2012/07/20 - 2012/07/20
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ももんがあまんさん
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本日は、「オロロン川」沿いを、オロロン・サント・マリーの町へ向かいます、歩き方に出ていた、たった一枚の写真だけに惹かれて、この町に来ることにしました、他には何も知らなかったのですけど、フランスですから、そこはそれ、探せば、面白いものも、いろいろあります。
勿論、この町は、昨日泊まった「ソウヴテール・ド・ベアール」の町と同じで、「サン・ジャックの巡礼路」にあたる町、此処からスペインへ抜ける「トゥールーズの道」と呼ばれる巡礼路における、重要な町なのだそうです。
写真は、そんな巡礼たちの多くが、多分訪れたであろう、かなりに由緒ある教会「サント・マリー大聖堂」の、正面入り口・・・いったい、これは何?の、奇妙奇天烈な「ロマネスク」彫刻(12世紀初頭)です、とってもよく保存されていて、彩色の様までか、薄っすらと残っています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 自転車
- 航空会社
- 中国南方航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
7月20日(金) D 936号線 アキテーヌ
今日はまず、Oloron Ste Marie へ向かいます。
牛の居る風景は、フランスの田舎の、典型的風景です。 -
D 936号線 交通事故
ハリネズミです、フランスの道路には、一番たくさん転がっている動物。
小さな生き物なので、踏みつぶされて、原形も定かでないのが多いですけど、ヨーロッパから、広く、ユーラシア大陸全体に生息している動物なのだとか、因みに、どんな生き物なのか、原形を保ってるのを↓に、紹介しておきます。
http://4travel.jp/traveler/momongaaman/pict/24631661/ -
D 936号線 Oloron Ste Marie
オロロン・サント・マリーの墓地です、フランス特有の、家型の墓が有ります、公共墓地のようです。
今日は、天気が悪い。 -
D 936号線 オロロン・サント・マリー
川沿いの町です。
オロロン・サント・マリーの町なかには「アスピ川」(Gave d`Aspe)と言うのが流れていて、町を出たところで、「オッソゥ川」(Gave d`Ossau)と合流して、「オロロン川」(Gave de Oloron)となります。 -
オロロン・サント・マリー Cathedrale Ste Marie
オロロン・サント・マリーは、元々は「オロロン」と「サント・マリー」と言う、別の町だったのだとか、ナポレオン三世の命令で、合併したのが1858年だという事です。
此処は、「サント・マリー大聖堂」が有るので、当然、元サント・マリー側ですね。
因みに、この教会は、1108年に建て始められた、ロマネスク教会ですけれど、13世紀には、司教座教会になったという、由緒と格式のある教会だそうです。 -
オロロン・サント・マリー
とまれ、ちょっとお休み。
雨が降って涼しいので、本日は「カフェオレ」。 -
オロロン・サント・マリー サント・マリー大聖堂
一応ロマネスク教会となってますけど、一部は、ゴシックのような感じも有ります。 -
サント・マリー大聖堂
さて、ひと休みしてから、カテドラルへ、入り口の彫刻群が目を引きます。
入り口の上が「鐘楼」になっていて、丁度アーケードのように、雨と風による磨滅を防いでます、見事な彫刻が残っているのは、そのおかげですね。 -
イチオシ
サント・マリー大聖堂
入り口の両サイドにある「柱頭彫刻」、ロマネスクの、アートですね「アート」。
誰か知りませんけど、裸で、寒そう・・・ -
サント・マリー大聖堂
中央の柱を支えている人です。
実は、スペインを支配していた、イスラム系のモーロ人(ムーア人)なのだとか。
一種の、意趣返しですね、ガキっぽいと言えば、ガキっぽいけれど、中世そのものが、人類の歴史から言えば、まだまだ、幼子のレベルでしょうし、こういうことも、マア、肯けるところ。 -
サント・マリー大聖堂
中央上部のアーチ部分です、彩色が今も残っています。
中央の羊は、多分「キリスト」の表象、初期ロマネスクでは、キリストを「羊」や「魚」で表すことも多かったとか。
その左右は、王冠を頂いた「聖人」たちの群れ? それぞれに、楽器らしきものをもって、天上のメロディーを奏でている様子、一説によればこれは、最後の審判の後の、天上の宴会なのだとか? 下段には、巨大な魚(鮭)を担いでる人や、酒樽らしきものを持っている人などイロイロ、こちらは多分、天上の料理人か? 真ん中の、獅子頭の意味は何? -
イチオシ
サント・マリー大聖堂
アーチの、向かって左側面です、お獅子に、飲み込まれているのは、モーロ人(ムーア人)なのだとか。
その二つ上は、交通事故で死んでた「ハリネズミ」でしょうか? それとも「イノシシ」?
