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東海道五十三次の平塚宿は江戸から数えて7番目の宿場で遺構、遺跡を求め散策しました。<br /><br />旧東海道の通りは平塚七夕まつりのメイン会場となっていて、平塚宿の面影を残す建造物は一切なく、道路も拡張され、その痕跡を示す碑だけが設置されていたのが残念でした。<br />残されていたのは表紙の写真の平塚宿江戸見付の見張りのための石垣ですが復元されたものでした。<br />

旧東海道 平塚宿の散策

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2012/10/21 - 2012/10/21

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アルプ・グリュム

アルプ・グリュムさん

東海道五十三次の平塚宿は江戸から数えて7番目の宿場で遺構、遺跡を求め散策しました。

旧東海道の通りは平塚七夕まつりのメイン会場となっていて、平塚宿の面影を残す建造物は一切なく、道路も拡張され、その痕跡を示す碑だけが設置されていたのが残念でした。
残されていたのは表紙の写真の平塚宿江戸見付の見張りのための石垣ですが復元されたものでした。

同行者
一人旅
旅行の手配内容
個別手配

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  • 平塚宿の散策は平塚駅からスタートします。<br />久しぶりに訪れる平塚ですが、路線バスの神奈中のカラーリングは40年前と全く変わってないので懐かしさを感じます。

    平塚宿の散策は平塚駅からスタートします。
    久しぶりに訪れる平塚ですが、路線バスの神奈中のカラーリングは40年前と全く変わってないので懐かしさを感じます。

  • 紅谷町公園の片隅にある番町皿屋敷のお菊塚に立ち寄ります。<br />駅から2分となっていましたが道に迷い10分の道のりで辿り着きました。

    紅谷町公園の片隅にある番町皿屋敷のお菊塚に立ち寄ります。
    駅から2分となっていましたが道に迷い10分の道のりで辿り着きました。

  • お菊は、平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀見習いのため江戸旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬殺したといいます。また一説によると、主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことをきかないので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされたとも伝えられています。この事件は元文5年(1740)のことであったといい、のち怪談「番町皿屋敷」の素材となりました。 <br /><br />

    お菊は、平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀見習いのため江戸旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬殺したといいます。また一説によると、主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことをきかないので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされたとも伝えられています。この事件は元文5年(1740)のことであったといい、のち怪談「番町皿屋敷」の素材となりました。

  • 夜な夜な枕元に聞こえる不気味な声。 <br />「いちま〜い、にま〜い…」と皿を数えるお菊さんの塚です。 <br />

    夜な夜な枕元に聞こえる不気味な声。
    「いちま〜い、にま〜い…」と皿を数えるお菊さんの塚です。

  • 旧東海道の通りを歩いて馬入一里塚の碑まで来ました。

    旧東海道の通りを歩いて馬入一里塚の碑まで来ました。

  • 慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。 <br />馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。元禄三年(一六九〇年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。

    慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。
    馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。元禄三年(一六九〇年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。

  • 馬入一里塚の碑<br />植えてある木が松であれば東海道のイメージとなるのですが!

    馬入一里塚の碑
    植えてある木が松であれば東海道のイメージとなるのですが!

  • 再び平塚駅近くの旧東海道で案内板を見つける。<br />案内板には平塚宿江戸見付もあります。<br /><br />平塚七夕まつりのメイン会場となる通りです。

    再び平塚駅近くの旧東海道で案内板を見つける。
    案内板には平塚宿江戸見付もあります。

    平塚七夕まつりのメイン会場となる通りです。

  • 平塚宿江戸見付には見張りのための石垣が再現されてあります。<br />ここからが平塚宿内になります。

    平塚宿江戸見付には見張りのための石垣が再現されてあります。
    ここからが平塚宿内になります。

  • 平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は榜示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。<br /> 平塚宿の見附はニ箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1・5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。<br />  一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。<br /> 平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。

    平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は榜示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
     平塚宿の見附はニ箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1・5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
      一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
     平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。

  • 平塚宿江戸見付の横には平塚宿の史跡絵地図が掲示されてあります。<br /><br />

    平塚宿江戸見付の横には平塚宿の史跡絵地図が掲示されてあります。

  • 歩道橋の上から大磯方面を見ています。<br />道路幅も拡張され旧東海道の趣は全く感じませんが旅籠、本陣が軒を並べて旅人が行きかっていた光景を想像します。<br /><br />車、新幹線も飛行機もなく、歩くことだけが交通手段だったのですから。<br />遠くに見える高麗山だけは江戸時代と変わってないと察します。

    歩道橋の上から大磯方面を見ています。
    道路幅も拡張され旧東海道の趣は全く感じませんが旅籠、本陣が軒を並べて旅人が行きかっていた光景を想像します。

    車、新幹線も飛行機もなく、歩くことだけが交通手段だったのですから。
    遠くに見える高麗山だけは江戸時代と変わってないと察します。

  • 平塚宿脇本陣跡<br />脇本陣は、本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供した。

    平塚宿脇本陣跡
    脇本陣は、本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供した。

  • 平塚宿高札場跡<br />高札場とは、幕府や領主の基本的な法令を書いた高札(木の札)を掲示した場所。主に道が交差した人の往来の多いところや、人に目立つように一段高くした「高札場」に掲示された。

