2011/11/18 - 2011/11/18
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WT信さん
金堂を出て金堂の西から時計周りに回遊する。
先ず金堂を西に進むと蓮池が有り、その先に戒壇はある。
その蓮池の掃除をしておられた方が鑑真和上由来の戒壇で現在も行われる三師七証(3人の師と7人の証人)の受戒の儀式のあり様を語ってくださった。
中央の宝塔はインド・サンチーの古塔を模したもので、当初は屋根で覆われた建物が有ったとの事。
蓮池に沿って北に進み醍醐井戸を右折れすると左手に地蔵堂があり、その先の築地塀の奥に御影堂の立派な建物が覗く。
昭和38年興福寺の一乗院の遺構をここに移築し、鑑真和上の死を予感した弟子たちが描写したと云う、鑑真和上座像(国宝)を納め御影堂とした。
又ここには東山魁夷の障壁画が奉納されているらしい。
毎年六月六日の開山忌舎利会の前後3日間だけ公開される。
更に東に進む、小さな門を左に折れると苔生す庭と池が有り、宝篋印塔の先に鼎(てい、かなえ)の祭壇が有り、その奥に方状墳の鑑真和上廟の塔が佇む。
鑑真和上は742年日本の留学僧普照と栄叡の熱心な招きにより、他に招きに応ずる者もなかった事もあり、自らの渡日を決意。
渡航の五度の失敗と、その間の苦難で盲目の身になりながら六度目の航海で、753年終に鹿児島への上陸を果たす。
日本の朝廷もこの熱意に報い、東大寺に鑑真和上を迎え入れる。
聖武天皇は鑑真和上に大僧都の名称を与え、鑑真和上の受戒を受けない者は僧たりえないとの通達を配布する。
鑑真和上の弟子如宝と親交のあった空海は、803年一緒に入唐する事になる最澄と共に鑑真和上の受戒を受けている。
後に空海は明日訪れる予定の、京都の東寺を舞台に真言宗の祖となる。
その5年後鑑真和上唐招提寺を開き、日本に正法を伝えただけでなく、経典は元より、美術品、宝物、医薬品などを
もたらした。
しかしあくまで律を説く鑑真和上と現世の利益を願う日本の僧のとの間の隔たりは大きく、僅か2年で唐招提寺を去ることになる。
鑑真和上は小さな寂しい寺で生涯を閉じたと云う。没年76歳。
調べてもその由来は判らなかったのだが、それなりの鑑真和上御陵の存在は、鑑真和上の律を知らないものでも安堵の気持を感じさせる。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- JALグループ 新幹線 JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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