音楽隊、中央の人は、頭が傾いてて、いかにも「ノリノリ」の風情。 -
サント・マリー大聖堂
正面アーチ右側、頭が無くなっているけど、騎馬像は、コンスタンティヌス大帝なのだとか、キリスト教を公認した、最初の、ローマ皇帝ですね、素朴な多神教世界であるとともに、神様を上手に利用した、現実的で合理的なローマを、神がかりの宗教国家の、中世へと、道を付けた人ですね、これが、正しい選択だったかどうかは、なかなか難しい判断です。
西ローマは、彼の後は、急速に衰え、わずか百年後に滅亡するわけで、この点で言えば、キリスト教は疫病神だったのかも知れないけれど、東の方は、じわじわと衰亡し続けたにせよ、こののち1,100年存在し続けたのだから、その点で言えば、マア、正しい選択だったと、言えなくもない、けれど、ギリシャに花開いた、科学や哲学の衰亡は、言うに及ばず、建築においても芸術においても、その遺産を食い尽くすのみで、何ら、新しいもの、優れた文化を生み出しえなかったと言う、そのことは、イスラムやヒンズー、あるいは儒教などの、多くの宗教国家と同質で、宗教国家の限界と言うものが明らかな、そんな国家の一つに過ぎなかったとも見える、だとすれば、1,000年続いたことに、どれほどの意味が有るのか?、失礼ながら、その後継者の、現在のギリシャ、あるいはトルコの、国民の民度、その苦難を見れば、その評価は、決して高くは出来ない (日本人の民度も、50歩100歩の、似たり寄ったりだとは思いますけれど・・・)、むしろ、長期に渡って、その精神に染み込んだ「宗教国家」の後遺症に苦しんでいると、僕には、そんな姿さえ見て取れる気がするのです。 -
サント・マリー大聖堂
アーチの両サイド上部(左右に)に、人が二人? こちらは、右側です。
仁王さんではないと思うけど・・・誰? -
サント・マリー大聖堂
う〜ん、この生き物は、何でしよう?
でもまあ、カソリックは、上手くゲルマンやケルトに譲歩して「偶像崇拝」OKの分だけ、アーチストが腕を発揮する余地は、イスラムなどよりずっと有利に存在したのだと、こうした彫刻を見ながら考えます、こうした要素が、いわば、十字軍時代を経て、古代ギリシャ・ローマと出会ったことが、ルネサンスの大爆発をもたらしたと、そんな気もするのですね。 -
サント・マリー大聖堂
正面入り口のタンバンです。
絵柄は多分、「キリストの降架」、両サイドは、2頭の獅子を従えた、聖人か誰か? 確か以前にも、よく目にした絵柄ですけど、そのことの意味までは、解りません。 -
サント・マリー大聖堂
中央の「身廊」。
正面突き当りの「後陣」は、ゴシックにより再建されたのだとか。 -
サント・マリー大聖堂
祭壇前の天井だったと思います、此処も、ゴシックかも?
