2011/05/03 - 2011/05/06
1132位(同エリア1917件中)
倫清堂さん
5時に目覚ましを設定しておきましたが、その前は自然に目が覚め、歯磨きなど支度を終えて、旅の後半に向けて出発しました。
今回の旅を計画していた段階で、松本から上高地を通って高山に抜ける手段について、相当悩みました。
格安のバスが出ているのですが、大型連休中なので、渋滞に巻き込まれてしまうおそれがあります。
自動車なら、自分の好きな時間に出発できるのですが、レンタカーを岐阜で乗り捨てすると、多額の別料金が発生してしまうのです。
迷ったあげく、レンタカーで行くことにしたのでした。
時間はお金では買えないからです。
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道路を走ると、まだ5時台だというのに、それなりに通行量はありました。
山を登るにつれて、気温はみるみる下がり、ついに電光掲示板には凍結注意の文字が現れるようになりました。
上高地へのバス乗り場周辺は、駐車場がいっぱいになっている所もありました。
あと1時間遅く出ていたら、渋滞してしまっていたかも知れません。
そうこうするうちに、真っ白な雪をかぶった北アルプスの山々が見えて来ました。
途中から、部分開通の中部縦貫道に乗ることができたので、運転はかなり楽になりました。
こうして約2時間、ほとんど休憩もとらずに走り抜け、高山市内に到着することができたのでした。 -
まず訪れたのは、飛騨一宮水無神社です。
まだ7時台だというのに、参道の真ん中にトラックが停めてありました。
ひっそり鎮まる神社の参拝を楽しみにしていたので、先客があることにがっかりしましたが、どうやら観光客ではないようです。
神職の方に訊ねると、隣の桜山神社でお祭りがあるので、そのための準備だと言われました。
確かに、太鼓や御神輿などが次々に運び出されています。
参拝して境内を散策した後、隣の桜山神社を探してみましたが、ちょっと歩いただけでは見つけることはできませんでした。 -
水無神社は延喜式にも書かれている古社ですが、御祭神は御年神の他15柱の神々という、大所帯の神社です。
奥宮が鎮座する位山には櫟の原生林があり、それを材料にして謹製される笏が、歴代天皇の御即位に際して献上されています。
歴史の古い神社は、信仰の中心となる主祭神がはっきりしている所が多いのですが、水無神社は次々に色々な神様が合祀されたのでしょうか。
その理由として考えられるのは、江戸時代の安永年間に起きた大原騒動と、代官による大弾圧です。飛騨一宮水無神社 寺・神社・教会
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代官の圧政に対して農民たちが蜂起し、18年にわたって抗争を続けたのでした。
農民たちが最後まで戦った砦が、この水無神社であり、農民の主導者の他、4名の神主も死罪となっているのです。
この時、神社に伝わる古文書なども失われてしまったらしいのです。
明治時代に入り、神社は一之宮に復帰しますが、その立て直しに参画した宮司の一人は文豪島崎藤村の父、島崎正樹です。
また大東亜戦争の時は、攻撃が本土に及ぶことが現実となった際、熱田神宮の御神体がここへ遷されたという経緯があります。 -
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一之宮の参拝を終え、高山市の市街地へと向かいます。
既に観光バスの姿も多く見られるようになり、道路は混雑し始めていました。
高山城跡の近くにある駐車場に車を停め、城跡を散策することにしました。
高山城は、守護職であった京極氏が多賀山城として築いたのが始まりで、建武中興以降は国司となった姉小路氏が居城とし、戦国時代に金森長近公が奪ったのでした。
高貴な血筋の京極氏・姉小路氏はもちろんですが、金森氏も高山の文化を成熟させるのに多大な貢献をした大名です。
信長公に使えて戦功のあった長近公は、本能寺の変以降は柴田氏側につきますが、勝家公が敗れると剃髪して秀吉公に下り、飛騨討伐で戦功があったので、一国を与えられました。
長近公は古田織部との親交が深く、2代目可重公は2代将軍秀忠公の茶道師範まで務めました。
文化を重んじる人が国を治めると、その国を大事にしてよりよく発展させられるという良い事例ではないでしょうか。
高山城の二の丸跡には、金森長近公の騎馬像があります。高山城跡 名所・史跡
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城郭は残されていませんが、観光客が次々に訪れ、朝早くから茶店も営業していました。
