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京王高尾線山田駅北側を山田川沿いに約10分歩きますと鎌倉幕府有力御家人大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)の嫡流と思われる長井時広(ながい・ときひろ、?~1241)の末裔(6代目)の長井道広(他説あり)を開祖とする兜卒山(とそつざん)広園寺(こうおんじ、東京都八王子市山田町)があります。<br /><br />現在の八王子市南西部は中世においては横山荘呼ばれる荘園であり、この地は武蔵七党の中でも最大勢力を有する横山党の棟梁である横山氏の本拠で横山氏は鎌倉時代の御家人でもありました。<br /><br />然しながら和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)の謀反に与した横山氏一族は滅亡、替わりに大江広元が和田氏討伐の恩賞として獲得し、ここに戦国時代初期にかけて支配したのが広元の二男である時広を祖とする長井氏であります。<br /><br />大江広元は朝廷に仕える下級貴族であり、広元の兄が源頼朝と親しかった事で鎌倉へ下り頼朝の知遇を得て、政所(公文所を改め)の別当として主に朝廷との交渉にあたる任につき頼朝の信任を得ます。<br /><br />広元は頼朝没後も未亡人北条政子及び北条義時らと協調する中で幕政を推進、持前の政治力を活かし政策の決定や施行に影響力を行使するなど重要な地位を占めるに至ります。<br /><br />このように重要な地位になるに従い、広元の所領は次第に全国に拡がります。北は出羽国から南は肥後国にわたり大江一族に受け継がれます。<br /><br />長井時広が広元より継承した地域は出羽国置賜郡、武蔵国横山等であり、出羽郡置賜郡は現在の米沢市や長井市が含まれ、当時は長井荘と呼ばれていましたので長井氏は当長井荘を自らの苗字として名乗ったと思われます。<br /><br />鎌倉時代の長井氏は苗字の地であった長井荘が拠点でありましたが、時代が南北朝に下りますと伊達氏が長井荘に進出し次第に勢力が削がれついに長井荘から撤退、南北朝から室町時代にはその本拠を多摩及び相模原に移してきたと思われます。<br /><br />多摩及び相模原に本拠を移した長井氏は旧横山荘椚田を中心に所領を固め、近隣に広園寺や他の寺院建立に励みます。定かではありませんが広園寺の大門前はかつて「枡形」と呼ばれた地名であることから長井氏の居館があったと想定されています。<br /><br />戦国時代に入っても椚田が長井氏の本拠として続き、広房の代には扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)の妹を室に迎え同氏を主家とすることで後盾を得ますが、広直の代には武蔵立河原合戦において山内上杉顕定勢による攻撃を受け、広直は一族共々自害し椚田要害の落城により名門大江氏を祖とする長井氏は没落する事となります。<br /><br />その後椚田には顕定の宿老で武蔵国守護代の大石氏が入り、旧長井氏所領は大石氏に継承されます。やがて小田原北条氏の武蔵国北進と相まって、北条氏康三男氏照(うじてる)の支配領となり、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐において秀吉の指揮下前田・上杉連合軍の八王子城攻撃の際広園寺も共に焼失します。<br /><br />徳川家康が関東移封の翌年天正19年(1581)には家康から15石の朱印状を得て再興しますが、元禄10年(1697)に、大火により江戸時代初期造られた山門以外は尽く焼失、その後再建され現在に至っています。<br /><br /><br />2022年7月23日追記<br /><br />当該寺院ホームページには詳細に渡り説明が下記の通りあります。<br /><br />『 由 緒                                富岳の秀峰を仰ぐ武蔵野八王子の西南に、多摩の丘陵を背にして老杉の茂れる浄域を兜率山広園寺と言い、臨済宗南禅寺派特例地の古刹にして、本尊は弥勒菩薩であります。抑々当時は康応元年(1389)に開基大江備中守師親が開山法光円融禅師に帰依して領内に広大なる寺域を寄進し又近郷の住民の住民信徒等競って木石を運び忽ち七堂伽藍の禅宗様式を整えたる見事な大伽藍が出来上がり、僧俗信徒水の谷に赴くが如くに集まり、開山の徳化に感応したのであります。開山は勅?法光園友禅師俊翁令山和尚と申し上げ秩父の人で甲州塩山向獄寺開山の抜隊禅師の法嗣であり今を去る約六百年前この地に宝灯を点じ枯淡な宗風を伝統として臨済禅門の雄たるを誇るものであります。応永15年3月6日世寿65才を似って示寂せられ、以来毎年4月6日開山忌をと定め禅師の徳を慕い今なお開山巡道という儀式が盛大に行われます。特に応永12年「禅宗無門関」を開板刊行せられた事は日本文化史上特筆されるべき一大事業と言えましょう。弥光天王宣して勅願所となし拾い、住古は山内四十九院末寺百ケ寺を擁する盛運を開いたのでありますが天正18年豊臣秀吉の天下統一の際八王子城陥落と共に戦火に羅り又元禄10年11月7日再度鳥有に帰し後代克くこれを復興につとめ現在の諸堂は江戸時代中期の建物でありす。丘陵に南面して総門、山門、仏殿、方丈、開山堂、鐘楼、等南北直線上に配置され厳たる禅宗建築の様式をよく保存して居り又閑寂なる禅宗古刹の境域と併せて東京都重宝並びに都史跡に指定されて居ります。開山以来法灯揺るがず座禅作業の古道場として日夜禅風維持の苦行精進を続け今日においては広く一般信徒に対しても特に参禅布教<br />を行なっています。』