ぶら下がってるのは、多分「香炉」。 -
サント・マリー大聖堂
彩色された、教会の柱です。
なかなか美しく、目を引くアートです。 -
サント・マリー大聖堂
聖母マリアを祭った教会は、フランスでは「ノートルダム」と言うのが一般的だと思っていたので、この教会の「マリー」は、誰のことかと思ったのですけど、どうやらやっぱり「聖母マリア」のことらしい・・・マグダラのマリアは、フランスでは「マドレーヌ」でヴェズレーの「サント・マドレーヌ教会」が有名ですけど、どうも、この教会のマリーは違うようです・・・でも、プロヴァンスの、サント・マリー・ド・ラ・メールのマリーは、確か、マグダラのマリアのことだったと思うのですけれど・・・?
因みに、ちょっとなまめかしい、この女性ですけど、これも「聖母マリア」なのだとか・・・ちょっと、イメージが違います、最初見たときは、マグダラのマリアかと思ったのですけど? マア、いずれにしても、それほど古いものでは無いと思います。
追記、コクリコさんから、「サント・マリー・ド・ラ・メール」の「マリー」は「Maries」と複数なのだと「お知らせ」が有りました、どうやら、マグダラのマリアを入れて、「マリア」が三人、船でこの地に、逃れてきたのだとか。 -
サント・マリー大聖堂
ピエタも有ります。
これも、ロマネスクでは無い、明らかに後年の作ですけれど。 -
オロロン・サント・マリー
次は、オロロン川を渡って、オロロンの町へ行きます、目標は、丘の上の「サント・クロワ教会」、「Office de Tourism」のお姉さんの言うには、「ピレネーの山並みが、とてもよく見える」のだとか、でも、「今日は、天気がね?」とも言ってましたので・・・どうなりますことやら? -
オロロン・サント・マリー
オロロンの街並みです、地味ですけど、ちょっと雰囲気の良い、レストラン街ですね。 -
オロロン・サント・マリー
丘の上からの、「オロロン・サントマリー」の眺めです。 -
オロロン・サント・マリー
ピレネーの山並みは、やはり、雲が厚くて、見えません。
歩き方のガイドブックには、此処から、スペインのカンフランまでバスに乗れば、ピレネーの山並みが迫ってくると書いてたけど・・・まあ、僕の旅は、山が目的では無いし、バスや電車は、出来るだけ使わないことにしてるので「Pass」です、自転車で行くと、草臥れそうだし・・・。 -
オロロン・サント・マリー Eglise Ste Croix
こちらが「サン・クロワ(聖十字)教会」、11世紀末に建設された教会とかで、「サント・マリー大聖堂」よりも、少し古い、「純・ロマネスク教会」のようです、丘の上に建ってます、前に立ってるのが誰かは、解りませんけど?
建物としては、かなりシンプル、この地が「イングランド領」になる以前の教会なので、この「クロワ」の意味は、多分、イエスの「十字架」ですね。 -
オロロン・サント・マリー Eglise Ste Croix
「サント・マリー大聖堂」も暗かったけど、こちらも、相当に暗いです、この暗さは、まぎれもなく、ロマネスクですね、暗すぎて良く見えないし、柱頭彫刻も、殆どよく解らずです。 -
イチオシ
オロロン・サント・マリー
またアスピ川へ戻って、川沿いの風景を撮ります。
歩き方に乗っていたのは、この辺りの写真ですね。
とても静かで、穏やかな風景です。 -
オロロン・サント・マリー
同じく、川辺の風景です。 -
オロロン・サント・マリー
こちらは、前面に、花を配しての「アスピ川」。 -
オロロン・サント・マリー
同じく、橋の上からの、川沿いの街並みです。
町の印象 ★★★★ 期待通り、鄙びた印象の静かな町です、オフィス・ド・ツーリズムもとても親切、やっぱり田舎ですね、あっちもこっちも、高低差が有って、ちょっと草臥れますけど。 -
D 24号線 Goes アキテーヌ
次は「ポー」の町へ向かいます、雨が降りそうな空模様で、時々はショボつきますけど、まあ何とか、本降りまでにはならず、と言う感じです。
写真は、途中の村の教会。 -
D 24号線
ピレネーの、麓の風景ですね。 -
イチオシ
D 24号線
ブドウ畑と田舎の風景です。
-
D 24号線 Lasseube
ロマネスクっぽい教会のある、村の風景。 -
N 134号線
丘のある風景ですね、どうと言うことも無いかと思いますけど、北とは違う、南フランスの風景です。 -
