2012/07/22 - 2012/07/22
400位(同エリア705件中)
滝山氏照さん
JR八高線金子駅下車、駅北部を東西に走る豊岡街道を西進すること約30分、やがて霞川に架かる金子橋の手前の道路を右折、暫く歩き青梅厚生病院案内板を更に右折すると丘陵の南端がこんもりとした樹林に今井城(いまいじょう、東京都青梅市今井)があります。
当該城跡は地方領主今井氏数代の居館と伝えられ、面積はおよそ8500m2の二郭からなる単純な連郭式の城跡であります。東半分は西地両側に深い空堀と三方を土塁に囲まれた曲輪であるが西半分は土塁の無い曲輪となっています。
昭和42年の春と夏に青梅教育委員会はが発掘調査を行った結果、正和元年(1312)から大永2年(1522)にかけての板碑や開元通宝(かいげんつうほう)等が発見されています。
さて今井氏とはいかなる出自なのかと考えますが、実際のところ解っていません。一説によると平安末期から南北朝時代初期に活動した武蔵七党の児玉党に関わる武将と推測され、戦国時代では当地から更に西方に勝沼城を本拠とし奥多摩から高麗郡・入間郡を支配した三田氏に使える豪族ではないかと考えられます。
その三田氏に言及しますと永禄6年(1563)滝山城主・小田原北条氏照の攻撃を受けて勝沼城を捨て、多摩川上流の北岸、二俣尾(ふたまたお)から山岳地に築いた辛垣城(からかいじょう)に立て籠もりますが氏照軍の攻撃に耐え切れず落城、城主三田綱秀(みた・つなひで)は部下を引き連れ脱出、遠く岩槻城に大田氏を頼るも再興叶わずとして自害して三田氏は滅亡となります。
恐らく三田氏の滅亡までに今井城も氏照軍の攻撃を受け落城、以降は氏照により城郭改修・充実を計り上野方面への拠点である川越城・鉢形城に至る上鎌倉街道上に於ける支城的な役割を果たしたのではないかと思われます。
2023年6月28日追記
当該城に建てられた説明板には次の通り記載されています。
『 市史跡 今 井 城 跡
今井氏代々の居館と伝えるこの今井城跡は、面積およそ8500m2の、二郭からなる単純な連郭式の城跡である。東半分は西北両側に深い空堀と、三方を土塁に囲まれた曲輪であるが、西半分は土塁のない曲輪である。
昭和42年に発掘調査を行った結果、正和元年(1312)から大永2年(1522)にかけての板碑や開元通宝等が発見された。また遺構の保存状態も良好であることが判明し、小規模ながら中世城郭としてきわめて貴重な遺構であることが明らかとなった。
昭和28年11月3日
青梅市教育委員会 』
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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今井城・空堀
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空堀
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土塁
複雑化した土塁が認められます。 -
土塁と空堀
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二郭
土塁による囲みは見当たりません。 -
土塁と空堀
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深い空堀
右側の二郭と左の主郭に位置する深い空堀が素晴らしく思わず息を呑みます。 -
土塁
二郭の空堀から主郭の土塁を望みます。 -
主郭と土塁
主郭には土塁がしっかりと周囲を囲んでいます。 -
主郭
周辺に土塁を施し主郭としての雰囲気を漂わせています。 -
土塁
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土塁
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イチオシ
空堀
左から走る二郭と主郭を隔てるから堀が北進して東西に走る空堀と合流して文字通りT字型の模様を造っています。 -
大規模土塁
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空堀
二郭と主郭を隔てる大規模空堀が見事です。 -
主郭北端
主郭北端土塁(右側)と土塁(左側)に挟まれた堀底が通路となり前後を走っています。 -
帯廓
西端北部へ眼を向けると途中に一段下がった部分に帯廓があります。 -
続く帯廓
北部は西端から東へと帯廓が連なっています。 -
主郭土塁
二郭と主郭の間には深い空堀が横たわり向こうの主郭が大きく写ります。 -
主郭北端
北側土塁との間には深い空堀が見られます。 -
主郭
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主郭
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土塁
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帯廓
土塁の北側には帯廓が横たわっています。 -
主郭
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空堀と土塁
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土塁
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