2012/07/07 - 2012/07/09
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倫清堂さん
毎月ほぼ1回ずつ関西に通うのも、ごく当たり前のように生活の一部になってしまいました。
今回は2泊できる日程だったため、鞍馬山から貴船へと散策しながら、心の洗濯を試たのでした。
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貴船神社への参拝は、望んではいたもののなかなか実現できずにいました。
その理由は京都中心部からの距離が微妙な位置にあり、他の目的地との組み合わせが難しく、かと言って貴船神社だけを単独で参拝するのも時間的に中途半端であるというものでした。
今回は、夕方に知人と会う約束もあったため、ちょうど半日の時間を過ごすために、貴船神社参拝の念願を果たせることになったのでした。
塾の終了後、同じ塾生の方と遅い時間まで大阪で飲んでしまい、あまり睡眠時間をとっていませんでした。
酔いが残った状態でしたが、7時には四條大宮のホテルを出て、叡山電鉄の出町柳駅へと向かいました。出町柳駅 駅
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初めての叡山電鉄。
鞍馬行きの鞍馬線に乗りましたが、叡山電鉄の名前が示すとおり、比叡山へ続く叡山本線もあり、途中の宝ヶ池で路線は分かれます。
途中、修学院駅などもあって、予約して組み合わせればよかったなと思いましたが、せっかく修学院へ行くなら季節を考えるのも大事だと思いなおしました。
そうこうするうち、30分で終点の鞍馬駅へ到着。
貴船神社へ先に行くなら貴船口下車ですが、鞍馬寺を先に訪れるルートを選びました。鞍馬駅 駅
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京都の都会から、短時間で風景は一変しました。
この感覚は、距離は違いますが、東京都心を抜けて青梅は武蔵御嶽神社を訪れた時に感じたものに似ていました。
駅から歩き出すと、道に迷うまでもなくすぐに鞍馬寺の仁王門が見えて来ます。
明治44年に再建されたもので、湛慶作の仁王像が浄域を守っています。
そこで拝観料を支払います。
まだ早い時間のため、職員の方が石段の清掃をしていました。 -
ここからケーブルカーに乗って多宝塔を目指すこともできますが、今回は急ぐ旅でもないので、徒歩で山を登ることにしました。
山とは言っても、参道の石段はしっかり整備されています。
少し登ると、天慶3年に御所から勧請された由岐神社が見えて来ます。
鞍馬寺の鎮守社で、大己貴命と少彦名命をお祀りしています。
10月に行われる鞍馬の火祭は、御所から御祭神が勧請された時に、人々が篝火を焚いて神輿をお迎えしたことに由来します。
中央に石段のある割拝殿は豊臣秀頼公による再建。由岐神社 寺・神社・教会
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清少納言が『枕草子』にも記した「九十九折参道」は、その名が示す通りくねくね坂道。
そこを登り切れば、本殿金堂へとたどり着きます。
一気に登ると、さわやかな気候とは云え汗が噴き出て来ました。
金堂を守るのは阿吽の虎。
鞍馬寺では、虎の他にムカデも守り神なのだそうです。
鞍馬寺博物館「鞍馬山霊宝殿」を見学。
1階は自然科学博物館となっており、鞍馬山の動植物や地質などについて詳しく解説していました。
2階は寺宝展観室と、与謝野記念室。
与謝野晶子の書斎「冬柏亭」が境内に移築されたのを記念し、遺品などを展示しています。
冬柏亭は博物館の前にありました。
そして3階は仏像奉安室。
国宝の木造毘沙門天立像・木造吉祥天立像・木造善膩師童子立像などを安置しています。鞍馬寺 寺・神社・教会
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イチオシ
ここから奥の院を通って、貴船神社へ向かうことに決めていました。
そのルートはほぼ一本道なのですが、途中一ヶ所だけ枝分かれする場所があります。
全体からすればさほどの距離でもないので、そちらへ向かってみることにしました。
杉の木の根が地面を走る「木の根道」を通ることになります。
鞍馬山の地質は硬い岩盤であるため、根が深く張ることができないために、このような珍しい風景が生れるのだそうです。
木の根道の先にある大杉権現社に参拝。
何も案内がありませんでしたが、どうやら杉の古木が御神体のようです。鞍馬寺 寺・神社・教会
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木の根道に分かれる道の股に、義経公背比べ石があります。