N 134号線 Gelos ジェロ
「ポー」の町の、すぐ近くの町です。
美しい「Hotel de Ville」が有ったので一枚。 -
N 134号線 Pau ポー アキテーヌ
ジェロの町からの、「ポー」の眺めです。
「ポー」は、丘の上の町ですね。 -
ポー Gave de Pau ポー川
「Gave」とは、(ピレネー地方の)「急流・激流」の事だとか、直訳すると、「ポーの急流」という事になります・・・まあこれが、フランスの「急流」なのですね。 -
ポー Gave de Pau
同じく、「ポー川」を挟んでの、ポーの町です。 -
ポー
ポーの街並みです。
丘の上にシャトウが有って、周辺がやや低地になってます、中世の城塞スタイルです。 -
ポー 城壁
ポー川沿いの「城壁」です。
この城壁の上に、「ピレネー大道り」と言うのが有ります。 -
ポー
丘の上に登っての一枚。
わりと大きな町なので、何処からが旧市街なのか新市街なのかは、境目は、まるで解りません。
元々の、ポーの起源は、あまり明らかではないらしいけど、オック語の「Pol」と言う言葉が「ポー」の語源なのだとか、元々は「砦」であった処に、城を築いたのが(1,464年)、フォア泊ガストン3世、その後、ナバーラ王家の所領になったのだとか(以上Wikiによる)。 -
ポー 旧市街?
多分、旧市街だと思うのですけど、さっき書いたように、境目はよく解りません。
観光トレインが走ってます、町が大きいので、乗りごたえが有るかも?
-
ポー 旧市街?
教会の名前は、忘れてしまいました。 -
ボー Place Clemanceau
「クレマンソー広場」です、このあたりは、この町で一番明るく、広々としたところです、わりと新しい建物も多い。
名前を取った「ジョルジュ・クレマンソー」とは、19世紀後半がら、20世紀前半にかけて活躍した政治家でジャーナリスト、第一次世界大戦時の首相で、フランスに勝利をもたらした一人ですけれど、パリ講和会議では、ドイツに対する強硬な賠償金を要求し、第二次大戦の遠因を作った政治家の一人。
西園寺公望のパリ留学時代の友人でもあり、日本の茶器などの愛好家でもあったとか(Wikiに依る)。 -
ポー Boulevard des Pyrenees
「ピレネー大道り」です、ナポレオン一世によって作られたプロムナードなんだとか。 -
ポー Boulevard des Pyrenees
ピレネーの山並みが素晴らしいそうなんですけど・・・山脈は何処?・・・森が見えるだけです。
オロロンの町を経て、ポーまで来たのは、本日の予定どおりですけれど、この空模様は、予定通りじゃ無いですね、でも、シャアない・・・。
デカい建物は、鉄道駅です。 -
ポー Boulevard des Pyreness 慰霊碑
「ピレネー大通り」の脇にある慰霊碑です、女性像は多分「マリアンヌ」。 -
ポー Chateau
「シャトー・ド・ポー」です、アンリ四世(1553〜1610)が生まれたと言われるお城、母は、フランソワ一世の姪でナバーラ女王の、ジャンヌ・ダルブレ。
アンリ四世は、ブルボン朝(1589〜1610)の始祖であり、王になると共に「ナントの勅令」を発布して、カソリックvsプロテスタントの融和に努めた王、フランスでは今も、フランソワ一世と並んで、もっとも人気のある王様・・・1610年、狂信的カソリック教徒により暗殺されたのだとか。 -
ポー シャトウ
三角屋根の、メルヘンチックなお城ですけど、それ程古いものでは無い感じ。
フォワ伯の築いた、最初の城が1464年とすれば、百年戦争が終わって約十年、ヴァロワ朝ルイ11世の時代と言う事になります。 -
ポー シヤトウ
ナバーラ王国は、王国と言えども、田舎だとは思います、けれど、その割にはマア、立派なお城ではあります。
でも、この建物が、ナバーラ王国の時代のものかどうかは、何とも? -
ポー シャトウ
シャトウの入り口です。
壁の色はミルク色で、屋根の色などは、ロワール川沿いの、ヴァロワ朝時代の城に似てる感じですね、赤茶けた色の多い、民家の屋根とは、だいぶ違います、王侯色ですかね? -
イチオシ
ポー
シャトウの入り口から見た、ポーの街並みです。
高低差が有って、景観的には、恵まれている町なのですけれど・・・この建物と町並みは、まあまあかな? -
ボー 旧市街?
