2010/11/27 - 2010/11/28
1582位(同エリア1859件中)
倫清堂さん
これまで、紅葉の季節に東京の観光をしたことはありませんが、今回は機会に恵まれたため、1泊2日の日程で紅葉狩りへ行くことにしました。
まずは大宮で乗り換えて川越に向かいます。
東京で大学生として生活していた時、川越から通っている友人が多かったという経験がありますが、これまで川越には行ったことがありませんでした。
調べてみると、循環バスでの移動が史跡巡りには向いているようです。
イーグルバスの「小江戸巡回バス」路線図と時刻表、そして地図を見ながら、半日分の旅程を決めておきました。
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川越駅で電車を降り、始発のバスに乗って、まずは中院へ向かいます。
中院 寺・神社・教会
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中院は天長7年に慈覚大師が建立した天台宗のお寺で、正式には無量寿寺仏地院と呼ばれています。
無量寿寺には北院・中院・南院がありましたが、中院が規模は最も大きく、中心的な存在であったと言います。 -
イチオシ
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その中院がもともと立てられていた場所、歩いて数分の所に、現在は仙波東照宮が鎮座しています。
徳川家康公が死去した後、一度久能山に埋葬された遺体が東照宮に遷される際に、天海僧正によって、この地で法要が営まれました。
その後、木造の家康公像をお祀りしたのが始まりで、この像は現在も御神体として本殿に安置されているそうです。仙波東照宮 寺・神社・教会
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寛永15年に起きた川越の大火で社殿のほとんどは焼失してしまいますが、3代将軍の家光公が川越城主堀田正盛公に再建を命じ、完成したのが現在の社殿です。
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参拝を終えて喜多院に向けて歩いて行く途中、弁天様を池の中心に配した葵庭園がありました。
その池には蛍が生息しており、初夏になると鑑賞することができるとのことです。 -
そのまま進むと、鐘楼門や多宝塔などが並ぶ寺院独特の空間にたどり着きます。
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ここ喜多院はもともと無量寿寺における北院でしたが、慶長17年に名前を改め、天海僧正が住職となった頃に後陽成天皇から星野山の勅額を賜りました。
喜多院 寺・神社・教会
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予定のバスが来るまであまり時間がありませんが、慈恵堂(本堂)でお参りをした後、見学のために客殿に上がりました。
正確には、客殿・書院・庫裏が一体になった建物で、大火の後に江戸城から移築されたものです。
客殿の上段の間は「家光公誕生の間」、書院の4つの部屋は「春日局の化粧の間」と呼ばれています。
展示物も多く、ざっと眺めるだけでも予想外に時間がかかってしまいました。 -
五百羅漢まで見ることはできず、バス停へと向かいます。
しかしバスは10分ほど遅れて到着。
土曜だし、川越の城下町は道路が狭いので仕方がないと思いつつ、バスに乗ったのでした。 -
向かった先は、川越総鎮守の氷川神社。
川越氷川神社と呼ばれています。
時期は少し過ぎていますが、七五三の参拝客で境内は溢れていました。
社殿によると、欽明天皇2年に大宮の氷川神社から分祀したのが始まりで、室町時代には川越城の築城にあたった太田道灌が篤く崇敬し、矢竹や和歌を献納しています。
江戸時代には、歴代の川越城主の尊崇を受け、社領や社殿の寄進を受けました。川越氷川神社 寺・神社・教会
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平成の御代に建てられた大鳥居は、木造のものとしては日本一の高さを誇ります。
