2013/04/26 - 2013/04/26
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utamiumiuさん
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4月25日
午前中は現地ツアー(マイバス)を購入してマイヤーリンクとハイリゲンクロイツ修道院など日本語のガイドさん付で周りました。
集合場所のオペラ座横にに行ってみると、何とその日のお客さんは私と友人の二人だけ!
混載ツアーのはずなのにプライベートツアーみたいになってしまいました。
2人だけなので時間的にも余裕があり団体行動不向きな私にはぴったりの現地ツアーでした。
この日の午後はお土産屋にひっかかり、今年初シュパーゲルを食べ、など、やはりたくさん歩きました。
表紙の写真はリヒテンシュタイン城。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
-
リヒテンシュタイン城はリヒテンシュタイン公国のリヒテンシュタイン家のお城です。
かなり古いお城(12世紀くらい)で、こういう塔のあるお城の原型がこのお城で。ドイツなどにある城もみんな、リヒテンシュタイン城をモデルにしているといわれています。
*リヒテンシュタイン家の名が初めて歴史上で使われたのは12世紀にドイツ系ボヘミア貴族のシュヴァルツェンベルク家のハインリヒがウィーン近郊にある城を築いたことを由来とする。
後にドナウヴェルトの地方貴族だったフーゴがリヒテンシュタイン城主であるシュヴァルツェンベルク家の娘ハデリヒと結婚して、相続してリヒテンシュタイン城の城主となり、その居城の名をとって家名としたのに始まっている。以来、リヒテンシュタイン家は諸侯の資格をもたない下級貴族ながらも、神聖ローマ帝国(ドイツ)の一部であったオーストリア地方北東部にあるドナウ川上流流域にあるニーダーエスターライヒの一部などの領主家として継続した。
*ウィキペディアより抜粋 -
次に行ったのが「ヘルドリッヒスミューレ」というレストラン・・の前の観光名所。
シューベルトファンなら訪れてみたい場所かも。
当時貧乏だったシューベルトはここに間借りをしてあの有名な「菩提樹」を作曲したそうです。
ちょっと剥げ落ちたシューベルトの記念レリーフが可哀そうですが。 -
ここに座って作曲したのかな?
それとも部屋の窓から眺めたのかな?
と、想像が広がります。
http://www.youtube.com/watch?v=W6MNckAxNCk
個人的に大好きなトーマス・ハンプソンの歌う「菩提樹」です。 -
泉にそいて 繁る菩提樹♪〜
でも泉と言うより井戸でした。
ドイツ語では井戸もブルンネンと言うそうです。 -
ベートーベンも食事に来ていたそうです。
ツアーの時間的都合上、いささか古ぼけたシューベルトと記念写真だけです。
次回はここでご飯食べてみたいです。 -
次に訪れたのがハイリゲンクロイツ修道院。
普段は静かな修道院だそうですがこの日は観光客で一杯でした。
*ハイリゲンクロイツ修道院
オーストリア・ウィーン郊外Wienerwald( ウィーンの森)
改革を希求したフランス、ブルゴーニュ地方出身の修道士モレームのロベール(Robert de Molesme, 1027年 - 1111年)が1098年、フランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥である。シトー会は、「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守り、彫刻や美術による教示を禁止した。
ハプスブルグ家以前にオーストリアを統治していた、バーベンベルグ家によって1133年創立された
オーストリア最古のシトー派の修道院。
シトー会士は「白い修道士」とも呼ばれる。シトー会は戒律の中でも労働と学習を重んじ、自ら農具をとり農民らを指導して、森林に覆われていた北フランスの開墾や新農法の普及を行った。
と、最初は戒律の厳しい質素を旨とする修道会だったようですが、権力を持つとやはり金襴緞子好きになるようです。
メルクの修道院も同じベネディクト派の修道院ですから。 -
三位一体の柱
十字架はキリストを鳩が聖霊、光が父なる神・・だったかな? -
ハイリゲンクロイツ修道院の一番古い部分だそうです。
修復されて新しく見えるんですが。 -
修道院内部の回廊
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ここのステンドグラスは色がないのですがとても複雑な幾何学模様のステンドグラスで興味深かったです。
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修道院建物内にある泉。
建物の中なのに苔むしていました。 -
地下礼拝堂、墓所
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多分、ワイン樽の蓋の部分??