武蔵八王子 奥州征伐の功により置賜地方の地頭職を得たが後年伊達氏に圧迫され横山に拠点を移し在地領主となった大江氏後裔『長井氏居館』訪問

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2012/05/03 - 2012/05/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

京王高尾線山田駅北側を山田川沿いに約10分歩きますと鎌倉幕府有力御家人大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)の嫡流と思われる長井時広(ながい・ときひろ、?~1241)の末裔(6代目)の長井道広(他説あり)を開祖とする兜卒山(とそつざん)広園寺(こうおんじ、東京都八王子市山田町)があります。

現在の八王子市南西部は中世においては横山荘呼ばれる荘園であり、この地は武蔵七党の中でも最大勢力を有する横山党の棟梁である横山氏の本拠で横山氏は鎌倉時代の御家人でもありました。

然しながら和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)の謀反に与した横山氏一族は滅亡、替わりに大江広元が和田氏討伐の恩賞として獲得し、ここに戦国時代初期にかけて支配したのが広元の二男である時広を祖とする長井氏であります。

大江広元は朝廷に仕える下級貴族であり、広元の兄が源頼朝と親しかった事で鎌倉へ下り頼朝の知遇を得て、政所(公文所を改め)の別当として主に朝廷との交渉にあたる任につき頼朝の信任を得ます。

広元は頼朝没後も未亡人北条政子及び北条義時らと協調する中で幕政を推進、持前の政治力を活かし政策の決定や施行に影響力を行使するなど重要な地位を占めるに至ります。

このように重要な地位になるに従い、広元の所領は次第に全国に拡がります。北は出羽国から南は肥後国にわたり大江一族に受け継がれます。

長井時広が広元より継承した地域は出羽国置賜郡、武蔵国横山等であり、出羽郡置賜郡は現在の米沢市や長井市が含まれ、当時は長井荘と呼ばれていましたので長井氏は当長井荘を自らの苗字として名乗ったと思われます。

鎌倉時代の長井氏は苗字の地であった長井荘が拠点でありましたが、時代が南北朝に下りますと伊達氏が長井荘に進出し次第に勢力が削がれついに長井荘から撤退、南北朝から室町時代にはその本拠を多摩及び相模原に移してきたと思われます。

多摩及び相模原に本拠を移した長井氏は旧横山荘椚田を中心に所領を固め、近隣に広園寺や他の寺院建立に励みます。定かではありませんが広園寺の大門前はかつて「枡形」と呼ばれた地名であることから長井氏の居館があったと想定されています。

戦国時代に入っても椚田が長井氏の本拠として続き、広房の代には扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)の妹を室に迎え同氏を主家とすることで後盾を得ますが、広直の代には武蔵立河原合戦において山内上杉顕定勢による攻撃を受け、広直は一族共々自害し椚田要害の落城により名門大江氏を祖とする長井氏は没落する事となります。

