2011/05/25 - 2011/05/26
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frau.himmelさん
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2011年5月の九州旅行編がまだ終了しておりませんでした。
ちょうど他のもののキリがついたので、賞味期限は大幅にきれましたがアップいたします。
◆◇
風光明媚な人吉に大満足して、子守唄とカッパの里で癒されたあと、私達はいさぶろう号とはやとの風号に乗り鹿児島にやってきました。
-
鹿児島駅に着きました。
駅には友人夫婦が迎えに来てくれました。
久しぶりの鹿児島駅。
昔は西鹿児島駅って言っていたのに、いつの間にか鹿児島中央駅に変わったのですね。
しかも外に出てビックリ、駅ビルの上で大きな観覧車が回っているなんて…。 -
これから友人夫婦とともに食事に行くことになっています。
でもまだ食事時間には早いね、少しだけ城山公園に登ってみる?
と友人。
何年ぶりでしょうかここに来るのは…。懐かしいです。 -
でも残念ながら人吉を出る頃から雨が降っていて、今もまだ降り続いています。
視界が悪いかも知れないね。
ともかくこの階段を登って展望台に向かいます。 -
展望台です。
顔までくっきり見える(?)高倍率望遠鏡があります。 -
雨で煙っていますが、木々の間から鹿児島市内の景色が見えてきました。
-
錦江湾と桜島の方向です。
残念ですねー。
晴れていたらくっきりと桜島が顔を出していたでしょうに…。 -
ズームで撮っても、桜島の稜線がぼんやりと見える程度です。
でも眼下の市内の景色は比較的はっきり見えます。 -
お寺の方向
-
照国神社の大鳥居
-
駐車場前の公園。
島津斉彬公の銅像が小さく見えます。 -
展望台にはこんなものもありました。
-
「行幸記念碑」とあり、その下には小さく公爵島津忠○○○…と
よく読めません。
どなたが行幸なさったのでしょうね?
追記
横浜臨海公園さまより 公爵島津忠義海軍少将のことではないかと情報をいただきました。
とすれば、行幸なさったのは明治天皇ですね。
横浜臨海公園様 情報ありがとうございました。
-
これははっきり読めます。
「皇太子殿下御手植公孫樹」大正九年三月二十六日 とあります。
と言うことは、大正天皇の時の皇太子殿下、つまり昭和天皇が柵の中の木をお植えになったのですね。
ちなみに「公孫樹」とはイチョウの漢名だそうです。 -
城山公園展望台から次にやってきたところはここ。
ちょっと見慣れない西郷隆盛の銅像が立っています。 -
この洞窟の中に「目で見る西南戦争始末記 三十六景」が展示されているんですって。
「せごどん」というのは西郷さんのことで、この洞窟は隣のお土産屋さんが出しているもののようです。
◆◇
西南戦争とは、簡単に言えば、
徳川幕府解体後、明治新政府の官軍と、新政府に不満を持つ西郷隆盛を中心とする薩摩軍との内戦です。1877年に起きました。 -
どうせ土産物屋さんが宣伝を兼ねて展示しているものなんて大したことはないだろう、と高を括っていました。
ところが意外にも面白かったのです。
洞窟の中に入ります。
なお、この洞窟は西郷隆盛が最期を迎えた西郷洞窟ではありません。 -
中にはガラスのショーケースがあり、その中に西南戦争勃発から西郷隆盛の最期までの絵が36枚飾られていました。
◇◆
西郷隆盛を総大将とした薩摩軍は、兵13,000人を従え東京に出発します。ところが熊本城の政府軍の抵抗にあい、熊本城を包囲して戦闘が開始されます。 -
絵だけではなく、「城山・岩崎谷・西郷洞窟物語」なるものもあり、読んでいるうちに面白くて惹きこまれてしまいました。
ちょっと長いですが絵と一緒にご紹介します。
絵と文章とは連動しておりませんが悪しからず。
◇◆の下の文章は私の勝手な解釈です。 -
城山・岩崎谷・西郷洞窟物語 山田尚二
明治十年二月一万五千人で出発した西郷軍は九月一日僅か四百人になって帰ってきた。
政府軍はすぐさま西郷軍をおって続々鹿児島に集結してきた。
西郷軍は二百九十名の兵を一番隊から十三番隊と狙撃隊を分けて城山に立て篭った。四・八・九番隊は欠番だったがそれは死・破・苦の音を避けたのだろう。
◆◇
