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JR五日市線東秋留(ひがしあきる)駅の北東、五日市街道に繋がる道の手前の高台に二宮神社(にのみやじんじや、東京都あきる野市二宮)は武蔵七党の西党に属した二宮氏の居館跡と伝えられています。<br /><br />この社地の付近には平安時代後期から鎌倉時代にかけて当地域を本拠地とする二宮氏の館跡(他所とする説あり)があったといわれています。<br /><br />二宮氏は武蔵七党の一つである西党に属し、鎌倉幕府樹立した源頼朝が建久元年(1190)に上洛した際には御家人として二宮小太郎光忠(にのみや・こたろう・みつただ)も随行しており、同4年には的始の射手に二宮弥次郎時光(にのみや・やじろう・ときみつ)が選ばれています。その後北条氏による執権政治が展開、有力御家人が次々と舞台から消えて行く中で二宮氏は戦国時代末期まで勢力を維持していたようです。<br /><br />創建年代は不明ですが藤原秀郷(ふじわら・ひでさと、生没不詳)が平将門討伐に出陣した際、当神社で戦勝祈願を行いその際社殿を造営したとされており、939年以前にはすでに存在していたことになります。<br /><br />時代は下り、鎌倉時代に入りますと源頼朝による社領千石の寄進、戦国時代における北条氏政による社領五百石の寄進があり、また滝山城主である北条氏照は当神社を祈願所として手厚く祀り、また徳川家康が関東に入府しますと代々に亘り十五石の朱印を与えられるなど歴代の為政者から並々ならぬ厚遇を受けています。<br /><br />境内には二宮考古館があり、あきる野市で発掘された縄文・弥生時代の石器や土器などが展示されていまして、館員の方が丁寧に説明していただけます。<br /><br />自分は二宮氏の館跡について尋ねましたが、「過去に神社境内の発掘調査したが裏付けるものはなかった」とのことでした。今後の発掘調査の継続がなされる事を期したいと思います。<br /><br />尚鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重(のぶしげ、生没不詳)が城館を構え、5代にわたって居城したとの記録があります。昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されましたが関係する資料が得られなかったとのことでした。<br /><br /><br /><br />2022年7月21日追記<br /><br />旧秋川市史によれば二宮神社の由緒は下記の通りです。<br /><br />『 二宮神社 二宮ニ二五二番地<br /><br />二宮神社は、古くから西多摩郡内で、知られた古社であった。秋留台地の東南のはずれ、遠望できる社業の中に鎮座している。御祭神は国常立尊である。創建年代は不詳であるが、昔より小川大明神又は二宮大明神ととなえていたが、明治3年(1870)二宮神社と改称したのである。<br /><br />この神社の境内には、縄文式時代早期以来の各年代の遺跡が重なり合っている。「新編武蔵風土記稿」にも、「社地より布目の紋ある古瓦を掘出す事ままありと云へり」とある。<br /><br />二宮神社の起源は相当古いと見てゆいであろう。小川大明神と古くからいわれていたことは、この神社が、多摩郡小川郷の鎮守であったことをうかがわせる。二宮大明神となったのは、この神社が、二宮といわれるようになってからであろう。<br /><br />社伝によれば、日本武尊が御東征の折、国常立尊を祀った天慶2年(939)平将門の乱が起こった時、藤原秀郷が将門追悼のため当地に来たことがあった。たまたま生国近江山王二十一社の二宮は、御祭神が国常立尊で当社の御祭神と同じであったので、当社を尊敬し、戦勝祈願をこめた。乱平定の奉斎として社殿、玉垣を造営したという。<br /><br />後、源頼朝より社領千石寄進されたというし、くだって戦国時代になって、小田原城主北条氏政から社領五百石を寄せられ、一族の滝山城主北条氏照の祈願所となった。その後天正19年(1591)には、徳川家康より御朱印15石を受け、以後代々の将軍に引き継がれた。<br /><br />平安時代、十世紀初めごろになって、総社の制が生まれた。総社は国司が国内の諸社の巡拝の便から、考え出されたものであった。武蔵における総社がいつごろ成立したか明らかでないが、一宮から六宮までの六社がきめられ、その六か所の神社と国内の諸神を合わせ祀ったのが六所宮である。今の府中にある大国魂神社で国司が参拝し、崇敬したのである。それは六所大明神とも呼ばれていた。<br /><br />その二宮として、小川大明神とよばれていた当社が選ばれたのである。当時布目の瓦などが出土するような社殿をもった神社であったのであるまいか。<br /><br />中世になると、二宮大明神ともよばれ、薬師如来を本地仏として、「六所の随一」とよばれる大社となった。<br /><br />深大寺(調布市深大寺)にいた僧長弁の「私案抄」の応永19年(1412)の二宮社頭妙経印板施入勧進」の文中に当社小河大明神者、当国六所ノ随一、本地薬師之應跡也埃。とある。<br /><br />古代から、中世、近世にかけては神仏は混在していたから、これらはあやしむに足らない。なお「新編武蔵風土記稿」には、社地に鐘楼があったことを記している。<br /><br />鐘楼 社地の東にあり、口径に尺余、長四尺五寸の鐘なり 銘に<br />武州多西郡二宮大明神御実前<br />奉鋳所蒲牢一供<br />抑華鯨者、元是海魚名也、鳴声<br />寛永十七年九月九日<br />とある。この梵鐘は羽村町五ノ神の鋳造師渡辺、桜沢氏らの鋳たものであった。明治維新の神仏分離の折(明治四年<一八七一>十一月)売却されて、現在埼玉県所沢市久米の鳩峯八幡社の境内にある。<br /><br />祭礼日は九月九日である。「しょうがまち」といわれている。<br />神事には筒粥の神事がある。一月十五日早朝に行われる。米三合と三二本の篠筒一束とを粥に吹き上げ、篠筒を一本割って、農作物の吉凶を占うのである。<br /><br />馬場洗いに神事は七月十五日(元は七月七日)、御手洗の池の大掃除をした。昔はこの日に八王子市山田の広園寺から供献物の使者がきたという。<br /><br />御手洗の池は境内の東南下にあり、昔からどんな早魁にも水のかれたことはなかった。山田の広園寺の後庭の池辺には二宮大明神の石碑がたてられていて、池の水は、この御手洗の池より分水供給を受けているという伝承があるという。毎年、馬場洗い神事の際は、広園寺の池の水よりも多少の濁りが表れたと言われる。<br /><br />しょうが、さといも、牛の舌餅神洗濯。九月九日の例祭日の新選の古態WO伝えている。当社が縄文時代から続いている信仰の霊域であることから考えると、これらの新選は稲作農耕以前の畑作儀礼の性格が濃厚に残されているとみてよいのではないだろうか。「牛の舌餅」も形が牛の舌のように長楕円形のもので、九州薩摩半島西岸地方にその例がみられるがこの地方としては極めて稀なものであるという。これらの三種の神選は日本の古層栽培文化複合の問題を提示していると「西多摩神社誌」は述べている。』<br /><br /><br /><br />