とにかく人が多いので、参拝だけして次のバスを待ちます。
川越のシンボル、時の鐘に向かいますが、その途中で通った市役所の前には、太田道灌の像がありました。 -
イチオシ
時の鐘は、寛永年間に藩主酒井忠勝公によって建てられた鐘撞堂で、幾度も火災によって失われ、現在のものは明治に再建された4代目にあたります。
建てられている場所は、薬師神社の入り口で、神社に参拝する際に鐘撞堂をくぐるようにできています。
氷川神社で時間を短縮した分、時間ができたので、鐘つき通りの寿司屋で昼食をとりました。時の鐘 名所・史跡
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それから一番街に出てバスを待ちますが、15分近く遅れて来た上に、運転手が乗客の質問にいちいち丁寧に答えてくれるおかげでなかなか出発せず、川越市駅から乗ることを予定していた電車に1分の差で間に合いませんでした。
次の電車で目的地へ向かうと、1時間近く時間を無駄にしてしまいます。
そんなことなら喜多院をもっとじっくり見ることもできたのにと、非常にがっかりしました。 -
川越市駅から東武東上線で寄居駅まで行き、秩父鉄道に乗り換えて長瀞に出ました。
秩父鉄道には、三峰神社を参拝して以来の乗車となります。
1日目の目的は、その三峰神社とあわせて秩父三社と呼ばれる宝登山神社と秩父神社の参拝です。
長瀞は渓谷が有名で、駅の周辺には舟下りの看板があちこちに立てられています。
予定が狂ってしまったので、次に乗る電車の時刻を確認して出発。
宝登山神社は駅からまっすぐの道を進むと着くことができ、まるで神社を参拝する人たちのために駅が作られたように思えます。 -
ゆるやかな上り坂の道を10分ほど歩くと、宝登山神社の社号標が見えてきます。
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駅からの参道に巨大な一の鳥居がありましたが、境内には気品の漂う白色の二の鳥居があります。
宝登山神社は第12代景行天皇の御代、皇子であった日本武尊によって祭祀が行われたのが始まりと伝えられます。
東国平定に際し、日本武尊が宝登山の麓に進むと、清らかな泉を発見したため、兵とともに禊をしました。
そして頂上へ向けて登り始めると、山火事が起こって火に飲み込まれそうになりますが、そこに犬たちが現れ、火を消し止めました。
そして犬たちは日本武尊を頂上に案内し、そのまま姿を消してしまいました。
日本武尊は犬たちが山の神の使いであったと感謝し、この山を「火止山」と名付け、神日本磐余彦尊(神武天皇)・大山祇神・火産霊神をお祀りしたのでした。 -
イチオシ
その後、霊場として栄えた「火止山」で、弘法大師が光輝く宝珠が山の上に飛来するのを見たことから、「宝登山」と改められました。
現在の社殿は明治初期に造りかえられたもので、欄間には二十四孝をはじめとする多くの彫刻がほどこされています。
つい最近までは、これらの彫刻は木地をむき出しにしていましたが、御鎮座1900年記念事業によって極彩色に塗りかえられました。
日本武尊によって祭祀が行われたとされる山頂の奥宮へは、ロープウェイを使っても行くことができます。宝登山神社 寺・神社・教会
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社務所で尋ねたところ、日本武尊が禊をされたという泉は、玉垣で囲まれた内側にあるとのこと。
外からはよく見えませんが、たしかに水が湧く泉がそこにありました。
境内には他にも、日本武尊が休んだとされる腰掛岩があり、神話が今に息づいている感動を覚えます。
また、日本武尊をお祀りする日本武尊社も鎮座し、八十八夜の奥宮祭では、ここから御霊を御神輿に乗せて奥宮へ向かうとのことです。 -
それらを見ながら境内をめぐっていると、お寺が隣接していることに気付きました。
宝登山神社は神仏習合の名残を今もとどめています。 -
お寺の名前は玉泉寺。
常に清水が湧き出る禊の泉から名付けられたと思われます。
開基は平安時代末期の永久元年。
