2011/12/23 - 2011/12/23
2804位(同エリア3746件中)
ひま人さん
今年の大河ドラマは、サムライで初めて日本の覇者となった「平清盛」が放映されている。平清盛は白河法皇のご落胤とも言われている。その清盛の関わった京を歩いた。
散策コースとしては、三十三間堂、六波羅蜜時、六道珍皇寺、高倉天皇陵、清閑寺、安楽寿院、白川天皇陵を巡り、平安時代の清盛に思いをはせた。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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三十三間堂、正式には蓮華王院(国宝)といい、長寛2年(1164年)鳥辺山麓(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が寄進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3年(1266年)に再建された。長いお堂は和樣の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120mある。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体の観音像が祀られる。
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三十三間堂。
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三十三間堂東大門。
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三十三間堂の東側にある法寿寺殿跡。
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豊臣秀吉を祀っている豊臣神社。
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方広寺釣鐘、右上の白い部分に徳川側から問題にされた文字が刻まれている。
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六波羅蜜寺、応和3年(963年)に空也上人が開いたとされる真言宗智山派の古刹で、西国三十三カ所17番札所です。本堂は(国重文)南北時代の再建で、寿永2年(1183年)の兵火で本堂を除く他の御堂は焼失したといわれます。念仏を唱える口から六体の阿弥陀像を吐く空也上人像、経巻を手にした平清盛公坐像(ともに鎌倉時代の作で国重文)、他に平安・鎌倉時代の優れた彫刻を多く蔵しています。
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六波羅蜜寺。開山空也上人は「彼を先とし、吾を後とする情(こころ)を情とする」と説かれました。即ち無限に変化していく過程で瞬時のためらいも停止も許されない厳しさで六波羅蜜の行動を教えられておられるのです。
六波羅蜜とは、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」のことです。各々の説明は長くなるので省略しますが、座右の銘にしたいものです。 -
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)本堂、俗に「六度さん」で知られる臨済宗建仁寺派のお寺。空海の師である慶俊僧都の開祖といわれており、京都のお盆はこの寺の迎えの鐘ではじまります。昔、この寺が鳥辺野の葬場の入り口にあったことから、ここが、現生と冥界の接点つまり「六道の辻」と考えられ、『今昔物語』にもでてくる当寺のの迎え鐘によって精霊がこの世によみがってくると信じられてからです。
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六道珍皇寺、本堂裏の井戸には、小野篁が冥土へ通った入り口という不思議な伝説があります。
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六道珍皇寺、閻魔堂。閻魔大王像と小野篁像が合祀されています。
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清閑寺本堂、高倉天皇の「私が死んだら清閑寺へ葬ってくれ」と遺言で清閑寺のすぐ側に埋葬されました。
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高倉天皇陵。第80代高倉天皇(在位1168−80)は、後白河法皇の第7皇子、母は平滋子(平時子の妹)で、7歳で即位しました。高倉天皇在位中は平清盛の全盛時代で、天皇は父・後白河と清盛の反目に苦しみ、政務は後白河法皇が院政を敷いており、在位12年の後、高倉天皇19歳・徳子25歳の時に、中宮徳子(清盛の娘)の生んだ2歳の安徳天皇に譲位しました。
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安楽寿院。保延3年(1137年)、鳥羽上皇が鳥羽離宮の本殿を寺に改めたものです。当時は、加茂川近くまでの敷地に仏殿や寝殿造の諸堂が苑池中心にして立ち並び壮観でしたが、鳥羽伏見の戦いでその多くをなくし、現在残っているのは鳥羽本殿中でも近年再建された本堂、書院、鐘楼などです。ご本尊の鳥羽上皇の念寺仏といわれる阿弥陀如来像(国重文)は宝物館に安置されています。
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白河天皇陵、後三条天皇の第1皇子として天喜元年(1053年)に生まれました。延久4年(1072年)に即位、応徳3年(1086年)に鳥羽天皇に譲位しましたが、譲位後すぐに院政を始め、鳥羽に南殿を創建して院御所(鳥羽離宮)の造営を行い、堀川天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇時代の43年間の政治を仕切り、大治4年(1129年)崩御されました。
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