    平塚宿高札場跡
    高札場とは、幕府や領主の基本的な法令を書いた高札(木の札)を掲示した場所。主に道が交差した人の往来の多いところや、人に目立つように一段高くした「高札場」に掲示された。

  • 平塚宿本陣旧跡<br />天保14年(1843)当時、建坪163坪だった。総ケヤキ造りの豪華なものだったと伝えられるが、現在は、標識が立つのみである。

    平塚宿本陣旧跡
    天保14年(1843)当時、建坪163坪だった。総ケヤキ造りの豪華なものだったと伝えられるが、現在は、標識が立つのみである。

  • 平塚宿本陣旧跡は神奈川銀行にも設置されてあり、神奈川銀行が設置した碑です。

    平塚宿本陣旧跡は神奈川銀行にも設置されてあり、神奈川銀行が設置した碑です。

  • 平塚宿本陣旧跡は神奈川銀行と歩道側に設置されてあります。

    平塚宿本陣旧跡は神奈川銀行と歩道側に設置されてあります。

  • 平塚宿東組問屋場の蹟<br />1651年に八幡新宿に増設され、二十四軒町と東仲町の間にあった。 宿役人は問屋3名、年寄6名、帳付11名、馬指6名、人足指6名で構成され、二十四軒町と西仲町の問屋場に毎月10日毎に問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名が交替でつとめた。

    平塚宿東組問屋場の蹟
    1651年に八幡新宿に増設され、二十四軒町と東仲町の間にあった。 宿役人は問屋3名、年寄6名、帳付11名、馬指6名、人足指6名で構成され、二十四軒町と西仲町の問屋場に毎月10日毎に問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名が交替でつとめた。

  • 今では珍しい火の見やぐらが平塚市消防団第一分団の建物。<br />この場所には西組問屋場がありました。<br /><br />1601年に西仲町に問屋場が置かれた。東組問屋場が新設されてからは西組問屋場と呼ばれるようになった。

    今では珍しい火の見やぐらが平塚市消防団第一分団の建物。
    この場所には西組問屋場がありました。

    1601年に西仲町に問屋場が置かれた。東組問屋場が新設されてからは西組問屋場と呼ばれるようになった。

  • 平塚宿京方見付跡之跡<br />ここまでが平塚の宿場だったのです。

    平塚宿京方見付跡之跡
    ここまでが平塚の宿場だったのです。

  • 平塚京方見付の説明板

    平塚京方見付の説明板

  • 旧東海道の通りからは少し離れたところにある春日神社<br /><br /><br /><br />

    旧東海道の通りからは少し離れたところにある春日神社



  • 春日神社には珍しい梵鐘があります。

    春日神社には珍しい梵鐘があります。

  • 鏡山お初の墓<br />要法寺西側の廃寺となった広蔵寺の墓地にあります。<br />歌舞伎で上演された「加賀美山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)」はこの義女「お初」のモデルといわれる「松田たつ」の墓。

    鏡山お初の墓
    要法寺西側の廃寺となった広蔵寺の墓地にあります。
    歌舞伎で上演された「加賀美山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)」はこの義女「お初」のモデルといわれる「松田たつ」の墓。

  • 鏡山お初の墓の説明板<br />

    鏡山お初の墓の説明板

  • 平塚の塚緑地は公園となっていて平塚の塚の碑、説明板があり木々が植栽されています。

    平塚の塚緑地は公園となっていて平塚の塚の碑、説明板があり木々が植栽されています。

  • 平塚の塚の碑<br /><br />平塚の地名の由来にちなむ碑。桓武天皇の孫・高見王の子、平政子が東国へおもむく途中、この地で亡くなったため、塚がつくられ、それがいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれたという。<br />

    平塚の塚の碑

    平塚の地名の由来にちなむ碑。桓武天皇の孫・高見王の子、平政子が東国へおもむく途中、この地で亡くなったため、塚がつくられ、それがいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれたという。

  • 平塚の塚の碑の説明板

    平塚の塚の碑の説明板

  • 平塚の塚緑地の公園内の平塚の碑

    平塚の塚緑地の公園内の平塚の碑

  • 馬入川に架かる橋の一角には「平成の一里塚」なる現代の歩行者の休憩所として整備されてありました。<br />旧東海道の一里塚とは関係ありません。

    馬入川に架かる橋の一角には「平成の一里塚」なる現代の歩行者の休憩所として整備されてありました。
    旧東海道の一里塚とは関係ありません。

  • 花水川に架かる橋から見る高麗山<br /><br />私はここまま徒歩で次の宿場である大磯へ向かいます。

    花水川に架かる橋から見る高麗山

    私はここまま徒歩で次の宿場である大磯へ向かいます。

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