2012/03/05 - 2012/03/05
139位(同エリア261件中)
滝山氏照さん
JR常磐線石岡下車、当地は7世紀より常陸国の政治・軍事の中心地として栄え、駅前通りを歩くと歴史散策コース案内標示が見えてそれに従って見学をしました。
いずれも石岡駅から2~3Kmの範囲で古墳時代から江戸時代に至る長い歴史を短時間ではありましたが有意義でした。
茨城県観光協会がせ作成した説明には下記の通り紹介されています。
『石岡市の歴史は古く7世紀に建国された常陸国(11郡)の中心である常陸国府が市内に整備されました。
関連設備である常陸国分寺や常陸国総社宮(常陸一ノ宮の鹿嶋神社と同格に位置づけられた。)も建立され政治、軍事、文化の中心的役割を持っていました。
中世に入りますと水戸城から追われた大掾(だいじょう)氏は府中城を居城として周辺を支配しますが戦国時代末期、豊臣秀吉に臣下の礼を取った佐竹(さたけ)氏が常陸統一を果たし大掾氏は衰退します。
佐竹氏は関が原の合戦で東西中立を保った為、秋田へ移封され替わって出羽六郷(秋田県美郷町六郷)から六郷氏が1万石で府中藩を立藩します。
元和8年(1662)に最上騒動が起こり最上家が改易、山形城受け取りを行った本多正純が宇都宮城釣天井事件により態度を硬化した為改易となり、最上領の一部である本荘(由利本荘市)に六郷氏が2万石で入ります。
府中には皆川氏が信濃飯山より1万8千石で入り、元禄13年(1700)には徳川家康11男で水戸徳川初代藩主徳川頼房の5男松平頼隆が2万石で入り藩主となります。
松平氏は水戸徳川家の分家の立場だった事もあり城郭ではなく陣屋を構えるに留まり、定府大名だった事もあり基本的には江戸詰めで参勤交代などありませんでした。
府中松平家は10代まで続き明治維新を迎えます。茨城県観光協会 』
- 交通手段
- JR特急 徒歩
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JR常磐線石岡駅
「茨城県名発祥のまち」と記載の案内板が立ってます。 -
愛宕神社鳥居
祭神は迦具止命(かぐつちのみこと)。多くの神々を生んだ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が最後に生んだ火の神。創建時代は不詳。愛宕神社は、幸町の古墳の上にあり、そこから移されたものだと伝えられている。近世になると旧暦7月2日に愛宕祭礼が行われていた。風流物は、「子供踊」「ほうさい念仏踊」「富田のササラ」「木之地のみろく」「土橋の大獅子」などであり、また古記録によると、享保~天明年間(1716~1788)に町内を神輿が巡幸していたとある。水戸天狗党の謀将薄井龍之(うすいたつゆき)が境内で私塾を開いていた。 石岡市教育委員会 -
愛宕神社・拝殿
素朴な佇まいです。 -
愛宕神社・扁額
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愛宕神社・境内
拝殿から鳥居方向を捉えます。 -
市街の旧建物
年代を思わせる立派な建物です。今では酒の販売店となっています。 -
常陸国総社宮
(由緒)
創建時代を詳にせずと雖平安時代には晋く全國國府の地に鎮座ありしこと明らかなり。當社の傳に依れば聖武天皇の天平年間勅令によって天神地祇の中霊験の御神を國内六府の地に合祀せられ以て國家鎮護皇室守護を語祈願あらせられしに依り東國に於いては往古より國府の庁ありし此の地の神石の辺りに御造営ありしとなし。
即ち當社は我國最古の総社の一にして往昔常陸國総社宮と称ひ奉りて世々の國司祭政一致の大典に基き奉齋の誠を致し、当時官社に列し一宮鹿島神宮と相並びて朝廷及鎌倉将軍家の奉幣ありし事所蔵文書に明らか也。戦國兵乱の世となりては大しょう氏の崇敬篤かりしも後江戸時代には郷閣の産土神として朝野の信仰深く明治4年郷社に列し仝31年県社に昇格せり。
古来武将の尊崇深く、弘安役に於ける敵國降伏の祈願を始め永享年間には
太田道灌陸奥下向の途次当社に参籠武運長久を祈願せられ左の和歌を詠ぜる
「曙の露はおくかも神垣や榊葉白き夏の夜の月」
(宝物)
1. 治承年間以後古文書47通
1. 36歌仙額
1. 軍扇 太田道灌入野左エ門佐竹義宣寄進
1. その他 弓矢 刀剣 古美術品
(参道案内板) -
常陸国総社宮・参道
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常陸国総社宮・遠望
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常陸国総社宮・山門
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拝殿及び本殿
拝殿(右手)に続く本殿が確認できます。 -
常陸国総社宮・拝殿
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常陸国衙跡・石岡陣屋門案内板
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石岡の陣屋門
石岡の陣屋門は、文政11年(1828)2月に建てられました。
元禄13年(1700)、初代水戸藩主徳川頼房(とくがわよりふさ)の五男松平頼隆(まつだいらよりたか)が府中藩主となり、以降明治維新に至る約170年の間、石岡地方は府中松平藩の支配下にありました。
府中松平氏は、水戸徳川家の分家として「御連枝」と呼ばれました。
江戸時代に代官その他の役人が在任した屋敷や役宅は、一般に陣屋あるいは、陣屋敷と呼ばれていました。
石岡の陣屋門は、本柱の上に切破風造の屋根がつき、本柱の控柱の上にも、本屋敷と直交してそれぞれ別棟の小屋根をつけ、扉と控柱とを覆っている高麗門の形式であります。
この門は、冠木と棟木間が土塁で閉ざされている高麗門に比べ、冠木が本柱を貫きとおし、また冠木と棟木間に格子を組み入れるなどの手法を見せています。 石岡市教育委員会 -
府中城の土塁
府中城は、正平年間(1346~1370)大掾詮国(だいじょう・あきくに)により築城されたといわれます。
