2012/04/01 - 2012/04/01
1226位(同エリア2040件中)
滝山氏照さん
関東管領山内上杉氏重臣で武蔵守護代であった大石氏の築城とされる浄福寺城(じょうふくじじょう、東京都八王子市下恩方町)を訪問しました。
大石氏は出自が信濃国大石郷で木曽義仲の後裔とも伝えられ、上杉憲顕(うえすぎ・のりあき、1306~1368)が従兄弟の足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)からの追放を受け信濃に逼塞していた頃から仕えていた家人で室町幕府の関東出張所ともいうべき鎌倉府2代目公方に就任した尊氏四男の足利基氏(あしかが・もとうじ、1340~1367)の召還によって関東管領職に着任、大石氏は鎌倉府警護のため上杉憲顕の命によって出仕したと思われます。
その後上杉憲顕は関東管領を務める中、前任者の越後国・上野国・伊豆国の守護職を引き継ぎ、大石氏は上杉氏を支えて行動するなどして、次第にその力量を認められ武蔵・上野・伊豆の守護代を歴任するに至ります。
ところが小田原北条氏二代目氏綱(うじつな、1487~1541)の武蔵南部進出、とりわけ大永4年(1524)江戸城奪取を機に多摩地域に対する顕著な脅威が高まり、大石氏は南部は相模国座間から北部は武蔵国所沢の支配地域の強化をはかり戦国領主への脱皮をめざします。
一方小田原北条氏三代目氏康(うじやす、1515~1571)の代になると武蔵支配の浸透が強まり、天文15年(1546)河越合戦では奪取を目指す扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ、1525~1546)の討死と同家滅亡、古河公方足利晴氏軍の敗退とともに大石氏主家である関東管領山内家上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)の上野国平井城への敗走とその後の越後長尾氏への支援依頼する状況に陥り、以降は小田原北条氏の勢力は武蔵北部に及ぶ事になります。
河越合戦で主家である山内上杉氏の大敗北を目の当りにした大石氏は新旧勢力の変遷を認めざるを得ずその結果、北条氏康の三男氏照(うじてる、1540~1590)を大石氏の養子に迎え入れ家督を譲り小田原北条氏の軍門に下ることとします。
上述の如く大石氏家督を譲り受けた氏照は養子先の由井源三(ゆい・げんぞう)と名乗り滝山城に入り、家督を譲った大石憲重(おおいし・のりしげ)は浄福寺城に移ったと言われています。(但し当城は由井城とも呼ばれた理由で氏照が最初に入城したのは当城との説もあります)
地勢的には多摩川の支流である北浅川がVの字に東西を流れる平地に急涯が北から南に迫る山岳の山頂を主郭とする典型的な山城です。
案内地図を見ますと主郭から四方に延びる痩せた尾根が走り、要所に堀切を設け、手狭ながらも平地を所々造り、居住性は無く敵からの防御を最優先に考慮した実践的な城と言えます。
ところで居館の位置については未だ確定はなされていませんが、山城東側の麓で現在の下恩方町上宿(しもおんがたまちうえじゅく)であろうと想定されています。
1994年都道拡幅の為事前発掘調査では、幅約4m、深さ約1m以上の溝が50mの長さで発見され、この溝を東端として平地が確保され、この中に中世の石造物が散見されてるとの事ですが詳細は今後の調査に期待をするところです。
2023年6月4日追記
浄福寺の一角に建てられた説明板には次の通り記述されています。
「 市指定史跡
浄 福 寺 城
所 在 地 八王子市下恩方町3259
指定年月日 昭和47年1月27日
浄福寺城は別名新城、千手山城などと呼ばれ、関東山地から続く丘陵尾根の東端を利用して築かれた山城です。この城については不明な点が多く、築城年代は定かではありません。築城者は江戸時代の地誌によると、大石氏といわれています。
大石氏は木曽義仲の子孫といわれ、関東管領上杉氏の武蔵守護代を務めた多摩地域の有力領主です。高月城や滝山城など築城したといわれています。
城跡には尾根を切って作られた堀切や段上に作られた曲輪など多くの遺構が見られ、中世城郭として、また大石氏の経緯を知るうえにも貴重な城跡です。
平成25年3月28日
八王子市教育委員会 」
また、浄福寺に関する説明については当該寺のHPに次の通り紹介されています。
「浄 福 寺 の 歴 史
武蔵風土記によると、当寺は樽見郡御所村(現:埼玉県吉見町)の息障いんの末寺でした。
開山は、文永年間(1260年代後半)と言われ、開山の祖は広恵上人です。広恵上人の父は、永らく子どもが授かることができなかったが、千手観音に祈りを重ねたところ子どもが授かりました。その後、その子どもは僧侶となり名を広恵と改めたと言われています。ある時、広恵大師が夢の中のお告げにしたがい、旅をした最中、この里で千手観音と巡り合い、その縁にしたがいお堂を建てたことが浄福寺の始まりです。