遮那王を名乗って鞍馬山で修業していた義経公が、平泉の藤原秀衡を訪ねるに際して、名残を惜しんで背比べをした石であると伝えられています。
戦の上手な義経公は貴公子のような印象を持たれていますが、実際はかなり小男で美男子ではなかったとの説が有力です。
あまり美しい容貌よりも、2歳で父義朝公を失って出家し、鞍馬寺では僧としての修行よりも兵法や武術などを好んだ義経公は、少し醜男の方が似合っているようにも思えます。
鞍馬寺での天狗との出会いがなければ、義経公は奥州へ行くこともなかっただろうし、挙兵した頼朝公も平氏を倒せたかどうかは分かりません。
背比べ石は、歴史の転換点にひっそりと屹立しているのです。 -
峠は越えたらしく、きつい上りの石段は逆に危なげな降りに変化していました。
途中では蛇を見かけましたが、人間が怖いようで藪の中へと消えてしまいました。
そうこうするうちに辿り着いた不動堂では、旅行者らしい男女が清掃活動をしています。
伝教大師最澄が天台宗開宗の悲願に燃えて刻んだ不動明王が納められています。
向かい側には、衣川で討死した義経公の御霊が戻って来るとされる義経堂。 -
鞍馬の山越えもいよいよ終わりに近づいてきました。
奥の院魔王殿に到着。
ここには、650万年前という気の遠くなるような昔、金星から地球に降り立った護法魔王尊が奉安されています。
内部には日本庭園の原型とされる磐座があるとのことですが、どことなく恐ろしげな雰囲気が漂っており、確認する心の余裕はありませんでした。奥の院魔王殿 寺・神社・教会
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西門に辿り着いたことで、仁王門からおよそ2.5キロの距離の山道を歩いたことになります。
昼食をとるにはまだ早く、体力にもまだまだ余裕があるので、このまま貴船神社の参拝を続けることにしました。
貴船は川床料理が有名で、何軒もの料亭が門前町の一本道に軒を連ねており、川床の床を組む準備が進められていました。
ある店の前で案内に立っていた女中さんに訪ねたところ、土日は団体客が詰まっているので予約なしでは受け入れられないとのことでした。
きっと他の店も同じ状況でしょう。
貴船川に沿った細い道路は、車1台が通るのがやっとで、あちこちに警備員が立って車を止めていました。
ピークの時間帯は渋滞することは間違いなく、徒歩で来たのは正解だと思いました。
その細い道を北へ向かうと、すぐに貴船神社の鳥居が見えて来ました。貴船神社 寺・神社・教会
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神武天皇の母神である玉依姫命が、黄船で賀茂川をさかのぼって水の神を祀ったのが始まりで、当時は陸の道もなかったのではないかと思われます。
数日前までの大雨の影響もあるのでしょうが、貴船側の流れはかなり急な印象で、水が清らかな気の流れを呼んでいるようでした。
水や気のエネルギーの強さは、樹木の様子を見ても一目瞭然。
貴船神社境内にある御神木の桂は、根元からたくさんの枝が、天に向かって手を広げているような姿をしています。 -
貴船神社の御祭神は、高おかみ神(おかみ:雨の下に口3つ、その下に龍)。
古事記では、イザナギ・イザナミによる神産みで登場する、原初の神です。
漢字が示すとおり水を司る龍のことで、峡谷の地形を神に例えたと解釈することもできます。
昔の人には、貴船川そのものが、谷間に横たわる水龍の姿に見えたのかも知れません。
拝殿と本殿は少し中心をずらして建てられており、これは貴船系神社昔から守ってきた伝統的な様式ではないかと思われます。 -
社殿の横に、黒白2頭の馬の像があります。
各地の神社で納めることができる絵馬は、この貴船神社が発祥とのことです。
貴船神社は歴史的に、水を司る神に雨乞いをする役割を担っています。
晴れの日が続いて旱となった時は黒馬を納めて雨が降ることを祈り、雨が続けば白馬を納めて晴れを祈ったのだそうですが、初めは馬たちは生贄にされていました。
のちに生贄は禁じられ、生きた馬ではなく土製や木製の馬を納め、更に簡略化して板に書かれた「板立馬」を納めるようになったのが、絵馬の原型なのだそうです。 -
参拝を終え、貴船川沿いに上流に向かいます。
すると、道の脇に小さな鳥居が見えます。
ここは貴船神社の中宮、結社(ゆいのやしろ)です。
御祭神の磐長姫命は、ニニギ尊に姉とともに嫁いだものの、容姿が醜かったことから父のもとに送り返されてしまった悲しい女性。
それ以後、天孫族は花の栄華を約束されますが、石のように壊れることのない生命は手放すことになったのでした。
磐長姫命はその後この地に来って、世の人々に良縁をもたらすために鎮まったとのことです。
