2013/05/02 - 2013/05/11
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montsaintmichelさん
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遠い遥かな昔、人口2万人を数える商業都市として繁栄していたポンペイ。しかし、西暦79年8月24日のヴェスヴィオ山の大噴火により、火山灰に埋もれた悲劇の都と化しました。火山灰は3日3晩降り続き、7~8mも積もった頃には都市は完全に抹殺されていました。その後、1700年の歳月をかけ、埋もれた遺跡の上に新しい町が造られてきました。ある日、住人が井戸を掘ったところ、彫刻が施された大理石の柱が発見されました。今まで伝説でしか語られなかったポンペイの実在が証明された瞬間でした。遺跡の発掘調査が始められたのは、18世紀半ばのナポリ王カルロス3世の時代。継続した発掘でポンペイの様子が詳らかになってきましたが、現在財政難からイタリア政府は残り半分の発掘を凍結している模様です。
時間の制約もあり、壮大なポンペイ遺跡のごく一部を回ったにすぎませんが、新たなサプライズをレポートしたいと思います。
ポンペイ遺跡のマップです。マップで見ると、本当に左端の一部しか訪ねていないことがよく判ります。
http://blogs.yahoo.co.jp/whfsc363/GALLERY/show_image.html?id=33514331&no=0
<日程>
5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)
アタホテル クァーク宿泊
5月3日:午前 ミラノ観光
午後 ヴェローナ観光
アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊
5月4日:ヴェネツィア観光
午後 フィレンツェへバス移動(245km)
クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月5日:午前 フィレンツェ観光
午後 ピサ観光
クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月6日:午前 フリータイム
午後 イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ
ホリディイン・ナポリ宿泊
5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)
ポジターノの丘→コンカ・ディ・マリーニ(エメラルドの洞窟)
→ランチ→ポンペイ遺跡(1時間15分)→カメオ工房見学
高速船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム
(アウグスト公園散策)→夕食後フリー散策
レジーナ・クリスティーナ宿泊
5月8日:カプリ島観光
午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動
シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月9日:ローマ市内観光
シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月10日:午前 ローマ市内観光
観光後、ローマ空港へ
アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ
5月11日:関空着
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
ポンペイ遺跡 マリーナ門
ポンペイ遺跡のすぐ目の前にあるピザ専門店でナポリ・ピッツァの代名詞ピッツァ・マルゲリータを丸ごと一枚堪能。さすがに耳の部分は残しましたが…。ミルクの香り豊かなモッツァレラ・チーズと小麦が香ばしいモチモチの生地、そして濃厚なトマトソースの酸味とフレッシュ・バジルの甘くて爽やかな香りのコンビネーション。シンプルながら美味しかったです。何と、イタリア王妃の名を戴いたありがたいピッツァだそうです。よく見るとこの色の取り合わせはイタリア国旗を表しています。
食後、ポンペイ遺跡へ歩を進めます。入場は、マリーナ門からです。
マリーナ門の左にも古代の民家らしき建物が遺されています。ここから正面に見える建物の中には、浴場もあったそうです。 -
ポンペイ遺跡 マリーナ門
