2013/01/28 - 2013/01/29
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ANZdrifterさん
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1世紀末ころに東国を偵察した武内宿禰は「東のひなに(エミシが住む)日高見国あり。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言し(書紀)、景行天皇の皇子・ヤマトタケル以降のヤマト東征がはじまった。
ヤマト王権が攻め取ろうとした「日高見国」の名を知ったあと、田村麻呂が築いた胆沢城の八幡宮が管轄する式内百社の名の中に、宮城県桃生郡の日高見神社を見つけました。
その名前からエミシの守護神だろうと勝手に思い込んで、敗者に共感する旅人の常として、是非とも訪ねたいと、訪問を渇望していました。
2013年1月、一日の都合をつけて、石巻市桃生町(ものうまち)太田字拾貫1 にある日高見神社を訪ねました。最寄り駅はJR気仙沼線の陸前豊里駅で、そこから旧北上川を渡って東南方へ約5kmです。
片道2時間足らずなので仙台から日帰りでした。東京からでも1泊圏です。
こうして今回、ヤマトに抗したエミシの「日高見国」の名を受け継ぐ日高見神社を訪れました・・・・・が、予想に反して北上川近くの「日高見神社」の祭神は天照皇大神にヤマトタケルが配祀されていました。さらに1060年ころに源義家が「日高見国・・・・撃ちて取るべし」と奏言した武内宿禰を併祀したので、すべての祭神がヤマトの神(アマツカミ)になっているとは思いもかけないことでした。
この辺りの件については「ヤマト北進(1)その系譜 多賀城荒脛巾神社」、この旅行記の album/10618499 に述べてあります。
写真の由緒書きによれば、日高見神社は北上川の水神を祀ったのが始まりだそうで、つまり当初は自然崇拝の素朴な信仰対象だったと思われますが、現在では素朴な信仰の片鱗は狛犬の横に立っている金精様の石棒だけでした。(写真は撮り忘れた)
元来、ここに祀られて古代のエミシの素朴な信仰をうけていた神々は、恐らく地主神・祖霊神だったのでしょうが、のちに合祀されたアマツカミが社殿の主となってしまったものと思われ、残念ながら日高見神社は、すでにエミシの神社ではありませんでした。
勝者によって歴史が書かれるのは致し方ないとしても、先住のエミシの国の名をいただく神社が、その社殿をアマツ神に略取されたとみられる現実を目の当たりにした今回の旅は、敗者に共感し、消えた国に泪する旅人にとっては深い敗北感をもたらす旅になってしまいました。
この裏にはヤマトが国界としていた鈴鹿関、不破関、愛発関をこえて「あずま」に進出し、ついで東北の古代国家(日高見国)に侵攻した歴史があるので、概観しておきます:
◆367年頃、仁徳帝が派遣した田道将軍はエミシの反撃をうけツガルで全滅している。
◆5世紀後半ころに編纂された中国の史書・宋書では倭王武(雄略天皇)が「東は毛人を征すること55カ国・・・・」との書を呈している。これはヤマトの東征を示していると思われる。
◆600年ころ阿倍比羅夫の日本海側遠征で東北地方に統一国家はなく、部族連合であったとされている。
◆637年には舒明帝が派遣した上毛野君片名軍がエミシに大敗した。これは北関東(群馬県)の毛野王権がヤマトの支配下に組み込まれ、大化改新直前にはヤマトの先兵として使われたことを示すと思う。
◆10世紀に編纂された旧唐書には「倭が日本という小国を併合してその号(日本)を名乗る」とあり、新羅本記では670年のこととされている。倭が東北地方にあった日本国を併合したと考えられている。
◆しかし、774年には海道エミシが蜂起し(38年戦争)780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい、多賀城を焼き払った。789年の巣伏の戦いではアテルイとモレがヤマトの大軍を破った(別旅行記)。
◆日本海側では、733年に秋田城に置いた国府が、804年には酒田の城輪柵まで退き、秋田城は878年に焼き討ちされ、939年にもエミシに襲われたなど、先住のエミシの抵抗はながく続いた。
このように、東北地方のエミシの古代国家は10世紀になっても秋田・青森・岩手から宮城の一部までを版図におさめていたが、部族連合の古代国家はヤマトの統一国家に対抗すべくもなかった。
(赤坂:「東北学」では、西(ヤマト)の「米の文化」と、東(エミシ)の「稗の文化」と括っている)
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豊里駅に到着する前に車窓から撮った写真ですが 「土地肥えてひろし撃ちて取るべし」と武内宿禰が描写したのもうなづける。