少し歩いた城山のふもとには、飛騨護國神社が鎮座しています。
飛騨1市3郡出身の御英霊が祀られている他、境内には飛騨の匠を祀る神社や菓子の祖を祀る久和司神社などが鎮座しています。
ここの神主さんとお話ししてみると、またも「桜山」の神社が話題となりました。
30年に1度の大きなお祭りなので、祭りの始まるお昼頃に行ってみるとよいでしょうとのことです。
予定では、高山は午前中で去ることにしていましたが、こう聞いては変更せざるを得ません。飛騨護国神社 寺・神社・教会
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地図を見ると、櫻山八幡宮は、見学を予定していた高山陣屋とは別方向に鎮座しているようです。
そこで、まず高山陣屋の見学をし、その後周辺で気になった所を見てみようと決めました。
少し歩くと、時代を感じさせる建物が見えてきました。
旧高山町役場です。
明治に入ってから建てられた建物で、西洋風の様式を取り入れながらも、飛騨の民家の特徴を生かした造りとなっています。
このような建築を行えるのも、飛騨の匠が代々技術と伝統を受け継いでいるからで、山深い集落が成熟させた文化の偉大さを感じさせます。 -
旧町役場の見学を終えて少し歩くと、ちょっとした広場に飛騨匠韓志和(木鶴大明神)像を見つけました。
韓志和は平安時代に生きた彫刻の名人で、自作の木鶴に乗って大陸へ渡り、その作品によって唐の皇帝を驚かせたと伝えられています。
この像も、柔和な顔をした男性が鶴に乗っている姿をしています。 -
こうして歩いているうちに、高山陣屋に到着しました。
現在、全国で唯一現存する代官所です。
これまで、数々の武家屋敷など古建築を見て来ましたが、ここまで規模の大きなものは、城郭くらいしかないと思います。高山陣屋 名所・史跡
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とにかく広大な敷地に、当時のままの建物が内部も外部もそのままの姿で残されており、いますぐ役所として機能することもできそうです。
江戸幕府は元禄5年に飛騨を直轄領とし、明治維新まで25代の代官を置きました。
その中には、あの大原騒動で農民を大弾圧した大原彦四郎紹正も含まれます。 -
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大広間や詰所など、事務を行う部屋や建物はもちろんですが、罪人の取り調べを行うための拷問道具もそのまま展示されていました。
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陣屋をひととおり見学するだけでもかなり時間がかかりましたが、これだけでは終わりません。
元禄年間に移築され今に残る、国内最大級の蔵が、飛騨の歴史博物館のような展示をしているのです。
この蔵の大きさに、まずびっくりしました。
誇張ではなく、どこまで奥行きがあるのか見渡せないほどの大きさなのです。
展示物は主に天領時代の資料で、大原騒動で打ち首となった農民の遺言状もあります。 -
歴史ばかりでなく、職人による建物の維持管理の技も興味を引きました。
屋根に葺かれている木材は「くれへぎ」という名前の板で、木材を1センチメートルもない厚さに均等に割って使用するのです。
展示物ではなく実用の「くれへぎ」が、御蔵の裏に積まれていましたが、同じ大きさに整えられた手作りの用材からは、美しさを感じました。 -
高山陣屋の見学を終え、朱塗りの中橋を渡って駐車場の方へ戻ろうとしましたが、ふと目についた店で土産物を買うことにしました。
今回の旅は、見学する場所についてインターネットと書籍で調べただけで、観光雑誌での下調べを一切行っていないため、土産物や名産などの知識はほとんどありません。
予備知識を持たないことで、現地の人との会話から、貴重な情報を得ることができるからです。
この土産物屋で会計をしていた小母さんは、このような私の期待に十二分に答えてくれました。
飛騨の方言の意味が分からず、失礼とは思いながらも何度も聞き返してしまいましたが、春と秋の高山祭についてや、「さるぼぼ」という人形についてなど、丁寧に説明してくれたのでした。 -
また、護国神社で気になった「山岡鉄舟両親墓所」の碑について訊ねたところ、父が飛騨の郡代となったことから、鉄舟は幼少時代にここで過ごすしたこと、道路わきに像が立っていることなど教えてくれました。