政府軍は、薩軍を反乱軍として征討軍4万の兵士を九州に差し向けました。
そして、官軍と薩軍のあの有名な「田原坂の戦い」が繰り広げられるのです。
下の絵は、官軍の乃木希典が軍旗を薩軍に奪われたところです。 -
城山を取り囲んだ政府軍は八旅団、一艦隊の六万人余であった。それは第一、第二、第三、第四、別働第一・別働第二、新撰旅団、熊本鏡台・川村艦隊であった。
西郷は九月六日から十日までは野村宅後の洞窟に、十日から十三日までは馬乗馬場の鹿柴に米粟の俵を積んだ上に杉葉を葺き雨露を凌いでいたが十三日から十九日まで再び野村宅後の洞窟に移った。
◆◇
政府軍と薩軍は、玉名、鹿本で激突し、田原坂の戦いは、3月4日から3月20日まで展開された。 -
この頃になると政府軍は一日七〇〇発以上の砲撃をするようになった。そこで現在の岩崎谷の洞窟の所に十九日に新たに一洞を掘って移った。これが今日の西郷洞窟である。近くに九ヶ所洞窟があり桐野利秋・村田新八ら幹部や本営の評議所となっていた。
◇◆
人吉の士族は薩軍に加わり官軍と戦いました。子守唄の里、五木でも戦いが繰り広げられたようです。 -
九月十四日西郷は下僕の池平仙太を呼びつけ暇を与え、西郷家(イト夫人の所)に帰るように命じた。仙太は城山に残りたいと願い出たが西郷は赦さず帰る支度を命じた。
仙太は帰り支度を終え西郷に伺った。「先生の品物の中に名刀三振りと金子二万三千円余りがあります。何を持って帰りましょうか」西郷は「名刀一本だけ持って帰れ、後は残しておけ」と云った。
仙太は「二、三千円くらい持ち帰り御方様に差し上げたら」と申し出たら、
「馬鹿奴!この金は自分の手元金ではあるが 私学校の軍資金だ」と一喝した。
◆◇
薩軍は兵力にものを言わせる官軍にことごとく破れ、人吉に退却します。
人吉の永国寺(ゆうれい寺)に本部を置き、ここで陣頭指揮を取ることになりました。
城に逃げ込んだ薩軍と、球磨川をはさんで対岸の官軍と戦いますが、劣勢に追い込まれます。 -
仙太は「どの道から出られるか」聞いた。西郷は「この山を西に向かって草牟田に出て西田方面に出たらまだ道があいている様子だ」と言い聞かせた。仙太は西郷の指示に従って無事城山を脱出した。政府軍の城山包囲網は十四日まではまだ未完成であったのである。
政府軍の総攻撃が近づいた二十二日 西郷は隊員二百九十名の名簿を清書した。死んでいく者の名前だけでも残そうと考えたのであろう。幹部名は書かなかった。
政府軍は城山攻撃隊を各旅団から選抜した。それは第一次八百人、第二次九百人からなっていた。九月二十四日午前四時 号砲を合図に政府軍選抜隊は総攻撃を開始した。
西郷軍は三百六十名で小銃は百五十挺だけだった。西郷軍は第一旅団、第二旅団、第三旅団、第四旅団、別働第一旅団、別働第二旅団、新撰旅団、熊本鏡代台兵の圧倒的兵力、火力の前に次々と壊滅していった。
◇◆
上の絵は、永国寺。
33日間永国寺で陣頭指揮を取っていましたが、政府軍の総攻撃により人吉からも退却を余儀なくされます。 -
草牟田から進んだ別働第二旅団がいち早く岩崎谷の陵線上に達した。岩崎谷口は第四旅団が保塁や暫壕、竹棚を廻らし、水も漏らさぬ警戒線を敷いていた。政府軍の各隊が岩崎谷ににじり寄って来た。
西郷軍は各所で突っ込んで行ったが、皆、銃弾で射抜かれたり、銃剣で突き殺されたりした。「降参」といって手を上げる者も多かったが東北出身の兵は、戊辰戦争のあだ討ちということでかまわず撃ったという。
午前六時過ぎ桐野・村田・池上・別府・辺見ら幹部と各方面から退却してきた者たちが岩崎谷の洞窟前に集まった。
縞の単衣の筒袖に白縮緬の兵児帯を締め山かけ脚絆に新しい草鞋をつけた西郷はおもむろに洞から出て一語も言わず岩崎谷口の方に歩き始めた。
道は細く西郷らは一列となって下りはじめたが山陵から集中砲火を浴びることになった。
◆◇
西郷軍はその後、小林・都城方面、そして宮崎から延岡・大分と敗走し、九州山地を通って鹿児島へ帰り、城山に立て籠りました。
城山の立て籠もり後は、文章を参照してください。 -
一同は三々五々に分かれて走った。桂久武が最初に被弾して倒れた。
島津応吉邸門前(岩崎谷荘北隣)まで来た時、西郷は太腿と左横腹に弾をうけどっかと座り込んだ。
西郷は別府晋介に「晋どんここでよかろう」と言い切腹もせず介錯させた。
午前七時であった。
