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事任八幡宮(ことのまま はちまんぐう)は、静岡県掛川市に所在する遠江國の神社である。<br /><br /><br />該社、御祭祀は、<br /><br />己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)<br />誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神帝)<br />息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)<br />玉依比売命(たまよりひめのみこと)<br /><br />の御4柱である。<br /><br /><br />社伝では、第13代 成務帝(せいむ てんのう)(景行14年(84年)〜成務60年(190年)6月11日)在位中に創建との事であるが、基より、歴史科学的検証が困難な事から該根拠は極めて低い。<br /><br /><br />神階は、<br />嘉祥3年(850年) 従五位下<br />貞観2年(860年) 正五位上<br />に列している。<br /><br /><br />第56代 清和帝(せいわ てんのう)(嘉祥3年(850年)5月10日〜元慶4年(881年)1月7日)は、該帝皇子で皇族籍に残留せず臣籍降下する者に対し源氏姓を付与した。<br />後に、戦国時代以降、征夷大将軍宣下に際し源氏出自の血統主義に限定された事から、特に鎌倉期以降、自身の先祖をして源氏出身だと称する者が続出する現象が発生した。<br /><br /><br />清和源氏は八幡神を守護神として信仰していたが、全国各地に於ける争乱鎮定で該一族が現地に派遣の都度、出先社に対し該神を半ば牽強付会に勧請し既神に並存させた。<br /><br />康平5年(1062年)に、源 頼義(みなもとの よりよし)(永延2年(988年)〜永保2年(1075年)8月27日)は、該社に山城國石清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)祭祀を勧請併柱とした事から、従来の事麻智社名使用に支障を来たす事態を招来させた。<br />即ち、武家の台頭は、同時に京都朝廷の権威低下と荘園制度崩壊の事態を起こした為に、それ迄に於ける有力庇護者の存在を喪失せしめた事で、該社自体の維持が困難になった。<br /><br />更に、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日〜建久10年(1199年)2月9日)が鎌倉に幕府を設置し征夷大将軍に任ぜられた事から八幡神は武家の守護神として全盛期を迎え、故に、多数の神社が廃滅を恐れ社名変更を余儀無くさせられたが、此れが祭祀主位逆転現象を発生せしめさせる次第となった。<br /><br />即ち、該社祭祀に於いて、誉田別尊、及び、息長足比売命は、元来は石清水八幡宮祭祀であり、該社に於ける本来の祭祀では無かったのであり、八幡神を勧請し、更に分霊に分霊を重ねた結果、今日全国各地に於ける八幡神社の末姿になった背景を有する。<br /><br /><br />戦国期に、遠江國から三河國に於ける一帯は、今川家、武田家、及び、徳川家に依る三巴の争奪地となった事から、該社保護者が消滅した事が遠因で荒廃の一途をたどる運命に在った。<br /><br />江戸期に徳川家に拠り再興されたが、当時は日坂八幡宮として衰潮の底辺に存在していた。<br /><br /><br />話は変わるが、江戸期の京都の公家の生活は、ドン底だった事は意外に知られていない。<br /><br />即ち、徳川幕府は禁中並公家諸法度(きんちゅうならびに くげしょはっと)を元和元年(1615年)9月9日に制定され、皇室皇族、及び、公家の生活が規律規制された。<br /><br />特に、公家の収益など極めて限定された摂関五家、及び、清華九家以外の公卿衆は最低生活すら困難な状況だった。<br /><br />生活の糧として現在も残る花札の作成などは、その公卿の手内職の最たる物であり、邸内に於いて1枚1枚手造りが可能な為に手っ取り早い収入源だった。<br /><br />然し、中には該例の如き手荒き連中も少なからず存在した。<br />1)或る年の大晦日の深更、酒屋の戸を叩く音がするので、当主が訝しげに思いつつ戸を開けると近所に住む老公家が、うらぶれた顔をして立っていた。<br />「我が家は見ての通り貧乏の極み借金まみれで、どうにもならぬ。