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薔薇窓。
外からの光が美しい色の影を映し出しています。 -
薔薇窓
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墓所と祭壇
多分バーベンベルク家のフリードリッヒ2世のだと思います。
資料によると
「フリードリッヒ2世のみ床上の大きな石棺に眠っている」とありましたので。 -
回廊から見た中庭。
-
キリストの足を洗うマグダラのマリア(現在、諸説ありますが一応)
ルカの福音書 第七章 より
*あるパリサイ人が、イエスと一緒に食事をしたいと願い、イエスを家に招きます。
その町には、一人の罪深い女がありました。(おそらく娼婦であろうといわれています)
イエスがその人の家に入り、食卓に着いているのを知ると、彼女は香油の入った石壷を持ってきて、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらしました。そして、自分の髪でイエスの足を拭い、接吻して、香油を塗りました。
イエスを招待したパリサイ人は、この様を見ながら、「この人が本当に預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人間だか解るはずだ。あれは罪深い女なのに」と、心ひそかに思います。
するとイエスはその人に向かって言いました。
「この人を見なさい。私がお前の家に入ってきても、お前は足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。
お前は私に接吻の挨拶もなかったが、この人は私が入ってきてから、ずっと私の足に接吻し続けた――
この人が多くの罪を許されたことは、私に示した愛の大きさで解る。許されることの少ない者は、愛することも少ない」
イエスは、彼女に言いました。
「私はあなたの罪を許した。あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」 -
主祭壇と白い修道士たち。
-
この現地ツアーはお茶付でした。
この辺の名物クリームーストゥルーデル
最初出て来た時はその大きさにびっくりしましたが、サクサクのパイ生地で軽い食感だし、完食しました。
お砂糖を入れないで飲んだメランジェ(カプチーノ)によく合いました。 -
レストラン内部。
食事時ではないのでお客は私達だけでした。 -
のどかなウィーンの森の風景です。
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-
白くポツポツと見えるのはたぶんサクランボの木。
もしかしたら杏かな? -
このツアーでわたし的にメインのマイヤーリンクの館(現修道院と礼拝堂)
マイヤーリンクのお話。諸説ありますが・・・
********************************
1889年(明治22年)1月30日午前8時ルドルフ皇太子の狩猟の館で、従者ら3人が約1時間半前に顔をだして「もう一度寝るから」と言って引き
かえした皇太子の部屋があまりにも静かなのを不審に思って、錠がかかっている扉を手斧で壊して中に入った。
そしてベッドの左の端にもたれかかるようにうつ伏せになって、大量の血の中で死んでいる30歳5ヵ月の皇太子と、同じベッドの右側で1輪のバラ
の花を手にして、17歳10ヵ月のマリー・ヴエツッエラが仰向けに血を流して死んでいるのを発見した。
彼女は皇太子のお抱え御者の馬車で2日前からここに来て、死を覚悟して彼が来るのを独り待っていたのだった。
この時2発の銃声を聞いたというのと、物音はなかったという説とがある。
王宮側は当然大騒ぎになり、皇太子の自殺に報道管制を敷き、銃による自殺を報じた新聞は発刊禁止になったが、この結果、様々な憶測をよぶ
ことになった。 やがて皇太子がマリーを撃った後に、自分の右頭に発砲した事実は広く伝わる。
1858年生まれのルドルフは写真でもある程度想像できるが、魅力的な男性で皇太子という身分からしても、ウィーンの女性の憧れの的だったらしい。
彼が軽い気持ちで交際した女性は貴族階級の娘から一般市井の年頃の娘、さらには当時のいわゆる「街の女」に至るまで相当数にのぼったといわれている。
1881年5月に正式に皇太子妃になったのはベルギー国王の次女17歳のステファニーであったが、ルドルフは求婚旅行でベルギーを訪れた時も
愛人の若手女優を伴っていたという奇妙なことをしている。さらにまた貴族相手の高級娼婦ミッツィ・カスパーとも紹介者を通じて付き合い始め、
死ぬためにマイヤーリンクに行く前日も、彼女に買い与えていた家で一緒に過ごしているし、遺書でもミッツィに多額の財産を与えるようにと書いて
いる。
彼はこの女性と一緒に死にたかったのか、2度ピストル自殺の話を持ちかけたが、本気にされず断られたようである。
ルドルフ皇太子と死を共にしたマリー・ヴエッエラが彼と知り合ったのは、プラターの競馬場で英国のエドワード7世の紹介だったという説と、彼女が姉のように慕っていた皇太子の従姉にあたる伯爵夫人の手引きによって王宮で会ったという説がある。
いずれにせよそれ以後彼女は夢中になってしまう。
後にマリーが書いた手紙によると、死ぬ少し前の1月13日に彼と結ばれたらしい。
しかし皇太子が死に赴く前夜にミッツィの家で泊まったことがあってか、死ぬ頃のルドルフのマリーに対する気持ちは冷えきっていたと言われてい る。