弘化2年、第46世住職法印栄乗の時、京都御室御所の院家格を賜り、菊花御紋章を掲げることを許されました。
彼は明治政府によって神仏分離令が制定されると、住職の地位を捨てて神道の修行をすることで、逆に神仏共存の信仰を守ったのでした。 -
イチオシ
宝登山神社の参拝を終えて長瀞駅に向かうと、線路の周りやホームにはたくさんの人が押し寄せていました。
秩父鉄道の名物、蒸気機関車が来る時間と重なっていたのです。
大昔に絶滅した海獣パレオパラドキシアが秩父地方に生息していたことにちなみ、蒸気機関車はパレオエクスプレスと名付けられています。
実際に運行するSLをこの目で見るのは初めてで、鉄道ファンでなくても興奮するものですが、残念ながら進行方向が逆だったため、その後ろ姿を見送ったのでした。 -
次に向かったのは秩父神社。
秩父は武蔵国に編入されるまで知知夫国として単独の国であったため、その信仰の中心となっているこの神社は、新一之宮を称しています。
第10代崇神天皇の時代に知知夫彦命が初代国造に任命され、祖先神の八意思兼命をお祀りしたのが始まりと伝えられています。 -
社殿は、落雷と武田軍による焼き討ちによって2度消失していますが、徳川家康公によって天正10年に再建されました。
本殿・拝殿には極彩色の彫刻がほどこされ、左甚五郎作と伝えられる「子育ての虎」や「つなぎの龍」などを見ることができます。秩父神社 寺・神社・教会
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最大のお祭りである秩父夜祭を翌週に控え、境内ではその準備が進められていました。
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本殿・拝殿の後方には、全国75座の一之宮を祀る天神地祇社があります。
全国の神社を参拝していますが、このような規模で多くの神々を集合させた社殿は見たことがありません。
なぜ秩父神社でのみそのようなことが行われているかと言えば、御祭神の八意思兼命が関係しているのかも知れません。
八意思兼命を主祭神とする神社は、ここ秩父神社と、長野県の阿知神社しかありませんが、神話を読むとその地位が非常の高いことに気付かされます。
天岩戸のお隠れになった天照大御神を呼び戻すための作戦を考えたり、葦原中国平定のための神を選んだりした末、自らも瓊々杵尊に従って降臨したのでした。
これらのことから、菅原道真卿が天神として信仰される以前より、学問の神として崇められて来たのです。
秩父神社は八意思兼命の他に、知知夫彦命・天ノ御中主神・秩父宮雍人親王をお祀りしています。 -
秩父宮雍人親王は昭和天皇の皇弟で、今上兵火の皇叔父にあたります。
大正11年に秩父宮家を創立されると、秩父の人々は大いに喜び、秩父神社では奉祝の祭典が行われました。
秩父連山は当時、皇居からも見ることができたのだそうです。
境内には、秩父宮殿下と妃殿下による御手植えの銀杏が、並んで葉を茂らせています。
なぜ銀杏が選ばれたかというと、境内後方に広がる「柞(ははそ)の森」とあわせ、万葉集には「父の実の父の命、ははそばの母の命」と詠まれているからです。 -
古い写真を見ると、柞の森が社殿全体を包み込むように取り囲んでいますが、戦後の混乱と経済繁栄によってその大部分は開発され、現在は社殿後方にわずかに残るのみとなっています。
秩父宮家にも後継ぎがなく、妃殿下の薨去をもって断絶してしまいました。 -
柞の森同様に本来の姿が失われてしまったものに、武甲山があります。
秩父神社から真南に位置する武甲山は、秩父神社の神体山ではないかと古くから考えられて来ました。
日本武尊が東国平定に際し、身につけていた兜を山頂に埋めたことから名付けられた武甲山は、良質な石灰岩が産出されることが分かった明治期より、その形が変わってしまうほどの浸蝕を人の手によって受けています。
西武秩父駅から特急に乗って都心へ向かいますが、車窓から見える武甲山の姿は痛々しいものでした。
西武グループは、武甲山の恵みによって成長した会社で、こうして楽に旅ができるのも、その恵みがあればこそと感謝すべきなのかも知れません。
我が国は既に近代化を終え、豊かな生活を持続させる守成の時代に入っています。