天正18年(1590)12月大掾清幹(だいじょう・きよもと)が佐竹義宣(さたけよしのぶ)に攻められて落城しました。
落城後は、義宣の叔父佐竹義尚(さたけ・よしひさ)が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗(ろくごう・まさのり)がこれを領しました。
その後元禄13年(1700)松平頼隆(まつだいら・よりたか)が封じられ、この地に陣屋を置きました。
城の規模は東西約500メートル、南北約400メートル、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の打出丸、磯出丸、宮部出丸を備え、また、この土塁をめぐらした堅固な城郭でありました。
現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができます。
石岡市教育委員会 -
箱式石棺
この石棺は、石岡市北根本681番地より、昭和51年の発掘調査によって発見されたものである。
古墳は、今から焼く1300年前のものと推定され、一辺約13メ−トルの方形をあらわした古墳で、周囲に幅1.5メ−トル、深さ60センチメ−トルの溝をめぐらしている。
石棺は、扁平な板石を組み合わせた箱式石棺で、蓋石5枚、側石8枚、妻石2枚の計15枚でつくられており、床石には15センチメ−トルの小石を敷きならべている。
石棺内部には、人骨二体が埋葬されており、初め一体を埋葬し、後にもう一体を埋葬するという追葬の形式がとられていることが確認された。
関東における箱式石棺の分布をみると、茨城県に最も多く、なかでも霞ヶ浦周辺に濃密な分布をしめしている。
年代的には、古墳時代後期(約1500年前)頃から出現するのであるが、本古墳のように飛鳥、奈良時代に入ってつくられたものの方が、数多くみられる。(石岡市教育委員会 説明) -
風間阿弥陀(かざまあみだ)
石岡小学校の敷地内にある砂岩製の一石五輪塔です。
応永30年(1423)、常陸平氏の一族である小栗氏の居城である小栗城(現在の筑西市)を失った際、その家臣である風間氏が府中(現在の石岡市)に居を構えていた大掾氏を頼って逃げてきました。
風間氏に伝わる古文書によると、この阿弥陀は、そのとき小栗城より持参したものとされます。以来、風間氏の屋敷内に安置されてきましたが、近年、石岡小学校の敷地内に移されました。
(石岡市教育委員会 説明) -
イチオシ
常陸国府跡
常陸国衙の成立は、8世紀初頭前後です。
国衙の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・行方・鹿島・茨城の11郡を統括していました。
国衙には国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や倉庫群などさまざまな建物がありました。
昭和48年、石岡小学校の改築に伴い発掘調査が実施され、多くの大型の柱穴が発見されました。
その後、平成10年から11年にかけてのプ?ル建設に伴う発掘調査では、掘立柱建物跡、溝跡などが発見されました。
この調査は引き続き平成13年度から6次にわたり行いその結果、この石岡小学校の校庭に国庁が存在していた事が判明しました。
国庁は南向きに建てられており、東西に平行して脇殿があります。
正殿の南に前殿を配し、四方を築地塀で囲んでいます。
また一時期、東西に楼閣が建てられた時代もあったと思われます。
全国の例と同様にそれらの建物配置は左右対称です。
さらに時代が下がると掘立建物から礎石建物に変わってゆきます。
石岡市教育委員会 -
石岡市民俗資料館
石岡小学校敷地内に資料館があります。 -
歴史散策案内板
JR石岡市の近隣に多数の歴史散策地が点在しています。散策した日はあいにくの雨天でしたが、距離が短く移動に苦労は感じませんでした。 -
照光寺
「照光寺(しょうこうじ)は常陸大掾高幹(だいじょうたかもと)を開基とし、良善上人を開山として、応安7年(1374)鹿の子の地に創建されたと伝えられています。
第12世良夢上人(りょうむしょうにん)の時、大掾氏が佐竹義宣のために滅ぼされ、寺院は兵火にあって焼失しました。
その後、佐竹義宣の叔父佐竹左衛門尉は、円通寺より称往上人を招き、第13世として寺の再興をはかり、鹿の子よりこの地に移しました。
敷地はもと府中六名家(金丸・弓削・税所・香丸・中宮部・健児所)のひとつ香丸氏の屋敷の跡と言われています。
石岡市教育委員会」 -
照光寺・本堂
「照光寺は常陸府中藩主松平家の菩提寺です。
府中松平家は初代水戸藩主、徳川頼房の五男頼隆(よりたか)を祖とします。
元禄13年(1700)頼隆は、陸奥国岩瀬郡長沼など18箇村、常陸国新治郡府中など19箇村合計2万石を与えられ、「御連枝」(ごれんし)と呼ばれる水戸徳川家の分家4藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つとなりました。
府中松平家は本家と同じく定府制であり、上屋敷は江戸小石川にありました。
代々播磨守を世襲し、10代頼策(よりやす)のとき明治維新を迎えます。
歴代藩主の墓地は小石川総慶寺にありましたが、大正15年(1926)照光寺に移しました。
石岡市教育委員会 」 -
照光寺本堂・扁額
寺号である「照光寺」が揮毫されています。 -
常陸国府中藩主・松平家墓所
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常陸国府中藩主松平家・墓所石碑
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松平家・墓所(全景)
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松平家之墓石
墓石の位置がずれています。昨年の地震の影響かと思われます。 -
倒壊した墓石
墓石の一部が倒壊しています。 -
歴史に因んだ住所
「府中1丁目1ー1」と当地に因んだ住所となっています。その他「国府1ー3」という住所も見かけられます。歴史の深さを感じます。
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