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「シュノンソー城 (ロワール古城)」に行ってきました。<br />「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」として世界遺産に登録されています。<br />「アンリ2世」とその妻「カトリーヌ・ド・メディシス」と王の妾の「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の3角関係が有名です。

シュノンソー城 (ロワール古城)  

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2012/11/28 - 2012/11/28

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KawakamiKen

KawakamiKenさん

「シュノンソー城 (ロワール古城)」に行ってきました。
「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」として世界遺産に登録されています。
「アンリ2世」とその妻「カトリーヌ・ド・メディシス」と王の妾の「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の3角関係が有名です。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
3.5
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス 観光バス 徒歩
航空会社
オーストリア航空
旅行の手配内容
個別手配
  • 「MY BUS」 のツアーを利用して 「ロワール地方3つの古城巡り 」 です。<br /><br /><br />料金は 「1万5033円」 でした。

    「MY BUS」 のツアーを利用して 「ロワール地方3つの古城巡り 」 です。


    料金は 「1万5033円」 でした。

  • 途中で休憩です。

    途中で休憩です。

  • ガイド曰く、珍しいらしいのですが多くの 「警察官」 がいました。

    ガイド曰く、珍しいらしいのですが多くの 「警察官」 がいました。

  • 「ロワール川」 です。

    「ロワール川」 です。

  • 「3時間前後」 で着いたかと思います。

    「3時間前後」 で着いたかと思います。

  • 「シュノンソー城」 は 「ロワール渓谷」 の シュノンソーにある城です。

    「シュノンソー城」 は 「ロワール渓谷」 の シュノンソーにある城です。

  • チケット売り場。

    チケット売り場。

  • バスを降りてから少し歩きます。

    バスを降りてから少し歩きます。

  • 「シュノンソー城」 は 「トリップアドバイザー・バケットリスト」 の 「世界の名城25選」に選ばれてます。

    「シュノンソー城」 は 「トリップアドバイザー・バケットリスト」 の 「世界の名城25選」に選ばれてます。

  • 周辺は 「森林公園」 のような風景です。 

    周辺は 「森林公園」 のような風景です。 

  • 一帯が 「70ヘクタール」 の公園となっています。

    一帯が 「70ヘクタール」 の公園となっています。

  • 「10分弱程」 で建物が見えてきました。<br />

    「10分弱程」 で建物が見えてきました。

  • 「シュノンソー城」 が見えてきました。

    「シュノンソー城」 が見えてきました。

  • 周辺の建物です。

    周辺の建物です。

  • 「シュノンソー城」 の 「正面入口」 から1枚。

    「シュノンソー城」 の 「正面入口」 から1枚。

  • シュノンソーは 「ヴェルサイユ宮殿」 に次いで、フランスで 「2番目」 に観光客の多い城です(ウィキペディア)。<br /><br /><br />「後期ゴシック」 と 「初期ルネサンス」 が混ざり合ったシュノンソー城です。

    シュノンソーは 「ヴェルサイユ宮殿」 に次いで、フランスで 「2番目」 に観光客の多い城です(ウィキペディア)。


    「後期ゴシック」 と 「初期ルネサンス」 が混ざり合ったシュノンソー城です。

  • 古い 「製粉所跡」 に建てられています。<br /><br /><br />建てられた年号は不明です。<br /><br /><br /><br />写真は 「マルク家の塔」 です。

    古い 「製粉所跡」 に建てられています。


    建てられた年号は不明です。



    写真は 「マルク家の塔」 です。

  • 文献上に始めて登場したのは 「11世紀」 のことだそうです。<br /><br /><br />

    文献上に始めて登場したのは 「11世紀」 のことだそうです。


  • 数人の持ち主を転々として、最終的に 「借金の形(かた)」 にとられ 「国王フランソワ1世」 の物となりました。

    数人の持ち主を転々として、最終的に 「借金の形(かた)」 にとられ 「国王フランソワ1世」 の物となりました。

  • その 「フランソワ1世」 の子が 「アンリ2世」 です。<br /><br /><br />現地日本人ガイドさんが 「アンリ2世」 とその妻 「カトリーヌ・ド・メディシス」 と王の妾の 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の 「3角関係」 を中心に解説されてました。

    その 「フランソワ1世」 の子が 「アンリ2世」 です。


    現地日本人ガイドさんが 「アンリ2世」 とその妻 「カトリーヌ・ド・メディシス」 と王の妾の 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の 「3角関係」 を中心に解説されてました。

  • 「アンリ2世」 は 「愛妾」 の 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 にこのシュノンソー城を贈りました。

    「アンリ2世」 は 「愛妾」 の 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 にこのシュノンソー城を贈りました。