もう、こうなったら自邸に火を放ち死んで先祖に詫びを入れるしか無い。幸いにして今晩吹いている風は御所は風上なので延焼の心配は無いが、お前の店は風下だから多分延焼する可能性が大なので、今の内に家財一式持って避難しろ。お前の家には普段から世話になっているので、着火前に、こうやって告げにきた」<br />と言う。<br />話を聞いた酒屋は青くなり火を放たれては適わない。<br />いったい早急に幾ら必要なのかを訊ねると<br />「そうさな、借金だけでは無く正月の飾り代や餅代も無い。50両も必要か」<br />と事も無げに言うので、酒屋は慌てて近所の商屋衆を集め、急ぎ用立てられるのは20両だけですがと言えば、<br />公家も納得して、<br />「此れでも無いよりマシかも知れない。卿は火を放つのは止めにしよう」<br />と言って帰宅した。<br />要は、本当に思い詰めたら何をやるか判らぬ連中で、江戸期の都の公家邸など平安期の寝殿造から見れば掘立小屋同然で、全焼しても何ら価値など有り得なかったからである。<br />2)その掘立小屋の前で、邸外を町人が歩きながら、<br />「公家なんてエラそーな事を言っているが内情は貧乏なんだぜ」<br />と言っていたら、公家当人に聞きとがめられ、<br />「おい、町人、今なんていうた」<br />「いえ、何も言っておりまへん」<br />「いや言うた、裏へ廻れ」<br />と言われるままに邸内裏手に廻ると、手桶と白鞘が置いてあり、<br />「お前たちを、今から無礼打ちにする」<br />と宣言したから当の町人たちは震え上がった。<br />「この通り、まろの家は貧乏だ。ところで、お前たちが胸の前に下げているのは何だ」<br />と当時の大きな財布入を差して聞くので、町人達も正直に財布ですと答えると、<br />「まろの家は此の通り貧乏だ。命が惜しけりゃ目の前の財布を置いていけば助けてやる」<br />と称し、震え上がる町人たちから、まんまと財布をせしめた。<br />3)公家当主が酷いものなら中間下僕も下僕で酷いもので、一例として文箱割りと称するものがあった。<br />即ち、都の繁華街で浮付いてボーッとした小金持ちそうな町人に見当をつけ、ワザとぶつかると同時に既に割れている文箱を落とす。<br />「何ぼっとして歩いてるだ。見ろ、お陰で文箱が真っ二つだ」<br />と因縁をつける。<br />ぶつけられた相手は割れた文箱に16菊花が施された蒔絵の文箱を見て驚愕し恐れおののく表情を見た上で、<br />「此れは大変だ。邸に帰れば打ち首にされるかも知れない。ほとぼりが醒めるまで都から遁走しなければならない。ところで、お前が持っている財布の中身を全部出せ」<br />と言って財布の中身の有り金を全部巻上げる。<br /><br />それ故、京都の町人達は皇室や皇族に対しては崇敬畏敬の念を常に怠る事は無かったが、殆どの公家に対しては嫌悪の感情の目線で見て、可能な限り係り合いを持ちたくないと言うのが疑わざる都人の本音であった。<br />因みに、此れらは、現在なら刑法第249条恐喝罪や同法第223条強要罪に相当する犯罪である。<br /><br />4)大名に対して、公家は収入こそ無かったが、官位は正三位や従三位であり、一般大名が、せいぜい正四位か正五位止りだった事をから、公家の方が明らかに上位席次に在り、且つ、大名だとて、先祖は清和源氏だと桓武平氏だのと称しても、大多数は戦国期に一介から成り上った連中ばかりで、出自自体が怪しい者ばかりと言って過言ではなかった。<br />それ故、当時の宮中、公家の仕来り等々皆目知らぬ者ばかりだった。<br />或る日、参内が許された大名が宮廷内の儀礼など知る由も無く、長く続く廊下、次の間、等々、立ったまま入るのか、1座するのか、はたまた、添手は左右どちらかなど見当もつかぬ状態の中、建物内部の此処ぞと言う所に必ず公家が居る。<br />大名として恥をかく訳にはならず、さりとて、一寸考えながら最良と思える行動をし、正に一歩入った途端、待ってましたとばかり公家の一言が待っていた。<br />「此処では、かくの如く振舞うのが古来よりの仕来りでございます」<br />そして忘れずに一言、<br />「まろは、○○小路の何某でごじゃる」<br />その日の夕刻までに某公卿邸に対し大名から貢物が山と贈られたであろう事は何ら説明を要しない。<br /><br />公家邸内は特権として監督する京都所司代も立入れぬ、一種、治外法権下に在った事を逆手にとり、岩倉家など、博徒達に邸内の場所を提供する事で捕縛される事も無く、彼らの上前を取り生活していた。<br /><br />吉田家は、江戸期を通じ相撲興行取仕切り、及び、神社神位供与に依り生計を立てていた。