シヤトウの前の、通りにあるレストラン街です。 -
ポー 旧市街?
レストラン街は、少しずつ、賑やかになってきました。 -
ポー 旧市街?
も一つおまけに、多分、旧市街の風景。
このあたりは、シャトゥの近くの街並みですけれど、歴史的な街並みとしては、このあたりが一番、雰囲気の良い処でしょうか? -
ポー 今宵の宿
「Office de Tourism」で紹介して頂いた「安ホテル」です。
ホテルの評価 ★★★★ 「Hotel Montilleul」41.69ユーロ、値段の割には良いホテル。 -
イチオシ
ポー
丘の下の下町と言う風情の通りです、このあたりはソコソコ良い感じ。
町の印象 ★★★ ポーの町は、大きいだけに、一部、ボロでさびれた雰囲気の地域も多い感じです、オロロンの町と同じで高低差が有って、自転車にとっては疲れる町です、マア、建物自体が、もう少し良ければと言う感じは有ります、良い街並みを探すのがちと苦労、同じアキテーヌの町としては、ボルドーの方がずっと美しいですね。
本日の走行距離 71km/累計1,342km
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この旅行記へのコメント (6)
-
- コクリコさん 2012/12/14 21:52:13
- サント・マリー・ド・ラ・メール
- こんばんは〜
オロロン・サント・マリーお待ちしていました!
でも今夜はちょっと酔っているので明日あらためてじっくり面白い彫刻たちを見させていただきます。
サント・マリー・ド・ラ・メールですが、ここもポーも20年ほど前に行きました。
サント・マリー・ド・ラ・メールのマリーは「Saints-Maries」なので複数なのですよ。
マグダラのマリアとマリア・サロメとマリア・ヤコベ(聖ヨハネと大ヤコブの母)の三人のマリアがイスラエルから舟に乗って現在のサント・マリー・ド・ラ・メールに逃れてきたとか。
この舟にラザロも乗っていたらしいです。
マグダラのマリアは聖ラザロの妹だったという説もあるから面白いですよね。
この時召使のサラという黒い肌の女性が従っていて、サラがロマの守護聖人としてサント・マリー・ド・ラ・メールの教会に祭られていました。
年に一度のお祭りの時、ヨーロッパ中のロマが集まるそうですね。
サント・マリー・ド・ラ・メールに残ったのはマリア・サロメとマリア・ヤコベとサラだったかな?
でもマリア・サロメ、マリア・ヤコベは聖女なのかどうかは知りません。
あやふやですみません。
- ももんがあまんさん からの返信 2012/12/15 21:33:49
- RE: サント・マリー・ド・ラ・メール
- コクリコさん、こんばんは〜
> サント・マリー・ド・ラ・メールですが、ここもポーも20年ほど前に行きました。
> サント・マリー・ド・ラ・メールのマリーは「Saints-Maries」なので複数なのですよ。
> マグダラのマリアとマリア・サロメとマリア・ヤコベ(聖ヨハネと大ヤコ
> ブの母)の三人のマリアがイスラエルから舟に乗って現在のサント・マリ
> ー・ド・ラ・メールに逃れてきたとか。
な〜るほど、沢山の「マリア」が居たんですね、「マリア」さん大杉、昔の日本で言えば「お花」さん?
