2012/03/15 - 2012/03/15
345位(同エリア747件中)
滝山氏照さん
慶長5年(1610)徳川家康の命を受けて、土井利勝(どい・としかつ、1573~1644)が佐倉に入封、翌慶長6年から7年の歳月をかけ佐倉城を築城し、その周辺に城下町を形成してゆきます。
土井利勝以降の歴代城主は佐倉城が江戸防衛の東の要衛としての立場から譜代大名の中でも堀田家のごとく有力大名が配置され、幕府の老中職に就任することしばしばで「老中の城」とも呼ばれるほどでした。
今回散策した教安寺、宗円寺並びに甚大寺は当然ながら歴代の城主たちとの関係が深いでしょうから各社寺の創設の背景について興味深々でしたが創設に至る経緯等がよく理解できました。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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教安寺(きょうあんじ)
正式にはニ尊山東專院教安寺といい京都知恩院を総本山とし東京小石川傳通院を本寺とします。
寛永2年(1625)佐倉城主土井利勝が将軍家よりの預り人である花井左門(後に松平左門と称す)が妻室の東專院松誉春貞大姉の菩提のため、厭誉道波上人を開山に迎えて、当地に建立しました。 -
教安寺境内
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鐘楼
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金銅地蔵菩薩坐像
銘文によればこの像は享保6年(1721)「三界万霊供養」のため造立され蓮座に浄財供養の140余名の零名が刻されています。 -
宗円寺(そうえんじ)
堀田正盛が弟安利の冥福祈って創建、寛永19年(1642)信濃国松本藩から当地に転封してきたのに伴い移転されたお寺です。
主に旧佐倉藩士たちの墓所があり、佐倉順天堂創始者である佐藤泰然(さとうたいぜん)や佐倉藩家老の香宗我部(こうそかべ)家など要職にあった人々の墓所があります。 -
宗円寺本堂
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殉職顕彰の碑
千葉県巡査部長である戸村芳蔵の殉職を顕彰碑です。
明治25年(1892)佐倉を襲った痘瘡に対し検疫・消毒等を施し住民を護ったとして警察官として功績を称えるために碑を建てられました。 -
佐藤泰然(さとうたいぜん、1804〜1872)墓石碑
順天堂設立者です。江戸時代の蘭方医で藩主堀田正睦の招聘で江戸から佐倉に移住、病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設します。その後功績が認められ佐倉藩医となりますが後に家督を養子の佐藤尚中(たかなか、1859〜1875)に譲ります。順天堂を引継いだ尚中は明治8年(1875)東京湯島に順天堂医院を設立、初代院長となります。 -
甚大寺(じんだいじ)
正式には安城山不衿院甚大寺で天台宗です。
創建時期は不詳ですが、元は出羽国山形にあって山形城主であった堀田正亮が佐倉に転封を機に当地へ移されました。当寺は佐倉藩主堀田家の菩提寺とされています。 -
堀田正睦(まさよし)公追遠の碑
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堀田家墓所入口
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堀田家墓所案内図
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堀田正倫(まさとも、1851~1911)墓
最後の佐倉藩主で明治2年(1869)藩籍奉還後、佐倉藩知事に任命されましたが、2年後の廃藩置県により任を解かれ、明治20年(1887)まで東京在住を余儀なくされます。
明治23年(1890)、佐倉に邸宅を新築し移り住み、その後は藩校の流れを汲む学校の運営にに私財を投じて援助をする他邸宅の一角に農事試験場を設けて、教育や産業に貢献しました。 -
堀田正睦(ほった・まさよし、1810~1864)墓
安政2年(1855)老中首座となりアメリカと初めとする開国要求に際して開国へ導く大役を果たすも、将軍継嗣の件で大老井伊直弼と対立、安政6年隠居を命ぜられ、更に安政の大獄では開国を罪として蟄居の刑を受けますが佐倉城にて死去します。 -
堀田正俊(ほった・まさとし、1634~1684)墓
第3代将軍家光時の老中堀田正盛の3男、家光嫡男竹千代(後の徳川家綱)の小姓として活躍します。
家光死去に父正盛は殉死、遺領のうち下野新田1万石を分与され守谷城1万3000石大名となります。
綱吉が第5代将軍に就任、天和元年(1681)大老に任ぜられ財政面において成果をあげるも、貞享元年(1684)若年寄稲葉正休に江戸城内で刺殺される。 -
歴代堀田家藩主幟
甚大寺を出て商店街を歩きますと歴代の堀田家藩主名を染め抜いた幟が通りの左右に取り付けられています。
藩主としての任期が長かったことも理由の一つでしょうが、善政を施した藩主への崇敬もあっての事でしょう。
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