その後、大永年間(1520年代)に木曽義仲の末裔である大石道俊が、この地に居城を構えました。大石道俊は後継となる子どもが居なかったことから、この千手観音に祈りをささげたところ、子どもを授かったそうです。この子どもが、後の大石憲重です。その後、大石氏は、北条氏康の力を借り、滝山城に居城を移しました。
戦国末期には豊臣秀吉による八王子城攻めにも戦火を免れ、天正年間より江戸時代に至るまで、御朱印10石を受け、境内11390坪に加え、寺領・堂宇を整えました。周辺地から山梨県にかけて末寺14ヶ寺を数えたと言われています。
当寺の中興開基の祖は、長尊法印(永禄四年寂)です。本尊両脇には両部曼荼羅、杉戸には狩野派の絵師による壁画、宝物の中には密教の秘宝を伝授(灌頂)するための曼荼羅があることからも江戸時代には大きな規模の寺院であったことがうかがえます。戦争・天災などの災厄があったものの、その法灯は連綿として450年以上守り続けられています。』
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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浄福寺標石
山号は「千手山」、多摩八十八ケ所第六十六番霊場と刻印されています。
尚交通は西東京バスにてJR八王子駅から大久保行に乗り約30分、終点で下車しますとすぐ隣が浄福寺です。 -
浄福寺文化財紹介
説明では当寺の背山を本拠としていた大石源左衛門入道道俊及び子憲重を大檀那として時の別当権少僧都長尊が大永5年(1525)12月に創建したとあります。 -
浄福寺本堂
質素ながらも重厚な本堂が見えます。 -
本堂扁額
山号は「千手山」、社号は「浄福寺」となっています。 -
落着いた境内
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梅の花と境内
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登城通路
いったん境内を出て椿の樹木が立ち並ぶ石垣を歩きます。 -
浄福寺・新城址入口
浄福寺城跡への通路に立て看板があります。「新城(にいじょう)」と記載される由縁としては大石氏代々はそれまで高月城(たかつきじょう・八王子市高月町)に城居していましたが新たに当地に城を構えたためと言われています。 -
観音堂
細い登城道路を上がりますと小さな平坦部に小規模の観音堂が現れます。 -
観音堂周辺
観音堂から振返ると今までの階段が急な登りであることがわかります。 -
痩せた尾根道
尾根の左右は角度の高い傾斜となって一度落ちると這い上がる事は困難です。 -
尾根景観
左右の木立に挟まれて細い尾根が直進的に続きます。 -
尾根景観
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尾根景観
深い谷間となっています。 -
尾根周辺
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尾根周辺
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尾根周辺
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平坦部
尾根を歩きますと狭いながらも平坦部が現れます。 -
二の郭
やや狭い平坦部の二の郭が拡がります。 -
主郭
二の郭から主郭を見上げますと盛り上がった先の中央に何かがかすかに視野に入ります。 -
主郭
中央部に古い祠が建立されています。 -
主郭拡大
旧省庁名記載の標柱の横に祠が建ち、その周辺には石が配置されています。 -
主郭
主郭の平坦部は居住するには広くはなく、あくまでも緊急避難的な所という位置付けとなります。 -
尾根周辺
帰りは今来た尾根伝いに歩きます。 -
平坦部
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平坦部
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堀切
大きな堀切が造られ、敵の侵入を防ぐ堀切が所々に見られます。 -
堀切
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堀切
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圏央道
帰路の道を迷ったようです。眼下に圏央道が確認できます。 -
尾根
再び尾根伝いに帰りますが、心当たりのない道を歩きます。 -
浄福寺裏山
下山後、墓地から裏山を見渡します。樹木に覆われて位置関係が定かではありませんが、特に厳しい尾根を有するようには見えません。 -
恩方事務所
八王子市は広がりがありますから、市役所の出張所が多数あります。恩方事務所もその一つです。すぐ右手には圏央道が高架で走っています。
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