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松光山・東圓寺(とうえんじ、埼玉県朝霞市岡)は朝霞市を代表する真言宗智山派の古刹で、平安時代には既に大社寺としてその名は周辺に広がっていたようです。<br /><br />当寺には鎌倉時代の文永5年(1268)に造られた板碑が朝霞市の指定文化財となっています。<br /><br />その板碑は供養塔の一種で中世から近世の始めまでよく使われていますが、容易に文字を刻印できる比較的柔らかい石材で、その為年月経過に従い文字が薄くなり判読困難でもあります。<br /><br />該当の板碑は本堂の左手の小屋にありますが、接近できないように門扉が閉ざされ施錠されており確認できないまま離れました。<br /><br /><br />2022年8月8日追記<br /><br />「朝霞市史」によれば当該寺院の縁起については下記の通りです。<br /><br />『 朝霞市史による東円寺の緑起<br /><br />岡地区・東円寺<br /><br />松光山薬王院東円寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊は運慶作と伝える薬師如来ならびに両大師である。近世においては石神井三宝寺の末寺であった。「風土記稿」によれば、すでに当時は山号を松光山としていたが、古くは薬王山としていたとある。また、開基は不明としているが、沿革に関してはある程度の記載がある。それにしたがうと、そもそも不動坂の西には薬師堂が<br />あって、それを隣接五か所の別当寺が輪番で管掌していたが、何らかの理由で絶えてしまった。<br /><br />やがて、法印永慶という僧侶がその荒廃ぶりを見て嘆き、寛弘年間(1004~12)になって再興に尽力したとある。その後、甲斐荘喜右衛門が当地の領主となった際、現在地への移転を受けた。これが慶長18年(1613)年のことだった。そして堂宇を再建立したのは上岐大善太夫と縁のあった12世法印永繁(宝永4年寂)で、今に繋がる法流の開山は15世法印栄融にあたるともある。<br /><br />つまり第一の中興は法印永慶、第二の中興は法印永繁で、法流開山は法印栄融であるとしている。なお、ここでは、長禄・文明の頃(1457)に太田道灌がこの地を領有した際、寺近くに城を築き、薬師の威徳を高めんと一時借り受けたところ、戻した方が無事幸いだと夢告げをみたという逸話も盛られている。この点にかかわることとしては、道灌に当薬師の深い信仰があったため、側室の眼病平癒に霊験があったという伝承もある。<br /><br />加えて「風土記稿」には、霊薬として「血の薬さまして薬とて妙薬あり」とあり、これは10世暁印が薬師から夢告を受けて調合しはじめたものとある。これについては、婦人病に効果ありとする前触れとして、先の道灌伝説と重複した形で、かの道灌も信奉し、その即知るの眼病ならぬ血の道にも効力があったとするいい方も伝えられていたようである。ただし、この薬は今はなく、一般の周知もほとんどなくなっている。<br /><br />その他、寺宝として、弘法大師筆とされる両界種子曼荼羅のほか、板碑・八幡神像などもある。』<br />

武蔵朝霞 長禄・文明期に当地領有し岡城を築城した扇谷上杉氏の智将太田道灌が側室の眼病治癒の為薬師堂に深い信仰を奉ったという『東圓寺』散歩

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2012/10/14 - 2012/10/14

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滝山氏照

滝山氏照さん

松光山・東圓寺(とうえんじ、埼玉県朝霞市岡)は朝霞市を代表する真言宗智山派の古刹で、平安時代には既に大社寺としてその名は周辺に広がっていたようです。

当寺には鎌倉時代の文永5年(1268)に造られた板碑が朝霞市の指定文化財となっています。

その板碑は供養塔の一種で中世から近世の始めまでよく使われていますが、容易に文字を刻印できる比較的柔らかい石材で、その為年月経過に従い文字が薄くなり判読困難でもあります。

