2013/05/26 - 2013/05/26
98位(同エリア177件中)
滝山氏照さん
小田急小田原線の伊勢原駅から産業能率大学行のバスにて約10分、「道灌塚」で下車しさらに10分ほど歩くと曹洞宗番龍山・洞昌院(とうしょういん、神奈川県伊勢原市上粕屋)の入口に太田道灌の墓所があります。(自分は粕屋館訪問の帰路に立ち寄りました)
『太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長(すけなが)または持資(もちすけ)といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。道灌が生まれた頃、父資清(すけきよ、1411?1488)は相模の糟屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えなかった。道灌は25歳の時(1457)、武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築いた。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府300年の居城となった。明治以後、町は東京とよばれ、城は皇居となった。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高い。
道灌は築城軍略の大家であるばかりではなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。
晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互いに協力して政治を行わなければ平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉定正(うえすぎさだまさ、1443~1494)は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半ばにして粕谷の上杉館で誅殺された。時に54歳であった。
道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)の弟道悦和尚のため建てた寺と伝えられている。現在、伊勢原市では、毎年10月の第1土・日曜日に観光道灌祭を行って、偉業を偲んでいる。』
(伊勢原ライオンズクラブ・説明板)
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
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「太田道灌公墓の入口」案内板
県道611号線に沿った道路に案内板が立ち、山王中学校前交差点を右折、暫く歩きますとバス停の向こうに太田道灌墓が在ります。 -
「太田道灌公墓」柱標
バス停広場から道灌墓の柱標を捉えます。 -
「太田道灌公霊地」石標
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「案内地図」と「太田道灌説明板」の設置
入口の空地には太田道灌に関係する周辺の地図と道灌に関する説明板が設置されています。 -
太田道灌に関する周辺地図
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太田道灌説明板
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「太田道灌公霊地」石標
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太田道灌墓所遠景
墓地に入りますと右手に道灌の墓が在ります。 -
太田道灌墓所
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太田道灌墓
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太田道灌墓所
道路側から道灌の墓所を捉えます。 -
心敬僧都の句碑
「雲もなほさだめある世のしぐれ哉」 -
句碑建立の由来
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「太田道灌と山吹の花」説明板
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道灌廟周辺
不明ながら地藏群や供養塔などが並立しています。 -
洞昌院三佛殿
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洞昌院山門
洞昌院は太田左衛門大夫持資入道道灌(法名:洞昌院心圓道灌、文明18年(1486)死去を開基として、崇旭(長禄2年死去)が開山となり、創建したといわれます。天正19年寺領3石の御朱印状を拝領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったそうです。 -
山門入口に並ぶ石仏像
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洞昌院・本堂
山号は蟠龍山、院号は洞昌院、寺号は公所寺でご本尊は阿弥陀如来立像、漕洞宗となっています。 -
本堂・扁額
「洞昌禅院」と刻された扁額が掲示されています。 -
洞昌院境内風景
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