高山陣屋へ向かう際、その像に気付いてはいたのですが、よく確認をしなかったばかりか、陣屋の見学で興奮していたために像の存在をすっかり忘れていました。
幕末の三舟のうち、勝海舟と高橋泥舟は国の中枢から離れますが、一人山岡鉄舟だけは明治天皇の侍従として維新後も功績を残したのだということなどを、小母さんは自分の主人の話でもするように、とても誇らしげに教えてくれたのでした。 -
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買ったお土産で両手がいっぱいになってしまったため、一度車のある所まで戻ることにしました。
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イチオシ
道路のあちらこちらに、古い町並みの案内板が建てられており、造り酒屋や庄屋などが軒を並べており、高山祭の屋台も屋台蔵に収められているのを見ることができます。
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高山祭は春と秋の年2回行われますが、先ほどの小母さんの話だと、春は地域の人たちが楽しむために平日に行われ、秋は観光客向けに週末に行われるそうです。
京都の祇園祭・秩父の夜祭とともに日本三大祭に挙げられる高山祭は、12台の屋台曳き揃えが見ものとされます。
春の高山祭は、正式には日枝神社の例祭です。
近江を平定した金森長近公が、故郷近江国から御神体を奉還し、社殿を建てたのがその始まりで、3代重頼公の時に神輿の巡幸が行われ、その後大がかりな屋台が作られて今の形になったとのことです。
駐車場に着くと、空き待ちの車が列を作っていました。
きっと他の駐車場も同じような状態でしょう。
ここで車を出してしまうと、櫻山八幡宮のお祭りを見ることができなくなってしまうと思ったので、少し距離があるのを我慢することにして、荷物を置いて歩き始めました。 -
高山別院照蓮寺の大きなお堂が見えてきました。
ここの駐車場も観光客のために開放されているようですが、やはり行列が出来ています。高山別院(照蓮寺) 寺・神社・教会
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車の誘導をしている警備員に断って敷地を抜けさせてもらい、江名子川のかかる橋を渡る時、向こうから羽織袴の集団がこちらに向かって来るのが見えました。
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太鼓やお囃子の音も聞こえて来ます。
進むにつれて次第ににぎやかに、また人通りも多くなって行きますが、櫻山八幡宮に着くと、想像以上の人出に驚かされました。櫻山八幡宮 寺・神社・教会
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境内に舞台が設置され、そこでは各地の伝統芸能が奉納されていますが、それ以上に驚いたのは、山の上にある社殿まで神輿や旗とともに、武士の姿をした人々や福の神に変装した人々などの行列が、果てしなく続いていることなのです。
飛騨の全ての神様が集まるとのことですから、当然それと一緒に人々も集まり、まるで渋谷駅前のような混雑が、山間の小さな集落の一つの神社に現れているのです。 -
櫻山八幡宮の御祭神は應神天皇。
仁徳天皇の御代、略奪を繰り返す首長を討伐するために遣わされた武振熊命が、戦勝祈願のために先帝をこの地にお祭りしたのが始まりです。
その後、戦乱が続き社殿は荒廃しましたが、3代重頼公の時に江名子川から御神像が発見され、改めてお祀りしたのでした。 -
秋の高山祭は、ここ櫻山八幡宮の八幡祭のことです。
飛騨の大祭は、安永8年に水無神社の正遷祭として行われたことに由来し、その後国学者田中大秀が雅楽によって飛騨国中に敬神思想を広めようとしたのが直接の起源になっています。 -
神輿の行列を見ていると、ちょうど水無大社の神輿が神幸するところで、見覚えのある太鼓が目に入りました。
御朱印を押してくれた神職の方や、トラックで荷造りしていた人々も、その中にいたことでしょう。
高山では、想像以上にすばらしい時を過ごすことができたのでした。 -
次に予定していた郡上八幡まで、高速道路で移動したのですが、こちらも駐車場に空きがない程の混雑で、仕方なく通過することにしました。
1日で高山・郡上・岐阜と観光するのは、さすがに無理な計画でした。
この様子では、岐阜も駐車に苦労するだろうと予想していましたが、実際に着いてみると、やはり駐車場には行列ができています。
そこでまず初めに、混雑地から幾分離れている岐阜護國神社に参拝することにしました。岐阜護国神社 寺・神社・教会