マリーナ門は遺跡の南西端にあり、噴火以前にはポンペイの町から海に通じていた門。かつては、この門の直ぐ前に海原が広がっていたそうです。火砕流等の堆積で今の海岸線は遺跡から3kmも先になっていますから、噴火の規模が推し量れます。町が完全に埋まるのも当然と思わせる巨大な火山エネルギーです。マリーナ門にはご覧のように大小2つのアーチがあり、左側の小さい方は歩行者用、右側の大きい方は馬車用と使い分けてたそうです。見学者は幅の広い馬車用の通路を通っていきます。 -
ポンペイ遺跡 マリーナ門
古代ローマの石畳を踏みしめながらマリーナ門を潜っていきます。
ポンペイ遺跡見学で忘れてはならないのが、飲料水の携行。売店は入口とフォロの北側にあるレストハウスにしかありません。真夏は涼む木陰も少なく、熱中症予防のためにも暑さ対策&飲料水はしっかりと準備されることをお勧めします。 -
ポンペイ遺跡 舗装道路
舗装された道路や歩道は当時のままだそうです。馬車は中央の車道を走り、歩行者は車道の左右に設けられた歩道を歩きます。雨で冠水しないように、歩道を少し高くする工夫が見られます。また、夜道でも道が分かるように、路面にはキラキラ光る蛍光材が埋め込まれています。写真に小さく白っぽく写っているものがそれです。また、人が立っている場所には、車道が冠水した時にも渡れるように飛石が設けられています。その間隔は、馬車の車輪が通過できるようになっているそうです。また、この轍の幅が日本の新幹線の車輪の幅と同じだという事を何かのTV番組で言っていました。
考えようによっては、現代よりも進んだ文化だったような気がしませんか? -
ポンペイ遺跡 フォロ(公共の広場)
フォロは、ポンペイ遺跡で一番のビュー・ポイントです。正面のヴェスヴィオ山も間近に迫ってきます。山の手前に建つ列柱はユピテル神殿のものです。ポンペイは、このフォロを中心とした西側から街が形成され、時代を経て徐々に市街地が東へと広がっていきました。フォロが街の西側に偏っているのはそのためです。ポンペイのフォロの原形は紀元前2世紀に形成され、現在見られる姿になったのは1世紀に入ってからだそうです。
「世界の首都」だったローマが近代都市の下に埋もれたのとは対照的に、ポンペイは古代そのままの姿を留めました。ポンペイの住民にとっては悲劇以外の何物でもなかったのでしょうが、こうした景観を今に遺せたのは奇跡と言うほかありません。 -
ポンペイ遺跡 ユピテル(ジュピター)神殿
ユピテル神殿には、主神ユピテルを含む、ジュノー(ユピテルの妻)、ミネルバ(知恵と武勇の神)の三神が祀られ、ポンペイで最も重要な神殿だったそうです。今日ポンペイで見られる神殿の中でも最大規模を誇り、かつ保存状態も良い方だそうです。後方の神殿本体部分や前方のファサードを支えていた列柱から、在りし日の神殿の姿を想像することができます。フォロ周辺が最初に整備された紀元前2世紀頃、この神殿も併せて建立されたと考えられています。
ユピテルはローマの神々を束ねる至高の神ですので、この場所に祀られるのは必然だったのでしょう。ローマでは、カピトリーノの丘にユピテル神殿が建っており、現在でも博物館内部で神殿の基盤部分を見ることが出来ます。 -
ポンペイ遺跡 2階建ての列柱
フォロは歩行者だけが入場を許される広場で、その周りは建物で囲まれていました。その建物の柱だけが広場の左右に並んで遺されています。これらは列柱と呼ばれ、写真のものが西列柱、この対面にあるものが東列柱と呼ばれています。ヴェスヴィオ山の噴火でポンペイの都市は火山灰で埋まったわけですが、その重みで建物の屋根は崩壊し、壁や柱だけが遺されています。その柱の一部ですが、2階建ての列柱です。 -
ポンペイ遺跡 エウマキア館
フォロの中央部東側に面した所に小さな四角い門があります。女性神官エウマキアが寄進した、エウマキア館の入口です。エウマキアとは毛織物業で財を成した女性。左右の門柱の大理石には繊細なアカンサス唐草のレリーフが施されています。この時代にこのような精巧な細工がなされていたとは驚きです。現在は、保護のためにプラスチック製の透明カバーが被せられています。
エウマキア館は、碑文によれば羊毛職人組合の所有で、ローマ初代皇帝アウグストゥスへの忠誠を誓うためにエウマキアによって献納されたものです。この建物は布地の保管や陳列に使われ、また売買交渉にも使われたそうです。この館からは、エウマキアの像が発掘され、その像はアウグストゥス皇帝の皇后リビアの衣装を身に着け、皇后を気取っていたとも言われています。 -
ポンペイ遺跡 ヴェスパシアヌス神殿
エウマキア館の北に並ぶのがヴェスパシアヌス神殿。