境内にある、船の形をした自然石は、平成8年に奉納された天の磐船です。 -
良縁を求めるためか、ちらほらと見える参拝客のほとんどは若い女性がほとんどです。
その信仰は昔から変わらず、王朝文学の時代に活躍した女流歌人の和泉式部も、心が離れてしまった夫の愛をもう一度取り戻そうと、結社を参拝して和歌を詠んだのでした。
もの思へば沢のほたるもわが身より
あくがれいづる魂かとぞ見る -
中宮から奥宮までの参道は、和泉式部恋の道と名付けられています。
玉依姫命が黄船で川をさかのぼり、最初に水の神を祀った場所が、ここ奥宮でした。
しかし御冷泉天皇の御代、永承元年に川の氾濫によって社殿が流されてしまったため、天喜3年に現在地に遷座したのでした。
和泉式部が現役の時代は、現在の奥宮が貴船神社だったということです。
奥宮には、やはり水を司る闇おかみ神が祀られています。
高おかみ神と闇おかみ神は社伝によると同一神とされ、その現れ方によって呼び名も変わるのだと考えられます。
本殿の下には、見てはならない龍穴があるとか。
社殿は新しく、本殿の改修はちょうど今年に入って終わったところでした。 -
境内には石垣のようなものがありましたが、壁にしては中途半端な位置と大きさです。
実はこの石組の中には、玉依姫命が乗って来た黄船が隠されているのです。
航海安全の御利益があるとして、小石を持ち帰る人がたくさんいたのだそうですが、今も黄船は隠れたままです。
ここに船を置いてしまい、どのようにしてお帰りになったのかが気になりますが、御創始以後の話は伝わっておりません。 -
昼食時が近くなって来ました。
あまり混雑する前に、どこかで休みがてら腹を満たそうと思います。
しかし川床料理はどこも受け入れてくれません。
このまま市街地に戻れば、ファストフードの店に入ってしまいそうなので、ここで食べてから離れる方がよいと判断。
川床ではないですが、珍しい鮎茶漬けを出してくれる店に入りました。
鮎は頭から丸かじりして、尻尾まで全部食べられます。
また、京都の地ビールも出してもらいました。
やっぱり車で来なくて正解でした。
満足したところで、叡山電鉄の貴船口駅に向かって歩き始めます。
ここまで歩いた距離は、およそ5キロくらいでしょうか。
充実した鞍馬・貴船ウォークはこして終わったのでした。 -
出町柳駅から徒歩圏内を探索してみることにしました。
京都観光はまだ回数も少なく、当然この周辺はまだ未踏の場所。
ただ、以前から一度参拝に訪れたいと思っていた吉田神社が、少し無理をすれば歩いて行ける距離にあります。
地図上ではそれほどの距離には思えないのですが、京都の道路は碁盤の目状に編まれているので、斜めに近道できるような道がほとんどありません。
ようやく近くまで来た時、後二條天皇陵を見つけました。
第94代の天皇で、後醍醐天皇の異母兄に当たります。 -
後二條天皇陵で手を合わせた後、ようやく吉田神社に到着しました。
吉田神社は貞観元年、中納言藤原山蔭卿がここ吉田山に氏神の春日大神をお祀りしたのが始まりとされます。
実は、平安時代に生きた祖先が吉田神社の神職と義理の親子となったという言い伝えがあり、その真偽を確かめるために、神社の歴史に詳しい方にお話しを伺いました。
吉田兼親という方の娘を頂き、その後吉田の姓を名乗ったとされますが、当時の吉田神社の神職は吉田を名乗っていなかったと説明を受けました。
私の手元にある資料が間違いなのかも知れませんが、あとから考えると、卜部氏の兼親を、吉田神社の神職であったことから吉田兼親と間違えて記録されたと解釈もできます。
この時、卜部兼親を調べてもらえばよかったのですが、その時は頭が混乱して気付きませんでした。吉田神社 寺・神社・教会
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本宮から離れた所に、大元宮が鎮座しています。
吉田氏はもとは卜部氏で、陰陽寮で占術を司っていました。
「徒然草」の著者である兼好法師も同じ一族で、通字は「兼」であることからも、兼親は確実に存在していたと確信します。
それはさておき、永享7年生れの兼倶卿が吉田氏の私的な斎場所を吉田山に移した頃から吉田氏の全盛期は始まり、江戸時代の兼敬の時には、神祇信仰における不動の地位を得ることになりました。
津軽家や会津松平家の祭祀に影響を及ぼした吉川惟足も、その門人の一人です。
その大元宮を参拝。
ここには天神地祇八百萬神が祀られています。
要するに、日本における全ての神様を一度に拝むことができるというわけで、こういうごった煮は個人的には受け入れがたいものがありますが、本殿の建築様式は非常に珍しいものらしく、国の重要文化財にも指定されています。
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