2011/03/03 - 2011/03/03
393位(同エリア908件中)
とむさん
偕楽園で見頃の梅を楽しみ、昼食は偕楽園から3〜40分で行ける那珂湊漁港へ。
なんと!その8日後に未曾有の大災害が発生し、両地域とも多大の被害を被り観光客も激減したという。
私の拙い写真と記事をご覧になり1人でも多くのかたが当地を訪れて下さる事を願ってやみません。
偕楽園・その2【好文亭】です。
説明文は観光案内の公式サイトから引用しています。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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偕楽園の一角に位置する好文亭は二層三階の好文亭と北側の奥御殿からなり、一般に全体を総称して好文亭と呼んでいます。
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昭和20年の水戸空襲により焼失しましたが、昭和30年から3年かけて復元されたものです。
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美しい「こけら葺き屋根」
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好文亭三階の楽寿楼(らくじゅろう)からの千波湖や田鶴鳴梅林の四季折々の眺望は見事です。
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菊の間と桃の間は、いずれも総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された。
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桃の間
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つつじの間、桜の間、萩の間は、藩主婦人来亭の際など、お付きの婦人た ちの詰め所、休憩室として使用された。
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松の間は奥対面所で、紅葉の間は、次の間である。
藩主婦人や、高貴の方々の座所で、紅葉の間との間には入側をもって隔ててある。 -
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竹の間、梅の間、清の間(せいのま)の三室の一棟は、明治二年に水戸市柵町にあった中御殿の一部材料を運び奥殿に増築したもの。
屋根は柿葺(こけらぶき)である。
斉昭公夫人の貞芳院が明治2年から6年まで「梅の間」を中心に住まわれた。(その後は東京に移られた。)
自来この梅の間は、亭中最貴の室とされている。 -
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奥御殿とを結ぶ連絡路。好文亭の通路はとても狭く作られている。
これは武器を持った敵が乱入した際、その動きを制限するねらいがあったとされている。
廊下の左側に篠で作った格子窓があります。外からは窓であることが判らないように工夫されている。 -
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華燈口
奥殿から茶室へ通る2畳の小室。中に小坊主が控えていて、奥と茶の席との連絡にあたった。 -
杉戸には古今集の和歌が華麗な色紙・短冊に書かれてありましたが火災により損傷した。原画は藩医小松玄甫、復元は東京芸術大学の先生があたった。
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斉昭公が藩内の家臣、庶民の老人を招いて慰労の催しをされた総板縁の室。
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藩主が来亭して、この室にいるときは、何かと用務もなさっていた。部屋には床の間を設けず、竹の柱だけを下げ、極めて簡素に作られており、竹のアジロ網の中に紗を張った網代戸をとおして左右の間が見えるようにしてある。
東塗縁で敬老会等がある時は、障子を開けて、直接招いた老人たちと閲見したり、また、西塗縁で集会の人々や、文墨の人々を入側に呼び入れて語ることも多かったようである -
茶室「何陋庵(かろうあん)」は、亭の西北に位置しています。
茶室特有のニジリ口は無く、普通の2枚の障子戸で左右どちらからでも入れるようになっており、貴人口とも呼ばれる。 古田織部が工夫した織部口である。
床柱は、島津斉彬から贈られたつつじの巨木。 -
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三階を特に「楽寿楼(らくじゅろう)」と呼んでいる。この八畳間の正室からの眺めは格別である。
床柱は、島津藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)から贈られたサツマ竹が用いられた。
このサツマ竹床柱の節は、漢字「武士」の画数にちなんで11個ある。
正室の後側には、お茶坊主の控え室がある。配膳用のエレベータも見逃せない。
(3階からみたエレベータの通路、いざというときには緊急避難路にもなる。)この配膳用エレベータは斉昭公の創意によるものと伝えられている。 -
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