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JR高崎線本庄駅下車北口幹線道路を北上、徒歩20分で市役所に隣接する場所がかつての本庄城(ほんじょうじょう、埼玉県本庄市本庄)で現在は城山稲荷神社となっています。<br /><br />本庄氏の遠祖は平安時代末期の武蔵七党の中で児玉党と呼ばれる武士団の庄家弘(しょういえひろ、生没不詳)を祖とする庄氏で、鎌倉時代には御家人として奉公を尽くします。<br /><br />庄氏は東本庄にある稲荷神社に館を構えて東本庄周辺に庶流を含め勢力を拡大、いつしか宗家が本庄氏(庄氏の本家という意味)と名乗ることとなります。<br /><br />本庄氏は天文年間初期では関東管領の山内上杉氏方となり天文15年(1546)川越合戦で小田原北条氏に敗戦した際一族の本庄藤三郎が討死をしています。<br /><br />天文21年(1552)主家山内上杉氏が小田原北条氏3代当主北条氏康(ほうじょう・うじやす)に大敗を喫し、上野国を経て越後に逃れる山内上杉氏の姿を見て本庄氏は小田原北条氏に従いますが、永禄4年(1561)の上杉謙信の小田原城攻撃時には謙信に与し、また同年武田信玄の西上野進攻には武田方に従い状況によって主家を変えています。<br /><br />永禄10年(1567)上杉謙信の関東出陣においては本庄実忠の籠もる本庄城は鉢形城主北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1541~1597)軍の攻撃を受け、本庄城は落城し再び小田原北条軍の軍門に下ります。<br /><br />天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原城討伐においては本庄城は前田利家・上杉景勝らの北国軍に攻められ落城します。<br /><br />同年関東に徳川家康が関東に入部すると信濃から小笠原信嶺(おがさわら・のぶみね、1547~1598)が1万石で本庄城主となりますが、慶長17年(1612)小笠原信之(おがさわら・のぶゆき、1570~1614)の代に古河転封を機に本庄城は廃城、その後江戸幕府に入りますと幕府直轄地と変わります。<br /><br /><br />2023年7月3日追記<br /><br />現地に配された説明板には下記の通り記載されています。<br /><br />「 本 庄 城 跡<br />           所在地 本庄市本庄3-5<br /><br />本庄城は、弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。<br /><br />本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に属したが実忠の子隼人正の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の攻めにより落城した。<br /><br />徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その養嗣子信之の代に古河城へ移封され本庄城は廃された。<br /><br />元禄13年(1700)の城跡検地帳には3町4反5畝29歩(約3.4ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は九城堀で切断された自然の要害であった。<br /><br />なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和33年本庄市指定の文化財となっている。<br /><br />   昭和61年3月<br />               埼玉県 本庄市  」<br />                 <br /><br /><br />

武蔵本庄 武蔵七党の児玉党出身ながら国人領主という位置を脱し切れず小田原北条氏に翻弄され小田原城開城と共に落城した本庄氏本拠『本庄城』訪問

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2012/07/27 - 2012/07/27

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR高崎線本庄駅下車北口幹線道路を北上、徒歩20分で市役所に隣接する場所がかつての本庄城(ほんじょうじょう、埼玉県本庄市本庄)で現在は城山稲荷神社となっています。

本庄氏の遠祖は平安時代末期の武蔵七党の中で児玉党と呼ばれる武士団の庄家弘(しょういえひろ、生没不詳)を祖とする庄氏で、鎌倉時代には御家人として奉公を尽くします。

庄氏は東本庄にある稲荷神社に館を構えて東本庄周辺に庶流を含め勢力を拡大、いつしか宗家が本庄氏(庄氏の本家という意味)と名乗ることとなります。

本庄氏は天文年間初期では関東管領の山内上杉氏方となり天文15年(1546)川越合戦で小田原北条氏に敗戦した際一族の本庄藤三郎が討死をしています。

天文21年(1552)主家山内上杉氏が小田原北条氏3代当主北条氏康(ほうじょう・うじやす)に大敗を喫し、上野国を経て越後に逃れる山内上杉氏の姿を見て本庄氏は小田原北条氏に従いますが、永禄4年(1561)の上杉謙信の小田原城攻撃時には謙信に与し、また同年武田信玄の西上野進攻には武田方に従い状況によって主家を変えています。

永禄10年(1567)上杉謙信の関東出陣においては本庄実忠の籠もる本庄城は鉢形城主北条氏邦(ほうじょう・うじくに、1541~1597)軍の攻撃を受け、本庄城は落城し再び小田原北条軍の軍門に下ります。

天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原城討伐においては本庄城は前田利家・上杉景勝らの北国軍に攻められ落城します。

同年関東に徳川家康が関東に入部すると信濃から小笠原信嶺(おがさわら・のぶみね、1547~1598)が1万石で本庄城主となりますが、慶長17年(1612)小笠原信之(おがさわら・のぶゆき、1570~1614)の代に古河転封を機に本庄城は廃城、その後江戸幕府に入りますと幕府直轄地と変わります。


2023年7月3日追記

現地に配された説明板には下記の通り記載されています。

「 本 庄 城 跡
           所在地 本庄市本庄3-5

本庄城は、弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。

本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に属したが実忠の子隼人正の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の攻めにより落城した。

徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その養嗣子信之の代に古河城へ移封され本庄城は廃された。

元禄13年(1700)の城跡検地帳には3町4反5畝29歩(約3.4ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は九城堀で切断された自然の要害であった。

なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和33年本庄市指定の文化財となっている。

   昭和61年3月
               埼玉県 本庄市  」
                 


交通手段
JRローカル 徒歩
  • 本庄城跡<br /><br />現在は「城山稲荷神社」となっており、参道手前には鳥居が建立されてます。

    本庄城跡

    現在は「城山稲荷神社」となっており、参道手前には鳥居が建立されてます。

  • 本庄城址石柱<br /><br />参道入口左側に城跡を示す石柱が立派に建ってます。

    本庄城址石柱

    参道入口左側に城跡を示す石柱が立派に建ってます。

  • 本庄城址の城山稲荷神社標碑<br /><br />標碑下段には「この地の豪族・本庄氏が弘治2年(1556)に築城した」と記載されています。<br /><br />

    本庄城址の城山稲荷神社標碑

    標碑下段には「この地の豪族・本庄氏が弘治2年(1556)に築城した」と記載されています。

  • 城山稲荷神社創建450年記念碑<br /><br />創建450年を記念して、当寺の沿革が刻印されています。<br /><br /><br /><br />『 城山稲荷神社創建450年記念碑<br /><br />城山稲荷神社が当地に鎮座されて450年を迎える。<br /><br />今を去る弘治2年(1556)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄の北端、弁天神社に城を築き、守護神として椿稲荷明神を勧請した。本庄城の築城を機に本庄村をXXXXとした。(X:判読不能)<br /><br />天正18年(1590)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事なく開城した。<br /><br />新たに本庄城一万石の城主となった小笠原信嶺は天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。<br /><br />その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。<br /><br />また、町が全国有数の眉の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍増の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊りにサーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。<br /><br />現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治45年(1912)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。<br /><br />平成18年、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建450年を祝してXXXXX大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。<br /><br />平成18年4月吉日<br />               建 設 委 員 長<br />               金 鑽 神 社 氏 子 総 代<br />               本 町 自 治 会 長<br />                 戸 谷 金 克<br /><br />               撰 文<br />                 柴 崎 起 三 雄 』

    城山稲荷神社創建450年記念碑

    創建450年を記念して、当寺の沿革が刻印されています。



    『 城山稲荷神社創建450年記念碑

    城山稲荷神社が当地に鎮座されて450年を迎える。

    今を去る弘治2年(1556)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄の北端、弁天神社に城を築き、守護神として椿稲荷明神を勧請した。本庄城の築城を機に本庄村をXXXXとした。(X:判読不能)

    天正18年(1590)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事なく開城した。

    新たに本庄城一万石の城主となった小笠原信嶺は天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。

    その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。

    また、町が全国有数の眉の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍増の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊りにサーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。

    現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治45年(1912)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。

    平成18年、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建450年を祝してXXXXX大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。

    平成18年4月吉日
                   建 設 委 員 長
                   金 鑽 神 社 氏 子 総 代
                   本 町 自 治 会 長
                     戸 谷 金 克

                   撰 文
                     柴 崎 起 三 雄 』

  • 参道<br /><br />桜並木の参道の左右は自然に任せる状態で、参道も特段の手入れも無く在るがままの風情となっています。

    参道

    桜並木の参道の左右は自然に任せる状態で、参道も特段の手入れも無く在るがままの風情となっています。

  • 稲荷神社遠景<br /><br />途中で石段を下がると拝殿が視野にはいりますが。そして拝殿の手前には高さ30m、周囲6.35mの欅(ケヤキ)の大木が堂々と立っています。同欅(ケヤキ)は本庄城築城時の折り献木されたと伝えられています。

    稲荷神社遠景

    途中で石段を下がると拝殿が視野にはいりますが。そして拝殿の手前には高さ30m、周囲6.35mの欅(ケヤキ)の大木が堂々と立っています。同欅(ケヤキ)は本庄城築城時の折り献木されたと伝えられています。

  • 稲荷神社拝殿と欅(ケヤキ)<br /><br />弘治2年(1556)本庄実忠により本庄城築城の際欅(ケヤキ)が献木されたと伝えられています。樹齢は約400年と推定されています。<br /><br />

    稲荷神社拝殿と欅(ケヤキ)

    弘治2年(1556)本庄実忠により本庄城築城の際欅(ケヤキ)が献木されたと伝えられています。樹齢は約400年と推定されています。

  • 旧社殿鬼瓦<br /><br />天保15年(1844)造営された拝殿の鬼瓦の一部です。

    旧社殿鬼瓦

    天保15年(1844)造営された拝殿の鬼瓦の一部です。

  • 拝殿<br /><br />説明では祭神は宇加之御魂神(うがのみたまのみこと)で弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠(ほんじょう・くないしょうゆう・さねただ)が本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斉したといわれています。<br /><br />天正18年(1590)に当地に入部した小笠原氏が再興し、慶長3年(1598)9月に上州赤城山麓より松の木100本を取り寄せ当寺社に植えて深く尊崇したといわれています。現在の拝殿は天保15年(1844)6月に再建されたそうです。

    拝殿

    説明では祭神は宇加之御魂神(うがのみたまのみこと)で弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠(ほんじょう・くないしょうゆう・さねただ)が本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斉したといわれています。

    天正18年(1590)に当地に入部した小笠原氏が再興し、慶長3年(1598)9月に上州赤城山麓より松の木100本を取り寄せ当寺社に植えて深く尊崇したといわれています。現在の拝殿は天保15年(1844)6月に再建されたそうです。

  • 扁額<br /><br />「城山稲荷神社」と掲載されています。

    扁額

    「城山稲荷神社」と掲載されています。

  • 境内<br /><br />拝殿から境内を一望します。境内右側は市役所の駐車場に隣接する所に土塁が残されています。<br /><br />

    境内

    拝殿から境内を一望します。境内右側は市役所の駐車場に隣接する所に土塁が残されています。

  • 参道<br /><br />参道の途中から振返ります。

    参道

    参道の途中から振返ります。

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