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11月25日(土)<br />今日は終日トリポリから東へ120kmのところにある紀元前7世紀ごろからフェニキアからの移民によって基礎がきずかれ、カルタゴの支配下で発展、ポエニ戦争後のローマ支配下で黄金期を迎えたレプテイス・マグナの都市遺跡へ向かう。<br /><br />現在は廃墟と化している「街並み」の入り口は、ローマ皇帝セプテミウス・セヴェルスの名を戴いた「凱旋門」だ。足元には石畳、左右には深く積もった堆砂を掘りこんだ斜面が続く。パルテイア王国との闘いに勝った祈念の建造物らしく、壁面のレリーフには、歓喜する貴族や兵士たちの姿が刻まれている。<br /><br />圧巻は地中海を背景に築かれた野外劇場だ。6,000人収容の円形の観客席からは、今も数百本の円柱越しに青い海を望むことが出来る。<br /><br />アラブのヴァルデイア族との戦いに敗れた後、この街は砂に埋もれてしまった。それが逆に功を奏して、20世紀に植民地支配を行ったイタリアが本格的な発掘調査に入るまで、遺跡は極めて旅行な状態で保存されたのである。<br /><br />数千年前の時点で「ローマの威光」が存在していた証拠である。<br /><br />ローマ皇帝セプテミウス・セヴェルスを輩出し、彼は自分の出身地をローマに次ぐ壮大な年にしたかったようである。<br /><br />まず、彼の建てた凱旋門から出発、ここで二本の幹線道路、南北に伸びるカルドと東西に伸びるデイコマノスが交わってる。凱旋門には皇帝自らやローマの神々などのレリーフが施されていた。屋外競技場前にはハドリアヌス帝が築いた巨大な浴場跡が残っており、冷水風呂から温水風呂、熱湯風呂からスチームサウナまで完備した当時の一大娯楽施設跡もある。<br /><br />公衆トイレは男女別々になっており、すでに水洗式で重要な社交場でもあった。洪水で崩壊した跡が痛々しいニンフの泉、片側に150本ずつ、計300本もの列柱が並んだと言うセヴェルス帝の大通りを抜けてフォーラムへ。隣接してセヴェルス帝時代には未完に終わったバジリカが残り、ビザンチン時代には教会として使われたようで説教台や洗礼盤が残っていた。<br /><br />旧フォーラムは市場として利用された名残の計量用の石が置かれ、当時の活況に溢れた市民生活をしのばせるものであった。<br /><br />紀元1世紀に建てられたと言うローマ劇場は、サブラタに次いでアフリカでは第二の規模を誇り、なおかつ非常に保存状態がよく、音響効果も抜群!”幸せなら手を叩こう”を歌って確認できた。<br /><br />再びセヴェルス帝の凱旋門を通ってレプテイス・マグナを後にして、少し離れたところに建てられた円形闘技場へ。<br />丘をくりぬいて造られたすり鉢状になっており、足がすくむ感じがした。ここで猛獣や剣闘士たちの命がけの見世物が行われていたのです。<br /><br />闘技場裏にはサーカスと呼ばれる競技場があり、ここではおもに馬車レースなどが行われていたようである。砂に埋もれてはいましたが、城壁も築かれていたのです。町の方向には天然の良港だった旧港が望めました。実際には8世紀ごろまでは使われていたとのこと。<br /><br />その後徐々にこの地の重要度は薄れて歴史から取り残され、砂に埋もれて1,200年もの間眠りに就くことになったのです。<br /><br />そしてトリポリに戻り、スーパーなどを見学した後ホテルに。夕食は大使や駐在員が利用すると言うシーフードレストランで生演奏を聞きながら楽しみました。<br /><br /><br />

訪問しておいてよかったリビア旅行(7)トリポリ~レプティス・マグナ~トリポリ

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2006/11/18 - 2006/11/28

38位(同エリア46件中)

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cypresscanada

cypresscanadaさん

11月25日(土)
今日は終日トリポリから東へ120kmのところにある紀元前7世紀ごろからフェニキアからの移民によって基礎がきずかれ、カルタゴの支配下で発展、ポエニ戦争後のローマ支配下で黄金期を迎えたレプテイス・マグナの都市遺跡へ向かう。

