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旧島松駅逓所は北海道で最初に稲作に成功した中山久蔵の私邸が後に駅逓所として使用されたもので、明治10年にクラーク博士がこの地で「Boys, be ambitious!」の名言を残して弟子たちと離別した地であり、明治14には明治天皇が北海道を行幸の際には昼食のための休憩所にもなった場所です。<br /><br />つまり、ここは1か所で①寒地稲作発祥の地、②クラーク博士離別の地、③天皇行幸の地、④駅逓制度に関する史跡という様々な意味を持つ興味深い史跡です。<br /><br />駅逓とは、交通不便の地に駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便を図るために設置された施設で、駅逓制度は北海道に独特の制度として重要な役割を果たしていました。寛政11年(1799年)に最初の駅逓所が置かれた後、600か所以上置かれましたが、昭和22年(1947年)に全廃されました。<br /><br />島松駅逓所は明治6年の札幌本道(現在の国道36号線)の開通に伴って設置され、明治17年から中山久蔵邸が正式に駅逓所となり、明治30年まで駅逓所として使用されていました。現在の建物は明治14年当時の状態を一部復元したものです。<br /><br /><br />(DSCF2907)

旧島松駅逓所(クラーク博士記念碑など)

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2012/09/01 - 2012/09/08

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ヌールッディーンさん

旧島松駅逓所は北海道で最初に稲作に成功した中山久蔵の私邸が後に駅逓所として使用されたもので、明治10年にクラーク博士がこの地で「Boys, be ambitious!」の名言を残して弟子たちと離別した地であり、明治14には明治天皇が北海道を行幸の際には昼食のための休憩所にもなった場所です。

つまり、ここは1か所で①寒地稲作発祥の地、②クラーク博士離別の地、③天皇行幸の地、④駅逓制度に関する史跡という様々な意味を持つ興味深い史跡です。

駅逓とは、交通不便の地に駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便を図るために設置された施設で、駅逓制度は北海道に独特の制度として重要な役割を果たしていました。寛政11年(1799年)に最初の駅逓所が置かれた後、600か所以上置かれましたが、昭和22年(1947年)に全廃されました。

島松駅逓所は明治6年の札幌本道(現在の国道36号線)の開通に伴って設置され、明治17年から中山久蔵邸が正式に駅逓所となり、明治30年まで駅逓所として使用されていました。現在の建物は明治14年当時の状態を一部復元したものです。


(DSCF2907)

  • クラーク博士記念碑<br /><br />クラーク博士が明治10年に札幌を去るにあたり、弟子たちはこの地まで付き添い、離別の際に「Boys, be ambitious」の名言を残したとされています。<br /><br />クラーク博士は僅か9ヶ月の滞在で大きなインパクトを残して去っていきましたが、駅逓所内の資料で彼が往来する際のルートなども知ることができます。<br /><br />ちなみに、当初は1年間の契約で札幌に来たのですが、往路と復路にそれぞれ1ヶ月超の時間を要したため、アメリカを出発して戻るまで1年間の契約であるとクラーク博士らの側が主張したため、札幌での滞在が9か月になったということです。(日本側は日本で12か月働いてもらうつもりだったため、札幌に来てから若干のトラブルがあったようです。)<br /><br /><br />(DSCF2885)

    クラーク博士記念碑

    クラーク博士が明治10年に札幌を去るにあたり、弟子たちはこの地まで付き添い、離別の際に「Boys, be ambitious」の名言を残したとされています。

    クラーク博士は僅か9ヶ月の滞在で大きなインパクトを残して去っていきましたが、駅逓所内の資料で彼が往来する際のルートなども知ることができます。

    ちなみに、当初は1年間の契約で札幌に来たのですが、往路と復路にそれぞれ1ヶ月超の時間を要したため、アメリカを出発して戻るまで1年間の契約であるとクラーク博士らの側が主張したため、札幌での滞在が9か月になったということです。(日本側は日本で12か月働いてもらうつもりだったため、札幌に来てから若干のトラブルがあったようです。)


    (DSCF2885)

  • クラーク博士の離別の時の様子を描いた絵画<br /><br />馬に乗ったクラーク博士が右上の紳士を指さしています。<br /><br />これはBoys, be ambitiousという言葉を残した際、クラーク博士はそれに続けてlike this old manと述べたという説があり、このold manとは中山久蔵のことだと言われています。<br /><br />中山久蔵は北海道での稲作を成功させていただけでなく、果樹園芸、牧場の経営、養鯉なども試みており、北海道における一次産業とその連産業の振興のため様々な努力をしていたからでしょう。<br /><br /><br />(DSCF2930)

    クラーク博士の離別の時の様子を描いた絵画

    馬に乗ったクラーク博士が右上の紳士を指さしています。

    これはBoys, be ambitiousという言葉を残した際、クラーク博士はそれに続けてlike this old manと述べたという説があり、このold manとは中山久蔵のことだと言われています。

    中山久蔵は北海道での稲作を成功させていただけでなく、果樹園芸、牧場の経営、養鯉なども試みており、北海道における一次産業とその連産業の振興のため様々な努力をしていたからでしょう。


    (DSCF2930)