<br />然し、相撲興行取仕切りとは申せ、実態は名ばかりで、遠く関東江戸相撲は勿論、大坂相撲支配権も無く京相撲に限定されていた。<br />他方、神位供与は全国神社から申請が後も絶たず、申請受理の都度、神位配位したが、当時資料比較検討をした形跡が曖昧で、吉田家独自に拠る私事重視が多く、公的裏付精査は皆無に等しかった。<br />事実、吉田家の実態を把握していたのは畿内社だけで、地方社、神職など価値在る存在だと疑わず信じていた事が現在に至る混沌の根源となった事は否定出来ない。<br /><br /><br />宝永6年(1709年)ドイツ人医師 エンゲルベルト・ケムペル(Engelbert KAMPFER)(1651年(慶安4年)9月16日〜1716年(正徳6年)11月2日)は、鎖国時代たる江戸中期にオランダ人を自称して長崎出島に渡来した人物である。<br /><br />ケムペルは、オランダ出島館長に随行して江戸を訪問した際の記録が今日残存しているが、該社記述では、ケムペル日記に該社に関する記述が存在するとされているが、横浜臨海公園は、原典、及び、日本語訳双方を精査したが、該社に関する記述を発見する事が出来なかった。<br /><br />該記述で見出されたのは、<br />日坂のあたりの童共は我々に対し無礼非礼の言行動の限りを尽くした。<br />親の教育や躾が施されていない様子が伺えた。<br />との記述だけである。<br /><br /><br />遠江國に於いて、明治5年(1872年)7月1日に該社は、小國社、山住社、見附総社、見附天神、五社明神社と共に縣社列格社に指定された。<br />それと同時に、前年に國幣中社に列格された角避彦神社は比例該当社無しとして指定解除された。<br /><br />然るに、該社が神祇省に申請した元社号たる専任八幡の名称復帰使用に関して、該省審議の結果却下された。<br />却下された理由として、該社は南北朝期に親北朝方で、且つ、足利将軍家とも昵懇関係を構築していた事が、評価としてマイナスに作用した事は否定し得ないと推定される。<br /><br /><br />大東亜戦争終了後、我が国に占領政策の為に進駐して来た聯合国軍最高司令官総司令部は、昭和20年(1945年)12月15日に「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督及弘布ノ廃止ニ関スル件」と言ふ指令を発した。<br />即ち、神社の国家管理制を禁止する神道指令である。<br />該指令に基き、翌昭和21年(1946年)2月2日附で内務省神祇院、等々の神社に関する公的機関の存在が禁止廃止された為に、全国の神社包括民間組織として、翌同年同月3日附で、東京に神社本庁が設立され、該県に静岡縣神社庁が設置された。<br /><br />該社は、日坂八幡宮を元社号たる事任八幡宮に改称すべく神社本庁に申請したが、同時に遠江國一之宮を自称する様になった。<br /><br />然るに、上部機関たる神社本庁の使用許可も得ず、一方的に社号改称や、一之宮自称を強行した事は、神社本庁、静岡県内他神社の心証を害し強烈なる反発を招来させ、当然の結果ながら元社号改称許可が出る筈も無かった。<br /><br />結局、元社号使用が認定されたのは、平成11年(1999年)になってからである。<br /><br />該社は現在も遠江國一之宮と称している。<br />然るに、同じ遠江國一之宮小國神社に焼失を免れ現存する鎌倉期以降の文書20数点に一之宮たる記述が見られるのに対し、該社に就いては、室町期を含め4点であり、全て京都吉田神道家作成文書しか存在しない。<br /><br />明治期以降、内務省神社局に拠り統括管理された時代に作成された内部文書を閲覧する限り、遠江國に於いて該社が一之宮扱いをされた形跡は絶無である。<br />また、東京大学史料編纂所、國學院大學日本文化研究所、等々の共同作業に拠り、昭和54年(1979年)3月1日に東京弘文堂書店から公刊された國史大辞典(こくしだいじてん)第1巻に於ける一宮の項目に於いても、該社に関する記述は存在しない。<br /><br />要するに、終戦直後に社寺関係を掌る内務省神祇院管理から離れ、勝手に一之宮を自称する神社が続出した事が原因であり、該社は、本来の一之宮神社では無い事を肝に銘じるべきである。<br /><br /><br />表紙写真は 事任八幡宮拝殿(ことのままはちまんぐう はいでん)<br /><br /><br /><br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