西郷の首は折田正助の門前の溝の中に埋めかくされた。
「先生が死んだ」と大声がこだまして桐野利秋・村田新八・池上四朗・辺見十郎太・山野田一輔・高城彦之丞ら四十余人は岩崎谷口の保塁に突進しその前の凹地で枕を並べて玉砕した。午前八時であった。 -
この戦いで西郷と共に死んだ者百六十人、傷つき捕虜となったもの二百人であった。
政府軍は道路の傍で西郷の死体を発見したがその首はなかった。
そこで第四旅団に降伏した捕虜を詰問し漸くかくし場所を知り午前九時、第四旅団遊撃隊の兵卒前田恒光が発見したという。
その時、三好少将が乗馬で駆けより「決して無礼な挙動をするな」と言いつけ急いで帰り山県有朋参軍に報告した。
◇◆
洞窟の中にはこんなお墓もありました。西郷隆盛と共になくなった兵士の霊でも祀ってあるのでしょうか。 -
山県参軍は竪馬場の本営でその首を丁寧に水で洗わせ諸将に向かって
「西郷翁の顔は実に穏和ではないか。二百日余も自分に安心するいとまを与えなかったのは翁である。今やっと自分は安心することができる。しかしながら翁は天下の豪傑である。そして自分を知る者翁以上の人はなく 翁を知るものも自分以上のものはない。残念なのは翁を今日の状態まで追い込んだ時勢の流れである」
と言い暫くその壷に黙祷を捧げていたという。
正午過ぎ一天にわかにかき曇りしのつく雨が城山一帯を襲った。豪雨が忽ちにして西郷軍の血まみれの死体をきれいに洗い流してくれた。
平成五年七月十六日(筆者は西郷顕彰館々長) -
この展示物を提供してくれたお土産屋さん。
骨董品などが置いてあります。 -
-
友人の車で食事のお店に行きます。
車窓から西郷隆盛の銅像が見えました。
さて、友人はどんなところに案内してくれるんだろう?
「何が食べたい?」って聞いていたので
「郷土料理がいいなー」って答えていたのですが…。 -
ここにも「西郷南洲翁終焉百年之碑」という字が見えます。
後ろの建物は鹿児島中央公民館、昭和2年に立てられた古い建造物です。
戦災により一度焼失しましたが、改修されたものだそうです。
市内には歴史の足跡があっちこっちに残っています。
ゆっくり時間をとって、そんな明治幕開けの歴史を辿ってみたいものです。
追記
この項も横浜臨海公園様に情報をいただきました。 -
車はドルフィン・ポートというテーマパークのようなところに着きました。
聞くと、最近出来た人気スポットとのこと。
いろんなイベントなんかも開催されるらしいです。
ここに郷土料理屋さんがあるのね。 -
足湯みたいなところもあるし…。
霞んでよく見えませんが目の前は錦江湾なのです。 -
故郷市場ーふるさといちばって読むのでしょうかーがあるらしい。
ここにキビナゴとか黒豚とか書いてあるので、なるほど郷土料理屋さんがあるのね。 -
中に入るとそこは道の駅みたいなところでした。
近くの農家で採れた野菜とか、水揚げされたばかりのお魚とか…。
鹿児島らしいと思ったのは「さつま揚げ」が売られているところ。 -
ちょっとお土産を買いたい気もしますが、まだ生ものはちょっとねー。
-
あー、わかったー。
ここに「みなと食堂」ってあるからここで食事をするのね!。 -
友人夫婦は私の思惑など関係なく2階に上がっていきました。
2階は広いテラスのようになっていて、目の前には雨で曇った桜島がぼんやりと見えます。お天気が良かったらねぇー。 -
ずーっとレストランが続いています。
友人に思い切って聞きました。
「ねー、今日はいったい何を食べさせてくれるの?」
そしたら「ケイハン」ですって。
「ケイハンって…??」 -
つれて来られたところがココ。
奄美大島の郷土料理屋さんでした。
私がキョウドリョウリ、郷土料理って騒いでいたので随分探したみたいです。
鹿児島の人にとっては私達の言う郷土料理って家庭料理みたいなものなんですものね。だから特別に思わなかったようです。 -
でもとってもおしゃれなお店でした。
壁は、エリンギみたいなきのこがニョキニョキ出ているような装飾。
私的にはちょっと気持ち悪いけど…。 -
友人夫婦は飲めない人なのでノンアルコールビールを。
私はたしかシークワーサーサワーでした。
お通しはゴーヤチャンプルー。 -
夫はお店の人お薦めのこの奄美黒糖焼酎を…。
美味しいって随分すすんでいましたね。 -
新鮮なお刺身もいただきます。