  • 水田址と赤毛種見本田<br /><br />中山久蔵が稲作に成功したのは明治6年のことで、当時は日本政府は北海道では稲作は不可能ないし不適と考え、酪農を推進しようとしており、稲作は禁止していたそうです。しかし、開拓使はそうした中山らの試みを黙認する形で支援していたそうです。<br /><br />田んぼの稲は、上川農業試験場に保存されていた赤毛種の種籾を使って現地の小学4年生が毎年栽培しているそうです。<br /><br />今回の旅行では、清華亭で偕楽園という産業試験場について知り、サッポロビール博物館で農業と関連産業の成功例を見るなどしたため、ここでも明治初期の産業振興の事例を知ることができ非常に興味深かったです。<br /><br /><br />(DSCF2900)

    水田址と赤毛種見本田

    中山久蔵が稲作に成功したのは明治6年のことで、当時は日本政府は北海道では稲作は不可能ないし不適と考え、酪農を推進しようとしており、稲作は禁止していたそうです。しかし、開拓使はそうした中山らの試みを黙認する形で支援していたそうです。

    田んぼの稲は、上川農業試験場に保存されていた赤毛種の種籾を使って現地の小学4年生が毎年栽培しているそうです。

    今回の旅行では、清華亭で偕楽園という産業試験場について知り、サッポロビール博物館で農業と関連産業の成功例を見るなどしたため、ここでも明治初期の産業振興の事例を知ることができ非常に興味深かったです。


    (DSCF2900)

  • 明治14年に天皇行幸の際に使用された部屋。<br /><br />奥が天皇が昼食をとった部屋で、手前は従者2名が昼食をとった部屋です。それ以外の付き添い者は全員外で食べたそうです。<br /><br />明治14年にはここはまだ正式に駅逓所にはなっていませんでしたが、中山久蔵はこの地でホテル業なども営んでおり、明治6年に開通した札幌本道沿いに、札幌からも16キロほどと適度な距離にあったこともあって選ばれたようです。<br /><br />なお、この部屋は建物に向かって右側の一角にあたりますが、この部分は天皇行幸のために増築されたものです。<br /><br /><br />(DSCF2949)

    明治14年に天皇行幸の際に使用された部屋。

    奥が天皇が昼食をとった部屋で、手前は従者2名が昼食をとった部屋です。それ以外の付き添い者は全員外で食べたそうです。

    明治14年にはここはまだ正式に駅逓所にはなっていませんでしたが、中山久蔵はこの地でホテル業なども営んでおり、明治6年に開通した札幌本道沿いに、札幌からも16キロほどと適度な距離にあったこともあって選ばれたようです。

    なお、この部屋は建物に向かって右側の一角にあたりますが、この部分は天皇行幸のために増築されたものです。


    (DSCF2949)

  • 天皇行幸時に使った部屋の畳。<br /><br />畳の縁のこの図柄は天皇や皇族のみが使用を許されるもので、一般人が見ることができるのは、ここ旧島松駅逓所と京都御所だけだとのことです。<br /><br /><br />(DSCF2916)

    天皇行幸時に使った部屋の畳。

    畳の縁のこの図柄は天皇や皇族のみが使用を許されるもので、一般人が見ることができるのは、ここ旧島松駅逓所と京都御所だけだとのことです。


    (DSCF2916)

  • 写真手前側の部分が天皇行幸用に明治14年に増築された部分で、それ以外の部分は明治6〜13年に建てられたものに、以後、小規模の改築が行われたものです。<br /><br />入口より左側(写真奥側)が中山久蔵の居住エリアで、中央部分は旅客の宿泊部屋(4部屋)となっています。<br /><br /><br />(DSCF2905)

    写真手前側の部分が天皇行幸用に明治14年に増築された部分で、それ以外の部分は明治6〜13年に建てられたものに、以後、小規模の改築が行われたものです。

    入口より左側(写真奥側)が中山久蔵の居住エリアで、中央部分は旅客の宿泊部屋(4部屋)となっています。


    (DSCF2905)

  • 突き出した小さな屋根の部分は煙を出すためのものです。<br /><br /><br /><br />(DSCF2908)

    突き出した小さな屋根の部分は煙を出すためのものです。



    (DSCF2908)

  • 入母屋の下に囲炉裏があります。<br /><br />屋根の構造が直に見えるなど、比較的簡素な作りです。<br /><br /><br />(DSCF2932)

    入母屋の下に囲炉裏があります。

    屋根の構造が直に見えるなど、比較的簡素な作りです。


    (DSCF2932)

  • 宿泊用の部屋<br /><br />駅逓所となる前からこの建物は宿泊所として使用されており、駅逓所の機能の一部を担っていました。<br /><br /><br />(DSCF2951)

    宿泊用の部屋

    駅逓所となる前からこの建物は宿泊所として使用されており、駅逓所の機能の一部を担っていました。


    (DSCF2951)

  • 明治6年に開通した札幌本道を示した図<br /><br />室蘭から森までは連絡船で繋がれており、通常の道路ではなかったということがわかり驚きました。<br /><br />駅逓所は約半日分の行程で設置されており、距離にすると16〜20km毎位に置かれているそうです。札幌から島松、島松から千歳がそれぞれ約16kmであり、札幌を出た天皇は島松で昼食をとることになったようです。<br /><br /><br />(DSCF2922)

    明治6年に開通した札幌本道を示した図

    室蘭から森までは連絡船で繋がれており、通常の道路ではなかったということがわかり驚きました。

    駅逓所は約半日分の行程で設置されており、距離にすると16〜20km毎位に置かれているそうです。札幌から島松、島松から千歳がそれぞれ約16kmであり、札幌を出た天皇は島松で昼食をとることになったようです。


    (DSCF2922)

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