一方マリーは1888年11月5日に彼と知り合って、86日間で完全燃焼してしまったことになる。
ルドルフは常々父フランツ・ヨーゼフ皇帝と政策面を含めて意見を異にしていた。
また父が皇帝の座に長く居座り続けることにも反感を持っていたようである。
ある伯爵のほかいくつかの男性関係があったといわれる妻ステファニーとの離婚を父に申し出たが、拒絶されたりしてこの頃には鬱の状態であっ
たといわれている。 さらに淋病に感染したこともあり、それらの苦痛から逃れるために、アルコールのほかモルヒネやコカインにも手をだしていた。
そして4日前1月26日の皇帝との口論がもとで決定的に死を決意させる。
ミッツィに断られてマリーを選び、自分ひとりで死ななかったのは、常々孤独の人生に不安を持っていた彼には、死への旅路にも道連れが必要で
あったのだろう。 ルドルフはミッツィにあてたものを含め沢山遺書を書いたが、父宛には何も書いていない。
<マリーの遺書>
「私たちは至福の喜びのうちに未知の向こうに参ります。
私のために泣かないで。平和な気持ちで行くのですから。
毎年1月13日がきたら私の墓にガーデニア(くちなし)の花を置いてね。
もう一度さようなら」
マリーが誕生日でもなく、命日でもなく、ルドルフと結ばれた日を指定したのは、この日が彼女には最大の記念日だったのであろう。
マリーは自分とルドルフを一緒に葬ってと遺書に書いているが、王宮では当然許されること ではなかった。
マリーの遺体は暫く放置され、その後も邪魔者的に粗末に扱われたようである。
ルドルフの遺体は急遽数Km離れた最も近いバーデン駅に列車を臨時停車させて、王宮に運ばれたが、頭部の銃による破損部分などをも隠すようにカーネーション、白バラ、ヒメユリなどの花々で埋めつくされた。
そして2月5日の大葬の後、代々の皇帝の霊廟であるカプツィーナ教会に安置 された。
息子の死後生涯喪服で通し、後にイタリー人の無政府主義者に暗殺された母エリザベートと、意見の合わなかった父フランツ・ヨーゼフと 3人の棺はこの教会の同じ場所に安置されていて、我々も訪れることができる。
希望は入れられずに彼とは一緒でなかったとはいえ、この墓で安らかに眠れると思われた彼女に、さらに不幸が2度訪れることになる。
第二次世界大戦の終わり近く、物静かなウィーンの森も、ソ連軍とドイツ軍の激戦場になった。
進撃してきたソ連軍はこの付近に駐留したうえ、墓という墓を掘りかえして副葬品を持ち去った。
マリーの墓も被害が大きく、棺はこじ開けられて、母が納めた彼女の装身具は、服の生地の一部とパンプスを残してすべて消えてしまった。
この盗掘の際に彼女の頭蓋骨には、心中の際の銃弾によるものとは別の破損箇所が出来たようである。
1959年7月に遺骨はブリキの棺に入れられて改葬されたが、1990年11月から翌年8月までの間に心中事件を解明したいというリンツ在住の男性
によって墓から持ち出されていたことを1992年末に当局が確認した。
間もなくウィーンの法医学研究所に返された遺骨は、鋼鉄製の金庫に厳重に保管された。彼女のこの遺骨は現在もとの墓に帰っているものと推定 されている 。
悲劇の起こった1889年の年内に、悲しみにくれる母エリザベート皇后の希望で、狩猟の館の建物は取り壊されて今の修道院の小さな礼拝堂が作
られた。 -
この祭壇のある場所が30歳のルドルフ皇太子と17歳の男爵令嬢マリーヴェッツェラが心中した寝室のあったところだそうです。
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祭壇の写真の女性はこの修道院の尼僧だった人らしいですがここに祭られた詳しい経緯は分かりませんでした。
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表に通じる扉
多くの旅行記に礼拝堂内部は撮影禁止だったと書かれていましたが、この日は何も言われませんでした。 -
ルドルフ皇太子が使用していた部屋と家具の再現。
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マリー ヴェッツェラが最初に入れられた木製の棺。
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ルドルフ皇太子の母、エリーザベト皇后
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父のフランツ ヨーゼフ皇帝
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マリー・ヴェッツェラ
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ルドルフ皇太子の正式な妻ドイツ語名はシュテファニー・フォン・ベルギエンと。
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自殺した後のルドルフ皇太子
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ルドルフ皇太子
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のどかなマイヤーリンクとウィーンの森
マイヤーリンクの真実は今もって謎のままだそうです。
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