武蔵あきる野 武蔵七党のうち西党の出身で鎌倉時代の頼朝御家人として西多摩を領有し戦国時代まで生き延びた『伝二宮氏館』訪問

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2012/04/28 - 2012/04/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR五日市線東秋留(ひがしあきる)駅の北東、五日市街道に繋がる道の手前の高台に二宮神社(にのみやじんじや、東京都あきる野市二宮)は武蔵七党の西党に属した二宮氏の居館跡と伝えられています。

この社地の付近には平安時代後期から鎌倉時代にかけて当地域を本拠地とする二宮氏の館跡(他所とする説あり)があったといわれています。

二宮氏は武蔵七党の一つである西党に属し、鎌倉幕府樹立した源頼朝が建久元年(1190)に上洛した際には御家人として二宮小太郎光忠(にのみや・こたろう・みつただ)も随行しており、同4年には的始の射手に二宮弥次郎時光(にのみや・やじろう・ときみつ)が選ばれています。その後北条氏による執権政治が展開、有力御家人が次々と舞台から消えて行く中で二宮氏は戦国時代末期まで勢力を維持していたようです。

創建年代は不明ですが藤原秀郷(ふじわら・ひでさと、生没不詳)が平将門討伐に出陣した際、当神社で戦勝祈願を行いその際社殿を造営したとされており、939年以前にはすでに存在していたことになります。

時代は下り、鎌倉時代に入りますと源頼朝による社領千石の寄進、戦国時代における北条氏政による社領五百石の寄進があり、また滝山城主である北条氏照は当神社を祈願所として手厚く祀り、また徳川家康が関東に入府しますと代々に亘り十五石の朱印を与えられるなど歴代の為政者から並々ならぬ厚遇を受けています。

境内には二宮考古館があり、あきる野市で発掘された縄文・弥生時代の石器や土器などが展示されていまして、館員の方が丁寧に説明していただけます。

自分は二宮氏の館跡について尋ねましたが、「過去に神社境内の発掘調査したが裏付けるものはなかった」とのことでした。今後の発掘調査の継続がなされる事を期したいと思います。