  • 愛妾の 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 は 「アンリ2世」 より 「20歳程」 年上でした。<br /><br /><br />非常に美しい女性で50歳になってもその美貌は衰えなかったそうです。

    愛妾の 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 は 「アンリ2世」 より 「20歳程」 年上でした。


    非常に美しい女性で50歳になってもその美貌は衰えなかったそうです。

  • 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 は対岸に 「アーチ橋」 をかけさせます。<br /><br /><br />通称 「ディアーヌのアーチ橋」 です。

    「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 は対岸に 「アーチ橋」 をかけさせます。


    通称 「ディアーヌのアーチ橋」 です。

  • 「ディアーヌの庭」 です。

    「ディアーヌの庭」 です。

  • 「ディアーヌの庭」 には花や野菜、果樹なども植えさせました。

    「ディアーヌの庭」 には花や野菜、果樹なども植えさせました。

  • しかし、アンリ2世が1559年に死ぬと、彼の気の強い妻で摂政の 「カトリーヌ・ド・メディシス」 はディアーヌを城から追い出しました(ウィキペディア)。

    しかし、アンリ2世が1559年に死ぬと、彼の気の強い妻で摂政の 「カトリーヌ・ド・メディシス」 はディアーヌを城から追い出しました(ウィキペディア)。

  • 「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 は 「ショーモン城」 へ移りました。<br /><br /><br />「67歳」 まで生きたそうです。<br /><br /><br />写真は 「シェール川」 です。

    「ディアーヌ・ド・ポワチエ」 は 「ショーモン城」 へ移りました。


    「67歳」 まで生きたそうです。


    写真は 「シェール川」 です。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「フィレンツェ」 の 「メディチ家」 の出身です。<br /><br /><br />「メディチ」 はフランス語で 「メディシス」 。

    「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「フィレンツェ」 の 「メディチ家」 の出身です。


    「メディチ」 はフランス語で 「メディシス」 。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「アンリ2世」 との間に 「10人」 の子を産みました。

    「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「アンリ2世」 との間に 「10人」 の子を産みました。

  • しかし、「アンリ2世」 の寵愛は 「愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ」 に独占されていました。

    しかし、「アンリ2世」 の寵愛は 「愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ」 に独占されていました。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「アンリ2世」 の死後、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼い 「シャルル9世」 が即位すると 「摂政」 として政治を担うことになりました(ウィキペディア)。<br /><br /><br />「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「夫(アンリ2世)」 の生存中は大人しくしており、夫の死後に性格が一変したと現地日本人ガイドさんが言ってました。

    「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「アンリ2世」 の死後、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼い 「シャルル9世」 が即位すると 「摂政」 として政治を担うことになりました(ウィキペディア)。


    「カトリーヌ・ド・メディシス」 は 「夫(アンリ2世)」 の生存中は大人しくしており、夫の死後に性格が一変したと現地日本人ガイドさんが言ってました。

  • 正面の城への 「入り口」 です。

    正面の城への 「入り口」 です。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシス」 の時代に 「ユグノー戦争(1562年〜1598年)」 が起こり、「政情不安定」 でした。

    「カトリーヌ・ド・メディシス」 の時代に 「ユグノー戦争(1562年〜1598年)」 が起こり、「政情不安定」 でした。

  • 「ユグノー戦争」 と 「カトリック」 と 「プロテスタント」 が休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った 「内戦」 である(ウィキペディア)。<br /><br /><br />写真は 入口すぐの 「護衛兵の間」 です。

    「ユグノー戦争」 と 「カトリック」 と 「プロテスタント」 が休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った 「内戦」 である(ウィキペディア)。


    写真は 入口すぐの 「護衛兵の間」 です。

  • とりわけ、「サン・バルテルミの虐殺(1572年)」 ではカトリックがユグノー数千人を虐殺する事件が起こっています。<br /><br /><br />写真は 「礼拝堂」 です。

    とりわけ、「サン・バルテルミの虐殺(1572年)」 ではカトリックがユグノー数千人を虐殺する事件が起こっています。


    写真は 「礼拝堂」 です。

  • この 「サン・バルテルミの虐殺」 により、「カトリーヌ・ド・メディシス」 は歴史上 「悪名」 を残すこととなります。

    この 「サン・バルテルミの虐殺」 により、「カトリーヌ・ド・メディシス」 は歴史上 「悪名」 を残すこととなります。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシス」 の死後も 「内戦」 は収まらず泥沼化していきます。

    「カトリーヌ・ド・メディシス」 の死後も 「内戦」 は収まらず泥沼化していきます。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシス」 の死の8ヶ月後に息子でもある 「アンリ3世」 がカトリック修道士に 「暗殺」 されます。<br /><br /><br />この暗殺により 「ヴァロワ朝」 は断絶することになります。