キビナゴがはいっている…。 -
そして郷土料理の「ケイハン」なるものが運ばれてきました。
なーんだ、ケイハンって鶏飯のことなのね!。
小皿に盛ってある鶏肉、錦糸卵、煮たシイタケ、あおさのり、それに葱や柚子皮などの薬味をご飯の上に乗せて…。 -
テーブルの真ん中で、グツグツ煮立っているコラーゲンたっぷりの鶏がらスープを、たっぷりかけていただくんですって。
初めて食べましたけど、ん!コレ美味しい!。 -
食後、女性二人は、デザートもいただきます。
お店の人が美容にとてもいいって薦めてくれたコラーゲンたっぷりのパフェなんです。 -
さっきまで客は少なかったのに、今はいっぱいですね。
驚いたのは、修学旅行生らしい学生さんたちが団体で入ってきたことです。
ここは郷土料理屋というより飲み屋さんのようなお店だったので、こんなところに学生さん来てもいいのかなーと思っていました。 -
突然お店が賑やかになりました。
さっきまでお料理を運んでいた店員さんが、太鼓や三味線で奄美大島の民謡を弾き始めたのです。唄も始まりました。 -
それだけではありません。
お客さんたちは、独特の音楽に合わせて口笛を吹きながら手拍子をとり始め、女学生さんたちは立ち上がって踊り始めました。
そして皆で店内を踊りながら回ります。
ビックリしました。 -
友人に聞くと、ここではライブをやるお店なんですって。
だから修学旅行生も来ているのですね。 -
音楽が一段落したところでお店を出ました。
あ〜楽しかったー。 -
お店を出る頃には外は暗くなっていて、ライトアップされたドルフィン・ポートがとてもキレイでした。
-
オランダかどこかの倉庫街を思わせるような建物も色鮮やかに輝いていました。
友人のサプライズはこれだけではありませんでした。
今夜は友人の知り合いの民宿に泊まることになっています。 -
さて、東京に帰る日。
空港に着いたら聞き覚えのある民謡が…。
奄美徳之島展をやっていました。 -
時間があるので、空港のレストランで食事をします。
こんどこそ正真正銘の鹿児島の郷土料理をいただきます。 -
キビナゴのお刺身
-
黒豚のとんこつ煮
-
カツオとさつま揚げ。薩摩汁もついていました。
ご馳走様でした。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 横浜臨海公園さん 2012/01/23 20:08:51
- 薩摩鹿児島
- frau.himmelさま、こんばんは。
何時も拙稿にお立寄りを賜りまして誠に有難うございます。
さて、件の公爵とは海軍少将で侍従武官も勤めた島津忠義氏の事と思われます。
また、鹿児島中央公民館は当時の上野篤鹿児島市長が西郷隆盛自害50年祭にあわせるべく大正15年(1926年)に着工した鉄骨鉄筋建築です。
不幸にして、上野市長は内務省の50年祭打ち合わせで上京し帰路、大正15年(1926年)9月26日に安芸中野-海田市間で発生した特別急行列車脱線転覆事故で長男と共に事故死し、該車輌で乗客25名中23名が即死し安芸中野に慰霊碑が建っております。
また、大東亜戦争末期の鹿児島大空襲で付近の勤惰建築物と共に全焼しており、戦後復旧した建物が該建築です。
鹿児島市内では鹿児島大空襲被災建築物は、何故か全部ピンク色に外壁が塗られており、鹿児島公民館のみ例外的な存在です。
横浜臨海公園
- frau.himmelさん からの返信 2012/01/23 21:24:13
- RE: 薩摩鹿児島
- 横浜臨海公園さま
情報をありがとうございます。
早速追記して修正いたしました。
> さて、件の公爵とは海軍少将で侍従武官も勤めた島津忠義氏の事と思われます。
ということは明治天皇が行幸なさった記念碑なのですね。
> また、鹿児島中央公民館は当時の上野篤鹿児島市長が西郷隆盛自害50年祭にあわせるべく大正15年(1926年)に着工した鉄骨鉄筋建築です。
この件もヒントを元に、鹿児島中央公民館前の碑をもう一度調べましたら、
「西郷南洲翁終焉百年之碑」と読めました。
脱線事故でなくなられた上野市長より50年後に改めて建立されたのですね。
いろいろと興味深い情報、ありがとうございました。
himmel
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