2013/01/27 - 2013/01/29
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ANZdrifterさん
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芭蕉は1689年に奥の細道の旅に出た。千住を出発した芭蕉は3日間で約90km歩いて鹿沼、以後は黒羽根14泊、須賀川7泊など連泊もあったが、金沢までの平均は4日歩いて5日逗留というペースであった。仙台到着の前日は白石泊、当日は武隈の松を見て、日没で藤中将(藤原)実方の墓所は遠望しただけで通り過ぎた。
今回、仙台で半日あいたのでJRで10分ほどの宮城県名取市を訪れて、芭蕉が立ち寄れなかった藤中将実方の墓とその近くを歩いた。 墓はJR東北本線名取駅の西約 3kmにある。 その南約1kmには門前を馬上のまま通り過ぎて祟りを受けたという道祖神社があり、猿田彦とアメノウズメノ命夫婦を祀っている。地元では道祖神社が通称だが正式には明治7年に古称の佐倍乃(さえの)神社に改称している。
正一位道祖神社と書いてあったが、当日は地区の集会でごった返していて神職が誰かも分からず質問はできなかった。
光源氏のモデルのひとりとされ、清少納言の恋人ともいわれた藤原実方( ?〜999年)は、歌にすぐれ、美貌の風流人として聞こえた人で、百人一首に 「かくとだに えやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」が採録されている。
しかし、995年に殿中での藤原行成とのいさかいが原因で、正四位下の位を賜り「歌枕みてまいれ」と陸奥の守に左遷され、9月に赴任した。当時、都では若い時の仲間だった藤原道長が「望月のかけたることなき」栄華を極めていたが、陸奥に左遷された実方は、その地に土着していた清和天皇の曾孫、源重之を伴って風雅をもとめて歌枕を訪ね歩いていた。
また、実方の才を惜しむ花山天皇からは歌を送られてもいる。
ある日巡回の途次、笠島(現在は宮城県名取市愛島(めでしま)笠島)の道祖神社を馬上のまま無視して通り過ぎて祟りを受け、倒れた馬の下敷きとなって非業の死を遂げたという。
馬上のままで道祖神社を通り過ぎたのは、そこの神が京の道祖神の娘で、親に勘当されて陸奥に追放された神だと聞いて、「下品(げほん)の神にや われ下馬におよばず」としてうち過ぎたとか、あるいは、その神社に祈る時には男根の形の彫り物(金精様)をささげると聞いて、貴種の風流人が頭を下げるのを嫌ったとか、の説が伝えられている。
笠島道祖神社の本殿は1700年に伊達綱村が建立、1791年に八代斉村の寄進で修造されている。ご祭神は、伊勢地方の地主神? でアマツカミの道案内をした猿田彦と、アマツカミのアメノウズメ命の夫妻神で旅の安全、夫婦和合の神であり、金精様をささげるのもうなづける。
辺境で客死した才人の貴公子に同情してか、のちには賀茂川の橋の下に亡霊が出るとか、雀に転生して殿上の食物をついばんだ、などの怨霊譚がのこったが、当の墓地は写真のように極めて質素であった。
なお、墳丘傍らの西行の歌碑を揮毫した久我侯爵は、女優の久我美子の曽祖父である。
本稿で参照した目崎著「漂泊―日本思想史の底流―」では、実方中将が不遇のなかでも歌枕を訪ね歩いた生は、やがて能因(988〜1050)の反俗・漂泊の精神の先触れとなったと評され、200年ほどあとに陸奥に旅した西行(1118〜1190)の山家集には、実方中将の墓を見て詠んだ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る」がある。さらに500年ほどあとの「奥の細道」にも、「藤中将実方の墓はいずくのほどならんと、人に問えば・・・・」につづけて「笠島はいずこ皐月のぬかり道」があるなど、実方中将の生と漂泊の波紋が後世まで残ったとされている。
明治26年には正岡子規が武隈の松に行かず「実方中将の墓所ばかりは弔はで止みなんも本意なければ・・・・」と、この地を訪れて「竹藪の中に柵もて廻らしたる一坪ばかりの地あれど石碑の残欠だに見えず」と述べ、「旅衣ひとえに我を護りたまえ」と詠んでいる(はて知らずの記)。
西行や芭蕉がとぶらったのは、能因の精神の先触れとなった藤中将実方の漂泊の生であった。
なお、横浜市戸塚区にも実方塚があり、同地の実方姓の祖とされているという。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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表紙の写真のところで39号線から農道に入ると すぐにこんな案内が出てくる。
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観光客の便をはかって こんな立派な橋が用水路に架けられている。
これを渡って直進する。 -
すぐにススキの株が出てくる。「かたみのすすき」と書いてあるが、
言うまでも無く西行法師の「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る」 を踏んでつくられた植え込みである。 -
名取市長の碑:芭蕉が立ち寄れなかった無念をのべている。
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道はこのような田舎道。愛想もない道だが寂寥感は十分。
突き当たりに中将藤原実方の墓地がある。 -
木の柵にかこまれて小さく盛り上がった墳丘。998年に落馬して999年に亡くなった中将実方だが、没後約700年の 1696年に訪れた天野桃隣は「五輪塔折れ崩れて名のみばかり・・・・・・・」と書いた。
今は、その五輪塔さえ痕跡も無く少し盛り上げた土の墳丘に切り紙を挟んだ篠竹が一本立てられているだけ。 -
清少納言の恋人と言われ、光源氏のモデルの一人とも言われた貴種の才人の跡を見て「無慚やな・・・・」と思うか 「残っているだけすごい」と思うか・・・・
複雑な感傷をだいて しばらく佇んでいました。 -
塚の左に建っている西行の「朽ちもせぬその名ばかりを・・・・・・」の歌碑です。
揮毫は 侯爵従一位久我(こが)通久です。公家であったが軍人として活躍、明治維新時に東北諸藩が江戸に攻め上るのを抑えるため仙台に駐留した。
曾孫に女優の久我美子がいる。家名を重んじて芸名は「くが」と読ませた。 -
塚の右には自然石に刻んだ 藤中将・・・・・・ の碑がある。
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高いところから眺めてみた。
説明板の右の白木のポストは和歌の投稿用紙と投稿受け入れ。 -
塚の横の細い山道を登る。
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突き当たりに 式内社の佐具叡(さぐえ)神社の磐境地(いわさか)がある。
当の 佐具叡神社は明治期に次に紹介する道祖神社に合祀されたので、ここには何もない。 -
「佐具叡神社磐境地」の標柱
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39号線にある佐倍乃(さえの)神社入り口の道標。
地元では道祖神社のほうが通りが良いが、正式には明治7年に古称の「佐倍乃神社」に改称している。 -
ここでも「正一位道祖神」である。
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入り口にある由緒書き。
ここだったかと思うが「中将実方が赴任の時に馬上で通り過ぎて祟りを受けて亡くなった」と書いてあった。 しかし実方は源重之とともに歌枕を訪ね歩いているので、赴任の時に祟りを受けたというのは正確ではない。 -
古い感じの狛犬。
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道祖神社の拝殿。
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とくに特徴もない注連縄。
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本殿。彫刻が見事だった。
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よく写真にとられている龍。
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実方の塚と 道祖神社の中間に「塩薬師」がありました。
説明も由緒書きもないので詳細不明。 -
石段の上に塩薬師の堂があったが、雪の上には足跡もありませんでした。
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JR、東北本線名取駅です。次が南仙台です。
仙台から仙台空港に行く線か、東北本線の上りで10分から13分くらいです。
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