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豊里駅は地元産の野菜などを売っているコンビニで ついでに切符も扱っている という感じ。
ここでタクシーを利用しました。 -
豊里にはいろいろな祭りがあるらしい。
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豊里駅からすぐに 旧北上川をわたる豊里大橋がある。
昔は北上川は石巻市に流れていたが 流路が変えられて直接太平洋に注ぐようになった。
石巻市に流れる川は「旧北上川」と呼ばれている。 -
橋の上から上流を眺めた。
土地肥えて広し である。 -
式内社:日高見神社。ステンレスパイプを3本使った立派な標柱が立っている。
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由緒書きでは 貞観元年(859年)の三代実録に「陸奥国日高見水神に従四位下を授ける」と書いてあるので 北上川の河神だったと考えられている。
つまり、9世紀半ばまでは自然崇拝の信仰がここの神様だったということらしい。
また源義家が武内宿禰を併祀したことなど 書いてある。 -
参道は雪が積もっており ふみ跡も無かった。
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この狛犬の手前にある石台に金精様が立てられていたが写真を撮るのを忘れて通り過ぎてしまった。
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源義家がエミシから身をかくして「敵の追撃を逃れた」というケヤキの巨樹の洞。
多賀城でも同様だったが 宮城県では自分たちの先祖でもあるエミシを「敵」とか「賊」と扱っていることが多い。
岩手県で見た説明標示ではヤマトを侵入者として扱っている。 -
ここには 源義家が身を隠して「敵」の追撃を逃れた と書いてある。
なお 宮司の大和昭彦氏が「一本の樹となりてあれ幸せは春の大地を濡らし行くゆく雨」 と詠んで平成16年の歌会初めに選ばれたのはこの欅を詠んだものだという。 -
木立の中で解けずに残っている雪を踏んで日高見神社の参道を行く。
左は社務所。庭木はよく手入れされている。 -
宮司の歌が刻まれた碑が社殿の近くに建てられていた。
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拝殿。宮司さんによれば社殿は昭和26年に前面改築したが 2年前に拝殿の屋根を改修しようとしたら壁も修理することになり 結局大修理になってしまった とのこと。
由緒書きには 1511年に兵火で焼失し、1704年から1710年に再建。昭和45年に神明造で改築 とあった。どうでも良いことかもしれないけれど。 -
拝殿の掲額。
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本殿。 宮司さんに伺ったところ、昭和26年(1951年)に改築したとのこと。
おそらくその時に皇大神宮とおなじ神明造になったのかもしれない。
あまり公開されないことかもしれないが「ご神体は銅鏡」 だそうです。
東北地方の小さい神社では「丸い石」がご神体のことが ままあります。
近くの前谷地の石神社は巨石信仰の神社です。 -
本殿です。
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拝殿の左右に小さな神社があります。
向かって右は「五十鈴神社」で伊勢参りの土産を預かって祀ったそうです。
左側にあるこの神社は「火産神(ホムスビノカミ)」を祀ってあるけれど神社の名前はないそうです。別名ヒノカグツチノカミ。イザナミの女陰を焼いて生まれたといわれる破壊と創造の神様らしい。
以上大和宮司さんから伺いました。 -
八幡神社の石碑がたっていましたが これについては質問するのを忘れました。
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右奥の家が大和宮司の家です。宮司は もとは教師だそうで、書を良くし、和歌では歌会始めに選ばれるなど「地元では有名人です」とタクシードライバーが説明してくれました。
実直素朴という感じの親切な方です。 -
JR 気仙沼線の陸前豊里駅です。
気仙沼線は震災の被害でこの二つ先の柳津までしか行けません。
その先はバスで結んでいるようです。
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