尚鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重(のぶしげ、生没不詳)が城館を構え、5代にわたって居城したとの記録があります。昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されましたが関係する資料が得られなかったとのことでした。



2022年7月21日追記

旧秋川市史によれば二宮神社の由緒は下記の通りです。

『 二宮神社 二宮ニ二五二番地

二宮神社は、古くから西多摩郡内で、知られた古社であった。秋留台地の東南のはずれ、遠望できる社業の中に鎮座している。御祭神は国常立尊である。創建年代は不詳であるが、昔より小川大明神又は二宮大明神ととなえていたが、明治3年(1870)二宮神社と改称したのである。

この神社の境内には、縄文式時代早期以来の各年代の遺跡が重なり合っている。「新編武蔵風土記稿」にも、「社地より布目の紋ある古瓦を掘出す事ままありと云へり」とある。

二宮神社の起源は相当古いと見てゆいであろう。小川大明神と古くからいわれていたことは、この神社が、多摩郡小川郷の鎮守であったことをうかがわせる。二宮大明神となったのは、この神社が、二宮といわれるようになってからであろう。

社伝によれば、日本武尊が御東征の折、国常立尊を祀った天慶2年(939)平将門の乱が起こった時、藤原秀郷が将門追悼のため当地に来たことがあった。たまたま生国近江山王二十一社の二宮は、御祭神が国常立尊で当社の御祭神と同じであったので、当社を尊敬し、戦勝祈願をこめた。乱平定の奉斎として社殿、玉垣を造営したという。

後、源頼朝より社領千石寄進されたというし、くだって戦国時代になって、小田原城主北条氏政から社領五百石を寄せられ、一族の滝山城主北条氏照の祈願所となった。その後天正19年(1591)には、徳川家康より御朱印15石を受け、以後代々の将軍に引き継がれた。

平安時代、十世紀初めごろになって、総社の制が生まれた。総社は国司が国内の諸社の巡拝の便から、考え出されたものであった。武蔵における総社がいつごろ成立したか明らかでないが、一宮から六宮までの六社がきめられ、その六か所の神社と国内の諸神を合わせ祀ったのが六所宮である。今の府中にある大国魂神社で国司が参拝し、崇敬したのである。それは六所大明神とも呼ばれていた。

その二宮として、小川大明神とよばれていた当社が選ばれたのである。当時布目の瓦などが出土するような社殿をもった神社であったのであるまいか。

中世になると、二宮大明神ともよばれ、薬師如来を本地仏として、「六所の随一」とよばれる大社となった。

深大寺(調布市深大寺)にいた僧長弁の「私案抄」の応永19年(1412)の二宮社頭妙経印板施入勧進」の文中に当社小河大明神者、当国六所ノ随一、本地薬師之應跡也埃。とある。

古代から、中世、近世にかけては神仏は混在していたから、これらはあやしむに足らない。なお「新編武蔵風土記稿」には、社地に鐘楼があったことを記している。

鐘楼 社地の東にあり、口径に尺余、長四尺五寸の鐘なり 銘に
武州多西郡二宮大明神御実前
奉鋳所蒲牢一供
抑華鯨者、元是海魚名也、鳴声
寛永十七年九月九日
とある。この梵鐘は羽村町五ノ神の鋳造師渡辺、桜沢氏らの鋳たものであった。明治維新の神仏分離の折(明治四年<一八七一>十一月)売却されて、現在埼玉県所沢市久米の鳩峯八幡社の境内にある。

祭礼日は九月九日である。「しょうがまち」といわれている。
神事には筒粥の神事がある。一月十五日早朝に行われる。米三合と三二本の篠筒一束とを粥に吹き上げ、篠筒を一本割って、農作物の吉凶を占うのである。

馬場洗いに神事は七月十五日(元は七月七日)、御手洗の池の大掃除をした。昔はこの日に八王子市山田の広園寺から供献物の使者がきたという。

御手洗の池は境内の東南下にあり、昔からどんな早魁にも水のかれたことはなかった。山田の広園寺の後庭の池辺には二宮大明神の石碑がたてられていて、池の水は、この御手洗の池より分水供給を受けているという伝承があるという。毎年、馬場洗い神事の際は、広園寺の池の水よりも多少の濁りが表れたと言われる。

しょうが、さといも、牛の舌餅神洗濯。九月九日の例祭日の新選の古態WO伝えている。当社が縄文時代から続いている信仰の霊域であることから考えると、これらの新選は稲作農耕以前の畑作儀礼の性格が濃厚に残されているとみてよいのではないだろうか。「牛の舌餅」も形が牛の舌のように長楕円形のもので、九州薩摩半島西岸地方にその例がみられるがこの地方としては極めて稀なものであるという。これらの三種の神選は日本の古層栽培文化複合の問題を提示していると「西多摩神社誌」は述べている。』