これを衰退に向かわないようにするためには、もう一度天地の恵みへの感謝という原点に返り、成長の時代に失ってしまった自然と精神を取り戻すことが必要なのではないでしょうか。 -
飯田橋のメトロポリタンに宿泊。
翌日は朝一番で東京大神宮に参拝しました。東京大神宮 寺・神社・教会
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それから新宿に向かい、特別快速ホリデー快速おくたま号に乗りました。
中央線の路線を走るのですが、発車ホームは別だったので、あぶなく乗れないところでした。
電車はほとんどの駅を飛ばし、文字通り快速に進みますが、郊外へ出た頃から車内は混み始めました。
ちょうど紅葉狩りの季節なので、それ目当ての都民たちなのでしょう。
自分が向かう神社は山奥なので関係ないと高を括っていましたが、ようやく着いた御嶽駅でこれらの大量の乗客がほとんど降りるのを知った時、目眩がしそうでした。
みんな、目的地は同じだったのです。
御嶽駅は名駅舎としても知られており、かの頭山満が書いた駅名看板が残されています。 -
駅から出ると、目の前を多摩川が流れています。
東京の奥地に、このような理想郷があるとは知りませんでした。
きっと野生の動物も多く棲息しているでしょう。
前日に訪れた秩父より少し南に位置するだけですが、秩父とはまた違った風情が感じられるのは、やはり東京都の一部だからでしょうか。
近くには玉堂美術館などあります。 -
この日の目的地である武蔵御嶽神社には、御嶽駅からバスに乗り、更にケーブルカーに乗り、そこから徒歩で山歩きをすることで、ようやくたどり着くことができます。
バスは1時間に2本しかなく、乗り継ぎのバスは駅から走って向かえば間に合うような絶妙なタイミングです。
しかし、走る必要などまったくありませんでした。
なぜならバス停には行列が生じており、臨時便でピストン輸送が行われていたからです。
列の最後尾に並び、2本待ってようやく乗ることができました。
バス停の近くには、見覚えのある特徴的な字体で「仰高掬清」と刻まれた石碑があります。
あとで調べましたが、原典のある言葉ではなく、独自に考えられた四字熟語のようです。
きっと御嶽山を讃えるつもりで立てられた石碑なのでしょう。
内大臣まで務めた齋藤實の揮毫です。 -
すし詰めのバスに乗り、カーブの多い山道を揺られ、ケーブル下バス停に到着しました。
山岳信仰の土地独特の雰囲気が流れており、バス停近くには神社がありましたが、なぜか「観光客立入禁止」の看板が立っているので、気になりながらも先へ進みます。
少し歩いて見えてきたケーブルカーの乗車口にも、やはり行列ができており、バス同様に臨時便が出ていました。 -
なるべく人出の少ない所へと考えて立てた予定でしたが、武蔵御嶽神社は自分が考えていたよりもずっと多くの人に崇敬されている神社のようです。
ケーブルカーはかなりの急勾配を、2つの駅を往復で運行しています。 -
御岳山駅で降り、山頂のお宮を目指して歩き始めると、鮮やかに色づいた紅葉が目を楽しませてくれました。
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御嶽山では今でも宿坊が多く営まれており、歩き疲れた登拝客をあたたかく迎えてくれています。
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しばらく進むと、国の天然記念物に指定される神代欅にたどり着きました。
社伝によると、日本武尊が御東征の際に甲冑を埋めた場所から生い茂ったとされます。
この地域の人たちにも大事にされており、木の洞にはムササビが住んでおり、後で昼食をとった食堂には、その愛らしい写真が飾られていました。 -
神代欅を過ぎると、食堂や土産物屋らが並ぶ商店街があり、そこを過ぎれば神社へと続く石段が見えてきます。
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御嶽神社の御嶽は、おんたけと読んだり、沖縄ではうたきと読んだりしますが、ここではみたけと読みます。
武蔵御嶽神社の歴史は、第10代崇神天皇7年の御創建から始まります。