この建物は、ヴェスパシアヌス皇帝の守護神に生け贄を捧げるための神殿で、噴火の際には、未完成だったそうです。ウェスパシアヌス帝は、それまで皇帝を輩出してきたユリウス家が断絶し、その後の混乱を収拾した皇帝です。ヴェスヴィオ山が噴火した西暦79年8月の2ヶ月前に亡くなっています。
グリーンと煉瓦色の配色の中でひときわ目を惹きつけるのは、白大理石製の祭壇。正面のレリーフに彫られているのは、生贄となる雄牛の犠牲式の様子です。裏面には市民冠が彫られ、この神殿が皇帝に捧げられたものであることを表してるそうです。人物配置、写実的な描写、仕上げの繊細さから、ユリウス・クラウディウス朝時代のものとされています。白い祭壇の後方に控えるレンガ造りのものは、チェッラと呼ばれる聖像安置所です。
ガイドさんは素通りでしたので、中に入って確認することはできませんでした。 -
ポンペイ遺跡 マルケム(市場)
ユピテル神殿の右手に見える建物はマルケムと呼ばれ、ギリシャ語で「市場」のことです。 その名の通りここでは市場が開かれ、一番賑やかな界隈だったのでしょう。かまぼこ状の模様がある建物は、両替所だったそうです。外国人は、ここで両替を済ませて市場に入って行って買い物をしたのでしょう。 -
ポンペイ遺跡 マルケム(市場)
一見「ストーンサークル」を彷彿とさせる異質な空間がありました。
柱廊沿いには店舗が軒を連ね、中央の丸いスペースには円形のトンガリ屋根の建物があり、12本の円柱で支持された下水道付の水槽が設置されていたそうです。何故判るかと言うと、この辺りで無数の魚の小骨や鱗が発見されたため、魚市場だったと考えられているそうです。 -
ポンペイ遺跡 マルケム(市場)
マルケムの正面奥の一画に2体の彫像がひっそりと置かれていました。当然コピーですが、なぜ市場にこのようなものがあるのか首を傾げます。
ここは、ガイドさんもパスでしたので、確認できていません。 -
ポンペイ遺跡 フロントーネの家 壁画
人体石膏像が置かれているのは、「フロントーネの家」と呼ばれる遺跡の一画。家の内部は美しい壁画で装飾されており、裕福な家の食堂だったそうです。
「ポンペイの赤」を用いて壁に描かれたワイン壺、漁獲品、鳥類を模写したパネルは、各店で売られる商品を表しているそうです。 -
ポンペイ遺跡 フロントーネの家 石膏像
火山灰の中にあった空洞に石膏を流し込む方法で、火山灰と共に有毒ガスに襲われた住民の逃げまどう姿が再現されています。断末魔の襲う瞬間の再現はとてもリアルなのですが、頭部からは本物の頭蓋骨が覗いており、これが単なる石膏細工とは異なることを覚りました。この男性はウェストにベルトが巻かれており、往時の奴隷の証しだそうです。 -
ポンペイ遺跡 名誉あるアーチ(栄光のアーチ)
ユピテル神殿の右横を南北に伸びる通りに凱旋門が設置されています(写真右端)。これは「名誉あるアーチ」と名付けられた凱旋門で、クラウディウス帝時代に皇帝一族を讃えるために建てられたそうです。街中にあるために防御用ではなく、純粋に装飾目的で設置されたもので、当時、表面は大理石で覆われていたようです。また、凱旋門の両側の窪みの部位には彫像が置かれていたそうです。 -
ポンペイ遺跡 古代の道路標識
名誉あるアーチの先にある壁にワイン壺を運ぶ人物像が彫られています。これは、何を意味するのでしょうか?宅配屋さん?いいえ、これは、左から右への一方通の標識だそうですので関心します。こんな時代に一方通行というルールが存在し、標識があり、またそれを守っていたなんて、想像すらできません。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 冷水浴場
ポンペイには3つの浴場があります。このフォロの浴場とスタビア浴場、中央浴場の3つです。この浴場が建設されたのは、紀元前80年頃と推定されています。浴場は、男女別に分かれ、それぞれに脱衣所、冷水浴場、熱水浴場、温水浴場があり、床暖房まで揃っていたそうです。中庭は運動場となっており、今で言うフィットネスクラブと遜色ありません。
ここはサウナで熱くなった体を冷ますための浴槽。冷水が注がれていたそうです。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 冷水浴場
壁の一画には酒の神「バッカス」と思しき彫刻が施されていました。これを見ながらお風呂に入れば、黙っていてもお風呂上がりの一杯が恋しくなることでしょうね?ひょっとして、居酒屋さんからの寄贈品だったのでは?日本の銭湯の壁に描かれている、世界遺産に登録された「富士山」と同義のものなのでしょう。
余談ですが、富士山頂は何県に属するでしょうか?
