2005/07/16 - 2005/07/23
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憲さん
中国を初めて統治した秦の始皇帝
「長安」という名前の本を買って読んでみて、西安に行ってみたくなった。
(昔の呼び名は長安、現在の呼び名は西安)
紀元前250年に「秦の始皇帝」は 咸陽に都を作り、西安に阿房宮を作り、自身の墓を長安の東郊外に作りと、すごく壮大な建設物を作っている。その遺跡が現存しているというので どんな所か非常に興味を待ったので、現地を見に行ってきた。
① 始皇帝陵
② 兵馬俑
③ 阿房宮
ついでに
④ 二世皇帝廟
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- タクシー
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
秦始皇帝廟
始皇帝は死ぬ2年前に刑徒70万人を動員し阿房宮とこの始皇帝陵建設させたという。
墳丘墓は、現在は南北350メータ、東西345メータ、高さ76メータの規模ですが、築造当初は南北515メータ、東西485メータ、高さ115メータであったそうです。 -
入り口から入った広場で 護衛兵によるショウをやっていました。
-
墳丘墓を囲む長方形の内城壁で囲まれた場所と、更に外側には外城壁で囲まれた南北2165メータ、東西940メータの城壁で囲まれた場所が始皇帝の陵園であります。
頂上から見渡すと、下はザクロ畑が続いていました。 -
墳丘墓の頂上から見下ろして、入り口を撮った写真ですが、高さ75mですから かなりの階段が続いています。
この下にある 始皇帝陵の本体は、地下30mの深さに350m四方の広さという、巨大な地下宮殿だといわれています。
地下宮殿は、死後の皇帝のための新たな世界を作り上げるため、墓室内には宝石をちりばめ天空(宇宙)をイメージする天井や、海や川を模して水銀が流れて大地などが施されていると、史記に書かれているそうです。 -
兵馬俑は、始皇帝廟の東約1Km先にあるのですが、ここからは霞んで見えません。
兵馬俑は発見され発掘されましたが、しかし、この陵墓は過去にも盗掘されていないそうです。
ここを発掘するには、この小山全体を覆う建物を建ててから発掘するそうで、それが出来る技術が出来るまで発掘しないそうです。
史記に書かれているような壮大な地下宮殿を見てみたいものです。 -
始皇帝廟の内城の西北部から銅車馬坑が発見され、2台の銅車馬が発掘されました。
発掘された銅車馬は、現在は兵馬俑博物館の銅車馬館に展示されています。
銅車馬抗は 今はもう埋め戻されて、石碑だけがありました。 -
始皇帝廟の内城の南側から 墳丘墓を撮った写真です。
墳丘墓をゴルフカートで、一周できます。
この一帯から、銅車馬のほかに、いろいろな埋蔵品が発掘されているとの説明でした。
ちなみに、この始皇帝陵の隣に 陵の下の地下宮殿を再現した施設が作られ、一種のテーマパーク的な観光名所があります。
始皇帝陵の墓内部を 史記などの資料をもとに再現されています。
本物の地下宮殿は見れませんので、地下宮殿の様子を垣間見るに参考になるかと思います。
写真は残念ながら暗くて写っていませんでした。 -
次に 秦始皇帝の兵馬俑博物館に行きました。
先ほどの始皇帝廟からは1kmほどのところにあります。 -
1号坑です。
東を正面に長さ230メータ、幅62メータ、深さ5メータ、6000人の歩兵と32頭の戦車を牽く馬の陶俑が並んでいます。
その規模大きさに圧倒されてしまいます。
兵馬俑の一つ一つがとても大きい焼き物です。
こんな大きなものを、割れずに焼く技術が2200年前に中国では持っていたということです。
実に、すごい!!! -
東を向いた正面には先鋒隊が三列で並ぶ。
各列68名で合計204名の先鋒隊です。
彼らは軽装歩兵で、手には弩、戈、矛を武器として持っていたそうです。
最前列の弓隊・槍隊ですね。 -
4列縦隊の歩兵が9列東を向いて行軍する隊列です。
敵は東から、すなわち洛陽方面からと考えていたのでしょう。
秦の次の時代の項羽が長安攻めに駐屯した「鴻門」は、ここから4Kmの地ですから、なんとなく納得しました。 -
4列縦隊の歩兵が9列東を向いて行軍する隊列です。
等身大の兵馬俑ですが、たしかに一つ一つが違っています。
型取りせずに、一つ一つ作ったようです。 -
4列縦隊の歩兵が9列東を向いて行軍する隊列です。
戦士が並ぶ場所を過洞(かどう)というそうです。
過洞と過洞の間は土で出来た隔壁で区切られています。
壁面はホウの木でできた柱と板張りだったそうです。
床は磚(せん)というレンガが敷かれています。
そして、隔壁の上に棚木を渡し蓆で覆い、その上に厚さ3メータの黄土で覆っていたそうです。 -
戦車を牽く馬の陶俑
兵馬俑は
1号坑:主力部隊の歩兵部隊
2号坑:戦車部隊・騎馬部隊中心の機動部隊
3号坑:作戦本部
以上が博物館内で展示されています。
4号坑も発見されたそうですが、始皇帝の没後建設途中で未完成だったようです。 -
銅車馬1
これが、秦始皇帝陵の下で発見された銅車馬。
ここに移されて展示されています。
始皇帝は、このような乗り物を使って全国を視察したのでしょうか。 -
銅車馬2
こちらは、馬車に大きな日傘です。 -
お土産物屋さんが並んでいます。
赤いのが民芸品のまくらでしょうか。
良い夢を見れるとのことでした。
その他、兵馬俑や銅車馬のミニチュアなどが売っていました。
等身大の兵馬俑も売っていましたが、どうやって運ぶのでしょうか?