遠江國 事任八幡宮参拝記

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2013/10/16 - 2013/10/16

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4

36

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

事任八幡宮(ことのまま はちまんぐう)は、静岡県掛川市に所在する遠江國の神社である。


該社、御祭祀は、

己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)
誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神帝)
息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
玉依比売命(たまよりひめのみこと)

の御4柱である。


社伝では、第13代 成務帝(せいむ てんのう)(景行14年(84年)〜成務60年(190年)6月11日)在位中に創建との事であるが、基より、歴史科学的検証が困難な事から該根拠は極めて低い。


神階は、
嘉祥3年(850年) 従五位下
貞観2年(860年) 正五位上
に列している。


第56代 清和帝(せいわ てんのう)(嘉祥3年(850年)5月10日〜元慶4年(881年)1月7日)は、該帝皇子で皇族籍に残留せず臣籍降下する者に対し源氏姓を付与した。
後に、戦国時代以降、征夷大将軍宣下に際し源氏出自の血統主義に限定された事から、特に鎌倉期以降、自身の先祖をして源氏出身だと称する者が続出する現象が発生した。


清和源氏は八幡神を守護神として信仰していたが、全国各地に於ける争乱鎮定で該一族が現地に派遣の都度、出先社に対し該神を半ば牽強付会に勧請し既神に並存させた。

康平5年(1062年)に、源 頼義(みなもとの よりよし)(永延2年(988年)〜永保2年(1075年)8月27日)は、該社に山城國石清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)祭祀を勧請併柱とした事から、従来の事麻智社名使用に支障を来たす事態を招来させた。
即ち、武家の台頭は、同時に京都朝廷の権威低下と荘園制度崩壊の事態を起こした為に、それ迄に於ける有力庇護者の存在を喪失せしめた事で、該社自体の維持が困難になった。

更に、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日〜建久10年(1199年)2月9日)が鎌倉に幕府を設置し征夷大将軍に任ぜられた事から八幡神は武家の守護神として全盛期を迎え、故に、多数の神社が廃滅を恐れ社名変更を余儀無くさせられたが、此れが祭祀主位逆転現象を発生せしめさせる次第となった。

即ち、該社祭祀に於いて、誉田別尊、及び、息長足比売命は、元来は石清水八幡宮祭祀であり、該社に於ける本来の祭祀では無かったのであり、八幡神を勧請し、更に分霊に分霊を重ねた結果、今日全国各地に於ける八幡神社の末姿になった背景を有する。


戦国期に、遠江國から三河國に於ける一帯は、今川家、武田家、及び、徳川家に依る三巴の争奪地となった事から、該社保護者が消滅した事が遠因で荒廃の一途をたどる運命に在った。

