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冬に訪れた際に食べたラーメンの味が忘れられず、また戸澤氏のことなどもう少し知りたいと思ったので、車で新庄を再訪することにしました。

再び新庄へ

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2012/07/21 - 2012/07/21

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倫清堂

倫清堂さん

冬に訪れた際に食べたラーメンの味が忘れられず、また戸澤氏のことなどもう少し知りたいと思ったので、車で新庄を再訪することにしました。

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  • 新庄藩主戸沢家墓所は、瑞雲院と桂獄院に分かれており、桂獄院の2代藩主の他は、11代藩主までの全員が瑞雲院に眠っています。<br /><br />戸澤氏は桓武平家の流れで、歴代当主は代々通字の「盛」一文字を名乗っており、初代藩主政盛公まではその慣例を守って来ました。<br /><br />政盛公の生母は身分が低かったため戸澤家を継ぐ資格は政盛公にはなく、再婚した母とともに百姓として生活していました。<br /><br />しかし実の父や叔父が死去し、後継ぎが絶えてしまったため、戸澤家の家臣は政盛公をもって戸澤家を存続させることを決め、義父を殺して政盛公を奪い、そのまま豊太閤に謁見させて相続を許されたのでした。<br /><br />関ヶ原の戦いでは東軍に属し、元和8年に新庄に移封され、新庄藩初代藩主として藩政の基礎を築いたのでした。<br /><br />御廟所は霊屋(おたまや)と呼ばれる木造茅葺の単層宝形造で、瑞雲院には形や大きさの違う霊屋が6棟建てられており、その中に藩主とその家族の墓石が納められています。<br /><br />例外の2代藩主を除き、全ての藩主が同一の場所に葬られているのは全国的にも珍しく、霊屋の構造によって建築様式の移り変わりが分かるため、歴史的にも貴重な廟所と言えます。<br /><br />米沢の上杉家廟所は杉木立に囲まれて暗い雰囲気でしたが、戸澤家廟所は開かれた廟所の雰囲気です。<br /><br />ただ、霊屋の一つは観音開きの扉が文字通り開かれていたので、管理を厳しくしてほしいと思いました。<br /><br />その後、近所の新庄市エコロジーガーデンに立ち寄りましたが、あまり気に入った物もなく、何も買わずに出てしまいました。

    新庄藩主戸沢家墓所は、瑞雲院と桂獄院に分かれており、桂獄院の2代藩主の他は、11代藩主までの全員が瑞雲院に眠っています。

    戸澤氏は桓武平家の流れで、歴代当主は代々通字の「盛」一文字を名乗っており、初代藩主政盛公まではその慣例を守って来ました。

    政盛公の生母は身分が低かったため戸澤家を継ぐ資格は政盛公にはなく、再婚した母とともに百姓として生活していました。

    しかし実の父や叔父が死去し、後継ぎが絶えてしまったため、戸澤家の家臣は政盛公をもって戸澤家を存続させることを決め、義父を殺して政盛公を奪い、そのまま豊太閤に謁見させて相続を許されたのでした。

    関ヶ原の戦いでは東軍に属し、元和8年に新庄に移封され、新庄藩初代藩主として藩政の基礎を築いたのでした。

    御廟所は霊屋(おたまや)と呼ばれる木造茅葺の単層宝形造で、瑞雲院には形や大きさの違う霊屋が6棟建てられており、その中に藩主とその家族の墓石が納められています。

    例外の2代藩主を除き、全ての藩主が同一の場所に葬られているのは全国的にも珍しく、霊屋の構造によって建築様式の移り変わりが分かるため、歴史的にも貴重な廟所と言えます。