現在は廃墟と化している「街並み」の入り口は、ローマ皇帝セプテミウス・セヴェルスの名を戴いた「凱旋門」だ。足元には石畳、左右には深く積もった堆砂を掘りこんだ斜面が続く。パルテイア王国との闘いに勝った祈念の建造物らしく、壁面のレリーフには、歓喜する貴族や兵士たちの姿が刻まれている。

圧巻は地中海を背景に築かれた野外劇場だ。6,000人収容の円形の観客席からは、今も数百本の円柱越しに青い海を望むことが出来る。

アラブのヴァルデイア族との戦いに敗れた後、この街は砂に埋もれてしまった。それが逆に功を奏して、20世紀に植民地支配を行ったイタリアが本格的な発掘調査に入るまで、遺跡は極めて旅行な状態で保存されたのである。

数千年前の時点で「ローマの威光」が存在していた証拠である。

ローマ皇帝セプテミウス・セヴェルスを輩出し、彼は自分の出身地をローマに次ぐ壮大な年にしたかったようである。

まず、彼の建てた凱旋門から出発、ここで二本の幹線道路、南北に伸びるカルドと東西に伸びるデイコマノスが交わってる。凱旋門には皇帝自らやローマの神々などのレリーフが施されていた。屋外競技場前にはハドリアヌス帝が築いた巨大な浴場跡が残っており、冷水風呂から温水風呂、熱湯風呂からスチームサウナまで完備した当時の一大娯楽施設跡もある。

公衆トイレは男女別々になっており、すでに水洗式で重要な社交場でもあった。洪水で崩壊した跡が痛々しいニンフの泉、片側に150本ずつ、計300本もの列柱が並んだと言うセヴェルス帝の大通りを抜けてフォーラムへ。隣接してセヴェルス帝時代には未完に終わったバジリカが残り、ビザンチン時代には教会として使われたようで説教台や洗礼盤が残っていた。

旧フォーラムは市場として利用された名残の計量用の石が置かれ、当時の活況に溢れた市民生活をしのばせるものであった。

紀元1世紀に建てられたと言うローマ劇場は、サブラタに次いでアフリカでは第二の規模を誇り、なおかつ非常に保存状態がよく、音響効果も抜群!”幸せなら手を叩こう”を歌って確認できた。

再びセヴェルス帝の凱旋門を通ってレプテイス・マグナを後にして、少し離れたところに建てられた円形闘技場へ。
丘をくりぬいて造られたすり鉢状になっており、足がすくむ感じがした。ここで猛獣や剣闘士たちの命がけの見世物が行われていたのです。

闘技場裏にはサーカスと呼ばれる競技場があり、ここではおもに馬車レースなどが行われていたようである。砂に埋もれてはいましたが、城壁も築かれていたのです。町の方向には天然の良港だった旧港が望めました。実際には8世紀ごろまでは使われていたとのこと。

その後徐々にこの地の重要度は薄れて歴史から取り残され、砂に埋もれて1,200年もの間眠りに就くことになったのです。

そしてトリポリに戻り、スーパーなどを見学した後ホテルに。夕食は大使や駐在員が利用すると言うシーフードレストランで生演奏を聞きながら楽しみました。


  • セプテイミウス・セヴェルス帝が建てた凱旋門

    セプテイミウス・セヴェルス帝が建てた凱旋門

  • 浴場跡、冷水風呂から温水風呂、熱湯風呂からスチーム風呂まであったと言う

    浴場跡、冷水風呂から温水風呂、熱湯風呂からスチーム風呂まであったと言う

  • 浴場跡、冷水風呂から温水風呂、熱湯風呂からスチーム風呂まであったと言う

    浴場跡、冷水風呂から温水風呂、熱湯風呂からスチーム風呂まであったと言う

  • スチーム用のパイプ跡

    スチーム用のパイプ跡

  • ローマ劇場跡・音響効果抜群下で歌う歌が階段の上部まで聞こえる

    ローマ劇場跡・音響効果抜群下で歌う歌が階段の上部まで聞こえる

  • 円形闘技場

    円形闘技場

  • 穴のように見えるが下に降りて覗くと相当大きい入り口であり、あちこちに入口があるがその奥には猛獣を入れる檻跡などがあり、そこから猛獣が競技場へ放たれた

    穴のように見えるが下に降りて覗くと相当大きい入り口であり、あちこちに入口があるがその奥には猛獣を入れる檻跡などがあり、そこから猛獣が競技場へ放たれた

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