天平8年には僧行基が、東国鎮護の為に社殿を造営して蔵王権現を勧請しました。
平安時代の延喜式にも記載される古社で、古くから関東の霊山として篤く信仰されて来てました。
中世には関東の修験道の中心地として、有力武将たちからも多くの信仰を集めました。
天正18年に徳川家康公が関東に封じられると、朱印地30石を寄進し、後の慶長11年には大久保長安を普請奉行として、江戸を守護するよう社殿の向きを東向きに改めて改築したのでした。 -
石段を登ると、まず随身門をくぐります。
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それから右手に宝物殿が見え、更に進むと最後の石段の頂上に建つ弊殿・拝殿にたどり着きます。
武蔵御嶽神社の主祭神櫛眞智命は、記紀神話にも登場しない謎の神様です。 -
ケーブルカーの駅からはそこそこの距離ですが、中高年の参拝客が多く目立ち、途絶えることなく次々と押し寄せて来ます。
この赤い権現造りの社殿に見とれていると、その横を通って行く参拝客がいるのに気が付きました。
社殿の横や後ろには、他の多くのお宮が鎮まっていました。武蔵御嶽神社 寺・神社・教会
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それらのお宮の最も奥にあるのが、日本武尊の御東征に関係する神様を祀る大口真神社です。
日本武尊がこの御岳山から西北に進もうとされた時、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いぎました。
日本武尊は山蒜で大鹿を退治しましたが、山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷ってしまいました。
そこへ白狼・黒狼が現れ、西北へ尊の軍を導き、難を逃れることができたのだと言われます。
日本武尊は白狼・黒狼に、大口真神としてこの御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられたことから、この地で祀られることになったのでした。 -
また、大口真神社の右手奥には古代祭祀場の太占祭場があり、毎年1月3日の早朝には、非公開で儀式が行われます。
この儀式は櫛麻智命によって司られるらしいのですが、我々一般人には真相は分かりません。
文化は政治とは違い、秘められたものこそが尊いです。 -
社務所で、国宝の鎧を模した限定品の土鈴を買ったところ、神職の方が、海外の博物館で展示されていたこの鎧が返却され、宝物殿で公開されているので、ぜひ見学してくださいと案内してくれました。
同じ案内をされた若い参拝客が、また金を取るのかと不平を言っていましたが、国宝や貴重な宝物を維持・管理するためにお金が自分の手から離れることは、喜びであると思います。
国宝の鎧の正式名称は赤糸威大鎧。
畠山重忠公によって建久2年に奉納された鎧で、その荘重で優美な姿から、日本三大鎧に挙げられるのだそうです。
他にも多くの武具などが展示されておりますが、御神輿の英語表記が「ポータブル・シュライン」となっていたのには笑ってしまいました。
宝物殿の前に堂々とした馬上姿で置かれているのが、畠山重忠公の像です。
鵯越えの戦いで、愛馬三日月を背負って山を降った逸話が残されている、鎌倉時代の武将です。 -
御嶽山には神社の他にも見どころが多く、手に入れた地図には様々な名所の案内が書かれていました。
そこから一つを選び、そこへ向けて歩き始めたのですが、古傷の右膝が痛み始め、ついにびっこを引きながら歩く程に悪化してしまったのでした。
このまま無理をしてしまうのは危険なので、いさぎよく引き返すことにしました。
登りとは別ルートでケーブルカーの駅に向かうと、スキー場でよく見かけるリフトがあるのを知り、下りに利用することにしました。
このリフトはあまり利用客はいないらしく、乗り場もガランとしています。
最後に奥多摩の山々が連なる景色を堪能することができたので、リフトでの下りというのも悪くないと思った次第です。
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