日本でも、西安関係の所で兵馬俑が見られます。
海路はるばる運んで行ったのでしょうが、素焼き俑は運ぶのに大変だ。 -
始皇帝は死ぬ2年前に刑徒70万人を動員し始皇帝陵と阿房宮を建設させたという。
次に、阿房宮を見に行きました。
阿房宮遺跡は、西安市の西方13kmの阿房村に有ったという。
そこで 阿房宮を探してみました。
西安の地図に載っている阿房宮遺跡の印のところは、私有地なのか塀で囲まれていました。
そこで、頼んで入らせてもらいました。 -
『史記』によると、前殿建築物の規模は、東西600-800m・南北113-150mの幅だったと言われています。
しかし、阿房宮遺跡あとの石碑の後ろは小山です。
上記のような、広い平地ではありません。
史実の表現と違うので宮殿が有ったとは思えませんが、ここが 宮殿跡なのでしょうか? -
山のてっぺんからは、遠くに最近できたテーマパークの阿房宮が見えました。
最初、タクシーの運転手さんは阿房宮と言ったら このテーマパークの阿房宮に連れて行ってくれて、「阿房宮はここだ」と言った。
地図に載ってる阿房宮遺跡と場所が違うので、ここでないと、違う場所へ行って欲しいと捜したのが、上の写真の場所です。 -
見る方向によっては 少しは、平らかな。
その殿上には1万人が座ることができたと、言われていますが、でも、ここの遺跡では単なる小山でしかありません。
1万人も集まる広さは有りません。 -
この遺跡の周りは、工事中でした。
テーマパーク? コテージ型レストラン?になるのでしょうか。
何か壮大なものを建設中で、道路が出来ていて、建物の建設のための縄張りがしてありました。
ここも、地域再開発で寄って、発展するのでしょうが、遺跡はどうなるのでしょうか。 -
この遺跡の道を挟んで、こちらにも遺跡跡があるとタクシーの運転手が聞きこんでくれて、行ってみました。
-
池があり、近くには養老院かなお年寄りがたくさんいるところの奥に、小山がありました。
-
道が整備されています。
ここの頂上では レストランを建設中でした。 -
登ってみると、ここからも 阿房宮を再現した施設のテーマパークが見えました。
『史記』の秦の滅亡に関する記述では、「阿房宮は楚の項羽によって焼かれた」。
そして 阿房宮は3か月間、火が消えなかったと言われています。
遺跡に便乗したテーマパークはたくさん再現されています。
2200年前の時代の事ですので、実物はほとんどないでしょう。 -
次に 二世皇帝の墓もあると言うので、訪ねてみた。
始皇帝の墓が大規模だったが、ここの規模は小さい。
二世皇帝胡亥の陵墓の山門
胡亥の情報ではみすぼらしい陵墓と言われていたが、山門まであるそこそこの陵墓だ。
昔の旅行記を読むと ほんとに何もなかったようだけど、最近になって、二世皇帝の陵墓として整備されたようだ。
ちなみに、
秦朝の始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)は、姓は渚ー(えい)、諱は政(せい)。
秦朝の第2代皇帝(前230年か前221年 - 没年 前207年)は 諱は胡亥(こがい)。始皇帝の末子であり、長兄に扶蘇がいる。 -
入った所にある展示物。
胡亥を皇帝に祀り上げた家来の趙高が 鹿を連れてきて、これは馬という動物ですと説明したとか。
この逸話が日本では、「馬鹿」の語源となったと言われている。
しかし、中国では馬鹿の事を馬鹿と言わず「愚」の字を使うので、通訳に聞いてみた。
中国ではこの故事を「鹿を指して馬と為す」"指鹿為馬"と言って、間違いを押し付けて人を陥れる故事だそうです。
***是非を転倒する。サギをカラスと言いくるめる。****
この話は、『史記・秦始皇本紀』に載っているはなしだそうです。
実権をにぎった趙高が 宮廷の大臣のうち、どのぐらいの人が自分の言いなりになるか、また、どのぐらいの人が反対するかを確かめるために、奇態なテストを考え出したものだそうです。
その結果、胡亥は自分の頭がおかしくなったと思い、政務を放棄してしまった。
シカだと答えた者はあとで全部趙高によって殺害されたという。 -
胡亥の陵墓
石碑の後ろに、円墳のお墓があった。 -
石碑には「秦二世皇帝陵」と書かれている。
二世皇帝の古い旅行記には、周りに何もない円墳だけだったらしいけど、今は立派な石碑が建ている。 -
始皇帝の墓は、とてつもなく大きかったが、二世皇帝のこの墓もそこそこじゃないか。
2200年前のお墓がこうやって残っているだけでも、すごいことだと思う。
ちなみに、曲阜の孔子のお墓も、このような規模の円墳だった。
南京の孫権のお墓は、石碑は有ったが、円墳らしきものは見れなかった。
これも 歴史を物語っている遺跡なので、納得してみてきました。
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