわたり風雪に耐えたためか、墓石はかなりすり減っています。その傍らには説明板と記録板が建てられています。

  • 岡崎義実墓・説明板<br /><br />「岡崎四郎義実高の墓<br /><br />義実は天永3年(1112)三浦庄司義継の四男として三浦に生まれた。<br /><br />青年時代は三浦郡沼田(現在の浦賀の一域)に住み、悪四郎と呼ばれ勇ましい武将であった。(注 この時代の悪は大変強いと言う意味)後に大住郡岡崎に移り、この辺りを領地とし、岡崎の名前をとって岡崎四郎義実と名乗った。<br /><br />義実は治承4年(1180)69歳で、源頼朝の伊豆の国韮山の挙兵に加わり、石橋山の戦いでは十倍以上の相手と戦い長男の真田与一義忠を亡くしたが、無事頼朝を守り立派な働きをした。以来、鎌倉幕府を開いた頼朝にとって、なくてはならない重要な人物の人として活躍をした。<br /><br />正治2年(1200)6月21日、89歳で鎌倉の由比が浜の自宅で亡くなった。<br /><br />この墓は長男義忠の乳母吾婦を埋葬した場所へ義実を後から葬ったと伝えられている。<br />                       平塚市観光協会 」

    岡崎義実墓・説明板

    「岡崎四郎義実高の墓

    義実は天永3年(1112)三浦庄司義継の四男として三浦に生まれた。

    青年時代は三浦郡沼田(現在の浦賀の一域)に住み、悪四郎と呼ばれ勇ましい武将であった。(注 この時代の悪は大変強いと言う意味)後に大住郡岡崎に移り、この辺りを領地とし、岡崎の名前をとって岡崎四郎義実と名乗った。

    義実は治承4年(1180)69歳で、源頼朝の伊豆の国韮山の挙兵に加わり、石橋山の戦いでは十倍以上の相手と戦い長男の真田与一義忠を亡くしたが、無事頼朝を守り立派な働きをした。以来、鎌倉幕府を開いた頼朝にとって、なくてはならない重要な人物の人として活躍をした。

    正治2年(1200)6月21日、89歳で鎌倉の由比が浜の自宅で亡くなった。

    この墓は長男義忠の乳母吾婦を埋葬した場所へ義実を後から葬ったと伝えられている。
                           平塚市観光協会 」

  • 岡崎義実墓記録板

    岡崎義実墓記録板

  • 岡崎義実墓<br /><br />近隣の豪族である中村氏の娘を嫁にして、岡崎の地を領することになります。

    岡崎義実墓

    近隣の豪族である中村氏の娘を嫁にして、岡崎の地を領することになります。

  • 岡崎義実墓<br /><br />義実が亡くなった後は侍所別当の和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)が執権北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)に対し反乱を起こしますが、義実の子土屋義清(つちや・よしきよ、生誕不詳~1213)は中村氏一族と共に義盛に加担した結果没落します。

    岡崎義実墓

    義実が亡くなった後は侍所別当の和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)が執権北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)に対し反乱を起こしますが、義実の子土屋義清(つちや・よしきよ、生誕不詳~1213)は中村氏一族と共に義盛に加担した結果没落します。

  • 岡崎義実墓

    岡崎義実墓

  • 岡崎義実墓の周辺

    岡崎義実墓の周辺

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