Google Mapを拡大していくと静岡県と山梨県の県境の県界線が山頂近くで途切れます。実は、「富士山はご神体」故に、どの県にも属さないそうです。富士山の山頂は国有地ではなく、8合目以上は冨士山本宮浅間大社奥宮の境内として認められているのです。1604年に徳川家康と江戸幕府が8合目以上の土地を冨士山本宮浅間大社に寄進したことを示す古文書が存在するそうです。
では、富士山に初めて登った人は誰でしょう?
『聖徳太子伝暦』(917年、藤原兼輔)によれば、憲法制定の数年前の27歳の時、甲斐の国の黒駒(馬)に乗って、浮き雲とともに消え、ひとっ飛びで富士山頂に達したそうです。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 テピダリウム(TEPIDARIUM=適温室)
ここは単に座ってオイルを塗るための部屋だそうです。壁に飾られたテラコッタ製のヘラクレス像を眺めながら、談笑が弾んだことでしょう。こうした公共浴場は、健康や衛生のためだけではなく、情報交換や社交の場にもなっていたそうです。規模の差こそあれ、古代ローマ時代には多くの街にこのような浴場があり、人々は入浴とコミュニケーションを楽しんでいたのでしょう。当時は、ゆっくりと時間が流れていたのでしょうね。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 テピダリウム(TEPIDARIUM=適温室)
壁には彩色ストゥッコ(漆喰)製浮き彫りによるアカンサス唐草や様々な幾何学模様、額縁状の枠に囲まれた動植物が散りばめられています。
ポンペイ第4様式の後期には、壁画よりも彩色ストゥッコ製浮き彫りが主流となっていたようです。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 カリダリウム(高温浴室)
天井に施された筋は、湯気の水滴がポトポト落ちずに壁に沿って下に流れるようにとの工夫だそうです。
ここでは、ザ・ドリフターズの歌『いい湯だな』にあるような「湯気が天井からポトリと背中に〜♪」なんていうことはなかったのですね。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 カリダリウム
丸い噴水のような形のものは水飲み場。火照った体を冷やすために泉の水が滔々と湧き出ていたそうです。大理石製の豪華な鉢の縁には、これを寄贈した人の名と共に選挙の売り込み文句が刻まれているそうです。当時すでに議会政治が行われていたことが判ります。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 カリダリウム
水飲み場の上面には、フレスコ画が施されています。 -
ポンペイ遺跡 フォロの浴場 カリダリウム
暖かいお湯が張られていた大理石製の大きな浴槽。これを見てしまうと、熱いお湯を張った湯船にゆったりと浸かりたいと思うのは、当方だけではないような気がします。
海外旅行では、せっかくバスタブがあっても時間に急かされてシャワーだけで済ませることが多いように思います。「ツアー客が一気にお湯を使うとお湯が出なくなる」というホテル事情で敬遠してしまうのもありますね。途中でお湯が出なくなったら悲惨ですから…。 -
ポンペイ遺跡 居酒屋(バール)
浴場を出ると、その正面にはバー・カウンターらしきものがあります。居酒屋と記しましたが、現代のイタリアのバール同様に酒類に限らず様々な料理を提供し、ランチを摂る人々でも賑わったそうです。
丸い穴の開いた部分にはワイン壺が入れられ、「お風呂の後のワインは最高!」と喉を鳴らしていたのでしょう。因みに、当時の居酒屋は女人禁制だったそうで、これを楽しめるのは男性の特権だったそうです。 -
ポンペイ遺跡 居酒屋
隣のブロックも居酒屋です。ポンペイ遺跡には、こうしたバールが100軒以上あったそうです。往時のメニューも残っていて、「お客様へ。私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意してあります」と記されていたそうです。 -
ポンペイ遺跡 悲劇詩人の家