> この時召使のサラという黒い肌の女性が従っていて、サラがロマの守護
> 聖人としてサント・マリー・ド・ラ・メールの教会に祭られていました。
> 年に一度のお祭りの時、ヨーロッパ中のロマが集まるそうですね。
ロマの宗教って、何か特別なものかと思ってましたけど、わりとみんな、郷に入れば郷に従えで、適応してるのですね・・・それにしては、みんな冷たい、同じキリスト教徒だというのに。
「ベイナック・エ・カズカック」は、「サルラ」の南 10kmほどの、ドルドーニュ川沿いにある「美しい村」です、行きませんでした? ちょっと前、Wizさんに教えてもらった「フランス人の好きな美しい村」にも、確か上位にありました、まだだいぶ先ですけど、いずれご紹介しますね。
by ももんがあまん
- コクリコさん からの返信 2012/12/16 15:33:56
- RE: RE: サント・マリー・ド・ラ・メール
-
> ロマの宗教って、何か特別なものかと思ってましたけど、わりとみんな、郷に入れば郷に従えで、適応してるのですね・・・それにしては、みんな冷たい、同じキリスト教徒だというのに。
先日公民館でチェコの女性の小さな講演会のようなものがあり(日本人と結婚していて日本語がとても上手。日本の古い文化に関する知識は日本人以上)、ほとんどはプラハの名所についてでしたが、最後の質問でジプシーの質問がでました(フランスの知人は今はジダンではなくロマだと言っていましたが、質問した日本人はジプシーと言っていました)。
共産国家のチェコスロバキアの時はロマに手厚い保護をしていたけれど自由主義国家になってからはロマに厳しい政策になったので、どんどんチェコから棲みやすい国に出て行っているんですって。。。スリの多い都市あたりに、なんていうと偏見があるかもしれないけれど。
その女性の近所に共産主義の時代にロマのために素晴らしいマンションを建てたそうなのですが、たちまちロマたちはそのマンションを汚くし、部屋で馬まで飼ったりしていたとか。
実際生活習慣が違いすぎるからロマ問題は大変らしいですよ。
彼女も言葉を選んでいたけれど、困った存在だと思っているように見えました。
各国頭をかかえているそうです。
定住を嫌うからロマの国も作れないしね。
> 「ベイナック・エ・カズカック」は、「サルラ」の南 10kmほどの、ドルドーニュ川沿いにある「美しい村」です、行きませんでした? ちょっと前、Wizさんに教えてもらった「フランス人の好きな美しい村」にも、確か上位にありました、まだだいぶ先ですけど、いずれご紹介しますね。
そうでしたか! あまりに多くて覚えられないです。
上位になると観光客がどっと押し寄せると書いてありましたよね。
オロロン・サント・マリーの旅行記読みました。
とても詳しく書かれていて力作ですね!
聖書に縛られながらも湧き出てしまう個性的なロマネスクの彫刻群。
滑稽さと残酷さが入り混じった果てに凄くチャーミングになるのですね。
ポワティエよりも面白いかな〜?
オロロンという名前も良いですね。
オロロン川とかロット川という名前、童話に出てきてもおかしくないような夢のある名前ですねぇ。
Gave de Pauは今回行ったルルドにも流れていました。
聖域を流れていたガーブ・ドゥ・ポーはちょっと渓流っぽくて清らかでしたよ。
ピレネーから湧き出る水はとても美味しかったです!
- ももんがあまんさん からの返信 2012/12/16 20:48:05
- RE: RE: RE: サント・マリー・ド・ラ・メール
- こんばんは〜 コクリコさん。
> 共産国家のチェコスロバキアの時はロマに手厚い保護をしていたけれど自由主義国家になってからはロマに厳しい政策になったので、どんどんチェコから棲みやすい国に出て行っているんですって。。。スリの多い都市あたりに、なんていうと偏見があるかもしれないけれど。
へ〜え、共産国家が、ロマに手厚い保護ですか、それは知りませんでした・・・けれど、そうした時代に、文化的に少しでも、融和出来ればよかったのでしようけど・・・いったい、何が障害になっているんでしょうかね?