    「カトリーヌ・ド・メディシス」 の死の8ヶ月後に息子でもある 「アンリ3世」 がカトリック修道士に 「暗殺」 されます。


    この暗殺により 「ヴァロワ朝」 は断絶することになります。

  • その後 「ブルボン家」 の 「アンリ4世」 が即位(1589年)して 「ブルボン朝」 が興こります。<br /><br /><br />「ブルボン朝」 は、<br /><br /><br />・アンリ4世(1589年〜1610年)<br /><br />・ルイ13世(1610年〜1643年)<br /><br />・ルイ14世(1643年〜1715年)<br /><br />・ルイ15世(1715年〜1774年)<br /><br />・ルイ16世(1774年〜1792年)<br /><br />・ルイ17世(1793年〜1795年)<br /><br /><br />復古王政後<br /><br /><br />・ルイ18世(1814年〜1824年)<br /><br />・シャルル10世(1824年〜1830年)<br /><br /><br /><br />1830年に「七月革命」が起こり、フランスでは最後の王朝となりました。<br />

    その後 「ブルボン家」 の 「アンリ4世」 が即位(1589年)して 「ブルボン朝」 が興こります。


    「ブルボン朝」 は、


    ・アンリ4世(1589年〜1610年)

    ・ルイ13世(1610年〜1643年)

    ・ルイ14世(1643年〜1715年)

    ・ルイ15世(1715年〜1774年)

    ・ルイ16世(1774年〜1792年)

    ・ルイ17世(1793年〜1795年)


    復古王政後


    ・ルイ18世(1814年〜1824年)

    ・シャルル10世(1824年〜1830年)



    1830年に「七月革命」が起こり、フランスでは最後の王朝となりました。

  • 「アンリ4世」 は 国内を平定し、1598年に 「ナントの勅令」 を発布してカトリックとプロテスタントとの国内融和を図りました。<br /><br /><br />40年にわたる 「内戦」 が終結しました。<br /><br /><br />基本カトリックでプロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認めました。

    「アンリ4世」 は 国内を平定し、1598年に 「ナントの勅令」 を発布してカトリックとプロテスタントとの国内融和を図りました。


    40年にわたる 「内戦」 が終結しました。


    基本カトリックでプロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認めました。

  • 「ディアーヌのアーチ橋」 の内部です。<br /><br /><br />「ギャラリー(回廊)」 というそうです。

    「ディアーヌのアーチ橋」 の内部です。


    「ギャラリー(回廊)」 というそうです。

  • 同じく 「ディアーヌのアーチ橋」 の内部です。<br /><br /><br />「ギャラリー(回廊)」 では 「舞踏会場」 でもありました。

    同じく 「ディアーヌのアーチ橋」 の内部です。


    「ギャラリー(回廊)」 では 「舞踏会場」 でもありました。

  • 「ギャラリー」 は<br /><br /><br />長さ 「60m」 、<br /><br /><br />幅 「6m」 、<br /><br /><br />採光窓 「18」 、<br /><br /><br />床にはスレートと石灰岩タイルが張られ、<br /><br /><br />天井は横梁が剥き出しになっている。<br /><br /><br />(ウィキペディア)

    「ギャラリー」 は


    長さ 「60m」 、


    幅 「6m」 、


    採光窓 「18」 、


    床にはスレートと石灰岩タイルが張られ、


    天井は横梁が剥き出しになっている。


    (ウィキペディア)