交通手段
JRローカル 徒歩
  • 二宮神社・社標<br /><br />JR五日市線東秋留駅下車、北東へ徒歩5分程度の位置にあります。

    二宮神社・社標

    JR五日市線東秋留駅下車、北東へ徒歩5分程度の位置にあります。

  • 二宮神社・鳥居<br /><br />道路に面した鳥居から石段を上がります。

    イチオシ

    二宮神社・鳥居

    道路に面した鳥居から石段を上がります。

  • 二宮神社・石段下<br /><br />登りきった境内を振返りますと急な石段が迫っています。

    二宮神社・石段下

    登りきった境内を振返りますと急な石段が迫っています。

  • 市街地展望<br /><br />館跡とすれば見晴らしがよく絶好の要害地と言えます。<br /><br /><br /><br />

    市街地展望

    館跡とすれば見晴らしがよく絶好の要害地と言えます。



  • 二宮神社・拝殿<br /><br />参道から拝殿を望みます。周辺は樹木で覆われ静かな佇まいです。<br /><br />

    二宮神社・拝殿

    参道から拝殿を望みます。周辺は樹木で覆われ静かな佇まいです。

  • 二宮神社改修工事記念碑

    二宮神社改修工事記念碑

  • 二宮神社・由緒

    二宮神社・由緒

  • 狛犬

    狛犬

  • 狛犬

    狛犬

  • 二宮神社・拝殿<br /><br />当寺は武蔵国多摩郡小河郷地区内にあったことから小河大明神、あるいは武蔵総社六社宮(現在府中大国魂神社)の所祭神座の第二次にあたることから二宮大明神とも呼ばれていましたが明治3年に社号を二宮神社と改称しています。

    二宮神社・拝殿

    当寺は武蔵国多摩郡小河郷地区内にあったことから小河大明神、あるいは武蔵総社六社宮(現在府中大国魂神社)の所祭神座の第二次にあたることから二宮大明神とも呼ばれていましたが明治3年に社号を二宮神社と改称しています。

  • 境内<br /><br />拝殿から振返りますと樹木で囲まれた境内とその向こうには市街がかすかに認められます。<br /><br />

    境内

    拝殿から振返りますと樹木で囲まれた境内とその向こうには市街がかすかに認められます。

  • 二宮神社拝殿屋根<br /><br />小振りながら品位あるしっかりした造りの建物で、格式のある拝殿のようです。

    二宮神社拝殿屋根

    小振りながら品位あるしっかりした造りの建物で、格式のある拝殿のようです。

  • 本殿の敷地<br /><br />敷地の隅は僅かながら土盛の跡が見られます。戦国時代における小田原北条氏改変後の遺構とも思われます。

    本殿の敷地

    敷地の隅は僅かながら土盛の跡が見られます。戦国時代における小田原北条氏改変後の遺構とも思われます。

  • 本殿<br /><br />手前の拝殿から本殿を望みますが、手前には土塁が位置しています。

    本殿

    手前の拝殿から本殿を望みますが、手前には土塁が位置しています。

  • 土塁<br /><br />拝殿左側の樹木には土塁と思われる姿が認められます。

    土塁

    拝殿左側の樹木には土塁と思われる姿が認められます。

  • 高台展望<br /><br />境内の南端から駐車場を見下ろします。<br /><br />

    高台展望

    境内の南端から駐車場を見下ろします。

  • 土塁<br /><br />石段の傍らは土塁と思われるものが造作されています。

    土塁

    石段の傍らは土塁と思われるものが造作されています。

  • 二宮神社境内<br /><br />今度は駐車場から神社を見上げます。

    二宮神社境内

    今度は駐車場から神社を見上げます。

  • 「筒粥の篠竹」<br /><br />毎年1月15日の早朝に執り行われる、篠竹に入っている粥粒の多少によってその年の農作の豊凶を占う古式神事だそうです。<br /><br />

    「筒粥の篠竹」

    毎年1月15日の早朝に執り行われる、篠竹に入っている粥粒の多少によってその年の農作の豊凶を占う古式神事だそうです。

  • 二宮考古館案内<br /><br />隣接の二宮考古館が開放されています。

    二宮考古館案内

    隣接の二宮考古館が開放されています。

  • 開館案内板

    開館案内板

  • 二宮考古館<br /><br />発掘された縄文時代の土器や石器などの生活用具等が展示・紹介されています。

    二宮考古館

    発掘された縄文時代の土器や石器などの生活用具等が展示・紹介されています。

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