江戸期に徳川家に拠り再興されたが、当時は日坂八幡宮として衰潮の底辺に存在していた。


話は変わるが、江戸期の京都の公家の生活は、ドン底だった事は意外に知られていない。

即ち、徳川幕府は禁中並公家諸法度(きんちゅうならびに くげしょはっと)を元和元年(1615年)9月9日に制定され、皇室皇族、及び、公家の生活が規律規制された。

特に、公家の収益など極めて限定された摂関五家、及び、清華九家以外の公卿衆は最低生活すら困難な状況だった。

生活の糧として現在も残る花札の作成などは、その公卿の手内職の最たる物であり、邸内に於いて1枚1枚手造りが可能な為に手っ取り早い収入源だった。

然し、中には該例の如き手荒き連中も少なからず存在した。
1)或る年の大晦日の深更、酒屋の戸を叩く音がするので、当主が訝しげに思いつつ戸を開けると近所に住む老公家が、うらぶれた顔をして立っていた。
「我が家は見ての通り貧乏の極み借金まみれで、どうにもならぬ。もう、こうなったら自邸に火を放ち死んで先祖に詫びを入れるしか無い。幸いにして今晩吹いている風は御所は風上なので延焼の心配は無いが、お前の店は風下だから多分延焼する可能性が大なので、今の内に家財一式持って避難しろ。お前の家には普段から世話になっているので、着火前に、こうやって告げにきた」
と言う。
話を聞いた酒屋は青くなり火を放たれては適わない。
いったい早急に幾ら必要なのかを訊ねると
「そうさな、借金だけでは無く正月の飾り代や餅代も無い。50両も必要か」
と事も無げに言うので、酒屋は慌てて近所の商屋衆を集め、急ぎ用立てられるのは20両だけですがと言えば、
公家も納得して、
「此れでも無いよりマシかも知れない。卿は火を放つのは止めにしよう」
と言って帰宅した。
要は、本当に思い詰めたら何をやるか判らぬ連中で、江戸期の都の公家邸など平安期の寝殿造から見れば掘立小屋同然で、全焼しても何ら価値など有り得なかったからである。
2)その掘立小屋の前で、邸外を町人が歩きながら、
「公家なんてエラそーな事を言っているが内情は貧乏なんだぜ」
と言っていたら、公家当人に聞きとがめられ、
「おい、町人、今なんていうた」
「いえ、何も言っておりまへん」
「いや言うた、裏へ廻れ」
と言われるままに邸内裏手に廻ると、手桶と白鞘が置いてあり、
「お前たちを、今から無礼打ちにする」
と宣言したから当の町人たちは震え上がった。
「この通り、まろの家は貧乏だ。ところで、お前たちが胸の前に下げているのは何だ」
と当時の大きな財布入を差して聞くので、町人達も正直に財布ですと答えると、
「まろの家は此の通り貧乏だ。命が惜しけりゃ目の前の財布を置いていけば助けてやる」
と称し、震え上がる町人たちから、まんまと財布をせしめた。
3)公家当主が酷いものなら中間下僕も下僕で酷いもので、一例として文箱割りと称するものがあった。
即ち、都の繁華街で浮付いてボーッとした小金持ちそうな町人に見当をつけ、ワザとぶつかると同時に既に割れている文箱を落とす。
「何ぼっとして歩いてるだ。見ろ、お陰で文箱が真っ二つだ」
と因縁をつける。
ぶつけられた相手は割れた文箱に16菊花が施された蒔絵の文箱を見て驚愕し恐れおののく表情を見た上で、
「此れは大変だ。邸に帰れば打ち首にされるかも知れない。ほとぼりが醒めるまで都から遁走しなければならない。ところで、お前が持っている財布の中身を全部出せ」
と言って財布の中身の有り金を全部巻上げる。

それ故、京都の町人達は皇室や皇族に対しては崇敬畏敬の念を常に怠る事は無かったが、殆どの公家に対しては嫌悪の感情の目線で見て、可能な限り係り合いを持ちたくないと言うのが疑わざる都人の本音であった。
因みに、此れらは、現在なら刑法第249条恐喝罪や同法第223条強要罪に相当する犯罪である。