この家のハイライトは、玄関先の床に描かれた犬のモザイク画。劣化と剥がれで見え難いですが、足元には「猛犬注意(CAVE CANEM)」という警告文が書かれています。「悲劇詩人の家」は、比較的小規模な中流階級の家だそうで、こうした防犯モザイク画は他の家でも見られたそうです。ただし、これはコピーだそうで、本物は博物館に所蔵されています。床の幾何学模様も緻密です。この幾何学模様は永遠の命を現わすのだそうです。
因みに、この家の名は、ギリシア悲劇の稽古場面を描いたモザイク画が客室(タブリヌム)から発見されたことから名付けられたそうです。 -
ポンペイ遺跡 鉛の水道管
地下に埋められていた鉛の水道管が一部露出しています。鉛と聞くと中毒が気になるのですが、実は日本でも鉛の水道管は現在でも使用されているそうです。全国の5分の1の世帯が未だに鉛水道管だそうです。鉛摂取量は安全範囲にあるものの、骨などへ蓄積されるため、安全性は確かなものではないようです。
古代ローマ人の遺骨を分析すると高度な鉛成分が検出されるそうです。これはワインに甘味を加えるために鉛コーティングした容器に入れて加工したためという説があります。しかし、鉛の水道管の影響も少なからずあったのではないでしょうか?因みに、原因不明の病に苦しんだベートーヴェンは、ワインに添加された甘味料による鉛中毒が原因だった可能性が高いそうです。 -
ポンペイ遺跡 パンサの家
古代ローマ時代の上・中流階級の自由民の住宅をドムスといいます。ドムスの典型的な様式は、街路に面した入口を2重扉にして安全を確保し、そこからアトリウムと呼ばれる第1の中庭に至ります。アトリウムは周囲を屋根で囲んだ小型の中庭で、中央に雨水を受ける浅い水槽(インプルヴィウム)が設けられます。この様式は、エトルリアの住居の伝統やギリシャやヘレニズム文化から取り込まれたと考えられています。この「パンサの家」は、2つの中庭を持つ典型的なドムスだそうです。 -
ポンペイ遺跡 モデストのパン工房
石臼に開いている四角い穴に棒を差し込み、動物あるいは人力で回して使ったそうです。ヴェスヴィオ山噴火当時、ポンペイには34件のパン屋さんがあったそうです。石臼の後方にはパンを焼く立派な釜戸もあります。噴火当時の炭化したパンまでみつかっているそうです。
古代ローマの街に欠かせないものと言えば、バールだけでなくパン屋もそのひとつです。「パンとサーカス」という言葉があるように、古代ローマ帝国が安定した統治を行うためには、安定した食料の供給と刺激的な闘技場での見世物(娯楽)が不可欠だったそうです。
イタリアと聞くとパスタを連想される方が多いと思いますが、今のようなパスタが広まったのは中世以降。それまでは素朴なパンが主食だったそうです。 -
ポンペイ遺跡 共同水飲み場
一般市民が利用した共同水飲み場です。蛇口は近年取り付けられたものですが、蛇口を回せば今でも水が出るそうです。ただし、飲用に適すものかどうかは不明です。
かつて、人々はここに溜まった水を飲んだり、生活用水に汲み上げたりしていました。そして窪みから流れ出た水は下の水溜に落ち、馬やロバなどの家畜がその水を飲んだそうです。当時、陸上では荷物を馬車で運ぶのが常でしたから、荷役動物用の駅や水飲み場は町に不可欠でした。いわばここは「古代ローマ時代のオアシス」と言っても過言ではないでしょう。
蛇口にあるレリーフは、2人の人物を大きな鳥が翼を広げて守っているように見える不思議なものでした。 -
ポンペイ遺跡 発掘品の収納庫
発掘された遺物が収納されている大きな倉庫があります。 人型の石膏像やワイン壺、古代の荷車などが収められています。細長い瓶のようなものが整然と並べられていますが、これがワイン壺です。荷車の原理は現在のものと変わらないそうで、古代人の叡智を垣間見ることができます。しかし、このように人の遺体と道具が同じ扱いを受けているのには閉口しますね。 -
ポンペイ遺跡 アポロ(ゼウス)神殿
フォロの西側には、ポンペイ史の中で最も古い遺構のアポロ神殿が隣接しています。建立は紀元前6世紀とされ、現在の姿になったのは紀元前2世紀と推定されています。ゼウス(アポロ)はギリシャ神話の最高神で、ポンペイの守護神。しかし、その後アポロ信仰が徐々に廃れ、最高神ユピテル(ジュピター)がこれに取って代わりました。中央部にあった神殿本体は、基盤部分を除き遺されていませんが、周囲の48本のイオニア式柱廊は良好な状態で遺されています。チェッラと呼ばれる聖像安置室は、典型的なイタリア風の高い基壇の上に設けられています。中央の白い台座は神に生贄を捧げるための台だったそうで、ローマ支配下に入ったスッラ時代の碑文が刻まれています。アウグストゥス帝の時代には、チェッラの左に見える白いイオニア式円柱を用いた日時計も設置されていたそうです。