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結婚式場もある参集殿と、広々とした駐車場があり、難なく停めることができました。
岐阜県内にも、長野県と同じように3社の護国神社が鎮座しており、ここ岐阜護國神社は金華山のふもと・長良川のほとりで、第3師団岐阜管区の10郡出身の御英霊をお祀りしています。
境内はひとつの庭園として大八洲=日本国を表しており、巨石が配置されています。 -
大八洲の文字が刻まれた石碑は、よく見ると「八」の文字の中に、社殿を向いたカエルが乗っています。
また、「大八洲」という詩の書かれた掲示もあり、興味が尽きない神社です。 -
それらのことを神職の方に詳しく伺うと、親切に教えてくれました。
また、有名な長良川の鵜飼が行われるのがこの場所であることなども教えていただきました。
こんなに親切にされた上で気まずかったのですが、車を停められず困っていることを話すと、しばらく駐車してもよいとお許しを頂き、感謝の言葉を申し上げて散策に出発したのでした。 -
岐阜はもともと美濃国と呼ばれ、織田信長公が岐阜城を築いたことで知られていますが、実は美濃源氏の土岐氏によって治められていた期間の方がはるかに永いのです。
土岐氏は南北朝時代に足利方につき、将軍家との結びつきを強めて有力な大名となりますが、門閥制度による腐敗が進み、ついに斎藤道三によって国ごと乗っ取られてしまうことになります。
妙覚寺の僧侶であった道三は、あるきっかけによって京都の油問屋に婿入りし、一門銭の穴に通して油を売る、今で言うパフォーマンスによって成功します。
また、同じ寺で修行していた日護房が、美濃の常在寺の住職となっていたことを利用して、土岐氏小守護代の長井家の家臣となります。
この時の当主は土岐政頼公ですが、家督争いに敗れた弟の頼芸公を助けて家督を奪い取らせ、恩人である長井長弘公を除き、最後の仕上げとして頼芸公までも追放して、ついに美濃一国を手に入れたのでした。
道三は、それまで敵対していた尾張の織田家と和睦して、娘の帰蝶を嫡子吉法師に嫁がせました。
その二人が、信長公とお濃の方です。
美濃のうつけと呼ばれていた信長公に始めて対面した道三は、その非凡さに気付き、「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになる」と述べたと伝えられています。 -
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道三公は頼芸公の家臣であった時から、金華山頂に他に類を見ない城を建てることを、心に決めていました。
自ら城の絵図面を描き、尾張で熱田神宮の宮大工をしている岡部又右衛門を招いて、主君よりも格段に立派な城を築いてしまったのでした。
道三が築いた城は、稲葉山城と呼ばれていました。
思えば、後に隠居してこの城を嫡子の義龍に譲ったことが、自らの命を縮める大失敗だったのです。
その義龍は、父を騙すためによそおったハンセン病に本当にかかって死去。
子の龍興は難攻不落と言われたこの城を、家臣の竹中半兵衛と16人の手下によって奪われてしまいます。
竹中半兵衛の行為は、酒色におぼれる主君を諫める意味がありましたが、龍興は過ちを改めることをせず、ついに織田信長公によって城を追われてしまい、道三公の予言はここで的中したのでした。
美濃・尾張を平定した信長公は、稲葉山城を新たに造り直して岐阜城としました。
岐阜とは、周の文王が岐山に依って天下を治めた故事からとった名前で、信長公の天下統一の志は既に固まっていたことが分かります。
これは考え過ぎかも知れませんが、うつけ者と言って誰もが正当な評価をしない中、実の父を除けば道三公だけが、信長公の才覚を認めていたことから、「義父」が実力で奪った城に、同じ読み方の漢字を当てはめたのかも知れません。
信長公はここから「天下布武」の朱印を用いるようになり、安土城が完成するまでの間、居城としていたのでした。
復元された天守閣には、ロープウェイを使って登ることができますが、きっと行列ができていることだろうと思い、下から見上げるだけにしておきました。 -
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道三が頼芸公から奪ったのは国だけではなく、その側室の深芳野もそうでした。
深芳野から生まれた義龍は、本当は土岐頼芸の子ではないかと囁かれていました。
体格はとても立派で、身長は現在でいうと2メートル近い六尺五寸もあったそうです。