> その女性の近所に共産主義の時代にロマのために素晴らしいマンションを建てたそうなのですが、たちまちロマたちはそのマンションを汚くし、部屋で馬まで飼ったりしていたとか。
> 実際生活習慣が違いすぎるからロマ問題は大変らしいですよ。
生活習慣と言うのは、一種の「文化」だと思うのですけれど、「文化」なんて、それほど大したものでは無いと思うんですけれどね・・・「文化」がそれほど根深いものなら、今でも、日本人は、ちょん髷をしていただろうし、日本刀を腰に差して、往来を闊歩していたでしょうしね、「男尊女卑」も文化だし「人種差別」も「奴隷制度」も文化だったのですよね、だから、ろくでも無いものは、自然となくなっていくだろうし、良きもの、合理的なものは残っていくのだと思うので・・・拘ることほど、空しいことは無いと、僕などは思うのですね。
> Gave de Pauは今回行ったルルドにも流れていました。
> 聖域を流れていたガーブ・ドゥ・ポーはちょっと渓流っぽくて清らかでしたよ。
> ピレネーから湧き出る水はとても美味しかったです!
ピレネーの川の水は、何処も綺麗なんですけどね、これが合流して、ガロンヌ川へとなると、濁り水になるのが、ホントね何故なのか、今でもわかりません。
by ももんがあまん
- コクリコさん からの返信 2012/12/16 22:36:49
- RE: RE: RE: RE: サント・マリー・ド・ラ・メール
- こんばんは〜
> へ〜え、共産国家が、ロマに手厚い保護ですか、それは知りませんでした・・・けれど、そうした時代に、文化的に少しでも、融和出来ればよかったのでしようけど・・・いったい、何が障害になっているんでしょうかね?
ももんがあまんさんがおっしゃるように「文化」なんて空しいものなのですよね。
ロマ人にとっては文化的で立派な家なんてありがたくもないし、学校に無料で行けても嬉しくもないし。彼らは自由が好きなのですから。
ナチスドイツはユダヤ人だけでなくロマも収容所に収容し絶滅させようとしましたよね。
ユダヤ人ほどでなくてもかなり殺されたのに、今ではユダヤ人は欧米の経済・マスコミを牛耳っているし、その国家はやりたい放題していますが、ロマ人たちは同じように絶滅させられそうになったのにあまり知られていないし、各国で片隅に追いやられていて迷惑顔されながら大人しく暮らしています。
団結して勢力を伸ばしたいとか「今にみていろ」ということとは違う世界の人たちなのでしょうね。平和的な人たちなのかもしれませんね。
開票速報見てたら気分が悪くなりましたので失礼します。
- ももんがあまんさん からの返信 2012/12/16 23:05:47
- RE: RE: RE: RE: RE: サント・マリー・ド・ラ・メール
- こんばんは〜 コクリコさん。
> ロマ人にとっては文化的で立派な家なんてありがたくもないし、学校に無料で行けても嬉しくもないし。彼らは自由が好きなのですから。
なるほど、僕も、学校が嫌いだったので、とてもよく解ります、特に、日本の義務教育は、人間の知性の敵だと思っているので、尚更です。
> ナチスドイツはユダヤ人だけでなくロマも収容所に収容し絶滅させようとしましたよね。
> ユダヤ人ほどでなくてもかなり殺されたのに、今ではユダヤ人は欧米の経済・マスコミを牛耳っているし、その国家はやりたい放題していますが、ロマ人たちは同じように絶滅させられそうになったのにあまり知られていないし、各国で片隅に追いやられていて迷惑顔されながら大人しく暮らしています。
> 団結して勢力を伸ばしたいとか「今にみていろ」ということとは違う世界の人たちなのでしょうね。平和的な人たちなのかもしれませんね。
そうですね、そういう見方も、確かに出来るかも知れないですね、これからは、教会の前に座っている、ロマのおばさんには、もう少し、優しくしたいと思います。
> 開票速報見てたら気分が悪くなりましたので失礼します。
全く、同感です・・・僕も頭痛がしてきました。
これが、日本人の民度なのですね、今夜は、悪夢を見るかも・・・
by ももんがあまん
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