  • 「アンリ4世」 ですが、現在もフランスで人気が高く、かつての 「50フラン」 に採用されてました。

    「アンリ4世」 ですが、現在もフランスで人気が高く、かつての 「50フラン」 に採用されてました。

  • 「フランソワ1世のサロン」 です。<br /><br /><br />

    「フランソワ1世のサロン」 です。


  • 「フォンテーヌブロー派」 の 「狩の女神ディアナ姿のディアーヌ・ド・ポワティエ」 の絵がかかってます。

    「フォンテーヌブロー派」 の 「狩の女神ディアナ姿のディアーヌ・ド・ポワティエ」 の絵がかかってます。

  • 「ルイ14世のサロン」 です。 

    「ルイ14世のサロン」 です。 

  • 「クリスマス直前」 の観光でした。

    「クリスマス直前」 の観光でした。

  • 「1650年」 に 「ルイ14世」 が訪問しただけで、住んでいたわけではありません。

    「1650年」 に 「ルイ14世」 が訪問しただけで、住んでいたわけではありません。

  • 「カトリーヌ・ブリソネのホール」 です。<br /><br /><br />「6枚」 の 「タペストリー」 が飾られてます。

    「カトリーヌ・ブリソネのホール」 です。


    「6枚」 の 「タペストリー」 が飾られてます。

  • 「ガブリエル・デストレの居室」 です。<br /><br /><br />「ガブリエル・デストレ」 は 「アンリ4世」 の 「愛妾」 です。

    「ガブリエル・デストレの居室」 です。


    「ガブリエル・デストレ」 は 「アンリ4世」 の 「愛妾」 です。

  • 「カトリーヌ・ド・メディシスの居室」 です。

    「カトリーヌ・ド・メディシスの居室」 です。

  • 「五人の王妃の居室」 です。<br /><br /><br />大きな 「天蓋ベッド」 が目を引きます。

    「五人の王妃の居室」 です。


    大きな 「天蓋ベッド」 が目を引きます。

  • 「セザール・ド・ヴァンドームの居室」 です。<br /><br /><br />「セザール・ド・ヴァンドーム(ルイ14世の叔父)」 は 「1624年」 に城主となった人物です。

    「セザール・ド・ヴァンドームの居室」 です。


    「セザール・ド・ヴァンドーム(ルイ14世の叔父)」 は 「1624年」 に城主となった人物です。

  • 「セザール・ド・ヴァンドームの居室」 に供えてある生け花。<br /><br /><br />「造花」 かな?<br /><br />

    「セザール・ド・ヴァンドームの居室」 に供えてある生け花。


    「造花」 かな?

  • 「セザール・ド・ヴァンドームの天蓋ベッド」 。<br /><br /><br />

    「セザール・ド・ヴァンドームの天蓋ベッド」 。


  • 「ディアーヌのアーチ橋」 の内部です。<br /><br /><br />「ギャラリー(回廊)」 の別階です。

    「ディアーヌのアーチ橋」 の内部です。


    「ギャラリー(回廊)」 の別階です。

  • 「ギャラリー(回廊)」 奥の 「暖炉」 です。

    「ギャラリー(回廊)」 奥の 「暖炉」 です。

  • 最後は 「厨房」 です。

    最後は 「厨房」 です。

  • 「フィレンツェ(イタリア)」 から来た 「カトリーヌ・ド・メディシス」 はフランスの 「食文化」 を発展させたことでも知られています。

    「フィレンツェ(イタリア)」 から来た 「カトリーヌ・ド・メディシス」 はフランスの 「食文化」 を発展させたことでも知られています。

  • 当時(16世紀)は 「イタリア食文化」 が最先端で、イタリアから 「食文化」 を学びました。<br /><br /><br />

    当時(16世紀)は 「イタリア食文化」 が最先端で、イタリアから 「食文化」 を学びました。


  • 中世時代フランスで食べられていた料理は食材を焼いて大皿に乗せ、手づかみで食事を行うという非常にシンプルなものであった(ウィキペディア)。

    中世時代フランスで食べられていた料理は食材を焼いて大皿に乗せ、手づかみで食事を行うという非常にシンプルなものであった(ウィキペディア)。

  • 「カトリーヌの庭」 です。<br /><br /><br />中心に 「円形の池」 があり、その周辺に5つの芝生の庭が配置されてます。 

    「カトリーヌの庭」 です。


    中心に 「円形の池」 があり、その周辺に5つの芝生の庭が配置されてます。 

  • 「シュノンソー城」 は、<br /><br /><br />2度の 「世界大戦」 での破壊を逃れ、戦時中には 「病院」 となりました。<br /><br /><br />現在は 「チョコレート業者」 の 「ムニエ一族」 の所有となってます。

    「シュノンソー城」 は、


    2度の 「世界大戦」 での破壊を逃れ、戦時中には 「病院」 となりました。


    現在は 「チョコレート業者」 の 「ムニエ一族」 の所有となってます。

  • 狭いスペースですがお土産も売ってます。<br /><br /><br />次は 「クロ・リュセ城」 に向かいます。

    狭いスペースですがお土産も売ってます。


    次は 「クロ・リュセ城」 に向かいます。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • tamaemonさん 2013/04/23 10:16:34
    はじめまして!
      川上犬さん、はじめまして!

     歴史本を読んでいるかのように、旅行記、楽しく拝見いたしました。

     こちらの写真を見たときに思い出したのですが、ディアーヌは、毎朝このアーチの下の川に浸かり、美を保った問い話しを聞いたことがあります。
     美しくいるためには努力も必要なんですね。

     素敵な旅行記、たくさん投稿されているようなので、また、ゆっくり拝見したいと思います。
     よろしくお願いします。

                    tamaemon

    KawakamiKen

    KawakamiKenさん からの返信 2013/04/30 20:14:50
    こんばんは。
    メール&投票ありがとうございます。
    旅行記を書きながら頑張って勉強してます。
    tamaemonさんの旅行記「4人姉妹が行くスイス鉄道旅行」は仲良く楽しそうな旅で羨ましいです。
    今後も宜しくお願いします。
    川上犬

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