土岐氏から国を簒奪した道三は、一部の土岐家臣から恨まれていました。
そこで、土岐氏の正統な後継者として義龍が担ぎ出され、道三は討ち取られることになるのでした。
敵ばかりであった中で、お濃の方の父である明智光継のように、道三に味方した人もいます。
この頃、父が死んで家督をめぐる争いが厳しさを増していた信長公は、義父を救うために木曽川を越えて兵を送ります。
しかし道三公は、信長公が無駄に兵を損なうことのないよう、援軍の到着を待つことなく死んだとされます。
墓所は、国盗りのための最初の足がかりとなった常在寺にあります。
ここには、国の重要文化財に指定される絹本著色斎藤道三像が収められています。 -
常在寺から更に同じくらいの距離を歩くと、伊奈波神社にたどり着きます。
境内入り口近くに、岐阜善光寺があったので、まずはそちらに参拝しました。
善光寺の御本尊を手に入れた武田信玄、上杉謙信は、それぞれ間もなくこの世を去ってしまったと書きました。
御本尊はその後どうなったかと言うと、織田信長公が手に入れて、ここ岐阜善光寺(当時は伊奈波善光寺)へと安置しました。
それから2カ月、信長公は本能寺の変により志半ばにして倒れ、善光寺御本尊のジンクスはまたしても的中したのでした。安乗院善光寺 寺・神社・教会
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さて、伊奈波神社の境内に入ると、参道は長い石段で、おごそかな空気がただよっているのを感じます。
主祭神は、垂仁天皇の第一皇子である五十瓊敷入彦命。
勅命によって美濃の地を開拓した他、大量の剣を作って有事に備えたと伝えられています。 -
イチオシ
多大な功績を残した五十瓊敷入彦命ですが、それを妬む者の讒言によって討たれ、この地に葬られました。
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景行天皇14年、武内宿禰が祭祀を始めますが、斎藤道三が稲葉山城を築くにあたって現在の場所に遷座したのでした。
伊奈波神社 寺・神社・教会
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参拝を終え、車を停めた護國神社まで戻ると、参集殿の利用者はほとんど去ってしまったのか、駐車場はがらんとしていました。
神職の方の姿も見えず、神様にお礼を申し上げて神社をあとにしました。 -
ホテルにチェックインをした後、岐阜の名物「鶏ちゃん」を食べるために繁華街をさまよいました。
最初に入った店「風来坊」では、つい手羽先を食べてしまいました。 -
飲食店の総合案内所で訊ね、紹介された店に入り、早速ビールと「鶏ちゃん」を注文。
カウンターで隣に座っていた地元の方が、同年代くらいの話し好きな方で、岐阜の見どころや名物などを教えてくれました。
翌日の観光のために、情報収集もすることができたのでした。 -
翌朝、チェックアウトをして岐阜駅に向かうと、金の織田信長公像が立っているのに気がつきました。
岐阜城のふもと、信長公居館跡にも若かりし日の乗馬像があり、信長公の人気の高さを感じさせますが、道三公の像というものは見かけません。
それは、彼が「美濃の蝮」と呼ばれ、その子孫でさえ改姓して子孫であることを隠すほど、恐れ嫌われているという事実を意味しているのでしょう。
たしかに主殺しなどの不義は、日本人が最も忌む行いです。
しかし、信長公がここまで顕彰されている理由として挙げられる楽市・楽座の政策は、実は道三によっていち早くここ美濃で実現されていたのです。
道三公が、信長公の数少ない理解者であったのと同時に、信長公は道三公を尊敬し師とした数少ない天才の一人でした。
信長公は永禄10年、正親町天皇から綸旨を賜り、翌年に上洛を果たしました。
尾張・美濃の2国を領し、豊かな生産力を背景に、衰微した皇室の再興のためにあらゆる方策をとります。
藩屏である公家への支援はもちろん、屋根が破れて夜空の星が見えたという御所の造営を行いました。
信長公の志は、この像と同じように黄金に輝いていたのでした。黄金の織田信長公像 名所・史跡
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岐阜県は広く、美濃国一之宮は西武の垂井町に鎮座しています。
東海道本線に乗ってしばらく揺られ、垂井の駅で降りてしばらく歩くと、巨大な鳥居が見えてきました。
ここが美濃国一之宮、南宮大社です。
この日の午後に御田植祭、翌日5日は例大祭があるため、参道では舞台の設置など準備が進められています。 -
イチオシ