この神殿だけはフォロの設計思想から外れており、フォロとは無関係の方向へと向いています。元々アポロは芸術を司る神です。皇帝ネロは、ギリシャ文化に傾倒したこともあり、アポロ神への信仰が特に篤かったことはよく知られています。 -
ポンペイ遺跡 バジリカ
バジリカは裁判をはじめとする多目的な公共スペースとして使われたところで、現在では教会を表す言葉になっています。 バジリカもフォロと共に、古代ローマの街にはどこにでもあった施設のひとつです。 ローマのフォロ・ロマーノにもカエサルが建てた、ユリウスのバジリカが基盤部分だけ現存しています。 -
ポンペイ遺跡
民家なのでしょうか、家の密集地帯です。 -
ポンペイ遺跡
南側出口の手前から東側を見下ろした風景です。溶岩流が流れてきた様子が手に取るように分かります。ここはほとんど復元作業がなされておらず、発掘されたままの状態のようです。こういう状態の方が、却ってイメージが膨らみ易いかも!? -
ポンペイ遺跡
南側一帯は、城壁と言うか要塞にも似た形態を顕にしています。
ガイドさんの説明には、ユピテル神殿やアポロ神殿、ヴェスバニアヌス神殿、名誉あるアーチ、パンサの家、バジリカはありませんでした。これらは素通りです。恐らく日本人ツーリスト専用マニュアルがあり、時間的制約もある中、直感的に判り易いスポットにフォーカスしているように思えます。日本人は遺跡からかつての建造物の姿を想像することが苦手だと誤解されている節もあるのでは?そのため、すぐ隣に著名な遺跡があっても、素通りされます。見学終了後、あの遺跡は何処にあったの?なんてことにならないよう、予習して臨んでください。自ら見に行かないと不完全燃焼になっちゃいますよ! -
ポンペイ遺跡
出口付近から見たポンペイの全景(スタビア門方面)。 -
カメオ工房(ショッピングタイム)
ポンペイ遺跡見学後、遺跡出口のすぐ前に陣取るカメオ工房でショッピングとトイレ休憩を兼ねます。人が集まるタイミングを見計らって手際のよい彫刻作業を見せてくれます。ここで40分も時間を取るなら、もう少しポンペイ遺跡の滞在時間にシェアしてもらってもいいのでは…。
カメオとは、瑪瑙、大理石、貝殻などに浮き彫りを施した装飾・工芸品です。表面に浮き彫りを施したものをカメオ、沈め彫りをインタリオと呼びますが、両者をまとめてカメオと称することも多いそうです。
語源はラテン語の「浮き彫り」で、カメオの歴史は6000年前のメソポタミア文明から始まります。最初は王の玉印(シグネットリング)や封印(シールリング)にインタリオが使われ、紀元前500~400年にほぼ今の形になったそうです。古代ローマ時代に大流行し、次いでルネッサンス時代に再ブームが来ました。写真がない時代、上流階級では恋人や妻、子供のプロフィールを宝石に彫刻し、お守りとして携行しました。ナポレオンも愛好家のひとりで、一時は女性よりも男性が身に着けたと言われます。
近年、イタリアなどで貝殻に彫り出したシェルカメオが装飾品として珍重されています。現在、シェルカメオはナポリ近郊の港町トーレ・デル・グレコで制作され、多くのカメオ彫刻家がそれぞれの特性を生かして現代アートカメオを制作しています。カメオの価値を決める要素は、①彫刻家 ②彫刻技術 ③コントラスト ④大きさ ⑤厚さ ⑥色合い などにあり、最重要視されるのは彫刻家名だそうです。絵画と同じなんですね。
こうして1時間15分程の短いポンペイ遺跡見学は幕を閉じました。遺跡全体のほんの一握りのスポットを巡っただけですが、当時の姿そのままの遺跡に触れ、在りし日の雄姿を脳裏に刻めたことは有意義でした。たったこれだけ見ただけでも古代人の叡智には頭が下がる思いで一杯です。早く発掘が再開され、新たな発見があることを願いたいものです。
ポンペイ遺跡を後にして、バスはナポリ湾にあるベヴェレッロ港へと向かいます。港から高速船に乗り換え、45分程でカプリ島へ上陸となります。いよいよイタリア旅行の佳境カプリ島に突入です。
この続きは、⑪カプリ島編(前編)でお楽しみください。
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