4)大名に対して、公家は収入こそ無かったが、官位は正三位や従三位であり、一般大名が、せいぜい正四位か正五位止りだった事をから、公家の方が明らかに上位席次に在り、且つ、大名だとて、先祖は清和源氏だと桓武平氏だのと称しても、大多数は戦国期に一介から成り上った連中ばかりで、出自自体が怪しい者ばかりと言って過言ではなかった。
それ故、当時の宮中、公家の仕来り等々皆目知らぬ者ばかりだった。
或る日、参内が許された大名が宮廷内の儀礼など知る由も無く、長く続く廊下、次の間、等々、立ったまま入るのか、1座するのか、はたまた、添手は左右どちらかなど見当もつかぬ状態の中、建物内部の此処ぞと言う所に必ず公家が居る。
大名として恥をかく訳にはならず、さりとて、一寸考えながら最良と思える行動をし、正に一歩入った途端、待ってましたとばかり公家の一言が待っていた。
「此処では、かくの如く振舞うのが古来よりの仕来りでございます」
そして忘れずに一言、
「まろは、○○小路の何某でごじゃる」
その日の夕刻までに某公卿邸に対し大名から貢物が山と贈られたであろう事は何ら説明を要しない。

公家邸内は特権として監督する京都所司代も立入れぬ、一種、治外法権下に在った事を逆手にとり、岩倉家など、博徒達に邸内の場所を提供する事で捕縛される事も無く、彼らの上前を取り生活していた。

吉田家は、江戸期を通じ相撲興行取仕切り、及び、神社神位供与に依り生計を立てていた。
然し、相撲興行取仕切りとは申せ、実態は名ばかりで、遠く関東江戸相撲は勿論、大坂相撲支配権も無く京相撲に限定されていた。
他方、神位供与は全国神社から申請が後も絶たず、申請受理の都度、神位配位したが、当時資料比較検討をした形跡が曖昧で、吉田家独自に拠る私事重視が多く、公的裏付精査は皆無に等しかった。
事実、吉田家の実態を把握していたのは畿内社だけで、地方社、神職など価値在る存在だと疑わず信じていた事が現在に至る混沌の根源となった事は否定出来ない。


宝永6年(1709年)ドイツ人医師 エンゲルベルト・ケムペル(Engelbert KAMPFER)(1651年(慶安4年)9月16日〜1716年(正徳6年)11月2日)は、鎖国時代たる江戸中期にオランダ人を自称して長崎出島に渡来した人物である。

ケムペルは、オランダ出島館長に随行して江戸を訪問した際の記録が今日残存しているが、該社記述では、ケムペル日記に該社に関する記述が存在するとされているが、横浜臨海公園は、原典、及び、日本語訳双方を精査したが、該社に関する記述を発見する事が出来なかった。

該記述で見出されたのは、
日坂のあたりの童共は我々に対し無礼非礼の言行動の限りを尽くした。
親の教育や躾が施されていない様子が伺えた。
との記述だけである。


遠江國に於いて、明治5年(1872年)7月1日に該社は、小國社、山住社、見附総社、見附天神、五社明神社と共に縣社列格社に指定された。
それと同時に、前年に國幣中社に列格された角避彦神社は比例該当社無しとして指定解除された。

然るに、該社が神祇省に申請した元社号たる専任八幡の名称復帰使用に関して、該省審議の結果却下された。
却下された理由として、該社は南北朝期に親北朝方で、且つ、足利将軍家とも昵懇関係を構築していた事が、評価としてマイナスに作用した事は否定し得ないと推定される。


大東亜戦争終了後、我が国に占領政策の為に進駐して来た聯合国軍最高司令官総司令部は、昭和20年(1945年)12月15日に「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督及弘布ノ廃止ニ関スル件」と言ふ指令を発した。
即ち、神社の国家管理制を禁止する神道指令である。
該指令に基き、翌昭和21年(1946年)2月2日附で内務省神祇院、等々の神社に関する公的機関の存在が禁止廃止された為に、全国の神社包括民間組織として、翌同年同月3日附で、東京に神社本庁が設立され、該県に静岡縣神社庁が設置された。