南宮大社の御祭神は、金属の神である金山彦命で、全国の鉱山や金属業から崇敬を集めています。
金山彦命は、イザナミ命が自ら産んだカグツチ神の火によって焼け死んでしまう際、その吐瀉から生まれた神様です。南宮大社 寺・神社・教会
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第10代崇神天皇の御代には現在地で祭祀されていたとされる古社で、鎮座地は壬申の乱や関ヶ原の戦いで勝敗を決した要衝となっています。
そのため、関ヶ原の戦いでは、毛利・吉川の軍が南宮山に布陣し、安国寺恵瓊によって社殿が焼き払われてしまいました。
その後、天下は徳川家のものとなり、第3代家光公によって豪壮華麗な朱塗りの社殿が造営され、今に至っています。 -
この建築様式は他に類を見ないことから、「南宮造り」と呼ばれています。
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境内を一回りして鮮やかな朱塗りの社殿を見て回った後、裏の南宮山の方へと散策することにしました。
まず目についたのは、聖武天皇大仏建立勅願所の碑です。
また、かつて本殿が奉齋されていた場所に、聖武天皇行幸の碑がありました。 -
奈良の大仏を建立するに当たり、聖武天皇は自らこの地へ行幸し、引常明神の霊水を汲みました。
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その先には、社殿の改築によって不要となった瓦を供養する瓦塚や、数々の摂社・末社があり、一番奥に南宮稲荷神社が鎮座しています。
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うららかな春の陽気に包まれて、南宮の森の散策を楽しんだのでした。
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イチオシ
垂井から京都方面へ向かえば、有名な関ヶ原に行くことができますが、今回はここで引き返すことになります。
次に電車を降りたのは大垣駅。
下調べでは、岐阜県内に3社ある護国神社のひとつが鎮座していることくらいしか知りませんでしたが、駅を出ると松尾芭蕉ゆかりの土地であることと、水の都であることが分かりました。
おくのほそ道は、東北に住んでいれば必ずどこかで触れる機会があるものですが、それを最後まで熟読したことはありません。
ここ大垣が旅の終着点であるということを知らなかったのは、迂闊でした。
いずれ勉強してから、関ヶ原と合わせてもう一度訪れたいと思います。
今回は大垣城まで歩き、歴代大垣藩主の戸田氏が祀られる常葉神社を参拝したり、復元された城郭を眺めたりしました。大垣城 名所・史跡
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戸田一族についても、ほとんど何も知りませんでした。
今川家の人質に送られる竹千代(後の徳川家康公)を、今川方を裏切って織田信秀に送ったのが田原城の戸田康光で、初代大垣藩戸田家当主の戸田一西は康光の従兄弟の子にあたります。
戸田康光の裏切りがなければ、竹千代と吉法師(後の信長公)との出会いもなく、当然のことながら織田・徳川の同盟もあり得ませんでした。
歴史を狂わせた康光公は、今川義元に攻められて滅ぼされますが、戸田家の分家は大垣藩戸田家も含め、全国で徳川政権を支える大名となったのでした。戸田氏鉄公騎馬像 名所・史跡
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次に濃飛護國神社に参拝。
御創建に携わったのは、最後の大垣藩主戸田氏共氏。濃飛護國神社 寺・神社・教会
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神社の脇には、藤棚をめぐらした噴水のようなものがありました。
大垣は、市の中心部だけでも十数ヶ所の湧水があり、ここ大垣公園もその一つです。
この日はこれで岐阜県内の散策を終わりにし、最後の目的地である名古屋に向かいました。 -
名古屋では、新しいプラネタリウムが完成したとして話題の、名古屋市科学館へ行ってみました。
しかしプラネタリウムは予約制で、行った時には既に予約はいっぱいになってしまっていました。
翌5日。津島神社へと参拝に行きました。 -
西の八坂神社・東の津島神社と並び称される牛頭天王信仰の神社で、建速須佐乃男命をお祀りしています。
社伝によると、欽明天皇元年に対馬から建速須佐乃男命が来臨し、この地に鎮まったとされます。