その後椚田には顕定の宿老で武蔵国守護代の大石氏が入り、旧長井氏所領は大石氏に継承されます。やがて小田原北条氏の武蔵国北進と相まって、北条氏康三男氏照(うじてる)の支配領となり、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐において秀吉の指揮下前田・上杉連合軍の八王子城攻撃の際広園寺も共に焼失します。

徳川家康が関東移封の翌年天正19年(1581)には家康から15石の朱印状を得て再興しますが、元禄10年(1697)に、大火により江戸時代初期造られた山門以外は尽く焼失、その後再建され現在に至っています。


2022年7月23日追記

当該寺院ホームページには詳細に渡り説明が下記の通りあります。

『 由 緒                                富岳の秀峰を仰ぐ武蔵野八王子の西南に、多摩の丘陵を背にして老杉の茂れる浄域を兜率山広園寺と言い、臨済宗南禅寺派特例地の古刹にして、本尊は弥勒菩薩であります。抑々当時は康応元年(1389)に開基大江備中守師親が開山法光円融禅師に帰依して領内に広大なる寺域を寄進し又近郷の住民の住民信徒等競って木石を運び忽ち七堂伽藍の禅宗様式を整えたる見事な大伽藍が出来上がり、僧俗信徒水の谷に赴くが如くに集まり、開山の徳化に感応したのであります。開山は勅?法光園友禅師俊翁令山和尚と申し上げ秩父の人で甲州塩山向獄寺開山の抜隊禅師の法嗣であり今を去る約六百年前この地に宝灯を点じ枯淡な宗風を伝統として臨済禅門の雄たるを誇るものであります。応永15年3月6日世寿65才を似って示寂せられ、以来毎年4月6日開山忌をと定め禅師の徳を慕い今なお開山巡道という儀式が盛大に行われます。特に応永12年「禅宗無門関」を開板刊行せられた事は日本文化史上特筆されるべき一大事業と言えましょう。弥光天王宣して勅願所となし拾い、住古は山内四十九院末寺百ケ寺を擁する盛運を開いたのでありますが天正18年豊臣秀吉の天下統一の際八王子城陥落と共に戦火に羅り又元禄10年11月7日再度鳥有に帰し後代克くこれを復興につとめ現在の諸堂は江戸時代中期の建物でありす。丘陵に南面して総門、山門、仏殿、方丈、開山堂、鐘楼、等南北直線上に配置され厳たる禅宗建築の様式をよく保存して居り又閑寂なる禅宗古刹の境域と併せて東京都重宝並びに都史跡に指定されて居ります。開山以来法灯揺るがず座禅作業の古道場として日夜禅風維持の苦行精進を続け今日においては広く一般信徒に対しても特に参禅布教
を行なっています。』

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 広園寺・通用門<br /><br />通用門の傍らに寺域の説明板があります。

    広園寺・通用門

    通用門の傍らに寺域の説明板があります。

  • 広園禅寺・寺標<br /><br />「廣園禅寺」と寺号が刻されています。

    広園禅寺・寺標

    「廣園禅寺」と寺号が刻されています。

  • 広園寺周辺地図

    広園寺周辺地図

  • 広園寺・総門<br /><br />訪問時には扉が閉ざされており総門からの入場は不能でした。

    広園寺・総門

    訪問時には扉が閉ざされており総門からの入場は不能でした。

  • 一直線の参道

    一直線の参道

  • 広園寺・境内<br /><br />広い境内に樹木が高く上り、幾分陽射しが遮られます。

    広園寺・境内

    広い境内に樹木が高く上り、幾分陽射しが遮られます。

  • 広園寺・山門<br /><br />小道の左手に山門が見えます。

    広園寺・山門

    小道の左手に山門が見えます。

  • 広園寺・鐘楼堂<br /><br />小道の右手に鐘楼堂があります。

    広園寺・鐘楼堂

    小道の右手に鐘楼堂があります。

  • 広園寺・本堂

    イチオシ

    広園寺・本堂

  • 本堂・扁額<br /><br />「禅林法富」の扁額があります。

    本堂・扁額

    「禅林法富」の扁額があります。

  • 境内

    境内

  • 横に抜ける道

    横に抜ける道

  • 本堂側からの光景

    本堂側からの光景

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