該当の板碑は本堂の左手の小屋にありますが、接近できないように門扉が閉ざされ施錠されており確認できないまま離れました。


2022年8月8日追記

「朝霞市史」によれば当該寺院の縁起については下記の通りです。

『 朝霞市史による東円寺の緑起

岡地区・東円寺

松光山薬王院東円寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊は運慶作と伝える薬師如来ならびに両大師である。近世においては石神井三宝寺の末寺であった。「風土記稿」によれば、すでに当時は山号を松光山としていたが、古くは薬王山としていたとある。また、開基は不明としているが、沿革に関してはある程度の記載がある。それにしたがうと、そもそも不動坂の西には薬師堂が
あって、それを隣接五か所の別当寺が輪番で管掌していたが、何らかの理由で絶えてしまった。

やがて、法印永慶という僧侶がその荒廃ぶりを見て嘆き、寛弘年間(1004~12)になって再興に尽力したとある。その後、甲斐荘喜右衛門が当地の領主となった際、現在地への移転を受けた。これが慶長18年(1613)年のことだった。そして堂宇を再建立したのは上岐大善太夫と縁のあった12世法印永繁(宝永4年寂)で、今に繋がる法流の開山は15世法印栄融にあたるともある。

つまり第一の中興は法印永慶、第二の中興は法印永繁で、法流開山は法印栄融であるとしている。なお、ここでは、長禄・文明の頃(1457)に太田道灌がこの地を領有した際、寺近くに城を築き、薬師の威徳を高めんと一時借り受けたところ、戻した方が無事幸いだと夢告げをみたという逸話も盛られている。この点にかかわることとしては、道灌に当薬師の深い信仰があったため、側室の眼病平癒に霊験があったという伝承もある。

加えて「風土記稿」には、霊薬として「血の薬さまして薬とて妙薬あり」とあり、これは10世暁印が薬師から夢告を受けて調合しはじめたものとある。これについては、婦人病に効果ありとする前触れとして、先の道灌伝説と重複した形で、かの道灌も信奉し、その即知るの眼病ならぬ血の道にも効力があったとするいい方も伝えられていたようである。ただし、この薬は今はなく、一般の周知もほとんどなくなっている。

その他、寺宝として、弘法大師筆とされる両界種子曼荼羅のほか、板碑・八幡神像などもある。』

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 東圓寺・山門<br /><br />左右に仁王が立ち並んで迫力を感じます。

    東圓寺・山門

    左右に仁王が立ち並んで迫力を感じます。

  • 東圓寺・本堂<br /><br />真言宗智山派の古刹とのことですが、現状はコンクリート製で再建されておりその為か歴史の深みは感じることができません。

    東圓寺・本堂

    真言宗智山派の古刹とのことですが、現状はコンクリート製で再建されておりその為か歴史の深みは感じることができません。

  • 境内<br /><br />本堂から振返って山門方向を捉えます。広い境内に芝を植えたりして変化に富んだ境内が楽しめます。

    境内

    本堂から振返って山門方向を捉えます。広い境内に芝を植えたりして変化に富んだ境内が楽しめます。

  • 鐘楼堂<br /><br />再建したばかりの鐘楼堂のようです。<br /><br /><br /><br />

    鐘楼堂

    再建したばかりの鐘楼堂のようです。



  • 鐘楼堂・再建記念碑

    鐘楼堂・再建記念碑

  • 不動の瀧<br /><br />社伝によりますと弘法大師が地面に杖を立てたらたちまち湧き出たという不動の瀧が竹林のの向こうにあるといわれています。

    不動の瀧

    社伝によりますと弘法大師が地面に杖を立てたらたちまち湧き出たという不動の瀧が竹林のの向こうにあるといわれています。

  • 板石塔婆・案内標<br /><br /><br /><br />

    板石塔婆・案内標



  • 不動の瀧入口<br />

    不動の瀧入口

  • 不動尊

    不動尊

  • 童子石仏<br /><br />竹林を通り階段を降りますと、左手の傾斜地には童子石仏が並んでいます。

    童子石仏

    竹林を通り階段を降りますと、左手の傾斜地には童子石仏が並んでいます。

  • 板碑(板石)<br /><br />頑丈に施錠されており接近が不可能でした。<br /><br />

    板碑(板石)

    頑丈に施錠されており接近が不可能でした。

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