南の鳥居をくぐった先の参道が全てアスファルト敷きの駐車場になっているのが残念ですが、境内の奥まで進むと、朱塗りの社殿と緑の木々が出迎えてくれます。
南門は豊臣秀頼公の寄進で、父太閤の病気平癒を祈願したことが、伊勢湾台風による倒壊からの復元時に明らかになりました。 -
この日は、五穀豊穣神卜祭において授かった御神託を人形などの模型で表した「花の撓(とう)」が展示されていました。
また社務所では、それを印刷したものを授与していたので、愛知県民でも農家でもないですが、記念に1部買ったのでした。 -
津島神社で最も大きなお祭りは、7月に行われる天王祭です。
神輿渡御の日の夜、365個(1年の日数)+12個(1年の月数)の提灯を灯した屋台が、天王川に浮かぶ巻わら船に乗せられ、夜空を彩ります。
翌朝は景色ががらりと変わり、屋台には能人形が飾られます。津島神社 寺・神社・教会
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イチオシ
天王祭の主会場となる天王川公園では、ちょうど藤まつりが行われていました。
総面積5000平方メートルの藤棚に、12種の藤が咲き誇るのを楽しむことができます。 -
藤の淡い紫はとても上品で、やさしい色でした。
頭上に垂れさがる藤の花が、どこまでも続いているのを見ると、現実とは違う夢の世界にでも入り込んでしまったような感覚におちいり、いつもは気になって仕方がない人だかりも、つい忘れてしまったのでした。 -
午後からは徳川美術館へ見学に行きました。
観覧料は一般で1200円と、普通の美術館よりも高めですが、ここにはそれだけ見る価値の高い作品が収蔵されているということでしょう。
入り口の黒門は、尾張徳川家邸宅の遺構で、空襲による消失の被害をまぬがれました。徳川美術館 美術館・博物館
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そこをくぐると、正面に美術館の建物があり、右手には蓬左文庫という史料館、左手には徳川園という庭園があり、全てを合わせると相当な広さになります。
まずは正面の美術館に入りました。
展示品の大部分は、尾張徳川家に伝わる刀剣や書画、道具類で、武家の暮らしがイメージできるようにテーマごとに置かれています。
特に茶室や書院造の間、能舞台までしつらっての展示は、収蔵品の価値を損なわないための最大限の演出となっていました。
また、国宝の『源氏物語絵巻』が収蔵されていることでも知られていますが、原本は短期間しか展示されず、複製のパネルだけが展示されていました。
おみやげ売り場も充実していて、教え子たち全員にちょっと豪華なシールを買った他、自宅用にも分厚い収蔵品カタログを買ってしまったのでした。 -
イチオシ
美術館と蓬左文庫の見学を終え、次に徳川園へと入場しました。
ここはは龍泉湖を中心とする池泉回遊式庭園で、道の上に橋がかけられていたり、滝が配されていたりと、立体感を出すための工夫があちこちに見られます。
徳川園は、尾張藩2代藩主光友公の隠居所として屋敷を構えたことに始まり、その没後には家老職を勤める3家に譲られましたが、明治22年に尾張徳川家の邸宅となりました。
昭和6年に邸宅・庭園の全てを名古屋市に寄付した19代当主義親氏は、マレーでの虎狩りを行ったことにちなんで、「虎狩りの殿さま」と呼ばれていました。徳川園 名所・史跡
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光友公の諡号が瑞龍院であったことから、龍虎の縁によって今の徳川園があるとして、園内の名所には龍や虎の字がつく名前が数多く取られています。
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徳川美術館の見学を終えてホテルに戻った時間は夕方5時前。
ちょっと昼寝と思って横になったら、目が覚めたのは深夜0時でした。
大地震の後の余震で安眠できない日々が続き、この旅行は初日の夜行バス移動から始まって早朝から活動する毎日だったため、ようやく深く眠れたという気がしました。
夕食もとっていませんでしたが、水だけ飲んでそのまま横になると、朝まで再び深い眠りにつくことができたのでした。
最終日の朝は、ホテルから歩いて名古屋城周辺を散策。
名古屋駅で初めて東海道新幹線に乗って東京へ向かい、東北新幹線に乗り換えて自宅へ戻ったのでした。 -
加藤清正像 名所・史跡
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