該社は、日坂八幡宮を元社号たる事任八幡宮に改称すべく神社本庁に申請したが、同時に遠江國一之宮を自称する様になった。

然るに、上部機関たる神社本庁の使用許可も得ず、一方的に社号改称や、一之宮自称を強行した事は、神社本庁、静岡県内他神社の心証を害し強烈なる反発を招来させ、当然の結果ながら元社号改称許可が出る筈も無かった。

結局、元社号使用が認定されたのは、平成11年(1999年)になってからである。

該社は現在も遠江國一之宮と称している。
然るに、同じ遠江國一之宮小國神社に焼失を免れ現存する鎌倉期以降の文書20数点に一之宮たる記述が見られるのに対し、該社に就いては、室町期を含め4点であり、全て京都吉田神道家作成文書しか存在しない。

明治期以降、内務省神社局に拠り統括管理された時代に作成された内部文書を閲覧する限り、遠江國に於いて該社が一之宮扱いをされた形跡は絶無である。
また、東京大学史料編纂所、國學院大學日本文化研究所、等々の共同作業に拠り、昭和54年(1979年)3月1日に東京弘文堂書店から公刊された國史大辞典(こくしだいじてん)第1巻に於ける一宮の項目に於いても、該社に関する記述は存在しない。

要するに、終戦直後に社寺関係を掌る内務省神祇院管理から離れ、勝手に一之宮を自称する神社が続出した事が原因であり、該社は、本来の一之宮神社では無い事を肝に銘じるべきである。


表紙写真は 事任八幡宮拝殿(ことのままはちまんぐう はいでん)




掛川市八坂642
?: 0537−27−1690
東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />太鼓橋(たいこばし)<br />国道1号線<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    太鼓橋(たいこばし)
    国道1号線

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    事任八幡宮



    太鼓橋
    全景

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    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />太鼓橋<br />正面<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    太鼓橋
    正面

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />社號標<br />昭和42年(1967年)建立。<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    社號標
    昭和42年(1967年)建立。

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />石灯籠<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    石灯籠

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />壱之鳥居<br />表参道<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    壱之鳥居
    表参道

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />壱之鳥居<br />近接<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    壱之鳥居
    近接

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />神額<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    神額

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />金刀比羅神社<br />鳥居<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    金刀比羅神社
    鳥居

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />金刀比羅神社(ことひら じんじゃ)<br />該社御祭祀は、<br />大物主神(おおものぬしのかみ)<br />御1柱である。<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    金刀比羅神社(ことひら じんじゃ)
    該社御祭祀は、
    大物主神(おおものぬしのかみ)
    御1柱である。

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />稲荷社(いなりしゃ)<br />壱之鳥居<br />全景<br /><br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    稲荷社(いなりしゃ)
    壱之鳥居
    全景


    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />稲荷社<br />全景<br /><br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    稲荷社
    全景


    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />稲荷社<br />弐之鳥居<br />御祭祀は、<br />宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ)<br />御1柱である。<br /><br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    稲荷社
    弐之鳥居
    御祭祀は、
    宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ)
    御1柱である。


    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />稲荷社<br />本殿<br />安政2年(1852年)建築<br />昭和49年(1974年)修理<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    稲荷社
    本殿
    安政2年(1852年)建築
    昭和49年(1974年)修理

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />五社神社(ごしゃ じんじゃ)<br />全景<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    五社神社(ごしゃ じんじゃ)
    全景

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />五社神社(ごしゃ じんじゃ)<br />該社御祭祀は、<br />天照大神(あまてらすおおみかみ)<br />八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)<br />大國主命(おおくにぬしのみこと)<br />火乃迦具土神(はのかぐつちのかみ)<br />東照大権現(とうしょうだいごんげん)(徳川家康)<br />御5柱である。<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    五社神社(ごしゃ じんじゃ)
    該社御祭祀は、
    天照大神(あまてらすおおみかみ)
    八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)
    大國主命(おおくにぬしのみこと)
    火乃迦具土神(はのかぐつちのかみ)
    東照大権現(とうしょうだいごんげん)(徳川家康)
    御5柱である。

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />夫婦杉(めおとすぎ)<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    夫婦杉(めおとすぎ)

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />神庫<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    神庫

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />参道<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    参道