    米沢の上杉家廟所は杉木立に囲まれて暗い雰囲気でしたが、戸澤家廟所は開かれた廟所の雰囲気です。

    ただ、霊屋の一つは観音開きの扉が文字通り開かれていたので、管理を厳しくしてほしいと思いました。

    その後、近所の新庄市エコロジーガーデンに立ち寄りましたが、あまり気に入った物もなく、何も買わずに出てしまいました。

    新庄藩主戸沢家墓所 名所・史跡

  • 東山焼の気に入った陶器を買えたものの、冬に食べたラーメンはメニューから消えており、物足りない気持ちを抱きながらも帰途へとつくことにしました。<br /><br />帰り道に寄ったのは鳥越八幡宮。<br /><br />鎮守の森という言葉がふさわしい、木々に抱かれた山の上に鎮座。<br /><br />縁起書には、政盛公の養子定盛公が鷹狩りをした際、逃げられた鷹を八幡社の霊験によって取り戻すことが出来たため、寛永15年に現在地に奉遷して立派な社を寄進したそうです。<br /><br />その時の社殿は今まで大事に受け継がれ、現在では新庄市内で最も古い建築物であるとのことです。

    東山焼の気に入った陶器を買えたものの、冬に食べたラーメンはメニューから消えており、物足りない気持ちを抱きながらも帰途へとつくことにしました。

    帰り道に寄ったのは鳥越八幡宮。

    鎮守の森という言葉がふさわしい、木々に抱かれた山の上に鎮座。

    縁起書には、政盛公の養子定盛公が鷹狩りをした際、逃げられた鷹を八幡社の霊験によって取り戻すことが出来たため、寛永15年に現在地に奉遷して立派な社を寄進したそうです。

    その時の社殿は今まで大事に受け継がれ、現在では新庄市内で最も古い建築物であるとのことです。

  • 新庄からはかなり離れていますが、少し時間があったので寒河江八幡宮を参拝。<br /><br />八幡太郎義家公が守護神の加護によって戦に勝ったことから康平5年に御創建された古社。<br /><br />その後、大江広元公が文治5年に頼朝公から寒河江荘の地頭に任じられた際、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮から御分霊を勧請して、現在の地に鎮座となりました。<br /><br />この日は参集殿にて書家の金澤翔子さんによる作品展が行われていたので、これもご縁かと思って見学してみることにしました。<br /><br />宮司さんが金澤さんの書を非常に愛していることから、定期的に作品をお借りし、金澤さんにも神前での揮毫を依頼して、定期的に作品展を行っているそうです。<br /><br />金澤さんのお名前と経歴は耳にしていましたが、その作品を実際に見るのはこれが初めて。<br /><br />最近は特徴ある文字で格言のような詩を書いて売り出している人も多いようですが、金澤さんの作品からは書や文字そのものに対する混じり気のない愛情のみが伝わって来ます。<br /><br />どんな気の利いた言葉より、書そのものを純粋に追求してこそ、人の心の一番奥深い所に届くのだと思います。<br /><br />短い旅行でしたが、得難い物を手に入れて帰る時の晴々しさが心を満たしていました。

    新庄からはかなり離れていますが、少し時間があったので寒河江八幡宮を参拝。

    八幡太郎義家公が守護神の加護によって戦に勝ったことから康平5年に御創建された古社。

    その後、大江広元公が文治5年に頼朝公から寒河江荘の地頭に任じられた際、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮から御分霊を勧請して、現在の地に鎮座となりました。

    この日は参集殿にて書家の金澤翔子さんによる作品展が行われていたので、これもご縁かと思って見学してみることにしました。

    宮司さんが金澤さんの書を非常に愛していることから、定期的に作品をお借りし、金澤さんにも神前での揮毫を依頼して、定期的に作品展を行っているそうです。

    金澤さんのお名前と経歴は耳にしていましたが、その作品を実際に見るのはこれが初めて。

    最近は特徴ある文字で格言のような詩を書いて売り出している人も多いようですが、金澤さんの作品からは書や文字そのものに対する混じり気のない愛情のみが伝わって来ます。

    どんな気の利いた言葉より、書そのものを純粋に追求してこそ、人の心の一番奥深い所に届くのだと思います。

    短い旅行でしたが、得難い物を手に入れて帰る時の晴々しさが心を満たしていました。

    寒河江八幡宮 寺・神社・教会

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