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />大楠<br />平成12年(2000年)2月24日 掛川市指定文化財<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    大楠
    平成12年(2000年)2月24日 掛川市指定文化財

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />大楠<br />近接<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    大楠
    近接

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />手水舎<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    手水舎

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />本殿参道<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    本殿参道

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />本殿参道<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    本殿参道

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />参之鳥居<br />天保11年(1840年)造営<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    参之鳥居
    天保11年(1840年)造営

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />参之鳥居<br />社額<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    参之鳥居
    社額

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />石灯籠<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    石灯籠

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />拝殿<br />天保11年(1840年)建築<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    拝殿
    天保11年(1840年)建築

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />拝殿<br />横景<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    拝殿
    横景

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />拝殿<br />内部<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    拝殿
    内部

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />本殿<br />文政11年(1828年)建築<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    本殿
    文政11年(1828年)建築

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />大杉<br />坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)(天平宝字2年(758年9〜弘仁2年(811年)6月17日)植樹とされる。<br />然し、該説が事実とすれば、当時、東海道は日本平経由であり、現在の如く日坂経由に改められたのは平安後期の事で矛盾が生じる。<br />昭和55年(1980年)8月20日 掛川市指定文化財。<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    大杉
    坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)(天平宝字2年(758年9〜弘仁2年(811年)6月17日)植樹とされる。
    然し、該説が事実とすれば、当時、東海道は日本平経由であり、現在の如く日坂経由に改められたのは平安後期の事で矛盾が生じる。
    昭和55年(1980年)8月20日 掛川市指定文化財。

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />大杉<br />燈明<br />神仏混合時代の名残。<br />神社で燈明をあげる習慣は存在せず、明治初期の神仏分離以前の痕跡を残す全国でも珍しい存在。<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    大杉
    燈明
    神仏混合時代の名残。
    神社で燈明をあげる習慣は存在せず、明治初期の神仏分離以前の痕跡を残す全国でも珍しい存在。

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />本殿<br />全景<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    本殿
    全景

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />拝殿<br />参道石段<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    拝殿
    参道石段

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

  • 事任八幡宮<br /><br /><br /><br />拝殿<br />社杜<br /><br />掛川市八坂642<br />?: 0537−27−1690<br />東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分<br />http://www.geocities.jp/kotonomachihime/<br />

    事任八幡宮



    拝殿
    社杜

    掛川市八坂642
    ?: 0537−27−1690
    東海道本線掛川駅北口 掛川バスサービス東山線八幡宮入口停留所降車 徒歩2分
    http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

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この旅行記へのコメント (4)

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  • わんぱく大将さん 2013/10/26 08:54:11
    大きな木
    横浜臨海公園さん

    木の大きいこと。 目のあたりにしたいです。  大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/10/26 11:48:23
    拝復
    大将さま、こんにちは。


    旅行記への投票とコメントを賜りまして誠に有難うございました。

    事任八幡宮は町外れに所在する事ことから大東亜戦争の空襲被害に遭わず、境内に古木が覆い茂っておりました。

    木の下に立つと圧倒されます。



    横浜臨海公園
  • TaxNaXさん 2013/10/19 12:55:22
    公家の荒稼ぎ
    扉から気合が要りましたが、一通り拝見しました。
    落ちぶれた公家の荒稼ぎのくだり四編、面白く読ませて頂きました。

    第三編は、学生の頃同じ事をニューヨークでされた経験があります。
    たちの悪いのは洋の東西を問わぬようで。

    TaxNaX

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/10/19 14:29:39
    拝復
    TaxNaXさま、こんにちは。


    旅行記への訪問と投票、及び、掲示板へのコメントを賜りまして誠に有難うございました。

    徳川幕府が皇室や公卿を外様大名に利用させない様に制定した禁中並公家諸法度が、多数の公家衆をして自堕落化させた要因は否定し得ないと思います。
    然し、その為に、お札の乱発行為に拠る地方での混乱原因の為に、現在に於いても余波が残り、困惑が隠せません。

    本当の困った連中です。




    横浜臨海公園

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